社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
まさか——
こんな場所で会うとは、思ってもいなかった。
目の前に立っているのは、
口裂け女と出会う一ヶ月前に別れた
≪いなば りこ≫
元カノの稲葉 璃子だった。
大学で知り合い、そのまま付き合い始めた。
社会人になって二年ほど経った頃、
璃子の方から同棲を提案してきた。
最初の頃は、
帰ると明かりがついているだけで嬉しかった。
くだらない会話をして、
同じソファに座って、同じテレビを見て。
そんな日常が、
当たり前のように続くと思っていた。
だが。
俺の仕事が忙しくなるにつれ、
生活は少しずつズレていった。
帰宅する頃には璃子はもう寝ている。
休日も、疲れて寝て終わることが増えた。
気づけば会話も減り、同じ家にいながら、
どこか遠い存在になっていた。
それでも——。
俺たちは、約五年間も付き合っていた。
短い時間じゃない。
人生の一部と言ってもいいほどの時間だ。
なのに。
別れは、驚くほどあっさりしていた。
喧嘩をしたわけでもない。
大声を上げたわけでもない。
ただ——。
璃子の態度が、少しずつ冷たくなっていった。
それだけだった。
そんな記憶が、頭の中でぐるぐると回り始める。
胸の奥がざわつく。
背中にじわりと冷たい汗が流れた。
呆然と立ち尽くす俺を見て、璃子が小さく笑う。
昔と変わらない声が、静かに耳に届く。
「——ゆうくん。久しぶりだね」
言葉が出ない。
喉がうまく動かない。
口だけがわずかに開いたままになる。
ようやく、喉の奥から言葉を引っ張り出す。
「……ひ、久しぶり」
自分でも情けないほど、声が掠れていた。
明らかに動揺している俺を見て、
璃子が柔らかく微笑む。
「本当に久しぶりだね」
「三ヶ月ぐらいしか経ってないのにさ」
「一緒に住んでたからかな……
やけに懐かしく感じるよ」
璃子はそう言いながら、
どこか遠くを見るような目をした。
懐かしむような、静かな表情だった。
……こいつは昔からそうだ。
感情を大きく表に出すことがない。
いつも落ち着いていて、
余裕があって。
何を考えているのか、分からない。
俺は視線を逸らしながら、
なんとか言葉を返す。
「璃子は……なんでこんなとこに?」
新しく彼氏でも作ったのだろうか。
学生時代から、璃子はよくモテていた。
顔立ちは整っているし、落ち着いていて、
どこか近寄りがたい雰囲気もある。
そういうところが、
人を惹きつけるのだろう。
だから、新しい彼氏がいても不思議じゃない。
別れた相手とはいえ。
もしそうだとしたら、少し気まずい。
できれば、
その新しい彼氏とは鉢合わせしたくない。
そんなことを考えていると、
璃子が小さく首を傾げた。
「私……?」
ほんの一瞬、考えるように目を細める。
そして、少しだけ口元が緩んだ。
「ふふっ、友達と来てるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
自分でも気づかないうちに、
ふっと息が漏れていた。
……今のは、なんだ。
気まずい状況にならなくて安心したのか。
それとも——まだ未練があるのか。
自分でも、よく分からない。
気づけば視線が下に落ちていた。
床のタイルをぼんやり見つめていると、
声が降ってくる。
「ゆうくんも……なんでこんなとこに?」
顔を上げる。
璃子が、俺の顔を覗き込んでいた。
距離が近い。
思わず、一歩後ずさる。
「……俺?」
「ふふっ……」
璃子が小さく笑う。
「ゆうくん以外にいないじゃんか」
手を口元に添えて、穏やかに笑う。
その表情が、ほんの少しだけ柔らいだ。
……こいつは、本当に変わらない。
仕草も。
声も。
空気も。
まるで、時間だけが置いていかれたみたいだ。
璃子が俺の目をじっと見つめる。
それから、ゆっくりと首を傾げた。
「……誰かと、一緒に来てるの?」
心臓が、わずかに跳ねる。
「……俺は——」
その時だった。
「すみません!お待たせしました〜」
背後から、明るい声が飛んできた。
振り向くまでもない。
お手洗いから戻ってきた口裂け女だった。
……最悪のタイミングだ。
そして。
璃子の視線が、すっと動いた。
その目が、口裂け女を捉える。
ほんの一瞬。
まるで値踏みするように、静かに口裂け女を見て——。
すぐに視線を俺へ戻した。
その間、ほんの数秒。
なのに、妙に長く感じた。
突然現れた口裂け女は状況が理解できていないのか、
その場で立ち止まっている。
戸惑ったように周囲を見てから、俺と璃子を交互に見た。
「……へ?」
間の抜けた声が小さく漏れる。
璃子は、笑顔のままだった。
さっきと同じ、穏やかな微笑み。
……のはずなのに。
どこか、おかしい。
笑っているはずなのに。
なぜか、まったく笑っていないように感じる。
口元は確かに笑っている。
だけど——。
目だけが、まったく動いていなかった。
その視線に触れた瞬間、胸の奥がざわつく。
理由はわからない。
「……この子、誰?」
静かな声だった。
責めるわけでもなく、怒るわけでもない。
ただ、事実を確認するような声音。
「……」
俺は、思わず黙り込んでしまう。
言葉が出ない。
実際のところ——。
口裂け女は、彼女じゃない。
だが。
俺にとって、大事な存在だ。
もう、とっくに自分の気持ちは自覚している。
腹だって決めている。
それなのに——。
堂々と「そうだ」と言えない。
でも。
「違う」とも、言いたくなかった。
まだ。
こいつがどうしたいかを、ちゃんと聞いていないから。
璃子の視線が、
再び、口裂け女へ向く。
ゆっくりと。
逃がさないように。
「あなたは——ゆうくんの彼女?」
璃子は相変わらず笑顔だった。
優しく話しかけているようにも見える。
けれど——。
さっきよりも、その笑顔は冷たく見えた。
明らかに。
目が違う。
口裂け女が、わずかにたじろいだ。
「いえ……その……」
言葉が詰まる。
何かを考えるように視線を泳がせるが——。
一瞬、璃子の目と視線が合った。
その瞬間。
びくり、と肩が震えた。
まるで、見えない何かに怯えたみたいに。
「ち……違います……」
口裂け女が、小さく視線を落とす。
その仕草が——妙に胸に刺さった。
まるで。
何かを、否定されてしまったみたいで。
胸の奥が、ざわつく。
璃子が、ゆっくりと首を傾げる。
「じゃあ、あなたはなんなの……?」
声は穏やかだった。
怒っているわけでもない。
責めているわけでもない。
けれど——。
どこか逃げ道のない問いだった。
そのまま、ふっと笑う。
「友達?」
淡々とした声。
柔らかな笑顔。
だが——。
目だけは、まったく笑っていなかった。
その視線を受けて、口裂け女の肩がさらに小さくなる。
明らかに圧倒されていた。
「ち、違います……」
口裂け女が、
もじもじと指先を動かしながら視線を逸らす。
それでも。
璃子は、止まらない。
ゆっくりと一歩近づく。
「じゃあ……何?」
わずかに間を置いて。
「……セフレ?」
璃子が、くすりと笑った。
……さすがに。
俺も、黙ったままではいられなかった。
「璃子……お前いい加減に——」
言いかけた瞬間。
「ゆうくんは、黙ってて?」
あっさりと、遮られた。
言葉が、途中で切れる。
璃子は俺の方を一切見ない。
不自然なほどに、ずっと口裂け女だけを見ている。
そのまま、笑っていた。
まるで最初から、
俺なんてそこにいないみたいに。
勢いよく出しかけた言葉は、行き場を失った。
俺の勢いは、完全に殺される。
「ねえ……答えて?」
璃子が、ゆっくりと歩み寄る。
一歩。
また一歩。
その距離が縮まるたびに、口裂け女の体が小さくなる。
口裂け女が、後ずさった。
「わ、私は……」
声が震えている。
視線を落とし、俯く。
指先が、ぎゅっとスカートの布を握りしめた。
少しの沈黙。
周囲のざわめきだけが、妙に遠くで聞こえる。
「……ただの」
小さく息を吸う。
覚悟を決めるみたいに。
「同居人です……」
そう言った瞬間。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
自分でも理由はわからない。
ただ——
その言葉は、思った以上に重かった。
その言葉のあと。
口裂け女が、無理に笑顔を作ろうとした。
けれど。
明らかにぎこちなかった。
マスクの動くだけが、
カサリと聞こえた。
それだけだった。
璃子も、それに気付いたのだろう。
小さく、
喉の奥で笑う。
くすり、と。
「同居人って、何?」
首を傾げる。
「ふふっ、変なの……」
璃子が、ゆっくりと俺の方に向き直る。
さっきまで口裂け女に向けられていた視線が、
まっすぐ俺へ向けられた。
「……ゆうくん、そうなの?」
静かな声だった。
責めているわけでもない。
怒っているわけでもない。
ただ、確認するみたいに。
俺は思わず視線を落とした。
足元の床がやけにくっきり見える。
……まあ、そうだよな。
実際。
今の関係を言葉にすれば、
それ以外に言いようがない。
確かに。
ただの——
「同居人……だよ」
言った瞬間。
口裂け女の目から、すっと光が消えた気がした。
ほんの一瞬の変化だったのに、
妙にはっきり分かった。
胸の奥が、きり、と締め付けられる。
……あまりに、残酷だった。
対して。
璃子の表情は、ぱっと柔らいだ。
さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいに。
ふっと、安心したように笑う。
「ふふ、そっかぁ……」
小さく頷く。
それから。
一拍、間が空いた。
「“よかった”」
璃子の口角が、ニヤリと持ち上がる。
……。
……え?
思わず顔を上げる。
“よかった”?
何を言っているんだ、こいつは。
意味が分からない。
頭が、うまく回らない。
ぐらりと視界が揺れる。
息が、うまく吸えない。
胸の奥で、心臓がやけに大きく鳴っていた。
鼓動が、どんどん速くなる。
一体——どういうことだ?
——その時。
遠くから、璃子を呼ぶ声が聞こえた。
「璃子ー!」
友達らしい女性が、手を振りながらこちらを見ている。
璃子の視線が、
ようやくそちらへ向いた。
その瞬間。
張り詰めていた空気が、ふっと軽くなる。
さっきまで肺を締め付けていた何かが、
一気に抜けたような感覚だった。
……本当に、情けない。
自分でもそう思う。
「——じゃあね、ゆうくん」
璃子が、いつもの調子でそう言う。
そして、そのまま俺に背を向けた。
友達の方へ歩いていく。
人混みの中に紛れていく背中を、
俺はただ見ていた。
——だが。
数歩進んだところで、
璃子がいきなり立ち止まる。
ゆっくりと振り返った。
その視線の先にいたのは——口裂け女だった。
「この後……置いてた荷物、取りに行くから」
少しだけ首を傾げる。
「絶対、家にいてね?」
最後に、にこりと微笑む。
さっきまでと同じ。
綺麗で、柔らかい笑顔だった。
そして今度こそ、璃子は去っていった。
人混みの中に消えていく。
俺と口裂け女は、その場に立ち尽くしていた。
……
璃子の姿が完全に見えなくなってから。
ようやく、全身の力が抜けた。
胸が上下する。
まるで今までずっと息を止めていたみたいに、
空気が肺に流れ込んできた。
久しぶりに呼吸をしたような気がする。
横を見ると、口裂け女も同じだった。
顔が、真っ赤になっている。
まともに息が吸えなかったのかもしれない。
肩が、小さく上下している。
しばらくして。
ようやく、お互いの呼吸が落ち着いてきた。
先に口を開いたのは、口裂け女だった。
「怖いぐらい……綺麗な人でした」
「……」
俺は何も返さなかった。
返せなかった。
実際。
璃子は、綺麗だ。
顔立ちも整っているし、
人を惹きつける独特な雰囲気がある。
五年も付き合っていた俺でさえ、そう思う。
でも。
それ以上に——。
「怖いよね……」
自分の声が、少し掠れていた。
血の気が、まだ戻っていない。
力が抜けて、
思わずその場にしゃがみ込む。
ようやく。
デパートの賑やかな音が、
耳に戻ってくる。