バイオハザード発生直後。
高度育成高等学校の校舎は、
わずか数分前まで保っていた秩序を音を立てて失いつつあった。
教室の中で起きた異変が廊下へ広がり、廊下の混乱が隣のクラスへ伝播し、
さらに別の教室へ、別の学年へ、別の棟へと連鎖していく。
火災報知器の甲高い警報音が校舎全体へ鳴り響き、誰かの悲鳴と、
机や椅子が倒れる音と、何かが壁へ叩きつけられる鈍い衝撃音が、
それに重なるようにして学校中を満たしていた。
生徒たちは、何が起きたのかを理解する前に逃げ始めていた。
理解など追いつかない。
ついさっきまでノートを取っていたはずの教室で、
教師の説明を聞いていたはずの廊下で、
隣に座っていたクラスメイトが突然理性を失い、
人へ噛みつき、血を流し、倒れた者が再び立ち上がる――
そんな現実を、人間の思考はすぐには受け入れられない。
だからこそ、恐怖は早い。
理屈を飛び越えて身体へ届く。
そして身体は、頭が整理するより先に逃げようとする。
そうした混乱の中で、真っ先に走り出した四人の教師がいた。
茶柱佐枝。
星之宮知恵。
真嶋智也。
坂上数馬。
ただし、彼らが向かった先は、生徒の群れでも、
避難経路でも、保健室でもなかった。
職員室。
それは、教師として考えれば明らかに異常な動きだった。
このような緊急事態において、本来、
教師が最優先で行うべきことは一つしかない。
生徒の安全確保である。状況確認より先に、生徒たちを危険地帯から遠ざけ、
混乱を抑え、避難経路を確保し、少しでも多くの命を守ること。
それが学校という場における教師の責務だ。
にもかかわらず、四人はその責務に逆らうようにして、あえて背を向けていた。
助けを求める声が聞こえる。
泣き叫ぶ女子生徒の声が廊下の向こうから飛んでくる。
「先生!」と誰かが呼ぶ。
駆け寄ろうとする足を、別の理性が引き止める。
月城理事長代理の言葉が、頭の奥で消えないからだ。
「近いうちに、学校全体を揺るがす災厄が発生する。
その際は、何よりも優先して私のもとへ来てください」
あの通告を受けたのは数日前だった。
月城は、いつものように穏やかに、
だが内容だけは決して穏やかではない口調でそう言った。
詳しい説明はほとんどなかった。何が起きるのか、どの程度の規模なのか、
なぜ教師である自分たちが真っ先に彼のもとへ向かわなければならないのか。
問い質そうとしたが、月城は「その時になれば分かります」としか答えなかった。
それでも、四人はその通告を忘れることができなかった。
月城という男は、曖昧で、人を食ったような笑みを絶やさず、
どこまで本心を見せているのか読めない人間だ。
だが同時に、意味のない指示や、
単なる思いつきで人を動かす人間でもないことを、
この学校の運営に携わる中で嫌というほど理解していた。
だからこそ、従うしかなかった。
従わなければならないと思ってしまった。
たとえそれが、いまこの瞬間、
教師としてもっともやってはならない行動に見えたとしても。
茶柱は走りながら、無意識に拳を握りしめていた。
爪が掌へ食い込む。
痛い。
だが、その痛みは心の中にある苛立ちと比べれば何でもなかった。
こうしているあいだにも、生徒が死ぬかもしれない。
いや、死ぬかもしれないどころか、すでに何人も傷ついているはずだ。
2年Bクラスで見たあの惨状は、
間違いなく一つの教室だけで終わる規模ではなかった。
教師として長年学校に立ってきた茶柱の直感が、それを告げていた。
あれは局地的な事件ではない。もっと全体を巻き込む崩壊の始まりだ。
だからこそ、なおさら生徒たちのもとへ戻りたい。
戻って指揮を執り、少しでも被害を抑えたい。
だが足は前へ出る。
理性がそれを命じているからだ。
星之宮は、いつもの柔らかな雰囲気をかなぐり捨てるような顔で走っていた。
長い髪が乱れ、呼吸も荒い。
彼女はもともと感情を隠すのがそれほど得意なタイプではない。
だからこそ、その表情には焦燥も、怒りも、葛藤も、全部がそのまま出ていた。
真嶋は無言だった。
だが、その沈黙は冷静さではなく、むしろ怒りを押し殺している証拠だった。
普段から感情を表へ出しすぎない男だが、
いまはその無表情が逆に不気味ですらある。
もしこの場で月城がわけの分からない説明をしたなら、
おそらく最も激しく噛みつくのは真嶋だろうと、
誰もが感じるような空気をまとっていた。
坂上もまた、表面的には落ち着いて見えていた。
だがその目は明らかに苛立っている。教師であるという自負が強い男だ。
生徒を置き去りにしている現状を、誰よりも自分で許せていないのだろう。
「……くそ」
短く、誰かが吐き捨てた。
茶柱だったか、真嶋だったか、それとも坂上だったか。判別する余裕はなかった。
だが、その一言の中に四人全員の思いが集約されているようだった。
職員室へ辿り着く頃には、校舎の混乱はさらに広がっていた。
職員室そのものもまた、もはや平時の機能を失っていた。
電話が鳴り続けている。
だが、どこへ繋がっているのか分からない。
教師たちは走り回り、資料を掴み、怒鳴り合うように状況を確認している。
「鍵はどこだ」「救急箱を持ってこい」
「校門はどうなってる」「通じない、外線が通じない」
「生徒が噛みついたってどういうことだ」「誰が見た」「何人いる」
情報は飛び交っている。
だが整理されていない。
誰も、この災厄の全体像を掴めていない。
その中を、四人は立ち止まらずに突っ切った。
説明している暇はない。
説明しても理解されないだろう。
それに、いまここで職員室の教師たちへ何かを共有したところで、
月城のもとへ向かう優先順位は変わらない。
理事長室の前まで来る。
そこで初めて、ほんの一瞬だけ、誰ともなく足が止まった。
ドア一枚を隔てた向こう側に、何か決定的なものがある。
そういう予感があった。
茶柱が一度だけ深く息を吸う。
真嶋がドアノブへ手をかける。
開ける。
中は、静かだった。
静かすぎた。
外の騒乱が嘘のように思えるほど、空気が切り離されている。
広い理事長室は整然としており、
書類も、机も、壁面の調度も、何ひとつ乱れていない。
窓の外では学校が崩壊を始めているというのに、ここだけが別世界のようだった。
そして、その中心。
椅子にゆったりと腰掛けている男がいる。
月城理事長代理。
いつも通りだった。
いや、いつも以上に落ち着いて見えた。
足を組み、背もたれへ身を預け、四人が入ってきたことを承知のうえで、
まるで予定された来客を迎えるかのような穏やかな顔をしている。
その姿を見た瞬間、四人の中に生まれた感情は同じだった。
唖然。
そして、その次に来たのは、激しい怒りと嫌悪感だった。
外では生徒たちが悲鳴を上げている。
教師が教師であることを試されるどころか、
学校という制度そのものが崩れかけている。
その最中に、この男は何の焦りも見せていない。
あまりにも落ち着きすぎている。
「生徒を放置してまで、私たちに用事とはどんな内容ですか?」
最初に口火を切ったのは真嶋だった。
声は低く、抑えられている。
だが、そのぶん怒りが濃い。
月城は微笑みを崩さない。
茶柱が一歩前へ出る。
「こうしているあいだにも、生徒たちが危険に晒されています」
その言葉は、ほとんど糾弾だった。
星之宮も続く。
「ありえない。教師を真っ先に呼びつけるなんて、どう考えても手順が逆でしょう」
坂上も短く切り捨てるように言う。
「説明してもらいましょうか。これは一体何ですか」
四人の視線が、月城へ集中する。
だが月城は、少しも動じなかった。
机の上で組んだ指を解き、穏やかな笑みのまま、ゆっくり口を開く。
「落ち着いてください」
その落ち着き自体が神経を逆なでする。
「これは、試験なのですよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……試験?」
星之宮が呟く。
月城はうなずく。
「デッドエスケープ特別試験」
その名が理事長室の静けさの中へ落ちた。
試験。
この状況が。
この地獄が。
「……ふざけるな」
真嶋の声が、今度ははっきり怒気を帯びる。
「そんなもの、一切告知されていない。どんな試験なんだ」
月城はそれでも穏やかだった。
そして、まるで簡単な事務連絡でも告げるような調子で言った。
「試験内容は、命がけでこの学校から脱出すること」
絶句。
今度こそ、四人とも一瞬言葉を失った。
意味が分からない。
いや、言葉の意味は分かる。
だが、その内容がこの学校の存在理由と根本から矛盾している。
坂上が最初に口を開いた。
「この学校は閉鎖空間だ。三年間、外に出られないことが前提の教育施設だろう」
その通りだった。
高度育成高等学校の特殊性は、まさにその閉鎖性にある。
自由があるようで、実際には校内のルールと設備の中で完結する三年間。
外界から切り離されることで、
生徒たちはこの学校独自の選別と教育のシステムへ組み込まれている。
それなのに。
「学校から脱出だと?」
坂上の問いは、怒りというより理解不能への拒絶だった。
星之宮が、半ば信じられないものを見るような目で月城を見た。
「何で生徒たちに告知しなかったのでしょうか?」
当然の疑問だ。
試験ならば、最低限の説明がある。
ルールがあり、条件があり、勝敗がある。
それが高度育成高等学校という場所の大前提だったはずだ。
月城は首を横へ振った。
「告知していないのは、2年生と3年生だけです」
四人の目が細くなる。
「一部の1年生には、すでに説明しています」
さらに意味が分からなくなった。
学年ごとに情報を分断する理由は何だ。
なぜ1年だけ。
なぜ一部だけ。
その答えは、月城の次の一言で、茶柱と真嶋にはほとんど明らかになった。
「この試験は、綾小路清隆を退学へ追い込む試験としての意味も兼ね備えています」
綾小路清隆。
その名前が出た瞬間、茶柱の中でいくつかの点が一気に繋がった。
やはりそうか。
真嶋も同じだった。
月城がこの学校へ来た本来の目的。
それはずっと綾小路退学のための工作だった。
学年ごとの情報格差。
1年の一部への事前説明。
そのどれもが、綾小路を追い詰めるための布石だと考えれば、不自然ではなくなる。
「刺客か」
真嶋が短く言う。
「1年生に、綾小路を潰すための駒を入れているんですね」
月城は否定しない。
その沈黙が、答えだった。
星之宮は息を呑み、坂上は顔をしかめる。
個人の生徒一人を退学に追い込むために、
学校全体を巻き込む規模の試験を用意する。
その発想そのものが、四人には異様に思えた。
いや、異様というより、恐ろしかった。
月城という男の底知れなさが、そこで初めて別の形を取ったのだ。
単に綾小路へ執着しているわけではない。
必要なら学校の機能そのものを戦場へ変えても構わないと考えている。
その冷酷さに、四人は初めて明確な恐怖に似た感情を抱いた。
月城はその空気を気にする素振りもなく、
机の引き出しから二枚のカードキーを取り出した。
「あなたたちにブラックルームへ繋がる鍵を託します」
一枚は、危機管理用備品庫、つまり体育館武器庫のもの。
もう一枚は、その先にある極秘地下施設――ブラックルームのものだった。
ブラックルーム。
その単語は、四人にとって初耳だった。
少なくとも、正式な校内施設としてその名を聞いたことはない。
だが、その響きだけで分かる。
まともな場所ではない。
月城がその二枚を机上へ置くと、理事長室のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、一年の担任である司馬教諭だった。
大きなバッグを抱えている。
無言のまま机の上へ置き、ジッパーを開く。
中身が見えた瞬間、星之宮が息を呑んだ。
ハンドガン。
サブマシンガン。
マガジン。
弾薬。
まるで警察や軍の装備庫の一角をそのまま切り取ってきたかのような内容だった。
「……まさか」
その言葉の続きを、月城が受け取るように微笑んだ。
「これは、あなたたち教師にも課せられた試験なのですよ」
茶柱たち四人は、その意味を理解するのに数秒を要した。
教師にも、試験。
つまり。
「私たちを……武装させるつもり?」
星之宮の声はかすれていた。
月城はうなずく。
「生き残った生徒に、この2枚のカードキーを渡し、脱出までの助けとなり、導くこと」
3秒間をあけて、
「それが、あなたたちに与えられた役割です」
月城はそう言った。
教師としての責任、ではない。
生徒を守る義務、でもない。
役割。
それはつまり、試験の駒としての位置づけだ。
四人の表情が険しくなる。
まだ理解できないことは多い。
ブラックルームとは何か。
なぜ武器庫があるのか。
どこまでが月城の支配下なのか。
なぜ自分たちがここまで巻き込まれるのか。
だが、状況はそんな疑問に答えを与える暇をくれない。
司馬が、感情のない声で説明を始めた。
ハンドガンの安全装置。
マガジンの装填。
スライドの操作。
ジャムした場合の対処。
サブマシンガンの構え方。
近距離と中距離での撃ち分け。
ヘッドショットを狙う場合の注意点。
ゾンビには胴体損傷が決定打になりにくいこと。
弾薬の温存。
照準と反動の制御。
説明は淡々としている。
その淡々さが、逆に異様だった。
司馬にとっては、これが特別なことではないのだろう。
少なくとも、銃器の扱いそのものには慣れがある。
茶柱は、その説明を聞きながら背筋の奥が冷えていくのを感じた。
自分はいま、生徒を教える立場の人間として、銃の扱いを覚えさせられている。
しかも目的は、生徒たちを連れて地獄の中を進むためだ。
現実感が揺らぐ。
だが揺らいでいる暇はない。
覚えなければならない。
頭へ叩き込まなければならない。
引き金の重さも、装弾数も、交換の手順も、反動の方向も、全部。
もし覚えきれなければ、その不備がそのまま生徒の死に繋がる。
そう考えた瞬間、四人の集中は一気に鋭くなった。
茶柱はもともと実務能力が高い。
感情を押し殺し、必要な情報だけを抜き出して記憶することに長けている。
真嶋も同様だ。
星之宮は混乱しながらも、必死に要点を追いかける。
坂上は強い不快感を抱いたまま、それでも理解だけは絶対に落とさない。
教師としての矜持が、ここでは別の形で働いていた。
生徒を守るためなら、どれだけ異常でも、必要なことは覚える。
その一点だけが彼らを支えていた。
説明が終わる頃には、四人の頭は情報で熱を持っていた。
武器が手渡される。
重い。
ただの金属としての重さではない。
命を奪うための道具。
それを、いま自分は握っている。
茶柱はリボルバーを見下ろした。
教師になってから、こんなものを手にする日が来るとは一度も想像しなかった。
想像したくもなかった。
星之宮の手も少し震えている。
真嶋は無表情だが、その目は硬い。
坂上は明らかに嫌悪感を隠していない。
それでも、誰も拒否しなかった。
拒否できないからではない。
拒否したところで、生徒は守れないと分かっているからだ。
月城は最後まで穏やかな笑みを崩さなかった。
「期待していますよ」
その一言が、四人の背中へ冷たく落ちる。
理事長室を出る。
ドアが閉まる。
外へ出た瞬間、また現実の喧騒が戻ってくる。
職員室。
走り回る教師たち。
断片的な報告。
崩れた秩序。
そして校舎の向こう側から響く悲鳴。
だが、もうさっきまでの自分たちではなかった。
銃を持っている。
カードキーを持っている。
そして何より、この学校の一部が試験として
設計された地獄であることを知ってしまった。
四人は、職員室の出口で一瞬だけ立ち止まった。
誰もすぐには口を開かない。
何を優先する。
どこへ向かう。
誰を探す。
どうやって生徒へ接触する。
考えるべきことは多すぎた。
最初に口を開いたのは茶柱だった。
「……行くぞ」
短い一言。
だが、それで十分だった。
星之宮がうなずく。
真嶋が銃を握り直す。
坂上が短く息を吐く。
教師たちは、戦場へ足を踏み出した。
助けなかったのではない。
助けるために、一度だけ背を向けた。
その選択が正しかったのかどうかは、まだ分からない。
だが、これから先で証明するしかない。
生き残った生徒を見つける。
二枚のカードキーを渡す。
月城に課された試験などという狂った枠組みを利用してでも、
生徒を少しでも多く生かす。
それが、いま彼らに残された教師としての在り方だった。
廊下の向こうで、また悲鳴が上がる。
茶柱たちは走る。
銃を持って。
カードキーを持って。
そして、教師としての責任だけは決して手放さないまま。
この学校の地獄の中へ。
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