社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
玄関の前で、
口裂け女を抱き締める。
……とうとう。
面と向かって、告白してしまった。
それも——
こんな状態の、璃子の前で。
腕の中の口裂け女は、まだ小刻みに震えている。
呼吸も浅くて、上手く息が吸えていないみたいだった。
俺の胸元に頭を押し付けたまま、動こうとしない。
——本当は。
こんな風になるはずじゃなかった。
璃子も、きっと話せば理解ってくれる。
俺の知っている璃子なら、
そうなると、どこかで信じていた。
あいつは冷静で、理屈の通じる人間だったはずだ。
少なくとも——
こんな風に、人前で泣く奴じゃなかった。
……俺の考えは、甘かった。
自分の気持ちを正直に伝えれば。
口裂け女を選ぶと、はっきり言えば。
それで終わる。
璃子も、納得してくれるはずだ。
そんな都合のいい未来を、
どこかで想像していた。
……本当に、甘い。
口裂け女を寝室にいさせたのも、
大きな間違いだった。
璃子との会話を——
全部、聞かせてしまった。
俺が、璃子のことをどう思っていたのか。
どんな風に迷っていたのか。
そして——
最後に、
衝動みたいに告白したことも。
全部。
……聞かせてしまった。
腕の中の口裂け女が、
ぎゅっと俺の服を掴む。
小さな指先が、
震えながら布を握り締めていた。
その力は弱いのに、
やけに必死で。
……まるで、
どこかに連れて行かれないように
しがみついているみたいだった。
胸の奥が、じわりと痛む。
俺は、
こいつを守れているんだろうか。
それとも——
今、俺がしていることは。
ただ、
二人を同時に傷つけているだけなんだろうか。
……わからない。
もう、何が正しいのか
自分でも分からなくなっていた。
俺は——いつもこうだ。
考えの甘さで、
大事なものを、全部手放してきた。
璃子のことだってそうだ。
あの記念日の時だって——
俺は、早く帰るべきだった。
頭では、わかっていたはずなんだ。
あの日がどれだけ大事な日か。
璃子が、どれだけ楽しみにしていたのか。
全部。
わかっていた。
それでも——
俺は、仕事を優先した。
きっと璃子なら、
わかってくれる。
そうやって、
どこかで甘えてしまった。
大事なところで、
選択を間違える。
俺の人生は、
後悔ばかりだ。
あの時も。
もし、仕事を断っていたら。
もし、記念日を約束通り
二人で過ごしていたら。
今頃——
璃子とまだこの家で暮らしていたのかもしれない。
そんなことを、
今さら考えても意味はないのに。
それでも、
頭のどこかで考えてしまう。
そして。
また、同じことを繰り返した。
璃子を、この家に入れてしまった。
口裂け女を、寝室に残したまま。
全部、
俺の判断の甘さだ。
……皮肉だ。
璃子の行動を見て、
ようやく気づいた。
自分がどれだけ甘かったのか。
どれだけ、
現実を都合よく考えていたのか。
でも。
そのおかげで——
俺は。
口裂け女を。
離したくない。
失いたくない。
思うだけじゃなくて。
行動することができた。
それは、
紛れもない事実だった。
腕の中の温もりを、
ぎゅっと抱き締める。
もう——
失いたくない。
……本当は。
あの時だって。
璃子と、
離れたくなんてなかった。
別れるなんて、
思ってもいなかった。
話せばきっと、
なんとかなると思っていた。
だけど——
璃子は。
俺に、
話をする間すら与えてくれなかった。
……。
……そして。
璃子が、何やらぶつぶつと呟きながら。
こちらへ歩いてくる。
「こんなの、」
「間違ってる……」
震えた声。
言葉がうまく形になっていない。
「僕の、」
「ゆうくん……」
ふらふらと。
まるで、何かに引き寄せられるみたいに。
一歩、また一歩。
足取りは頼りないのに、
目だけが異様なほど真っ直ぐだった。
「コイツの……」
璃子の視線が、
ゆっくりと俺の腕の中へ向く。
「コイツのせいで……!」
恨みを込めた声だった。
璃子が、口裂け女の方へ手を伸ばす。
震える指先。
だが——
その前に。
俺は、一歩前に出た。
口裂け女を庇うように。
璃子の前に、立ち塞がる。
「ゆうくん、どいて」
璃子が言う。
その声は、妙に静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
泣き叫んでいるわけでもない。
ただ、
当然のことを言っているみたいな声。
「……」
俺は、何も答えない。
言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか、
自分でもわからない。
……ただ。
璃子と、
口裂け女を近づけてはいけない。
それだけは、
本能で理解していた。
「そいつの正体を……」
璃子が、ゆっくりと顔を上げる。
「今、僕が見せてあげるから……」
その瞬間。
俺は、思わず息を呑んだ。
——璃子の顔が、
はっきり見えたからだ。
涙で、ぐしゃぐしゃだった。
目の周りは赤く腫れて、
鼻水もそのまま垂れている。
さっきまでの璃子とは、
まるで別人みたいだった。
最初に会った時の。
あの、
綺麗に整えられた笑顔。
仮面みたいに貼り付いた、
あの穏やかな表情。
そんなものは、
もうどこにも残っていなかった。
今、目の前にいるのは。
ただ。
感情を剥き出しにした、
一人の人間だった。
怒りも。
悲しみも。
嫉妬も。
全部が、
ぐちゃぐちゃに混ざっている。
璃子は、
それをもう隠そうとしていなかった。
……いや。
隠す必要が、
無くなったんだろう。
「お願い……ゆうくん……」
璃子が、掠れた声で言う。
「僕は……僕は……」
言葉がうまく続かない。
呼吸が乱れて、
喉の奥で声が詰まっているみたいだった。
「ただ……君に……」
璃子の指が、
ぎゅっと俺のズボンを掴む。
震えていた。
「僕のことを……」
「大事にして欲しかっただけなんだ……」
声が、崩れる。
「それは……ダメなことだったの?」
璃子が、俺の足元に縋りつく。
床にへたり込み、
震える腕で、必死に顔を上げた。
腫れた目が——
まっすぐ、俺を見ていた。
……。
胸の奥が、痛む。
「……ダメじゃないよ」
俺は、
足元の璃子に言葉を落とす。
ぼんやりと。
自分でも、
どんな顔をしているのかわからない。
「じゃあ……どうして?」
璃子の声が震える。
「どうして……」
「どうして、僕の側から居なくなろうとするの?」
……。
答えは、もう決まっている。
だけど。
それを言葉にするのは、
思っていたよりもずっと重かった。
「……」
少し、間を開けて。
「記念日のことは……」
俺は、小さく息を吐く。
「言い訳の、しようがないけど」
一拍。
「俺は……俺なりに」
「璃子のことを、大事に思ってたよ」
それは、
嘘じゃない。
本当のことだった。
「俺は……」
「璃子に、ちゃんと話をして欲しかった」
静かに続ける。
「自分で一方的に考えて……」
「俺から離れるなんて、しないでほしかった」
あの日。
理由もろくに聞けないまま、
璃子は出ていった。
それが——
どれだけ辛かったか。
璃子は、
きっと知らない。
「きっかけは、俺だってわかってる」
視線を落とす。
「……それは、本当に」
「謝っても、謝りきれない」
言葉が止まる。
しばらく。
誰も、何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、
璃子だった。
「……今からでも」
璃子が、ぽつりと呟く。
「話は、できるじゃないか」
ゆっくりと、
顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃのまま、
それでも微かに笑って。
「今、からでも……」
「遅く……ないよ?」
璃子の声のトーンが、少しずつ明るくなっていく。
さっきまで泣き崩れていたはずなのに。
まるで、
何かを思い出したみたいに。
「僕と、また一緒に暮らそうよ」
璃子が言う。
震えた声だった。
だけど、
そこには確かに希望が混じっていた。
「前に、二人で話してた通り」
「結婚してさ」
「赤ちゃんを作って」
「家族みんなで、幸せに暮らそうよ」
「ずっと……ずっと……」
璃子の視線が、
どこか遠くを見ている。
まるで、
その未来を本当に見ているように。
「今からでも……」
璃子が、笑う。
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
それでも、
必死に。
精一杯の笑顔を作る。
……その顔が。
俺が好きだった璃子と、
重なってしまった。
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられる。
「今からでも」
「遅く、ないよね……?」
その声は、
あまりにも弱くて。
今にも消えてしまいそうだった。
璃子の後悔が、
涙と一緒に零れ落ちていく。
……。
俺は、目を閉じる。
そして。
「……ごめん」
小さく、呟いた。
璃子は。
笑顔のまま、
首を傾げた。
「なんで、謝るの?」
その声は、
本当に不思議そうだった。
まるで。
俺が何を言っているのか、
理解できていないみたいに。
「僕は嫌だよ、ゆうくん」
笑顔が、
少しずつ崩れていく。
「僕は、嫌だ」
声のトーンが、
ゆっくりと低くなっていく。
「嫌だ」
璃子の肩が、
小さく震える。
「嫌だ、嫌だ」
笑顔が、
完全に消えた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!」
璃子は、
壊れた人形みたいに同じ言葉を繰り返す。
目は見開かれ。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
そして。
両耳を、
両手で強く押さえた。
必死に。
まるで。
——何も聞きたくないと。
はっきりと、
拒絶しているみたいだった。
……これ以上。
こんな璃子の姿を、
見たくない。
胸の奥が、
じくじくと痛む。
その時。
後ろで。
微かに、
床が震えた。
振動でわかる。
……口裂け女だ。
恐怖で、
震えている。
その小さな震えが、
床を通して伝わってくる。
「璃子……」
俺が声を掛ける。
このままではまずい。
そう思って、
璃子を立ち上がらせようと肩に手を伸ばした——
その時だった。
璃子が、
急にスッと自力で立ち上がる。
まるで。
誰かに、
体を吊り上げられたみたいに。
ゆっくりでもなく、勢いでもなく。
不自然なほど滑らかな動きだった。
「ふふ……」
小さな笑い声が漏れる。
「ふふ、ふふ……」
璃子は俯いたまま、
肩を揺らす。
泣いているのか。
それとも笑っているのか。
もう、わからない。
そして。
ふっと顔を上げた。
「……まあ、いいや」
あまりにも軽い声だった。
「今は、それでいいよ」
さっきまでの絶望が嘘みたいに。
璃子は笑う。
「“今は”ね」
その笑顔は。
あまりに綺麗で。
あまりにも空虚だった。
「ゆうくんは」
「いずれ、
僕のところに“絶対”戻ってきてくれるから」
確信に満ちた声。
根拠なんて、どこにもないはずなのに。
「今だけは、いいよ」
……満面の笑みだった。
頬にはまだ、涙の跡が残っている。
目の周りも赤いままだ。
それなのに。
璃子は笑っている。
さっきまで泣き崩れていた人間と、
同じ人物とは思えないほどに。
「ねえ、口裂け女さん」
璃子が、俺の後ろへ視線を向ける。
その笑顔のまま。
「君は……一体何者なの?」
口裂け女の肩が、びくりと震える。
「人間だったの?」
……沈黙。
口裂け女は、答えない。
いや。
答えられないのか。
耐えきれなくなったのか。
彼女は、ゆっくりと視線を逸らした。
「ふふ……なるほどね」
璃子が、嬉しそうに頷く。
まるで、
何か確信を得たみたいに。
「じゃあ、次だ」
楽しそうな声だった。
「君、なんて名前なの?」
口裂け女の足が、わずかに後ずさる。
「……」
沈黙。
璃子は、首を傾げる。
「あ、ごめんね」
柔らかい声で言う。
「言い方を変えるよ」
その目だけが、笑っていなかった。
「自分の名前を、知ってるの?」
空気が、冷える。
「もしくは……」
璃子が、一歩近づく。
「名前は、あるの?」
口裂け女が、さらに後退る。
床が、ぎし、と小さく鳴る。
……もう、限界だ。
これ以上は。
「おい、璃子……!!」
思わず声を荒げる。
だが。
璃子は、俺の方をちらりと見て。
軽く笑った。
「ゆうくんは黙ってて?」
場違いなほど穏やかな声だった。
だが、その笑顔が。
この場の空気と、あまりにも噛み合っていない。
「お前、もういい加減に——」
言いかけた、その時。
「ゆうくんは黙っててよ!!」
突然。
璃子が、大きな声をあげた。
部屋の空気が震える。
壁に反響するほどの声だった。
……俺は、言葉を失う。
璃子が、こんな声を出すなんて。
俺の知る限りは、
一度だって無かった。
思わず。
身体が、びくりと反応してしまう。
部屋の中に。
璃子の荒い呼吸だけが、残った。
だが——
その時だった。
璃子が、ふっと表情を変える。
さっきまでの狂気の笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは——
俺を心配するような優しい顔だった。
「ゆうくん、驚かせてごめんね?」
まるで、本当に申し訳なさそうに言う。
「僕は、ゆうくんを傷つけたくないんだ」
声は柔らかい。
さっきまで怒鳴っていた人間とは思えないほど、
穏やかな声音だった。
「僕がいなくて、寂しかったよね?」
……冗談で、言っていない。
璃子は、
本当にそう思っているようだった。
純粋に。
心から。
俺のことを心配しているみたいに。
……。
俺は、何も答えない。
いや。
答えることができなかった。
何故か。
言葉が、喉から出るのを拒んでいた。
璃子は、
少しだけ寂しそうな顔をする。
だが。
次の瞬間。
その表情は、すっと消えた。
そして——
また、さっきの笑顔に戻る。
「……ふふ、まあいいや」
軽く肩をすくめる。
「もう、だいたいわかったよ」
璃子の目が、ゆっくりと細くなる。
「僕の予想が……正しければね」
一拍。
「でも、多分合ってると思う」
その声には、
奇妙な確信があった。
「ふふ……よかったぁ」
璃子は、胸を撫で下ろす。
本当に安心したみたいに。
「本当に、よかったよ……」
そして。
静かに言った。
「君たちは……この先、絶対に上手くいかない」
部屋の空気が、ぴたりと止まる。
「構造上、上手くいくわけがないんだ」
断言だった。
迷いも、疑いもない。
ただの事実を述べるみたいに。
「上手くいく、はずがない」
口裂け女の震えが、
背中越しに伝わる。
璃子は、そんなこと気にも留めずに続けた。
「だから……その日まで」
少しだけ、首を傾ける。
「……少しだけ、“私が”我慢してあげるよ」
微笑む。
とても優しい笑顔だった。
「……その日まで、ね」
そして。
くるりと、踵を返す。
玄関へ向かって歩き出す。
「じゃあ、またね」
扉の前で、立ち止まる。
振り返る。
「ゆうくん」
その時。
……ほんの一瞬だけ。
璃子の表情に、
影が落ちた気がした。
惜しむように。
寂しそうに。
小さく、呟く。
「僕は、ずっと君のことを」
少しだけ間があって。
「……愛してるから」
バタン。
ドアが閉まる。
璃子は。
最後に、最初に会った時と同じ笑顔を残して。
家から、出ていった。
……。
部屋の中に残ったのは。
静まり返った空気と。
そして——
俺たちだけだった。
張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていく。
糸が切れるみたいに。
……心なしか、呼吸が軽い。
さっきまで、
胸の奥をぎゅっと掴まれていた感覚があったのに。
それが、少しずつ緩んでいく。
口裂け女の腰が、ヘナヘナと床に崩れ落ちた。
力が抜けたみたいに。
膝から、崩れる。
璃子が去った後。
俺たちは、
しばらくそのまま動けなかった。
時計の音だけが、
やけに大きく聞こえる。
口裂け女は、完全に放心状態だった。
視線は床のどこかを見つめたまま、
ぴくりとも動かない。
……。
「……ごめん」
俺は、ゆっくりと頭を下げた。
情けなかった。
本当に。
……まただ。
また、俺はこいつを傷つけた。
……もし。
もっと早く。
こいつを家から出していれば。
璃子のあんな言葉を、
聞かせずに済んだ。
……。
……。
……あれ。
なんで。
視界が、にじむ。
ぼやける。
心の奥が、
ぐちゃぐちゃになっていく。
声が。
抑えられない。
喉が、震える。
……情けない。
「ごめん……本当に……」
声が掠れる。
「お前のこと……傷つけて……」
口裂け女の顔を、
まともに見られない。
……きっと。
こいつは、これをきっかけに。
俺の前から、去るかもしれない。
口裂け女は——
自分の幸せを、優先しない。
自分が妖怪だということを。
必要以上に。
事実以上に。
強く、強く、
自覚している。
……俺は。
そんなこと、どうでもいい。
本当に——
どうでもいいんだ。
こいつが何者だろうが。
人間じゃなかろうが。
妖怪だろうが。
そんなもの、
心底どうでもいい。
こいつが——
こいつであること以上に。
俺には、興味がない。
……でも、それなのに。
それなのに。
そんな事実を。
口裂け女は、突きつけられた。
残酷なほどに。
容赦なく。
……。
コイツは。
そんなこと。
言われなくても、
わかっているはずだ。
さっきだって。
璃子のために。
俺のために。
自分から、姿を消そうとしていた。
……。
俺は。
コイツを失ったら。
どうなるんだ。
想像した瞬間。
胃の奥から、何かが込み上げる。
吐き気みたいな。
恐怖みたいな。
ぐちゃぐちゃの感情。
突然、目眩がする。
世界が、ぐらりと揺れる。
まるで。
何か鈍器で、後頭部を殴られたみたいに。
意識が、ぐらぐらと揺さぶられる。
……そんなの。
嫌だ。
絶対に、嫌だ。
でも。
……俺には、何もできない。
できれば、こいつの意志を尊重してやりたい。
もし。
こいつが。
俺から離れることを選ぶなら。
……それを、止める資格なんて。
俺にはない。
無理矢理、俺に縛り付けて。
こいつを傷つけるなんて真似は——
絶対に、したくない。
でも。
……それでも。
俺は……。
唇を、強く噛む。
こいつと。
離れたくない。
……どうしても、離れたくない。
……。
「……です……」
……?
口裂け女が、
消え入りそうな声で何かを言った。
ぼんやりと。
だが。
聞こえなかった。
いや。
違う。
体が、拒否したんだ。
聞きたくない。
俺は——
何も知りたくない。
言葉の意味を。
こいつの意志を。
……わかってしまうのが、怖い。
聞かなきゃいけない。
そんなことは、わかっている。
わかっているのに。
体が、動かない。
俺は——
無意識に。
耳に、手を当てていた。
ぐっと、
押さえつける。
耳が、自分の手のひらで押し潰される。
……強い力だった。
自分でやっているのに。
まるで、誰かに止められているみたいだ。
やめろ。
聞くな。
そんな声が、頭の奥で響く。
……もう、やめてくれ。
耐えられない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
息が浅くなる。
もし。
それを聞いてしまったら。
きっと。
もう——
あの頃には、戻れない。
口裂け女と、
何も考えず笑っていた。
あの時間は。
もう。
訪れない。
……
……
残業で遅く帰った日のこと。
玄関を開けた瞬間。
腕を組んで、待ち構えていた顔。
『もう……遅いです!』
少し頬を膨らませて。
『ご飯温めるので、
早くお風呂入ってください!』
ビシッと人差し指を立てる。
偉そうに。
『ちゃんと、温まってくださいね!!』
裂けた頬からプシューと空気が漏れる。
それが、何故かとても愛おしい。
……
ご飯を食べる度に。
マスクが汚れてしまって、困っている顔も。
『うう……不便ですねぇ……』
口元を拭こうとして。
また汚して。
『……って、何笑ってるんですか!!』
じっと睨んでくる。
『人が苦労してるのに!!』
一拍。
『許しませんよ!!』
でも。
その目は、どこか楽しそうで。
……
ソファーでテレビを見ながら。
楽しそうに笑っている顔も。
『これ、すっごく面白くないですか?』
俺の方を振り向く。
それから。
ぼんやりと。
俺の肩に、そっと頭を乗せてくる。
『私……』
少しだけ、
遠くを見るような目で。
『こんなに、幸せで良いんですかね……』
まるで、誰かに赦しを乞うかのように。
幸せにしてもらってるのは、
俺の方なのに。
……
安心しきって、
気持ち良さそうに寝ている顔も。
『スゥー……』
規則正しい寝息。
小さく呟く。
『ずっと……一緒に…………』
少し間があって。
『……あなたと……』
『……むにゃむにゃ……』
起こさないように、そっと手に触れる。
温度はとても冷たい。
それなのに何故か暖かい。
そんな矛盾に。
どうしようもなく、
自分の顔が緩んでしまっていた。
……
一緒に、じゃれあって。
笑い合った日常も。
『ひゃっ』
『……ちょっと!』
突然、俺の方を向く。
『なんで突然、
私のほっぺを触るんですか!』
真っ赤な顔で抗議してくる。
『もう!』
『そこは触っちゃいけません!』
でも。
怒りきれない顔。
『はぁ……』
小さく溜息をついて。
『あなたは……』
少し呆れた目。
でも。
どこか優しい。
『本当に、仕方ないんですから……』
頬が少し持ち上がり、
彼女の大きな目が少し細くなる。
一拍。
『私は優しいので、許してあげましょう……』
少し、得意げに。
『でも、今回だけですからね?』
人差し指を口元に当てて。
ふふッ、と。
少し意地悪そうに微笑む。
あの。
愛おしい、俺だけの笑顔。
……
……
もう、戻らない。
全部が——
もう、元には戻れない。
そんな予感がした。
胸の奥に。
冷たいものが、ゆっくりと沈んでいく。
そこで——
彼女の手が。
そっと、俺の手に触れた。
指先が。
ゆっくりと。
俺の手の上に、優しく覆い被さる。
そのまま。
じっと。
彼女は、何も動かない。
冷たい手。
体温がないみたいに。
ひやりとしている。
ただ。
包み込むように。
俺の手を、覆っている。
俺が。
一番、愛おしくて。
心の底から、
手放したくないもの。
……。
自然と、
力みが抜けていく。
耳を押さえていた手の力が。
少しずつ、
緩んでいく。
空気が。
耳に当たる感覚が戻ってくる。
ぼんやりと。
換気扇の音が聞こえてくる。
ゴォォ……という、低い音。
ずっと前から鳴っていたはずなのに。
今、初めて気づいたみたいだった。
……俺は、気がつけば。
呆けて、
手を耳から離していた。
彼女が。
俺の目を、まっすぐ見つめる。
酷く腫れた目だった。
泣きすぎて。
赤く腫れている。
それでも。
彼女は、静かに微笑んでいた。
どこか。
覚悟を決めたような顔だった。
……もう。
逃げられないんだ。
そう思った。
彼女の息遣いが、聞こえる。
小さく。
震える呼吸。
「私の言ったこと……」
「聞いてませんでしたよね?」
静かな声。
責めるでもなく。
ただ、事実を確認するように。
一拍。
ほんの少しの沈黙。
「もう……」
彼女の指が。
ほんの少しだけ、俺の手を強く握る。
「あと、一度しか言いませんから」
ゆっくりと。
言葉を選ぶみたいに。
「今度は……ちゃんと」
目を逸らさない。
真っ直ぐ。
俺だけを見て。
「聞いて、くださいね……?」
……やめてくれ。
嫌だ。
これを聞けば。
きっと。
本当に。
もう——
戻れなくなる。
それなのに。
それなのに——
俺は。
彼女から、目を逸らせなかった。
——綺麗だ。
そんな言葉が、頭のどこかに浮かんでしまう。
こんな状況なのに。
泣き腫らした顔なのに。
それでも。
俺は。
——彼女の美しさに、
見惚れてしまっていた。
喉が、渇く。
唾液が上手く飲み込めない。
呼吸が、浅くなる。
肺が、うまく動かない。
自分の体が、
自分のものじゃないみたいだった。
視界が。
彼女の瞳だけに、絞られていく。
俺の理性は。
静かに。
ゆっくりと。
彼女の瞳に、飲み込まれていった。
——
彼女が、大きく息を吸い込んだ。
胸が上下する。
まるで、溺れる前に空気を吸い込むみたいに。
「わ……私は……」
声が震える。
喉が、しゃくり上がる。
彼女の目に、徐々に涙が浮かんでいく。
ゆっくりと。
溢れる寸前まで。
「私は——」
一度、言葉が止まる。
そして。
「あなたが、好きです……っ……」
……。
その言葉は。
あまりにも真っ直ぐで。
あまりにも、弱々しかった。
彼女は、続けて言葉を紡ごうとする。
「……も……もし……っ……」
だが。
俯いた。
唇が震える。
……続きを言うのを躊躇っているのか。
肩が、小刻みに震えている。
涙が、とめどなく溢れ始める。
頬を伝って。
ぽた、ぽたと床に落ちる。
それでも。
彼女は、一生懸命に喉を動かす。
声を出そうとする。
「……もし、
私のワガママが……許されるんだったら」
途切れ途切れの声。
息が詰まりそうになりながら。
「……私は、あなたから」
一拍。
「絶対に……」
「離れたく、ありません」
……。
部屋が、静まり返る。
「本当は……」
「本当は、ずっと……」
涙で視界が滲んでいるはずなのに。
彼女は、必死に俺を見ていた。
「あなたと、
ずっと一緒にいたいです……」
声が崩れる。
嗚咽が混じる。
言葉が、上手く繋がらない。
聞き取りにくいはずなのに。
それでも。
やけに、声だけが透き通って聞こえる。
まっすぐに。
胸の奥まで届く。
「……こんな……」
彼女は、自分の手をぎゅっと握る。
震える指。
「こんな、私でも……」
一拍。
ほんの短い沈黙。
「もう、少しだけ……」
小さく、息を吸う。
「あなたの……」
声が、かすれる。
それでも。
逃げない。
「あなたの……隣に、いても」
「いいですか……?」
……。
……。
彼女は。
ただ、
答えを待っていた。
逃げることもなく。
目を逸らすこともなく。
泣きながら。
それでも。
必死に、笑おうとしていた。
……。
もう限界だ。
もう——
抑えられない。
俺は、
耐えられない。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになっていく。
頭の中で何かが弾けた。
突然。
頭が、真っ白になった。
……。
そこからは——
もう、あまり覚えていない。
時間の感覚が、途切れている。
覚えているのは——
今にも壊れてしまいそうなほどに。
華奢で。
震えていた体。
腕の中で——
頼りなく揺れていた。
そして。
頬に触れた指先が、
ほんの少しだけ震えていた。
それと。
とても冷たくて。
でも。
どこか温かくて。
柔らかい——
唇の感触。
触れた瞬間。
彼女の体が、びくりと震えた気がした。
でも。
逃げなかった。
抵抗もしなかった。
ただ。
受け止めるみたいに。
静かに、そこにあった。
そして——
その後。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
名残惜しそうに、唇が離れていく。
ほんの少しだけ。
距離が生まれる。
その時の。
彼女の表情。
それだけが。
やけに、はっきりと記憶に残っている。
驚きと。
戸惑いと。
それから——
信じられないものを見たというような顔。
離れ際に。
細く、唾液が糸を引いた。
切れそうで。
切れないまま。
ゆらゆらと揺れる。
彼女は、自分の唇に触れる。
指先で。
そっと。
なぞる。
そこに残っている。
混ざり合った唾液を。
愛おしそうに。
確かめるように。
……そんな。
彼女の、見慣れない姿だけが。
俺の記憶に、
ぼんやりと残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ジュウヨンです。
今回の話で、とうとう二人がお互いの想いを面と向かって伝え、
キスをするところまで辿り着きました。
本来、佐々木はもっとゆっくりと関係を進めていくつもりでした。
デートを重ね、美味しいものを食べ、色々な場所へ二人で行って——
その先で、しっかりと想いを伝えるつもりだったのです。
ですが、璃子の来訪によってその計画は大きく狂ってしまいました。
佐々木にとっては不本意な形だったかもしれません。
それでも二人は、自分たちなりに前へ進みました。
璃子の存在が、これからの二人に影を落とすのか。
それとも、二人はそれを乗り越えていくのか。
次回で第一部は完結となります。
第二部では、物語の核心に少しずつ迫っていく予定です。
今後ともお付き合いいただけると嬉しいです。
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