交渉が成立したからといって、その場の空気が和らぐわけではなかった。
むしろ逆だった。
宝泉和臣が突きつけた条件を二年生側が呑んだことで、
この空き教室には一時的な均衡が生まれていた。
だが、それは信頼の上に築かれたものではない。
利害の一致によって、かろうじて刃を収めているだけの危うい均衡だった。
壁際には1年生たちがいる。
扉の近くには高円寺、平田、須藤が立ち、外の気配へ神経を尖らせている。
後方では軽井沢や櫛田、ひよりたちがまだ荒い呼吸を整えきれず、
かといって座り込むほど完全に気を抜くこともできないまま、
ひどく曖昧な休息の中に身を置いていた。
誰もが理解している。
ここは安全地帯ではない。
ただ、今いる場所より少しだけ死ににくい場所というだけだ。
その中で、綾小路たちは宝泉からさらに情報を引き出していた。
「つまり、お前ら1年だけは……」
龍園が机に片手をついたまま、宝泉を睨む。
「最初から聞かされてたってことかよ」
宝泉は肩をすくめた。
「全部じゃねえけどな」
その言い方には、わざと挑発するような軽さがある。
だが、その軽さに反して内容そのものは重い。
「月城から、特別試験だって話は聞いてた」
堀北の眉間に皺が寄る。
「特別試験……?」
「そうだ」
宝泉が笑う。
「1年だけ、秘密裏にな」
その一言で、教室の温度がまた少し下がったように感じられた。
秘密裏。
1年だけ。
つまり、2年生や3年生、あるいは教師たちに対してさえ隠された情報を、
1年生だけが事前に受け取っていたということになる。
それは単なる情報格差では済まない。
学校という枠組みの中で、学年ごとに露骨な
優先順位が存在していたことを意味する。
「そんなのおかしいよ……」
一之瀬が小さく呟いた。
その声は怒りというより、信じたくない現実を前にしたかすれた拒絶に近かった。
「どうして1年生だけなの……?」
「知らねえよ」
宝泉はあっさり答える。
「月城の考えだろ」
七瀬が、宝泉の横から静かに補足した。
「ただし、すべての1年生が詳細を知らされていたわけではありません」
彼女の声には感情がない。
あくまで事実だけを整理している口調だ。
「一部の者に対して、事前説明がありました。
バイオハザードの発生、生徒の変異、校舎内の封鎖、
そして危機管理用装備の一部解放について」
堀北と一之瀬が、同時に息を詰まらせた。
情報量が多すぎるのだろう。
ただでさえ、数時間前までは普通の学校生活を送っていたはずなのだ。
それが突然、クラスメイトの変異と暴走、怪物の出現、校舎崩壊、武器庫、
そして今度は1年生だけへの事前説明へと話が広がっている。
普通なら理解が追いつかない。
いや、追いつかなくて当然だった。
「待って……」
堀北が言う。
「武器についても知っていたの?」
「全部じゃねえがな」
宝泉が答える。
「開始と同時に渡された分もある」
そのまま、床際に置かれていた弾薬箱へ顎をしゃくる。
「それと、一部は武器庫から調達した」
「……開始と同時に?」
松下が後方から思わず聞き返す。
さっきまで黙って話を聞いていたが、
その内容はもはや聞き流せる範囲を超えていた。
「何それ……。じゃあ、最初から配る前提だったってこと?」
宝泉は笑うだけで否定しない。
それが、逆に答えになっていた。
この地獄は突然起きた事故ではない。
少なくとも、月城理事長代理の側では起きることを前提にした準備が進められていた。
そしてその準備の一部が、1年生にだけ先行して与えられていた。
池が顔をしかめる。
「待てよ、それって……」
彼は普段、深く考えてから発言するタイプではない。
だが、ここまで事態が異常だと、そんな池ですら直感的に本質へ触れかける。
「月城理事長代理って最初から知ってたってことじゃねえのか?」
「知ってたどころじゃねえだろ」
龍園が吐き捨てた。
「仕掛けた側か、それに近い場所にいたって話だ」
その言葉に、教室全体が静まり返る。
誰も、真正面から口にしたくなかったことだった。
だが、もう避けて通れる段階ではない。
綾小路は沈黙を保ったまま、宝泉たち1年生の様子を観察していた。
宝泉は露悪的だが、嘘をつくときの濁りが薄い。
七瀬は事実の取捨選択はしていても、言っていること自体は整っている。
天沢は相変わらず遊んでいるようで、
その実、一番この場の感情の揺れを楽しんでいる節があった。
彼らが共有しているのは、おそらく月城から渡された断片的な真実だ。
全部ではない。
だが、2年生たちより遥かに核心へ近い断片。
それだけで十分だった。
「なら、話は早いです」
坂柳が静かに言った。
橋本の背に身を預けたまま、視線だけを細くする。
「月城理事長代理から直接聞き出せばいい」
「だな」
龍園もすぐに乗る。
「回りくどいことやってる暇ねえ。月城んとこ行って、全部吐かせりゃ済む話だ」
綾小路もまた、その結論自体には異存がなかった。
この事態の中心に月城がいる。
あるいは少なくとも、中心のすぐ近くに立っている。
ならば、最も効率がいいのは月城本人へ辿り着くことだ。
だが、その瞬間、別の方向から強い反発が上がった。
「そんな悠長なことしてる場合かよ!」
声を荒げたのは池だった。
その横で篠原も頷きながら、珍しく真っ向から口を挟む。
「そうよ!何でわざわざ危ないとこに行くのよ!」
松下も顔をこわばらせたまま言う。
「真相がどうとかより、まず生きて出ることが先でしょう」
三宅も幸村も黙ってはいなかった。
ただでさえ友達だった長谷部が変わり果てた姿になっている。
真っ先に脱出を考えるのはむしろ、ごく自然だと言える。
葛城康平が腕を組み、重い声で言う。
「命を優先するなら、理事長代理のところへ向かうより脱出路の確保だ」
神崎も深手を負いながら、それでも壁へ寄りかかるように立ち、低く続けた。
「正論だな。原因究明が必要なのは分かる。
だが、今この場で100人以上の生徒を危険へ晒してまで優先する話ではない」
その言葉は重かった。
綾小路も、それが間違っているとは思わない。
もし秤にかけるなら。
片方には、100人を超える生徒たちの生存。
もう片方には、この学校の真相と、その原因の究明。
常識的に考えれば、前者を優先する以外の選択肢などない。
後者を優先する意味は、ほとんど無い。
今この瞬間、誰かの疑問を解消するより、
一人でも多くの命を校外へ出すほうが正しいに決まっている。
だからこそ、その常識的な正しさに対して反論するには、
それ相応の根拠が必要だった。
綾小路は、少しだけ視線を落とす。
考えているのではない。
すでに自分の中にある危機感を、他者へ通じる言葉へ変換しているだけだ。
「……ゾンビと、さっきの怪物だけで終わるとは思えない」
その声は大きくはなかった。
だが教室全体が静まり返っていた分、よく通った。
池が顔をしかめる。
「何だよ、それ……」
「もっと強力なクリーチャーが出る可能性がある」
綾小路は言い切った。
「発生源を潰さない限り、その脅威は脱出の段階まで尾を引く」
沈黙。
坂柳がすぐに引き取る。
「ええ」
彼女の声音は落ち着いていた。
「現時点で確認できただけでも、ゾンビ型、そして先ほどの大型個体。
すでにバリエーションが出ている以上、あれが最終段階だと考えるほうが不自然です」
龍園も口元を歪める。
「しかも、月城の準備の良さが胡散臭すぎる」
顎で1年生側の武器を示す。
「こんだけ仕込んでおいて、あの化け物一匹で終わるわけねえだろ」
その言葉に、葛城や神崎もすぐには反論できなかった。
綾小路は続ける。
「危険なのは分かってる」
それは本心だった。
「だが、多くの生徒が脱出するためには避けて通れない遠回りになる可能性が高い」
一之瀬が、苦しそうに綾小路を見る。
その意味は理解できる。
理解できるからこそ、簡単には肯定できない。
遠回り。
つまり、最短で逃げるのではなく、一度原因へ近づく。
そのぶん危険は増す。
だが、その先で発生源を止められるなら、
結果的に全体の生存率が上がるかもしれない。
理屈としては通る。
問題は――
「なら」
松下が低く言った。
「その遠回りを、誰がやるの?」
その問いは、教室にいた全員の胸へ落ちた。
そうだ。
必要性があることと、自分が行くことは別だ。
原因を潰したほうがいい。
もっと強いクリーチャーが出る前に止めたほうがいい。
それは正しいかもしれない。
だが、その危険な役目を誰が担うのか。
誰が、自分の生存率を下げてまで、その遠回りを引き受けるのか。
言葉が、そこで詰まる。
その瞬間だった。
教室の外、さらにその向こうから、これまでとは別種の音が響いてきた。
低く、規則的な回転音。
最初は遠い。
だが次第に近づいてくる。
「……何?」
軽井沢が顔を上げる。
誰もが息を潜める。
その音は、校舎の外、上空から聞こえていた。
ヘリコプター。
その認識が広がるのに、時間はかからなかった。
「救助……!?」
誰かが声を漏らす。
それをきっかけに、教室内の空気が一気に浮き立つ。
それまで沈み込み、押し潰されそうになっていた希望が、
あまりにも分かりやすい形で頭をもたげた。
「来たのか!?」
「自衛隊!?」
「助けが……!」
数人の生徒が窓のほうへ駆け寄りかける。
平田が危険だと制しようとするより早く、皆の意識は上空へ吸い寄せられていた。
やっと。
ようやく。
この地獄にも外からの救いが届いたのかもしれない。
そんな希望を抱くのは、あまりにも自然だった。
だが綾小路だけは、その音を聞いた瞬間から、別の違和感を覚えていた。
近づき方が妙だ。
救助ヘリなら、ホバリング、通信、救助指示、少なくとも何らかの合図がある。
だが今、聞こえてくる回転音には、そうした人を救うための慎重さが感じられない。
そしてその違和感は、次の瞬間に現実となる。
ヘリコプターは校舎上空へ一瞬だけ姿を見せると、
救助のための梯子も、放送も、機影の維持もなく――
ただ、一つのタンクを投下した。
無骨な金属製の容器。
それが校舎近くへ重く落下していくのが、窓越しに見えた。
「……何、あれ」
一之瀬の声が震える。
誰も答えられない。
ヘリはそのまま旋回もせず、去っていった。
あまりにも短い。
あまりにも一方的。
救助ではない。
その事実が理解された瞬間、
さっきまで浮き立っていた希望が、一転して冷たく崩れ落ちた。
そして。
投下されたタンクの影から、別の影が立ち上がる。
最初は、ただ大きいだけに見えた。
だが次の瞬間には、その異様さが全員の視界を貫いた。
2メートルを超える巨体。
だが、さっきまでの怪物とは違う。
一緒に投下されたらしいトランクケースの中から武器を取り出す。
右腕には、ロケットランチャー。
左肩には形状は違うが、ミサイルランチャー。
完全武装。
もはや生物か兵器か分からない。
いや、その両方を無理やり継ぎ合わせたような存在だった。
歩くたびに床が揺れ、金属の擦れるような重い音が響く。
それでいて、その動きには鈍さだけではない、明確な戦闘用の合理性があった。
綾小路の背筋を、冷たいものが走る。
これが、さっき話していたもっと強いクリーチャーの答えだった。
◯
同時刻。
理事長室。
月城理事長代理は、巨大なモニターの前でその光景を静かに見下ろしていた。
校内各所の映像。
生徒たちの位置。
怪物の進行ルート。
崩壊していく校舎。
その中で、彼はごく静かな声で言う。
「ついに」
指先が机上で小さく動く。
「退学者が本格的に動き出した、というわけですか」
その声音には、恐怖も驚きもなかった。
あるのは観察者の冷静さだけだった。
◯
空き教室へ戻る。
完全武装の怪物が拠点へ近づいてくる。
その存在を最初に真正面から受けたのは、1年生たちだった。
宝泉がすぐに怒鳴る。
「陣形組め!」
教室内の空気が一変する。
さっきまで交渉を主導していた1年生たちが、一瞬で戦闘態勢へ移る。
前へ出る者、壁際へ散る者、装填を確認する者。
その切り替えの速さは、やはり普通の学生のそれではない。
七瀬が教室内を見回しながら指示を飛ばす。
彼女の手には89式小銃。
「窓から離れてください!射線を空けて!」
その声は鋭かった。
普段の落ち着いた雰囲気を削ぎ落とし、
純粋に生存のための命令だけを通す声。
だが、その最中。
綾小路は動いていた。
前ではない。
後ろでもない。
逃走経路へ向けて。
それに気づいたのは七瀬が先だった。
「待ってください!」
鋭い制止。
「今ここを動けば――」
だが、綾小路は止まらない。
堀北も、軽井沢も、龍園も、坂柳も、橋本も、ひよりも。
それぞれに迷いはありながらも、
最終的には綾小路の動きに従うように離脱へ向かう。
理由は単純だった。
この教室は、対ゾンビ拠点としては機能しても、
ロケットランチャーとミサイルランチャーを積んだ怪物の前では豆腐に等しい。
陣地戦をやる場所ではない。
それを本能で理解した者たちから、動いていた。
「チッ……!」
宝泉が舌打ちする。
だが、その舌打ちは2年生の離脱そのものより、
自分たちも同じ結論へ達しているのに、
その判断を口にするタイミングを奪われたことへの苛立ちに近かった。
次の瞬間。
怪物の肩部が動く。
綾小路の目が細まる。
ロケットランチャー。
「伏せろ!」
誰かが叫ぶ。
おそらく複数人が同時に。
発射。
空気を裂く鋭い音。
一瞬遅れて――
爆発。
拠点だった空き教室が、爆炎に呑まれた。
壁が割れ、机や椅子が吹き飛び、窓ガラスが一斉に砕け散る。
衝撃波が廊下へ叩きつけられ、生徒たちの身体をまとめて吹き飛ばした。
綾小路も床を転がる。
耳鳴り。
熱。
視界の端で、誰かの身体が壁へ叩きつけられるのが見えた。
宝泉が吹き飛ぶ。
七瀬も、床を滑るように投げ出される。
完全には直撃していない。それでも、無事で済むわけがない。
軽井沢の悲鳴。
ひよりの短い息。
堀北が壁を支えに立ち上がろうとする気配。
龍園の舌打ち。
爆炎が、教室と廊下の一部を完全に分断した。
そこには、まるで境界線のように炎と煙が立ち上っていた。
綾小路たちのいる側。
そして、反対側に吹き飛ばされた生徒たち。
分断。
その事実を理解した瞬間、状況はさらに悪化する。
「綾小路ボーイ!」
高円寺の声が、炎の向こうから響く。
姿は煙で見えづらい。
それでも、その声だけは不思議なほどよく通った。
「体育館だ!」
続けて叫ぶ。
「武器庫があるとされる体育館で私たちと合流しよう!」
それが、この瞬間における最適解だった。
戻れない。
炎を越えて再合流を図る余裕もない。
ならば、別方向から同じ目的地へ向かうしかない。
綾小路は即座に判断する。
「行くぞ!」
堀北、軽井沢、龍園、坂柳、橋本、ひより。
周囲の動ける者たちへ短く声を投げる。
同時に、炎の向こうでは別の叫びが重なる。
櫛田、平田、松下、須藤、小野寺、一之瀬、伊吹、石崎、アルベルト。
彼らもまた、高円寺の指示に乗って別方向へ走り出しているのだろう。
だが、その背後から。
ミサイルランチャーが唸る。
鈍く、重く、空気そのものを震わせるような発射音。
次の瞬間、複数の弾体が煙を引きながら放たれた。
一直線ではない。
微妙に軌道を変えながら、逃げる生徒たちの進路をなぞるように迫ってくる。
「――来るぞ!!」
誰かの叫び。
直後。
着弾。
爆発。
それは単なる衝撃ではなかった。
空気が膨張し、圧縮され、叩きつけられる。
衝撃波が壁を削り、床をめくり上げ、廊下そのものを歪ませる。
コンクリートが砕け、破片が散弾のように飛び散る。
人体は――耐えられない。
吹き飛ばされる。
叩きつけられる。
原形を保てないまま、爆炎に呑まれる。
悲鳴すら、途中で途切れる。
二発、三発と連続して炸裂し、逃走ルートそのものが崩壊していく。
炎。
煙。
破片。
そして、動かなくなった生徒たち。
宝泉。
七瀬。
三宅。
幸村。
みーちゃん。
池。
篠原。
神室。
葛城。
神崎。
姫野。
金田。
炎の向こう側にいた多くの生徒たちが、その衝撃の中へ呑まれ死んでいく。
誰かが倒れる。
誰かが叫ぶ。
誰かは、叫ぶ間もなく崩れ落ちる。
綾小路は振り返らない。
振り返ったところで、いまの自分にできることは何もないと理解しているからだ。
助けに戻れば、この側にいる者たちまで死ぬ。
だから進むしかない。
坂柳を背負う橋本の呼吸が荒くなる。
軽井沢は涙を浮かべながらも必死についてくる。
ひよりは顔色を失いながら、それでも足を止めない。
龍園は口元を歪めたまま、だがいつもの余裕を削ぎ落とした速さで前へ進む。
堀北は奥歯を噛み締め、何度も後ろを見たくなる衝動を押し殺している。
この瞬間。
高度育成高等学校の生徒たちは、また一つ、明確に切り裂かれた。
炎で。
爆発で。
そして、武装した怪物の圧倒的な暴力によって。
体育館へ向かう者たち。
別ルートから合流を目指す者たち。
その場で倒れた者たち。
もう二度と動かない者たち。
綾小路は走りながら、冷静に思考の一部だけを残していた。
月城。
退学者。
武器化された怪物。
ヘリによる投入。
これはもう、単なる校内感染ではない。
完全に運用段階へ入っている。
退学者が本格的に動き出した。
もし月城が本当にそう口にしているのだとしたら――
この地獄はまだ、序章を終えたばかりなのかもしれない。
そしてそのとき、綾小路ははっきりと理解していた。
体育館での合流は、単なる再集合ではない。
それは次の戦いの始まりだ。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。