カーストルーム・オブ・ザ・デッド   作:戦竜

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第6話 絶叫

バイオハザード発生直後。

校舎全体が混乱に呑まれ、

人の悲鳴と火災報知器の警告音が入り混じる中で、

最も早く状況を見切った集団がいた。

 

3年生。

 

その中心に立っていたのは、もちろん南雲雅だった。

 

彼は特別試験に慣れていた。

いや、慣れているという表現では足りない。

試験という枠組みそのものを、自分の遊び場に変えてしまうような人間だった。

人を動かすこと。

集団を操ること。

恐怖や利害や欲望を読み切って、自分の望む形へ場を誘導すること。

そうした才能にかけて、彼は高度育成高等学校でも最上位にいた。

 

だからこそ、目の前で起きている異常に対しても、

最初にやったことは怯えることではなかった。

 

見切ることだった。

 

何が起きているのか。

何が危険なのか。

そして、この場に留まることがどれだけ不利か。

 

校舎はまずい。

 

教室は狭い。

廊下は逃げ場がない。

パニックになった生徒が増えれば、それ自体が障害物になる。

教師たちがこの状況を即座に収拾できるとも思えない。

加えて、感染の性質が分からない以上、

同じ空間に人が密集すること自体がリスクになる。

 

ならばどうするか。

答えは早かった。

 

「校舎を捨てる」

 

それが南雲の下した判断だった。

 

周囲にいた3年生の中には、まだ何が起きているのか理解できていない者もいた。

悲鳴を上げている者もいたし、友人の安否を気にして立ち止まりかけた者もいる。

だが南雲は、そんな感情の揺れに付き合わなかった。

 

「聞こえなかったか?ここはもう終わってる。生き残りたいならついて来い」

 

その口調は強引だった。

だが、その強引さこそが、極限状況においては何よりも人を動かす。

 

誰かが即断してくれなければ、人は立ち尽くす。

立ち尽くせば、そこで終わる。

 

だから3年生たちは、南雲のあとに続いた。

 

判断を丸投げしたのではない。

丸投げするしかなかったのだ。

それほどまでに、校舎内の光景は現実離れしていた。

 

向かう先は、ケヤキモール。

 

学校に隣接する大型商業施設。

普段であれば生徒たちの憩いの場であり、

買い物をし、食事をし、何気ない放課後を過ごす空間であるはずの場所。

南雲は、そこを拠点として見ていた。

 

広い。

物資がある。

出入口を管理できる。

複数階層がある。

そして何より、校舎よりもずっと生存向きの構造をしている。

 

理にかなっていた。

 

実際、3年生たちがケヤキモールへ雪崩れ込んだとき、

その判断は正しかったように思われた。

 

もちろん、そこも完全な安全地帯ではなかった。

 

すでにモール内には異変が及んでいた。

従業員。

搬入口にいた配送業者。

たまたまその場にいた生徒ではない客たち。

その一部が感染し、あるいは理性を失って徘徊していた。

 

最初にモール内でゾンビと遭遇したとき、何人かの3年生は悲鳴を上げた。

それは当然だ。

校舎の中で遠目に見た異常な生徒とは違う。

目の前にいるのは、制服を着ていない、

しかし明らかに人間ではない動きをする存在だった。

顔色は悪く、目は濁り、こちらを見つけた瞬間に

獲物へ向かうような執着を露わにする。

 

だが、3年生たちは持ちこたえた。

 

南雲の指示は簡潔だった。

 

「工具店へ行け。使えるもの全部持ってこい」

 

斧。

バール。

電動ドリル。

チェーンソー。

 

モール内にあった工具店は、皮肉なほどこの状況に都合がよかった。

本来なら商品でしかないはずのそれらが、

瞬く間に生存のための武器へ変わっていく。

 

最初は誰もが躊躇した。

斧を握る手が震える。

チェーンソーのエンジン音にすら気圧される。

目の前に迫るのは人の形をしている。

たとえそれがすでに人間ではないと頭で理解していても、

そこへ武器を振り下ろすことは別の話だった。

 

だが、南雲はその躊躇を許さなかった。

 

「頭を狙え。止まるまでやれ。いちいち考えるな」

 

それは冷たい命令だった。

けれど、こういう場では感情を整理している時間などない。

 

3年生たちは従った。

 

斧が振り下ろされる。

ドリルが唸る。

チェーンソーが空気を裂き、不快な振動を腕へ伝える。

 

そこには当然、恐怖があった。

だが同時に、人数という優位があった。

 

一体なら囲める。

二体でも、散らばらなければ対処できる。

誰かが怯んでも、別の誰かが前へ出られる。

その数の理屈が、彼らに勝算を与えた。

 

何人かは犠牲になった。

 

反応が遅れた者。

目の前の異常を受け入れきれず、一歩が出なかった者。

助けようとした友人ともども足を取られた者。

 

だが、大半は生き残った。

そして、モール内の主要区画を制圧し終えたとき、3年生たちはようやく一息ついた。

 

出入口にはバリケードが築かれた。

棚、机、金属製のラック、装飾用の重い台座――

使えるものは何でも積み上げられた。

侵入口を限定し、見通しのいい場所を確保し、死角を減らす。

 

食料も十分にあった。

水もある。

トイレも使える。

売り場ごとに簡易の休息スペースも作れた。

 

モール内に残っていたゾンビの数は、校舎内に比べれば圧倒的に少なかった。

そして3年生には、南雲がいた。

 

それだけで、この場所は一気に安全そうな場所へ見え始める。

 

人は、環境が整うと安心する。

そして、一度安心した人間は、

そこで生まれた平穏を持続するものだと錯覚したくなる。

 

ケヤキモールは、まさにそういう錯覚を誘う場所だった。

 

外の校舎では、まだ地獄が続いている。

悲鳴も、火災報知器も、ときおり遠くで響く破壊音も止まっていない。

それでも、このモールの中だけは、まるで別の世界のようだった。

 

壊れかけているとはいえ、店内にはまだ照明が残っている。

綺麗なショーウィンドウ。

売り物の服。

包装された商品。

冷蔵ケース。

飲料棚。

 

日常の痕跡が、まだそこにある。

 

だからこそ、ここを拠点とした3年生たちは思ってしまうのだ。

 

ここなら持ちこたえられるかもしれない、と。

 

 

時間が少しだけ流れた。

 

何十分だったのか、あるいは一時間にも満たなかったのか。

この状況では誰にも正確には分からない。

ただ、生きることに集中していた神経が

少し緩み始める程度には、静寂が続いていた。

 

その静寂を最初に破ったのは、朝比奈なずなだった。

 

「……本当に、救助って来るのかな」

 

不安そうな声。

大きな声ではない。

誰かに訴えるというより、自分の中の恐怖が零れ落ちたような呟きだった。

 

だが、その一言は周囲にいた3年生たちの心を敏感に揺らした。

 

誰もが考えていたことだったからだ。

 

ここに立て籠もっている以上、最終的には外からの救助が必要になる。

食料があると言っても無限ではない。

水があると言っても、モールそのものが長期間安全である保証はない。

 

いずれは誰かが来てくれなければならない。

 

警察。

自衛隊。

学校の警備。

政府。

何でもいい。

とにかく、自分たちより強い外部の秩序が、この地獄を終わらせてくれるはずだ。

そう信じたかった。

 

南雲は、朝比奈の言葉に笑った。

それは大袈裟な笑いではなく、どこかいつも通りの軽薄さを含んだ笑みだった。

 

「来るに決まってるだろ」

 

南雲はそう言った。

 

「来なくても別にいいけどな」

 

そのまま肩をすくめる。

 

「俺が必ずお前を守ってやる」

 

その言い方は、傲慢だった。

けれど、不思議と嫌味には聞こえなかった。

 

少なくともこの場では、南雲がそう言うことに一定の説得力があったからだ。

 

校舎からの撤退判断も。

モールの制圧も。

バリケードの構築も。

物資の確保も。

ここまで、南雲の判断はすべて正しかった。

 

だからこそ、3年生たちの多くはその言葉に安堵した。

 

理屈ではなく、感情として。

 

南雲がいる。

なら、なんとかなるかもしれない。

 

その空気を、鼻で笑うような音が切った。

 

「フッ」

 

鬼龍院楓花だった。

 

長い髪をかき上げながら、どこか退屈そうに南雲を見る。

 

「相変わらずだな、お前は」

 

その声音には呆れが混じっていた。

だが、敵意というほどでもない。

鬼龍院は最初から、南雲の王様じみた振る舞いに対して完全には与していない。

けれど決定的に敵対しているわけでもない。

その微妙な距離感が、今もそのまま残っている。

 

鬼龍院はそのまま工具店から持ち出したチェーンソーを手に取った。

 

エンジンを軽く確かめるように持ち上げる。

その仕草があまりにも自然で、

一瞬だけその場の誰もが彼女の次の言葉を理解できなかった。

 

「私は外に出るよ」

 

短い宣言。

何人かの生徒が反応する。

 

「は?」

「正気かよ」

「外って……今から?」

 

当然だった。

モールの中は少なくとも、相対的には安全だ。

わざわざ自分から外へ出る意味が分からない。

ましてや鬼龍院は、一人で行こうとしているように見えた。

 

「やめとけよ!」

「死ぬ気か!?」

 

止める声がいくつか上がる。

だが鬼龍院は、チェーンソーを肩へ担いだまま軽く笑った。

 

「ここは空気が淀んでる」

 

そんなことを言う。

まるで散歩にでも行くような軽さだった。

 

南雲はそれを見ていた。

止めるか、止めないか。

周囲は一瞬、南雲の判断を待つ空気になった。

 

だが南雲は、実に素っ気なく言った。

 

「好きにしろ」

 

それだけだった。

 

関心がないのか、鬼龍院の力量を見込んでいるのか、

あるいはどちらでもいいと思っているのか。

たぶん、その全部だろう。

 

鬼龍院は満足そうに口元を上げると、

そのままバリケードの脇から外へ抜けていった。

 

走り出す。

迷いなく。

ゾンビが徘徊する外の領域へ。

 

数秒で、その背中は見えなくなった。

 

「なんだあいつ……」

「やっぱ変人だな」

「どうなっても知らねぇぞ」

 

残された3年生たちは、吐き捨てるように言う。

 

理解できないものを、人は変人と呼んで処理したくなる。

鬼龍院は、まさにそのカテゴリに押し込めるのが手っ取り早い相手だった。

 

だがそれでも、その場にいた誰もが心のどこかで感じていた。

 

自分たちにはできないことを、鬼龍院は平然とやってのけた。

その事実だけは否定できない。

 

再び、時間が流れる。

 

静けさは続いていた。

外から聞こえる音はある。

遠くの悲鳴。

何かが割れる音。

ときおり走り去るような足音。

だがそれらはモールの中までは入ってこない。

 

バリケードは機能している。

見張りも立てている。

食料もあり、水もあり、武器もある。

 

人はそういう条件が揃うと、次第にこのまま持つかもしれないと思い始める。

 

それが、間違いだった。

 

異変は、外からだけ来るわけではない。

 

それを証明したのは、あまりにも唐突だった。

 

「……おい」

 

誰かが言った。

 

その声には、呼びかけというより違和感が滲んでいた。

 

視線が集まる。

 

そこにいたのは、一人の3年生だった。

さっきまで、普通にバリケード付近の見張りをしていたはずの生徒。

顔色が悪い。

呼吸が浅い。

目の焦点が妙だ。

 

「大丈夫か?」

 

桐山が近づく。

彼は責任感が強い。

こういうときに仲間の異変を見逃せないタイプだった。

 

それが、仇になる。

その生徒が、いきなり跳ねた。

反射的というにはあまりにも鋭く、かつ人間離れした動きだった。

 

「ッ――!?」

 

桐山が一瞬反応しきれず、腕を上げたところで遅い。

そのまま腕へ噛みつかれる。

 

悲鳴になりきらない声が漏れる。

 

その瞬間、モールの中の空気が一変した。

 

感染。

 

内側からの崩壊。

 

誰もが、その二文字を同時に思い浮かべたはずだった。

 

放せ、という叫び。

後退る者。

武器を構える者。

だが、動きの速さと判断の冷たさで一歩上回ったのは南雲だった。

 

彼は近くにあった斧を持ち上げると、躊躇なく前へ出た。

 

桐山はまだ生きている。

噛まれた直後だ。

叫ぶ余地も、まだある。

 

それでも南雲は迷わない。

 

振り下ろす。

鈍い衝撃音。

一撃だった。

 

大きな音ではない。

だが、その場にいた全員の神経へ、嫌になるほど鮮明に届いた。

 

桐山の身体が、その場で崩れる。

 

沈黙。

 

空気が、凍りつく。

 

誰もが理解していた。

噛まれた時点で助からない可能性が高いことは。

さっきまで見てきた地獄が、それを証明している。

 

だが、理解していることと目の前でそれを実行されることは違う。

 

南雲は、斧についた血を軽く払うような仕草をしながら、淡々と言った。

 

「噛まれた時点で終わりだ」

 

感情がないわけではない。

ただ、その感情を表へ出す必要がないと判断しているだけだ。

 

「迷ってる時間のほうが無駄だ」

 

正しい。

合理的。

生き残るという観点において、ほぼ最適に近い判断。

 

だが、その正しさは、ここにいる3年生たちの心を安心させる方向には働かなかった。

 

南雲は守ってくれる。

そう思いたかった生徒たちの中に、別の認識が芽生える。

 

南雲は、必要ないなら切る。

そしてその判断に、一切躊躇しない。

 

それが頼もしさへ繋がる者もいるだろう。

だが同時に、次は自分かもしれないという恐れも生む。

 

支配者の冷酷さを目の当たりにすると、

人はその庇護と同時に、自分もまた支配対象に過ぎないことを理解してしまう。

 

その空気が定着するより早く、次の異変が来た。

 

ミシ、と。

小さな音。

最初は誰も気にしなかった。

だが二度、三度と続く。

 

バリケードだった。

 

外から押されている。

 

「……マジかよ」

 

誰かが低く呟く。

 

見張りについていた生徒たちが一斉に身構える。

重ねられた棚、机、金属ラック。その向こう側から、確かな圧力が伝わってくる。

 

ドン。

 

鈍い衝撃。

 

さらに、ドン。

 

今度はさっきより強い。

 

何人かが支えに入る。

だが、その表情がすぐに変わる。

 

「重い……!」

「なんだこれ……!」

 

一体や二体ではない。

押してくる力の総量が違う。

 

それはまるで、壁の向こう側そのものが

波になって押し寄せてきているような圧だった。

 

南雲が舌打ちする。

 

「押さえろ!隙間を作るな!」

 

命令は飛ぶ。

だが、その命令が通るかどうかと、物理的に支えきれるかどうかは別の話だった。

 

ミシ、ミシ、と嫌な音が増えていく。

木材が軋む。

金属が悲鳴を上げる。

 

そして、ほんの数センチ。

 

隙間が開いた。

 

それだけで十分だった。

 

白く濁った目が、その隙間から覗いた。

 

それを見た瞬間、支えていた一人の生徒が叫んだ。

 

「ッ――!!」

 

次の瞬間には、指が入り込んでくる。

一本。

また一本。

人間の手の形をしていながら、そこに人間らしい遠慮は何ひとつない。

ただ、内側へこじ開けるためだけの執着。

 

「離れろ!!」

 

南雲が叫ぶ。

その声には、まだ支配者としての強さが残っていた。

 

だが、遅い。

バリケードは、持たなかった。

ドンッ、と一際大きな衝撃が走った瞬間、

積み上げられていた棚と什器が一気に内側へ崩れ込む。

 

そして、そこから流れ込んできたのは――

無数だった。

圧倒的な数。

ゾンビの大群。

 

黒い波のように。

あるいは、堰を切った濁流のように。

個々の形を認識するより先に、まず量としてこちらへ襲いかかってくる。

 

悲鳴が上がる。

統率は、その瞬間に消えた。

さっきまで比較的落ち着いていたモール内部の秩序が、嘘のように崩れ落ちる。

 

「うわあああああ!!」

「来るな!!」

「押すな、押すなって!!」

 

誰かが後退る。

誰かがそれにぶつかる。

誰かが転ぶ。

転んだ者へ、また別の誰かが倒れ込む。

 

パニックは、人間同士を障害物へ変えていく。

 

南雲はその中心で、一瞬だけ歯を食いしばった。

 

これはまずい。

 

その判断だけは本物だった。

数の差がひっくり返っている。

さっきまでは3年生が多数側だった。

だが今は違う。

いくら斧やチェーンソーを持っていても、この密度、この勢い、

この混乱の中で、まともに迎撃線を維持することは難しい。

 

「下がれ!通路を空けろ!」

 

命令を飛ばす。

だが、誰も聞いていない。

いや、聞こえていても従えない。

本能が、理性より速い。

 

朝比奈が南雲を見た。

 

その目には、はっきりと助けを求める色があった。

 

「雅……!」

 

声が震えている。

恐怖に飲まれかけた声。

 

南雲は、その視線を受けた。

 

一瞬だけ。

 

状況を計算する。

朝比奈の位置。

自分の位置。

ゾンビの進行方向。

助けに行った場合の時間。

そして、その結果自分が巻き込まれる確率。

 

計算は、あまりにも早かった。

 

その結論も。

 

――切る。

 

南雲は、朝比奈へ手を伸ばさなかった。

むしろ、踵を返した。

 

逃げる。

 

「え……?」

 

朝比奈の声が止まる。

 

一瞬、本当に理解できなかったのだろう。

さっきまで俺が守ると言っていた男が、

真っ先に自分を切り捨てて離脱した、その事実を。

 

「待っ……」

 

その先の言葉は続かない。

 

ゾンビの波が、彼女を呑んだからだ。

 

南雲は振り返らない。

 

振り返る理由がない。

助けられないものは助けられない。

ならば、自分が生きる側へ回るしかない。

 

そういう判断だった。

 

それは冷酷だ。

卑怯でもある。

だが、南雲にとっては正しいのだろう。

 

彼は最初から、自分が王であると同時に、

自分が最も価値のある駒でもあると考えてきた。

ならば、最後に生き残るべきは自分でなければならない。

 

その信念だけは、この崩壊の中でも揺らがない。

 

南雲は走る。

 

モールの奥へ。

上階へ逃げればまだ可能性がある。

視界が開ける場所。

あるいは屋上。

そこまで辿り着けば、まだ何か手が打てるかもしれない。

 

そう考えたとき、彼の目に入ったのがエレベーターだった。

 

階段は危険だ。

開けた構造は逃げるにも追うにも向いている。

だがエレベーターなら、一時的にでも外界を遮断できる。

 

南雲は迷わず乗り込んだ。

 

扉が閉まる。

 

その瞬間、外の悲鳴が一段遠くなった。

 

静かだ。

 

いや、静かではない。

自分の呼吸がやけに大きいだけだ。

 

「……は……っ……」

 

息が浅い。

気づかぬうちに、喉がひどく乾いていた。

ボタンを押す。

最上階。

 

そこなら、まだ。

 

エレベーターが動き始める。

 

わずかな振動。

上昇感。

ほんの少しだけ、胸の奥に安堵が戻りかける。

 

助かったわけではない。

だが、少なくとも今、目の前に噛みついてくるものはいない。

 

そのわずかな余白に、南雲の思考が戻る。

 

俺は生き残る。

 

それだけだ。

他はどうでもいい。

朝比奈も、他の3年生も、結局は自分を生かすための環境でしかない。

支配者であるということは、最後に残るということだ。

そのために切るべきものは切る。

それの何が悪い。

 

そう、自分へ言い聞かせるように。

 

その時だった。

 

ガクン、と。

エレベーターが止まった。

急停止。

身体がわずかに前へ流れる。

 

「……は?」

 

南雲が顔を上げる。

表示は、途中階。

最上階じゃない。

 

機械の不調か。

停電か。

それとも――。

 

嫌な予感が、背中を這い上がる。

 

沈黙。

 

その沈黙が数秒続いたあと、異音がした。

 

ギ……。

 

扉の隙間が、外側から押される。

 

南雲の呼吸が止まる。

 

「……やめろ」

 

思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

扉の隙間から、指が見える。

 

一本。

また一本。

その手は、人間のものに見えて、人間ではない。

白く濁った爪。

不自然な関節。

力任せに、内側へ食い込んでくる。

 

「来るな……」

 

後退る。

 

だが、狭い箱の中だ。

後ろは壁。

逃げ場など、最初からない。

 

扉が開く。

 

ゆっくりではない。

乱暴に。

歪んだまま。

 

その隙間の向こうに、いくつもの顔が見えた。

 

白い目。

開ききった口。

理性を失った、飢えだけの表情。

その中には、変わり果てた朝比奈なずなも含まれていた。

 

そして、次の瞬間には一斉に流れ込んでくる。

 

狭い箱の中へ。

 

波のように。

 

「来るなッ!!」

 

南雲が叫ぶ。

 

それはもう、命令ではなかった。

他人を従わせるための声ではない。

ただ、自分を襲うものへ向けた、人間のむき出しの恐怖だった。

 

腕で払いのけようとする。

蹴る。

押す。

 

だが数が違う。

 

一体ではない。

二体でもない。

狭いエレベーターの中へ、隙間を埋めるように次々と入り込んでくる。

 

南雲は壁へ追い詰められる。

 

逃げ場がない。

考える余地もない。

 

「……あ、ああああああああああああああああああああ!!」

 

絶叫。

 

それは、高度育成高等学校の3年を支配し、

学年全体から畏怖され、誰よりも上に立つ側であることを

当然のように享受してきた男のものとは思えなかった。

 

ただの人間だ。

 

死を前にして怯え、逃げ場を失い、最後には叫ぶしかできない。

 

その声はすぐに途切れた。

 

完全にではない。

途中で、飲まれるように小さくなったのだ。

 

やがてエレベーターの中には、また別の静寂が戻る。

 

血や、破壊の細部を見せる必要はない。

見せなくても分かるからだ。

 

そこにはもう、南雲雅という支配者はいない。

 

残ったのは、ただの終わりだけだった。

 

ケヤキモールの中は、やがて静かになった。

 

もちろん、本当の意味で静かなわけではない。

どこかではまだ足音がする。

何かが倒れる音もする。

遠くではガラスの割れる音もあった。

 

それでも、さっきまで3年生たちが築いていた

人間の支配する空間としての気配は消えていた。

 

バリケードは破られた。

工具店の武器は床に転がっている。

食料の山も、その意味を失っている。

積み上げた棚も、確保した水も、守るべき拠点も、支配者も。

 

全部、なくなった。

 

高度育成高等学校の生徒たちは、

日々、誰が上で、誰が下で、誰が勝ち、誰が負けるかを争ってきた。

 

ポイント。

評価。

退学。

支配。

服従。

 

その頂点にいたのが南雲だった。

 

だが、この地獄の中では、それすら無意味だった。

 

どれだけ他人を支配してきても。

どれだけ人の上に立つことに慣れていても。

どれだけ自分が選ばれた側だと思っていても。

 

噛みついてくるものの前では、最後は同じだ。

 

ケヤキモールは、まるでそれを証明するためだけに、

一度だけ3年生たちへ安全を与えたかのようだった。

 

希望。

秩序。

安住の地。

それらを一瞬だけ与えたあとで、最後には全部奪う。

 

その残酷さが、モール全体へ染みついているように感じられた。

 

外ではまだ、学校全体が地獄のままだ。

 

校舎では別の生徒たちが逃げ、戦い、叫んでいるだろう。

地下ではもっと何かが動き始めているかもしれない。

月城はそれをどこかで見ているかもしれない。

 

だが、ケヤキモールという小さな戦場で

起きたことだけを見ても、すでに十分だった。

 

この災厄においては、安全地帯など存在しない。

 

強者であることも、支配者であることも、最後まで生き残る保証にはならない。

 

そして何より――

 

ここなら大丈夫だと思った瞬間こそが、一番危うい。

 

南雲雅は、そのことを最後に理解したのかもしれない。

あるいは、理解する間もなかったのかもしれない。

 

どちらにせよ、結果は同じだった。

 

彼の物語は、そこで終わった。




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