社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。   作:ジュウヨン

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目が覚めたら、口裂け女と手を繋いでいた。

 

 

 

次の日の朝。

 

休みが明け、今日から仕事だ。

 

いつもなら——

口裂け女に起こされる時間だった。

 

だが、今日は違う。

 

彼女は、俺の隣で静かな寝息を立てていた。

 

規則正しい呼吸。

わずかに上下する胸元。

 

その様子を眺めているうちに、ふと気づく。

 

俺たちは——

ずっと手を繋いだまま、眠っていたらしい。

 

指の間に絡む感触。

 

寝返りを打っても離れなかったのか。

 

それとも——

眠っている間に、どちらかが握り直したのか。

 

朝になった今も、

しっかりと繋がっている。

 

俺の体温が移ったのか。

こいつの手も、どこか温かかった。

 

ゆっくりと上体を起こす。

 

繋いだ手をそのままに、口裂け女の顔を見る。

 

珍しく——

マスクを外したまま、眠っていた。

 

普段は絶対に外さないそれが、

今はベッドの端に無造作に置かれている。

 

無防備な寝顔。

 

長いまつ毛。

静かな寝息。

 

そして。

 

自然と、視線が落ちる。

 

唇。

 

潤った光沢。

柔らかな曲線。

 

どこか、汚れを知らないようなツヤ。

 

……昨日のことが、頭をよぎる。

 

唇の感触。

 

触れ合った瞬間の、柔らかさ。

 

それから——

こいつが、余韻に浸るように目を細めていた顔。

 

そして。

 

自分の唇を、そっとなぞっていた仕草。

……あれは、反則だろ。

 

正直、俺は別に経験がなかったわけじゃない。

 

人並みに恋愛もしてきたし、

キスぐらい、特別なことでもない。

 

……はずだ。

 

だが。

 

胸が、高鳴っていた。

 

思い出すだけで、妙に落ち着かない。

 

昨日のあの一瞬が、

頭のどこかに、ずっと残っている。

 

……いや。

 

一番は、そこじゃない。

 

こいつは——

俺の前から、いなくならなかった。

 

逃げなかった。

 

離れなかった。

 

一緒にいることを、選んでくれた。

 

それが。

 

それが、何より嬉しかった。

 

……と、純粋な想いだけだと思いたい。

 

だって、俺は性欲に振り回されるタイプじゃない。

 

多分。

 

いや、きっと。

 

そんな言い訳を頭の中で並べながら、

ぼんやりと寝顔を眺めていると——

 

まつ毛が、わずかに揺れた。

 

そして。

 

パチリ、と。

 

口裂け女が、目を覚ました。

 

「ふわぁー……」

 

大きなあくびをして、

 

「……あ、おはようございます……」

 

眠そうに、ゆっくりとまぶたを開く。

 

ぼんやりしたまま、目を擦ろうと——

そこで、ぴたりと動きが止まった。

 

自分の手が、塞がっている。

俺の手と、繋がっていた。

 

「……」

 

一瞬だけ目を見開き、

それからみるみるうちに頬が赤く染まっていく。

 

けれど。

 

手は——離さない。

 

むしろ、少しだけ指を絡め直してくる。

 

繋いだ手を、じっと見つめている。

 

まるで、確かめるみたいに。

 

そして。

 

「まるで、夢みたいです……」

 

小さく、呟く。

 

そのまま、ゆっくりと俺の手に顔を近づけると——

 

唇が、そっと触れた。

 

手の甲に口元を寄せ、

撫でるように、ゆっくりと擦り付ける。

 

優しく。

 

何度も。

 

まるで。

 

本当に自分のものになったのか、

確かめているみたいに。

 

……こんなの、アリなのか。

 

そんな光景を見せられた上に、

直接伝わる柔らかな感触まで重なって。

 

朝から——

どうにかなりそうだった。

 

「あ……ごめんなさい!」

 

俺の気まずそうな様子を見て、

口裂け女がハッと我に返る。

 

慌てて手を離そうとする。

 

だが。

 

俺は、それを拒んだ。

 

手は——離さない。

 

口裂け女もすぐにそれに気づき、

今度は、ぼんやりと俺の顔を見つめ始めた。

 

俺も、その視線に応える。

 

視線が、絡む。

 

静かな朝。

 

ゴクリ。

 

自分の息を呑む音が、妙にはっきりと聞こえた。

 

幸い、今日はいつもより早く起きてしまった。

まだ——時間がある。

 

俺は、恐る恐る口を開く。

 

「昨日のこと、だけど……」

 

「……はい」

 

口裂け女の表情が、少しだけ引き締まる。

 

神妙な面持ちで、俺の言葉を待っている。

 

「間に受けて、良い……?」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

口裂け女は、キョトンとした顔になった。

 

そして。

 

はぁ、と小さく溜息をつく。

 

「……間に受けてもらわないと、困ります」

 

恥ずかしそうに、視線を少しだけ下げて。

 

それでも、

ちらりと上目遣いでこちらを見ながら。

 

ポツリと、そう呟いた。

 

その言葉を聞いて。

 

俺はゆっくりと、

口裂け女を胸元へ抱き寄せる。

 

細い体。

 

柔らかな髪。

 

そのまま、頭を撫でた。

 

……こいつは、俺が守る。

もう、誰にも傷つけさせない。

 

胸に顔を埋めた口裂け女の息が、

マスク越しではなく、直接伝わってくる。

 

温かい吐息。

 

次第に。

 

少しずつ、

呼吸が荒くなっていく。

 

「こ、これ……」

 

小さな声。

 

それから。

 

「とっても、苦しいです……」

 

胸元から、モゴモゴと声が聞こえてくる。

 

腕の中で、手足を少しだけジタバタさせている。

 

「ちょっとだけ、我慢してて」

 

俺がそう言うと――

 

「うう……酷いです……」

 

「私が苦しいと言っているのに……」

 

恨めしそうな声。

 

流石に可哀想になってきたので、

ふっと腕の力を緩めた。

 

すると。

 

「あれ……」

 

口裂け女が顔を上げる。

 

「もうやめちゃうんですか?」

 

ニヤニヤしながら、こちらを見上げてくる。

完全に、面白がっている顔だった。

 

……その瞬間。

 

俺は、再び腕に力を込めた。

 

「う“ーー!」

 

口裂け女の悲鳴が、

寝室に小さく響いた。

 

 

……

 

鼻歌を歌いながら、上機嫌で朝食を作る口裂け女。

 

鍋がグツグツと音を立てる。

醤油を甘く煮詰める香り。

包丁がまな板を叩く、小気味いい音。

 

いつもの朝の光景だ。

 

……何を作っているかは、だいたい予想ができる。

 

俺もある程度、朝の支度を終え。

椅子に座り、その背中をぼんやりと眺めていた。

 

そして。

 

視線は、自然と玄関の方へ向く。

 

……璃子。

 

昨日の光景が、

ゆっくりと頭の中に蘇ってくる。

 

あいつが言っていたことは、

間違っていない。

 

口裂け女に対して攻撃的ではあったが、

感情だけで言っているわけではなかった。

 

ちゃんと考えた上で、

結論を出しているようだった。

 

特に——

 

『構造上、上手くいくはずがない。』

 

……その言葉だけが、

妙に現実味を帯びていた。

 

俺に、

現実を突きつけてきた。

 

……だけど。

 

そんなことは。

 

こいつを意識し始めた頃から、

とっくに気づいていた。

 

好きになればなるほど。

 

愛着を持てば持つほど。

 

現実は、

重くのしかかってくる。

 

感情を持つのは危険だ。

 

そうやって、

自分に何度も言い聞かせてきた。

 

でも——

 

無理だった。

 

このザマだ。

 

図らずとも。

 

璃子がいなくなった後の俺を、

献身的に支えてくれたのは口裂け女だった。

 

あんな風に寄り添われて、

心を許さない方が無理だろう。

 

こいつの優しさに、

俺はあっさり落ちた。

 

……いや。

 

優しいだけじゃない。

 

口裂け女らしく、

定期的に「私、綺麗ですよね?」と聞いてくる

承認欲求マシマシの謎の傲慢さもある。

 

かと思えば。

 

自分は妖怪だからと、

急に一歩引いたような顔をする。

 

人間らしくて。

人間らしくなくて。

 

……そんな、誰よりも愛おしいこいつを。

 

好きになるなと言う方が、

無理な話だった。

 

あと……。

そもそも、顔が可愛いし。

 

正直。

 

こいつの肉じゃがを食べたあたりから、

もう好きになっていた気がする。

 

最初も最初だ。

 

……我ながら。

惚れっぽすぎて、みっともない。

 

こんなこと。

 

口が裂けても、

こいつには言えない。

 

絶対に。

 

言ったら——

調子に乗るに決まってる。

 

色々考えていると。

 

口裂け女が、料理を食卓に運んできた。

 

「美味しい料理ができましたよ〜」

 

自信満々な顔で、鍋をドンと置く。

 

その中身に目を向ける。

 

……匂いでわかってたけど。

 

やっぱり、肉じゃがだった。

 

それも——朝から。

 

「やっぱり肉じゃがは、

 朝から食べないといけないですからね!!」

 

何故か誇らしげにそう言うと、

お茶碗を取りにキッチンの方へ小走りで向かっていく。

 

……そこで。

 

ふと、疑問に思う。

 

あいつは、

なんであんなに可愛いんだ。

 

璃子と付き合っていた時だって、

ドキドキさせられることはあった。

 

昨日はあんな様子だったけど、

璃子は美人だし、普段はあんな感じじゃない。

 

男だって、ウヨウヨ寄ってくるはずだ。

 

……そのはずなのに。

 

口裂け女の言動には、

比べものにならないくらい心を揺さぶられる。

 

心臓の鼓動が、うるさい。

 

ドクドクと。

 

痛いくらいに。

 

……きっと。

 

何かしらの呪いの類だ。

 

妖怪なんだから、

それくらい出来てもおかしくない。

 

少なくとも——

今は、そう言い訳しておかないと。

 

俺の心が、保たなかった。

 

 

……

 

二人で手を合わせる。

 

「いただきまーす!!」

 

元気よくそう言うと、

口裂け女はすぐに箸を伸ばした。

 

湯気の立つ肉じゃがを掴み、

ふーふーと軽く息を吹きかけてから——

 

大きく口を開けて、勢いよくかじりつく。

 

「ん〜〜〜!」

 

嬉しそうな声が漏れる。

 

昨日、夜ご飯を食べていなかったからだろう。

相当お腹が減っていたらしい。

 

次々と箸が伸び、

鍋の中身がみるみる減っていく。

 

……いつも通りの光景だ。

 

だが、今日は一つだけ。

 

珍しいものがあった。

 

口裂け女が——

マスクをつけずに食事をしている。

 

口元が、そのまま見えている。

 

肉じゃがを頬張るたびに、

頬が少し膨らんで。

 

もぐもぐと、

幸せそうに咀嚼している。

 

そんな当たり前の姿に。

 

なぜだか、胸が少し高鳴った。

 

つい、じっと見てしまう。

 

すると。

 

肉じゃがを咀嚼しながら、

口裂け女がこちらを見た。

 

目が合う。

 

「食事中に見てくるのはやめてください!!」

 

「へ?」

 

「マナー違反です!!」

 

食べカスを飛ばしながら、

頬を膨らませて抗議してくる。

 

「そんなマナーあったっけ?」

 

キョトンとしていると、

 

「黙って早く食べろ!!」

 

「この後仕事だろ!!」

 

大きな声で、

現実を突きつけられた。

 

……なんて嫌な奴だ。

 

「……チッ、いただきます」

 

そう言って箸を取ると。

 

ビシッ。

 

口裂け女の人差し指が、こちらに向けられた。

 

「今、舌打ちしたな!!」

 

「舌打ちはやめなさい!!」

 

「行儀悪いですよ!!」

 

物凄い勢いで、畳み掛けてくる。

 

そのあまりの勢いに。

思わず、笑ってしまった。

 

それを見て。

 

口裂け女も、ふふっと小さく笑う。

 

……ああ。

 

こんな時間が。

こんな朝が。

 

ずっと続いてくれたらいいのに。

そう、思ってしまう。

 

だが。

 

頭の奥では、まだ。

璃子の言葉が残っていた。

 

『君たちは……』

 

『この先、絶対に上手くいかない』

 

……この先、どうなるかなんて。

俺にはわからない。

 

未来のことなんて、

誰にもわからない。

 

だけど。

 

それでも。

 

今。

 

こうして笑っているこいつと、

同じ朝を過ごしている。

 

それが、嘘じゃないなら。

それで、十分だ。

 

“今”こいつといたいと思う。

 

それが——

俺の答えだ。

 

それ以上、考えるのはやめた。

 

……未来なんて知るか。

 

それでも俺は——

こいつを、選ぶ。

 

俺も肉じゃがに箸を入れ、口に運ぶ。

 

ほくほくとした芋。

甘じょっぱい出汁。

 

ゆっくり咀嚼する。

 

そこで、ふと。

 

あることに気づいた。

 

「あれ……」

 

思わず声が漏れる。

 

「レシピ、前のに戻したんだね」

 

口裂け女の顔が、ぱっと明るくなる。

 

「あ、気づきました!?」

 

身を乗り出してくる。

 

「あなたも意外とやるじゃないですか!!」

 

にんまりと嬉しそうに笑う。

 

そして、そのまま楽しそうに語り出した。

 

「ネットのレシピのも美味しかったんですけどね!」

 

「でも、自分の覚えてたレシピの方が、

 なんかしっくりくるんですよね〜」

 

そう言って、また肉じゃがを口に運ぶ。

 

頬を緩めながら、

幸せそうに頬張っている。

 

その姿を見ながら。

 

ふと、気になることが浮かんだ。

 

「そういえばさ、」

 

「はい?」

 

「肉じゃがのレシピって……なんで元々知ってたの?」

 

その瞬間。

 

口裂け女の箸が、ぴたりと止まった。

 

「……」

 

無言。

 

だが、ゆっくりと口を開き。

 

「……実は、私も思ってました」

 

小さく呟く。

 

「妖怪になってから、

 一度も聞いたことも作ったこともないのに……」

 

「なんで作れるんだろう……って」

 

言葉と一緒に、

彼女の表情が少しずつ曇っていく。

 

……しまった。

 

地雷を踏んだ。

 

「あ……いや、ごめん」

 

「詮索する気はないよ」

 

慌てて言うと、

口裂け女はゆっくり首を横に振った。

 

「いえ……」

 

「実は、私も気になってたんです」

 

少し視線を落とす。

 

「でも……このレシピだけは」

 

「なぜかわからないんですけど、

 頭の中に焼きついてるんです……」

 

一拍。

 

静かな朝の空気が流れる。

 

「えへへ……変ですよね」

 

少し照れ臭そうに、頭をかいた。

 

「いや、変じゃないよ」

 

「へ?」

 

「きっと……前に何かあったんじゃないかな」

 

「……」

 

口裂け女が、ふっと視線を落とす。

 

そして。

じっと、肉じゃがを見つめた。

 

まるで。

 

そこに何か、

思い出の欠片でも落ちているみたいに。

 

何かを思い出そうとしているようだった。

 

だけど。

 

「うーん……ダメですね!!」

 

突然、顔を上げる。

 

「何も思い出せません!!」

 

にっこりと笑った。

 

不思議と、

無理しているようには見えない。

 

本当に、気にしていないみたいだった。

 

「例え、なんだろうと」

 

「あなたに食べてもらえるだけで、

 私は幸せですから」

 

そう言って。

ふふっと、優しく笑う。

 

……こいつは。

 

本当に、いつもそうだ。

 

何でもない顔で、

こういうことを言う。

 

「……そういうこと言ってくるから」

 

一拍。

 

「俺は、お前を好きになっちゃったんだよ……」

 

ボソッと呟く。

なるべく小さな声で。

 

だけど。

 

どうやら、しっかり聞こえたらしい。

 

口裂け女の顔が——

一瞬で、真っ赤になった。

 

そして。

 

そのまま。

 

二人とも、何も言わずに朝食を食べた。

 

箸の音だけが、静かに響く。

 

恥ずかしくて、

目を合わせられない。

 

彼女の視線も、感じない。

 

どうやら——

状況は同じらしい。

 

 

……

 

「じゃあ、行ってくるから」

 

玄関で靴を履き、

バッグを手に取る。

 

ドアノブに手を掛けようとしたところで。

 

「今日は……早く帰ってきますか?」

 

口裂け女が、

少し不安そうな顔でこちらを見ていた。

 

その声に振り返る。

 

「極力、早く帰ってくるよ」

 

そう答えると。

 

「よかったです……」

 

口裂け女は、

ほっとしたように胸を撫で下ろした。

 

今まで何度もしてきたやりとりのはずなのに。

不思議と、毎回少しだけ胸が高鳴る。

 

すると。

 

口裂け女が、

ハッとした顔をしてこちらに近づいてきた。

 

「あなた、ネクタイ緩んでますよ!」

 

そう言うと、俺の胸元に手を伸ばす。

 

ネクタイを指でつまみ、

ぐいっと引き寄せる。

 

顔が近い。

 

甘い匂いが、

ふわっと漂った。

 

そして。

 

ギュッ。

 

……思い切り締められた。

 

「うっ……苦しい……」

 

思わず声が漏れる。

 

すると。

 

「ふふ、朝の仕返しですよ!!」

 

口裂け女が、意地悪そうに笑った。

 

楽しそうに目を細めている。

 

「そういえば、

 ネクタイずっと同じのしてますね!!」

 

「少し傷んでます!」

 

言われてみれば。

 

……確かに、全然気にしてなかった。

 

ちらっとネクタイを見る。

 

よく見ると、端の方が少し擦り切れていた。

 

飲み会で上司にネクタイを無理やり引き抜かれ、

頭に巻かれた苦い記憶が頭をよぎる。

 

「確かに……そろそろ新しいの買おっかな」

 

そう呟くと。

 

「じゃあ、私が選んであげますよ!!」

 

口裂け女が、自信満々に言った。

 

胸を張っている。

 

……正直。

こいつのセンスを、完全には信じきれない。

 

「うーん……

 まあスーツとの兼ね合いもあるから、自分で選ぶよ」

 

そう言った瞬間。

 

口裂け女の表情が、みるみる曇った。

 

そして。

 

むくれる。

 

「最低です!!」

 

「とっても綺麗なこの私が!!」

 

「せっかくあなたのために選んであげるって言ってるのに!!」

 

プンスカと、

少し怒っているようだった。

 

物凄い勢いで畳み掛けられた。

 

「わ、わかったよ……」

 

慌てて言い直す。

 

「じゃあ……無難なのでよろしくね」

 

そう言った途端。

 

彼女の顔が、ぱあっと明るくなった。

 

「ふふ、任せてください!!」

 

ドン、と胸を張る。

 

その瞬間。

 

服越しでもわかる、

そこそこ大きい胸が強調されてしまい。

 

思わず視線が泳ぐ。

 

……目のやり場に困る。

 

だが。

そうもしてられない。

 

「もうそろそろ時間だから行かなきゃ……」

 

なかなかギリギリになってしまっていた。

 

俺はそう言って、

再びドアノブに手を掛ける。

 

その瞬間。

 

「ちょ、ちょっと待ってください……」

 

また、引き止められた。

 

振り返る。

 

こっちは急いでいるというのに……。

 

「ま、まだネクタイが曲がってますよ……」

 

口裂け女が、

少しもじもじしながら近づいてくる。

 

さっき直してくれたばかりなのに。

 

そう思いながらも、

黙って立っていると。

 

彼女がぐっと顔を寄せてきた。

 

距離が、近い。

 

ネクタイに手を添えながら——

 

ゆっくりと。

自分のマスクを、少しだけずらす。

 

……。

 

時間が、止まったみたいだった。

 

彼女の顔が、すぐ目の前にある。

 

心臓の音が、うるさい。

 

そして。

 

そっと。

 

唇が、触れた。

 

ほんの一瞬。

 

触れるだけの、短いキス。

 

すぐに離れる。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙。

 

口裂け女は、真っ赤になった顔のまま。

慌てて自分の唇を手で覆った。

 

「こ、これは……」

 

「昨日の……お返しです」

 

声が小さい。

 

そして。

 

視線を泳がせながら。

 

「ぜ、絶対……」

 

上目遣いで俺の方を見てくる。

 

「早く、帰ってきてくださいね?」

 

その言葉を聞いた瞬間。

俺の思考は、完全に停止した。

 

……強烈な一撃だった。

 

「わかりました!!」

 

「全力で帰ってきます!!」

 

思わず、勢いよく答えてしまう。

 

自分の声が、耳に響く。

 

そのまま元気よく玄関を出ようとするが。

足取りが、妙にぎこちない。

 

頭がまだ追いついていない。

 

ギクシャクした歩き方のまま、

震えた手をドアノブに掛け、外へ出る。

 

そして。

 

振り返らずに言う。

 

「……い、いってきます……」

 

背後から。

 

少し震えた声が返ってくる。

 

「い、いってらっしゃいです……」

 

……自分からやっておいて。

 

口裂け女の声も、少し震えていた。

 

背中に、視線を感じる。

 

きっと。

まだ玄関に立っているんだろう。

 

それでも。

今日も、振り向かない。

 

家に帰った時の楽しみを——

 

なるべく、残しておこう。

 

……早く、帰りたいな。

 

 

 

通りがかりの人に、ギョッとした目で見られる。

 

……なぜ?

 

数歩進んでから、ようやく気づいた。

 

自分が——

ルンルン気分でスキップしていることに。

 

……。

 

……いや。

 

そりゃ見られるか。

 

一瞬、足を止める。

 

革靴の先が、アスファルトを軽く蹴る。

コツ、コツ、と弾むような音。

 

いつもなら重たいはずの通勤路が、

今日は妙に軽い。

 

一瞬、足を止める。

 

周囲の視線が、

じんわりと背中に突き刺さる。

 

学生。

主婦。

犬を散歩させているおっさん。

 

みんな、ほんの一瞬だけ

「なんだこいつ」という顔をして通り過ぎていく。

 

だが。

構うもんか。

 

胸の奥が、まだふわふわしている。

 

玄関での出来事が、

頭の中で何度も再生される。

 

あいつの顔。

 

真っ赤になっていた頬。

 

少し震えていた声。

 

……思い出しただけで、顔が熱くなる。

 

俺は、俺だ。

 

もう迷わない。

 

そう思いながらも、コホンと咳払いをして

なるべく自然に歩くよう心がける。

 

だって――

社会人とは、そういうものだから。

 

決して、恥ずかしいからじゃない。

そこは、わかってほしい。

 

……本当に。

 

なのに。

 

なぜか背中にじわっと冷や汗が浮かぶ。

 

俺はポケットに手を突っ込み、

ハンカチを取り出した。

 

軽く額を拭う。

 

朝の空気が、少しだけ冷たい。

 

この前、あいつと一緒に買ったハンカチ。

お揃いの。

 

布の端を指でつまむ。

やわらかい感触。

 

朝の光の中で、

キャラクターの絵がふわりと揺れる。。

 

この前、あいつと一緒に買ったハンカチ。

 

お揃いの。

 

朝の光の中で、

キャラクターの絵がふわりと揺れる。

 

しばらく、それをぼんやり見つめる。

 

人生で——

 

ハンカチが、

こんなにも愛おしく感じる日が来るなんて。

 

思ってもみなかった。

 

たとえ、ただの布切れでも。

 

あいつとの繋がりがあるだけで。

こんなにも、心が満たされる。

 

胸の奥が、じんわりと温かい。

 

名前なんて、なくていい。

 

あいつ自身にも。

俺たちの関係にも。

 

恋人とか。

 

夫婦とか。

 

そんな言葉で括らなくてもいい。

 

そんなものが無くたって。

俺たちは、ちゃんと繋がっている。

 

……こんなに気持ちのいい朝は。

 

生まれてから、初めてだ。

 

……。

 

それからも。

 

通りがかりの人間に、

いちいちギョッとした顔をされ続けた。

 

俺は、

それに最後まで慣れることができなかった。

 

それでも——

 

今日という日が、

たまらなく幸せだった。

 

 

 

 

 

『社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった』

 

 

 

 

 

⸻第一部、完⸻

 

 

 

 

 







ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
ジュウヨンです。

これにて、第一部が完結となります。
なんとかここまで走ってくることができました。

これまで、心理描写の掘り下げにかなり気を遣いました。
水谷さんの真っ直ぐさや、璃子の人間味を失わないようにすること。
そして彼女たちが、ただの物語の都合で動く存在にならないようにすること。

その部分には、かなり悩みながら書いていました。

そして何より——
口裂け女を、どれだけ可愛く描けるか。

そこにはとても気を遣いました。

そのおかげか、今では口裂け女のイメージが頭の中にしっかり定着していて、
会話も自然と浮かんでくるようになっています。

ただ、その分シリアスシーンを書くのはなかなか大変でした。
口裂け女がすぐに家を出ていこうとしてしまうので、
佐々木を使ってあらゆる方向から引き止めるのに必死でした(笑)

そんな経緯もあり、この作品についてはアクセス数こそ多くはないものの、
個人的にはそこそこ自信を持って投稿しています。

できる限り最後まで走り抜けられるよう頑張りますので、
これからも見守っていただけると嬉しいです。

今後は、口裂け女の過去や、彼女を取り巻く状況も少しずつ動いていきます。

物語もここから、また違った形で広がっていく予定ですので、
楽しんでいただけたら幸いです。

もしよろしければ、感想や評価、お気に入り登録などをいただけると、
とても励みになります。

それでは、引き続きよろしくお願いいたします。

ここまでで一番好きなキャラは誰ですか?(よければ理由もコメントで教えてもらえると嬉しいです!)

  • 口裂け女
  • 水谷 雪(佐々木の会社の同僚)
  • 稲葉 璃子(佐々木の元カノ)
  • 佐々木 雄一(主人公)
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