社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
花粉症で死にかけてたら、口裂け女が猫を拾ってきた。
今日、俺は珍しく仕事を休んでいた。
上司に電話で休むことを伝えると、
「もうそんな時期かー」と、少し呆れたように笑われた。
……毎年こうだ。
花粉の時期は、決まってこうなる。
朝から頭は重いし、喉はイガイガするし、
何より鼻が完全に終わっている。
「だ、大丈夫ですか……」
口裂け女の声が、
どこか遠くから聞こえてくる。
すぐ近くにいるはずなのに、
やけにぼやけて聞こえる。
頭がうまく回らない。
「うう……しんどい……」
「鼻水止まんない……」
枕元に置いてあったティッシュに手を伸ばす。
指先が箱に触れて、中身を引き出そうとして——止まる。
軽い。
嫌な予感がした。
……最悪だ。
ティッシュが、切れた。
「多分、これで最後だ……」
かろうじて残っていた一枚を引き抜きながら呟くと、
口裂け女が少しだけ神妙な顔になる。
だが、すぐにぱっと表情を明るくした。
「私、新しいティッシュ買ってきます!」
「……え、大丈夫?」
思わず聞き返す。
普段、口裂け女に
一人で買い物に行ってもらうことはなかった。
一緒に行くか、
俺が一人で行くかのどちらかだ。
信頼していないわけじゃない。
ただ——
もし何かあったらと思うと、怖かった。
「大丈夫ですよ!!」
「任せてください!!」
胸を張って言い切るその姿は、
妙に頼もしくて。
……だけど、やっぱり少し不安で。
でも——
背に腹はかえられない。
「ありがとう……」
「じゃあ、お願いね……」
震える手で財布ごと渡すと、
口裂け女は嬉しそうに受け取った。
がま口のポシェットを軽やかに肩にかける仕草が、
どこか様になっている。
「じゃあ、いってきますね!」
「うん、いってらっしゃい……」
バタン、と扉が閉まる音。
部屋に、急に静けさが戻る。
あいつを見送るのは、
何気に初めてだ。
……気づけば、
あいつがいる光景が、
当たり前みたいに自分の中に溶け込んでいた。
少し前までは、
そんなこと考えもしなかったのに。
ぼんやりと天井を見上げる。
鼻をすすりながら、
小さく息を吐いた。
……何も起きなきゃ良いけど。
◇◆
近所の薬局。
あの人と何度か一緒に来たことはあったけど、
一人で来るのは初めてだった。
自動ドアが開く音に、
少しだけ肩が揺れる。
(なんか緊張する……)
店内の明るい照明と、整然と並んだ商品。
人の気配。会話のざわめき。
全部が、少しだけ遠くて。
少しだけ怖い。
妖怪として意識を持ってからは、
“本当の意味で”初めての買い物だった。
あの人から、
買い物を任せてもらえたこと。
それが、すごく嬉しかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
人間じゃない自分が、
まるで、一人の人間として社会の中に立っているような——
そんな、不思議な感覚だった。
まあ、あの人は私のことを人間だと思ってくれてそうだけど……。
言ったら、「買い物ぐらいで大げさだな」って、
からかわれるかもしれない。
……こればかりは、わかってもらえないだろうな。
小さく息を吐く。
……。
店内をぐるりと見て回る。
紙製品の棚。
日用品コーナー。
それっぽい場所を一通り探してみたけど——
ティッシュが、見当たらない。
……何故ないんだろう。
少しだけ焦りが滲む。
視線が泳ぐ。
どうしよう、と立ち尽くしてから——
近くにいた店員に、恐る恐る声をかけた。
「あのー、すみません……」
「はい。どうしましたか?」
振り向いたのは、男性の店員だった。
一瞬だけ、息が詰まる。
あの人以外の男性と話すことに慣れていないから、
無意識に視線が逸れる。
「……ティッシュを、探してるんですけど……」
声が少し小さくなる。
店員が、少し驚いたように「あっ」と声を漏らす。
「あー、今うち売り切れちゃってるんですよね……」
「そ、そうなんですか……」
思わず肩が落ちる。
「ちょっと行ったとこのスーパーの方にはあるかもしれませんね」
「わ、わざわざ教えていただきありがとうございます!」
「いえ、お力になれれば幸いです」
店員の視線が、
やけに自分の顔に向いている気がして。
居心地が悪くて、胸の奥がそわそわする。
……何故か、店員の顔が赤くなっていた。
「じゃ、じゃあそっちに行きますので……」
軽く頭を下げて、逃げるように薬局を出た。
自動ドアが閉まる音と同時に、
張り詰めていた空気がふっと緩む。
……男の人は、苦手だ。
理由はよくわからない。
でも——なんとなくだけど、
人間だった頃から、きっと苦手だった気がする。
……なんで、あの人には苦手意識を抱かなかったんだろう。
ふと浮かんだ疑問に、
自分でも少し首を傾げる。
謎だな。
それにしても——
時間、かかり過ぎてる。
少し焦りが戻ってくる。
早く買って帰らなきゃ。
あの人、すごく辛そうだったし……。
そういえば。
近所のスーパーと言えば、
私が前に暮らしていた路地裏の近くだ……。
……ちょっと嫌だな。
足がほんの少しだけ重くなる。
あの場所には、
あまり思い出したくない記憶が残っている。
唯一の良い思い出と言えば——あの子。
あの子が……
もし、まだ同じ場所にいてくれたら。
小さな期待が、胸の奥に浮かぶ。
でもすぐに首を振る。
とにかく、早く向かわなきゃ。
私は足を速めた。
……
スーパーには、
普通にティッシュが置いてあった。
拍子抜けするくらい、あっさりと見つかる。
「……あった」
小さく呟いて、
それを手に取る。
さっきまでの不安が嘘みたいに、
胸の中が軽くなる。
レジを済ませて外に出た頃には——
ものすごく嬉しくなっていた。
……なかったら、
本当にどうしようかと思っていた。
その反動だ。
「ふふーん、余裕ですね〜♪」
自然と足取りが軽くなる。
少しだけ、弾むような歩き方になっているのが
自分でもわかる。
(こんなことなら、もっと早く買い物行って良かったかも♪)
あの人の負担も減らせるし。
そう思うと、
胸の奥がほんのりと温かくなる。
そんなことを考えながら歩いていると。
ふと——
見覚えのある景色が目に入った。
以前、自分が住んでいた路地裏。
足が、
ほんの少しだけ止まる。
そこで、苦い記憶が蘇る。
……
『化け物』
『近寄るな』
……
『あっちいけ』
『こないで』
……
そして。
この前、
あの怖い女の人が言ってた言葉。
『どう見ても普通じゃない』
『構造上うまくいくわけがない』
……
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられる。
思わず視線を逸らした。
……ダメだ。
勘違いするとこだった。
さっきまでの軽い気分が、
すっと引いていく。
自分が、あたかも人間かのように
錯覚するところだった。
……あの人と、
一緒に住むようになったからだ。
あの人といる時間が、あまりにも自然で。
あまりにも優しくて。
幸せで。
つい——
自分が妖怪だということを、
忘れてしまいそうになってしまった。
でも。
あの人の言葉が、
頭の中に浮かぶ。
『俺は、お前のことを妖怪だと思っていない』
直接言われた。
それだけじゃない。
日頃の態度や、
何気ない言葉の端々からも——
それが本心だって、ちゃんとわかる。
……あれは、きっと嘘じゃない。
別に、人間扱いして欲しかったわけじゃなかった。
最初は、ただ。
怖がられなければ、
それでよかったのに。
だけど——
一緒にいればいるほど、
心のどこかで、それ以上を望んでしまう自分がいた。
同じように笑って、同じ場所にいて、
同じ“人間”として扱われることを。
それは、叶わないことだと思っていた。
ずっと——
そう思っていたのに。
でも、あの人は。
そんな壁を、
当たり前みたいに越えてきた。
……あの人と、“今”一緒にいられたら。
それだけで、
私はもう——何もいらないのに。
ふと、思考が先に進みかける。
もし、
この先の未来も——
……。
……いや。
小さく首を振る。
考えるのは、やめよう。
今だけで、十分だから。
……
気づけば、
自分がよく寝ていた場所の近くまで来ていた。
ふと、足が止まる。
ほんの少し前のことなのに。
どうしてか、
ひどく懐かしく感じた。
(あの子、まだいるかなぁ……)
ぼんやりと、
その場所を眺める。
静かな路地裏。
少しだけ風が通り抜けて、
空気が揺れる。
その時。
足元で——
見覚えのある黒い影が、
もぞもぞと動いた。
「……え?」
視線を落とす。
小さな影が、
こちらに擦り寄ってくる。
足首に触れる、柔らかな感触。
この、くすぐったいような毛並みの感覚。
……絶対に、忘れるはずがない。
「にゃん吉じゃないですか!!」
思わず声が弾む。
しゃがみ込んで、その姿を確かめる。
「いてくれたんですね!!」
胸の奥に、
何かが一気に込み上げてくる。
私の唯一の心残りで、
私の孤独を埋めてくれた子。
黒猫のにゃん吉だった。
……
「にゃん吉〜久しぶりですね〜」
声が自然と弾む。
しゃがみ込んで、
その小さな体を抱き寄せる。
「相変わらず
全身真っ黒でとってもプリティーです!」
ぐしゃぐしゃに撫で回す。
指の間をすり抜ける、柔らかい毛並み。
懐かしい感触に、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「んふふ……」
「可愛すぎます……」
思わず頬が緩む。
にゃん吉も、
気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
ゴロゴロ、と。
あの頃と変わらない音。
寒い夜、ぴったりと寄り添ってきたり。
何もない路地裏で、ただ一緒に時間を過ごしたり。
……よく、私の寝床を奪ってくることもあったけど。
それでも——
にゃん吉がいたから、
私はなんとか心が折れずに済んだ。
……二年ほど、一緒に過ごした。
勝手に。
本当に、勝手にだけど。
“戦友”だと思っていた。
だが。
そんな、にゃん吉だったが——
「……あれ?」
違和感。
抱き上げた時、
下の方がほんの少し重い気がした。
視線を落とす。
「え……」
お腹が、膨らんでいる。
「にゃん吉——妊娠してるんですか?」
思わず、声が漏れる。
にゃん吉がゴロンとひっくり返る。
その拍子に、
はっきりとわかってしまった。
丸く膨らんだお腹。
命を宿している形。
「……ということは」
目を細める。
「あなた、
“にゃん吉”って名前なのに……」
一拍置いて。
「女の子だったんですね……」
ぽつりと呟く。
……勿論、私が付けた名前だ。
少しだけ、
自分のネーミングセンスに疑問を抱いてしまう。
でも。
そんなことよりも——
違和感は、それだけじゃなかった。
じっと、にゃん吉の体を観察する。
……痩せている。
以前一緒にいた時よりも、
明らかに細い。
骨ばった感触が、指に伝わる。
毛並みも
少し荒れている気がする。
栄養状態が、良くない。
そして——
「脚……怪我してますね」
後ろ脚。
さっきは気づかなかったけど、
引きずるように動いている。
赤黒く変色していて、
痛々しい。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(何か、できることはないかな……)
にゃん吉を、助けたい。
ただ、それだけなのに。
頭の中で必死に考える。
でも——
何も、浮かんでこない。
あの人に言えば、
ご飯を持ってくることはできるかもしれない。
でも、
それだけじゃ。
この怪我は、治らない。
私がいない間に——
もし、
他の動物に襲われたら。
もし、
車に轢かれたら。
そしたら、
にゃん吉もお腹の中の赤ちゃんたちも——
……。
視線を落とす。
アスファルトの上で、
にゃん吉はゴロゴロと転がっていた。
まるで、何も心配していないみたいに。
こんな状況なのに。
なんだか、楽しそうに見える。
その姿が、余計に胸を締め付けた。
私は——
自分が妖怪であることを、呪った。
もし、普通の人間だったら。
迷わず、
にゃん吉を家に連れて帰るのに。
病院に連れて行って。
ちゃんとした場所で、
守ってあげられるのに。
だけど、私は。
何も——できない。
人に生かしてもらっている身でありながら。
他の生き物を救いたいなんて——
あまりにも、烏滸がましい。
そう思ってしまう。
……でも。
それでも。
にゃん吉を、
見捨てたくない。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
無力な自分が、憎い。
どうしようもなく、情けない。
視界が滲む。
目元が、じわりと熱くなる。
声が、うまく出せない。
「……ごめんね、にゃん吉」
震える声で、呟く。
私には——
何もできないかもしれない。
でも。
それでも——
絶対に。
私が、なんとかするから——
……。
その時。
コツ……コツ……と。
足音と共に、
背後から、弱々しい声が聞こえた。
「——こ、こんなところにいたんだ」
唐突に。
でも、その声を聞き間違えるはずがない。
私の、一番大事な人。
「さ、探したよ……」
振り向く。
そこに立っていたのは——
明らかに顔色の悪い、
あの人だった。
呼吸も少し荒くて。
姿勢も、どこか崩れている。
無理をしてここまで来たのが、
一目でわかる。
その姿を見た瞬間。
ギュッと、胸が締め付けられた。
◆◇
縋るように、ほとんど倒れ込むみたいにして、
彼女を抱きしめる。
腕に伝わる冷たい体温が、
やけに安心する。
固まる口裂け女。
「……へ?どうしました?」
「遅いから、何かあったのかと思って……」
息が上がって、
自分でも情けない声が出る。
「もう、心配性ですね……」
少し呆れたように、
それでもどこか嬉しそうに笑う。
顔を少し離した、その瞬間。
口裂け女の肩に、俺の鼻水がかかり——
糸みたいに、ビヨーンと伸びた。
「あ……ごめん」
一瞬、言葉が詰まる。
「ふふっ、仕方ないんですから」
くすっと、
柔らかく笑う。
嫌がる素振りは、一切ない。
……ああ、やっぱり。
こういうところだよな、こいつは。
こんな状況でも受け入れてくるあたり、
ほんと、変なやつだ。
でも——
それがいい。
俺がこいつを選んだ判断は、
間違ってなかった。
今さら確認することでもないのに、
妙に実感してしまう。
少しの沈黙。
「遅くなってごめんなさい——」
その時。
視界の端に、
違和感が引っかかった。
彼女の足元。
黒い毛の塊。
「あれ、その猫どうしたの?」
「あ……この子は……」
口裂け女が、視線を落とす。
言葉を探しているようで、
何も言わない。
しゃがんで、黒猫を観察する。
大きく膨らんだ腹。
不自然な足取り。
骨ばった体。
……そして何より。
明らかに、
こいつに懐いている。
まるで、
ずっと一緒にいたみたいに。
——そういえば。
出会った頃に、
路地裏で猫がどうとか言ってた気がする。
「……」
口裂け女は、何も言わない。
助けてほしいとも、
飼いたいとも。
ただ、俯いたまま。
……ほんと、
こういうとこだよな。
遠慮しすぎる。
……もっと、俺を頼ってほしいのに。
……。
「その猫、うちで飼う?」
「……へ?」
顔を上げる。
一瞬、思考が止まったみたいな顔。
「うち、ペット大丈夫なアパートだし」
驚きが、
そのまま表情に出る。
よく見ると。
目元が、少し赤い。
「それに——」
一拍、間を置く。
「その子ほっといたら……」
「きっと、危ないと思うし」
足元を見ると、
猫は当然みたいに彼女に擦り寄っていた。
……これを見て、
見捨てるのは無理だ。
「まずは病院に連れて行ってあげた方が良いよ」
「い……いいんですか?」
「……ちゃんと、
一生面倒見てあげてね?」
その言葉で。
彼女の表情が、すっと曇る。
迷い。
躊躇い。
自分にその資格があるのか、
考えてる顔だ。
……やらかした。
余計な条件を
つけてしまった。
「まあ……とにかく連れて帰ろう」
「そこから考えれば良いよ」
頭に手を置く。
撫でると——
……震えてる。
さっきの一言で、プレッシャーかけたか。
少しだけ、罪悪感が刺さる。
「お前は何も気にしなくて良い」
「俺が会社行ってる間、
お前が家で一人じゃなくなるわけだから」
「飼いたい」
自分で言葉を重ねる。
「うん、絶対飼おう」
「俺が今決めた」
「だから、早く帰ろう」
口裂け女の顔が、
少しずつ持ち上がる。
「ほ、本当に……いいんですか?」
「……はぁ、良いに決まってるでしょ」
思わず、溜息が出る。
しゃがんで、
猫の頭を軽く撫でる。
指先に伝わる、
少し荒れた毛並み。
「もし……お前がいなかったとしても、
この状況なら飼うことを選んでるよ」
「……流石に、見捨てたくない」
その瞬間。
ぱっと、
花が咲いたみたいに表情が明るくなる。
でも——
目には、涙が溜まっていた。
「あ、ありがとうございます!!」
一拍。
「……本当によかったです!!」
声が弾む。
次の瞬間には、
堪えきれずに涙が零れていた。
それでも。
ぐしゃぐしゃの顔のまま、
最高に嬉しそうに笑う。
「じゃあ——早く帰りましょう!!」
勢いよく、
猫を抱き上げる。
猫も、まるで当然みたいに
大人しくしている。
そのまま、
走り出そうとする。
だが——
「ちょ……ちょっと待ってぇ……」
ただでさえグロッキーだった俺の足は、
完全に限界を迎えていた。
力が入らない。
ガクガクしてる。
まるで、ダウン寸前のボクサーのように。
そんな俺を見て、
口裂け女がぱっと近づいてくる。
「あなた、そんな状態で出てきたんですね!」
「……本当に、心配だったんだよ……」
小さく呟く。
その言葉に、
彼女は一瞬だけ固まって——
「ど、どれだけ私のこと好きなんですか……」
顔を真っ赤にして、俯いた。
……いや、じゃあ言うなよ。
なんで自分で言って照れてんだ。
でも、このままじゃコイツに負けてしまう。
……負けたくない。
「……好きで、悪い?」
「……ううん、」
小さく首を振って。
上目遣いでこっちを見てくる。
「悪くないです……」
——完敗だ。
反則だろ、それ。
一気に力が抜ける。
膝が笑う。
「危ないです!」
慌てて、肩を支えられる。
「もう、あなたは本当に仕方ないですね!」
「私が支えてあげましょう!!」
力強く、言ってくる。
「俺、重たいよ?」
不安そうに言うと。
ふふん、と口裂け女が鼻を鳴らす。
「大丈夫です!」
「私、妖怪ですから!力持ちなんです!!」
胸を張って言い切る。
……その割には、
さっきから腕が微妙に震えてる気がする。
「そう?よかった……」
「じゃあ、このままお願いね……」
深く考える余裕もなく、体を預ける。
口裂け女は俺の肩をしっかりと支えながら、
ゆっくりと歩き出した。
「……」
「……」
足を一歩出すたびに、地面が遠く感じる。
頭がぼーっとする。
鼻は詰まってるし、
息も上手く吸えない。
……普通に地獄だ。
なのに。
数歩進んだところで——
「あ、あなた……」
妙に弱々しい声。
「け、結構重たいですね……」
口裂け女の腕が、
プルプルと震え始める。
今までの勢いはどこ行った。
「だ、だから言ったじゃん……」
「ちょ……ちょっとあそこのベンチで
休憩しても良いですか……?」
息を切らしながら、
必死に指を差す。
ベンチがあったのか。
……助かった。
視界が霞んでて全然気づかなかった。
口裂け女が、
指した方向を見る。
目を細めて、じっくりと。
そして、
すぐに絶望する。
……ふ、ふざけてる。
「お、思いっきり木の下にあるじゃん……!」
視界いっぱいに広がる、
花粉の発生源。
あれはもう、そういう“罠”だ。
「えへへ……」
「ちょっと……
疲れちゃいまして……」
肩で息をしながら、照れ臭そうに言う。
いや、それはそうだろうけど。
「花粉めっちゃ落ちてくるやつだろ……!!」
「まあ、それはそれとして、
ちょうど良いとこにベンチがあって助かりました!!」
ポジティブが過ぎる。
状況見えてないのか。
俺の言葉が聞こえていないのか。
「うう……
家で待ってればよかった……」
思わず、軽口を叩いてしまう。
その瞬間。
口裂け女の目の色が、はっきりと変わった。
「ちょっと、なんでそんなこと言うんですか!!」
「私嬉しかったのに!!」
一気に声が強くなる。
さっきまでの弱りが嘘みたいだ。
「じゃあ頑張って支えてよぉ……」
限界の体で、情けなく縋る。
「もし私が倒れてにゃん吉が怪我したらどうするんですか!!
ティッシュも持ってるんです!!」
腕の中の猫と、
ぶら下がるティッシュを強調する。
優先順位が明確すぎる。
「わ、わかりましたよ……
じゃあ頑張って自分で歩くよ……」
「そうです!頑張ってください!
私はにゃん吉とティッシュを抱えなきゃいけません!!」
……なんか、俺の扱いが軽い気がする。
ふらつきながら、
なんとか歩き出す。
その途中で、
ある疑問がふと頭をよぎった。
「てか、にゃん吉って——」
猫の腹を改めて見る。
明らかに膨らんでいる。
「その子、雌じゃないの?」
一拍。
静寂。
「にゃん“吉”って名前」
「雄につける名前だよね……」
ゆっくりと追撃する。
口裂け女が、すっと目を逸らす。
なんてわかりやすい奴だ。
「ふぃ、フィーリングです!」
声がちょっと裏返ってる。
「……まあ、なんでもいいけどさ」
「二年近くもそう呼んでたんですよ!?」
必死に反論してくる。
いや、大事なのはそこじゃないだろ。
……本当に、なんでもいいけど。
「いや、なんでもいいって言ってるじゃん」
そう言った瞬間。
猫を片手で大事に抱えたまま、
ポカポカと叩いてくる。
軽いけど、地味に脚に響く。
彼女の手に吊り下げられたティッシュが、
ぶらぶらと揺れる。
「あなたは!私のにゃん吉との絆を馬鹿にして!」
「絆自体は馬鹿にしてないから、やめて……
倒れちゃうよぉ……」
本当に限界だ。
視界が揺れる。
「そんなの、知りません!」
容赦がない。
「ひ、ひどい……」
肩がガックリと落ちる。
——ただでさえ重い体が、
さらに沈み込む感覚がした。
……
……
そんなこともあったが——
どうにかこうにか、家に辿り着いた。
玄関をくぐった瞬間、
緊張の糸が切れる。
そのまま崩れるように、
床に体を預けた。
口裂け女も同じだった。
なんやかんやで俺を支え続けてくれていたせいか、
その場にへたり込み、肩で荒く息をしている。
「はぁ……っ、はぁ……っ……。
く、苦しい……」
「……し、死ぬかと思いました……」
口裂け女は、全然力持ちじゃなかった。
妖怪アピールしてきたくせに。
お互いの、
人間らしくて情けない声が部屋に響く。
そんな中で——
一番元気なのは、
身重で負傷中のにゃん吉だった。
「にゃあ」
まるで当然みたいな顔で。
床に這いつくばる口裂け女の背中に、
ぴょんと飛び乗る。
そして、そのまま丸くなってくつろぎ始めた。
……お前、さっきまで怪我してたよな?
口裂け女は苦しそうにしながらも、
背中の重みを感じて、ふっと表情を緩める。
「元気そうでよかったです……」
小さく、優しく呟く。
その声には、
ちゃんと安堵が滲んでいた。
「……猫のご飯、早めに買った方が良いよな」
俺がそう言うと、
口裂け女は、ハッとしたように顔を上げる。
「あっ……!」
だが、
すぐには動かない。
背中のにゃん吉が降りるのを、
じっと待っている。
……こういうとこ、ほんと律儀だな。
やがて、にゃん吉が満足したのか、
のそのそと降りる。
その瞬間。
「じゃあ——いってきます!!」
勢いよく立ち上がり、
ドタドタと外へ飛び出していった。
バタン!と扉が閉まる。
……。
……元気すぎるだろ。
さっきまでゼェゼェ言ってたの、どこ行った。
「……疲れ知らずもいいところだな……」
でも。
まあ、あいつらしいと言えば、
あいつらしい。
そういえば、もう夜になってしまった。
病院も閉まってるか……。
明日、にゃん吉を
なるべく早めに動物病院に連れて行くか。
一人残されて、静かになる部屋。
その静寂の中で——
床で丸くなっていたにゃん吉が、
ゆっくりと体を起こす。
そして、
迷いなくソファーへ向かっていった。
「……」
ぼんやりと、その後ろ姿を眺める。
荒れた毛並みに痩せ細った体。
……苦労してたんだろうな。
そんなことをしみじみ思っていると——
次の瞬間。
バリバリバリバリ!!
ソファーで爪研ぎを始め、
部屋中に嫌な音が響いた。
「ま、待って……!」
「やめて……
にゃん吉さん……!!」
重たい体を引きずるようにして、
必死に近づく。
だが。
「シャーーーーー!!!!」
尻尾を大きく立てて、威嚇。
空気がピリつく。
か、完全に敵認定された。
「く……クソ猫め……!」
ついさっきまでの感動が、
一瞬で吹き飛ぶ。
にゃん吉は俺の存在など意にも介さず、
優雅な足取りで壁の方へ移動する。
ゆっくりと、前足を上げ——
爪を構える。
「ま、待って……それだけは……!」
壁だけはまずい。
本当にまずい。
「さっきクソ猫って言ったことは謝るから……!!」
必死の懇願。
だが——
バリッ。
無情な音が響く。
「や、やめて……」
「賃貸なんです……!」
心からの願い。
だが、すでに手遅れだった。
バリバリバリバリ!!
ニャン吉は気持ち良さそうに、
爪研ぎを再開する。
見る見るうちに、壁が削れていく。
白かったはずの壁紙に、
無数の傷が刻まれていく。
「やめてええええええええ!!!!」
叫びは虚しく、
部屋に響くだけだった。
——数分後。
そこには、
満足げに喉を鳴らすにゃん吉と。
見事に荒らされた壁が残されていた。
まるで——
自分の生き様を刻みつけるみたいに。
「……は、はは」
力なく笑う。
にゃん吉は何事もなかったかのように、
ソファーの上で丸くなった。
……幸せそうで、何よりだ。
……
……
ちなみに。
俺は、家を出る前よりも明らかに体調が悪化した。
その結果、次の日も普通に仕事を休んだ。
口裂け女はというと——
それがかなり嬉しかったらしく、やけに機嫌が良かった。
まあ、そもそも猫を病院に連れて行く予定だったし、
休むか遅れて出勤するかで悩んでたからいいんだけども。
……なんか、
色々と複雑だ。
そして——
その日。
朝一で動物病院に連れて行った。
診察の結果。
怪我も、そしてお腹の赤ちゃんも——
どちらも無事だった。
少しでも遅れていたら——
にゃん吉は脚を切らなければいけなかったらしい。
そう聞いた瞬間、
背筋が冷たくなった。
……間に合って、本当によかった。
「にゃん吉……
よかったです……」
口裂け女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
安心したのか、
その場で何度も撫で回す。
にゃん吉は、
うざったそうな顔をしながらも——
それに応えるように、
ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
……だが。
獣医の先生がまだ心配そうな顔をしていた。
「まだ、何かありますか?」
「あ、いやぁ……」
気まずそうに目を逸らしてくる。
……何かあるんだったら、早く言って欲しい。
「なんでしょうか……?」
「……あ、あのですね、」
煮え切らない感じだったが、
獣医はゆっくりと口を開く。
「……猫ちゃんよりも、
飼い主さんの方が物凄い体調が悪そうだな、と」
「病院に行かれた方が良いのでは……?」
とても、心配そうに言われた。
……ほっといてくれ。
花粉症(重症+悪化)なだけだから。
……
病院から戻って。
家で。
口裂け女が、ニャン吉を揉みくちゃにしながら
楽しそうに話しかける。
「やっぱりニャン吉は本当に可愛いですね〜」
「にゃん」
猫も満更でも無さそうだ。
口裂け女が明るく続ける。
「あなた、もうすぐお母さんになるんですよ〜」
「にゃーん」
自分の頬を、
猫の頭に擦り付けて。
「元気な赤ちゃんを産むんですよ〜」
「にゃおん」
にゃん吉が口裂け女の一言一言に、
しっかりと返事をしていた。
……え、会話できてるの?
それからも。
彼女はニャン吉によく話しかけていた。
そういうのもあって。
うちは、
少しだけ賑やかになった。
……いや、元からうるさかった気もするけど。
「……次の休み、猫の飼育用品を買いに行くか……」
楽しそうな二人を見て、小さく呟く。
なるべく早く。
本当に、なるべく早く。
特に——
「爪研ぎ出来るやつは、最優先だな……」
心の底から、そう思った。
部屋の壁紙とソファーは、
驚くほどの速さでボロボロになった。
子猫が産まれたら、俺の家(賃貸)はどうなるんだろう。
少し、ゾッとした。
……でも、まあアイツらが幸せならなんでも良いか。
……
それから。
にゃん吉があくびをして、
口裂け女もそれにつられて大きくあくびをする。
あと、俺も。
春の風が、
部屋の中にゆっくりと吹き込んでいく。
少し冷たくて、
だけど、どこか暖かくて。
それはまるで——
新しい家族を歓迎してくれているようだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ジュウヨンです。
約1週間ぶりの投稿となりました。
少し間が空いてしまいましたが、
これからも自分のペースでゆっくり更新していけたらと思っています。
気長にお付き合いいただけると嬉しいです。
さて、前話でアンケートを取らせていただいたのですが、
水谷さんに票が入っていたのがとても嬉しかったです。
水谷さんは、そう遠くないうちにまた登場しますので、
楽しみにしていただければと思います。
もしよろしければ、
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とても励みになります。
それでは、今後ともよろしくお願いします。
ここまでで一番好きなキャラは誰ですか?(よければ理由もコメントで教えてもらえると嬉しいです!)
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口裂け女
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水谷 雪(佐々木の会社の同僚)
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稲葉 璃子(佐々木の元カノ)
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佐々木 雄一(主人公)