社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。   作:ジュウヨン

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※本話は璃子視点です。

本話は、9話『二連休だから、口裂け女と買い物に出掛けた。』〜
13話『離れたくなかったから、口裂け女とキスをした。』の続きになります。

未読の方は、先にそちらから読んでいただけると、より楽しめる思います。



課題が危なくて悩んでいたら、佐々木くんが手を差し伸べてきた。【璃子視点】

 

 

 

 

ゆうくんの家を出た瞬間。

 

足が、ふらついた。

 

ちゃんと歩いているはずなのに、

地面の感触がどこか遠い。

 

視界が滲んで、

街灯の光がぼやけて、滲んで、

ぐにゃりと歪む。

 

……ああ。

 

涙が、止まらない。

 

拭っても、拭っても、

次から次へと溢れてくる。

 

喉の奥が引きつって、

呼吸がうまくできない。

 

「……っ……」

 

声が、漏れる。

 

抑えようとしても、

勝手に、喉が震える。

 

「ひっ……ぐ……っ……」

 

情けない音が、

夜の中に溶けていく。

 

……こんなはずじゃなかった。

 

まさか。

 

自分が——あんな風になるなんて。

 

人前で。

 

それも——

大好きな、ゆうくんの前で。

 

……ありえない。

 

付き合っていた頃。

 

僕たちは、こんなんじゃなかった。

 

喧嘩をしても、

ちゃんと話して、ちゃんと聞いて。

 

どこかで折り合いをつけて、

最後には、二人で笑って終わっていた。

 

声を荒げることなんて、

一度もなかった。

 

ゆうくんも。

 

——僕も。

 

……なのに。

 

「……っ……あぁ……」

 

口元を押さえる。

 

嗚咽が、止まらない。

 

胸の奥から、

何かが引きずり出されるみたいに、

 

ぐちゃぐちゃの感情が溢れてくる。

 

あの子にも——

酷いことを、言った。

 

人間じゃない、とか。

 

未来はない、とか。

 

……そんなの。

 

言っていいはずがない。

 

人じゃないからって、

それが傷つけて良い理由にはならない。

 

わかってる。

 

そんなこと。

 

わかってるのに。

 

止められなかった。

 

言葉が、

勝手に溢れてきた。

 

まるで、

自分じゃない誰かが喋ってるみたいに。

 

……最低だ。

 

本当に。

 

最低だ。

 

「……僕の、せいだ……」

 

ぽつりと、

夜に落ちる。

 

全部。

 

全部、僕のせいだ。

 

あの子は——

出ていこうとしてた。

 

ちゃんと、自分で引こうとしてた。

 

往生際の悪い僕とは

大違いだ。

 

……でも。

 

ゆうくんが、

彼女を抱きしめて止めた。

 

……あの瞬間。

 

胸の奥で、何かが、

はっきりと壊れた気がした。

 

「……っ……」

 

息が詰まる。

 

苦しい。

 

痛い。

 

どうしようもなく。

 

——羨ましかった。

 

あの位置にいるのが、

自分じゃないことが。

 

あの腕の中にいるのが、

自分じゃないことが。

 

……それが。

 

どうしようもなく、耐えられなかった。

 

「……っ……」

 

涙が、また溢れる。

 

……醜い。

 

こんな自分。

 

見たくない。

 

こんな感情。

 

持ちたくなかった。

 

もっと、

ちゃんとした人間でいたかった。

 

ゆうくんの隣にいるのに、

相応しい自分でいたかった。

 

なのに。

 

……なんで。

 

こんな。

 

こんな、みっともない。

 

ぐちゃぐちゃの感情に、

飲み込まれてるんだ。

 

「……それでも……」

 

足が止まる。

 

気づけば、

街灯の下に立っていた。

 

白い光が、

自分の影をくっきりと地面に落とす。

 

その影が。

 

やけに、

歪んで見えた。

 

「……それでも……」

 

声が震える。

 

「……ゆうくんと、離れたく、ない……」

 

絞り出すような声。

 

否定できない。

 

どれだけ自分が醜くても。

 

どれだけ間違っていても。

 

——それだけは、本当だった。

 

夜の空気が、冷たい。

 

頬を伝う涙が、

そのまま冷えていく。

 

静まり返った帰り道。

 

自分の足音と、

嗚咽だけが、やけに大きく響く。

 

つい、立っていられなくなり

しゃがみ込んでしまう。

 

……その中で。

 

ふと。

 

ゆうくんとの“最初”を思い出した。

 

——まるで。

 

走馬灯みたいに。

 

不意に。

 

何の脈絡もなく。

 

あの時の光景が、

頭の中に浮かび上がる。

 

夕方だった。

 

少しだけ、オレンジがかった光。

 

風が、やけに暖かくて優しかった日。

 

ゆうくんの——笑う顔。

 

「……あ」

 

思い出した瞬間。

 

胸の奥が、

きゅっと締め付けられる。

 

あの時の僕は。

 

まだ——

こんな風に壊れていなかった。

 

ゆうくんを見て。

 

ただ、素直に。

 

「好きだな」って。

 

そう思えていた頃の、僕だった。

 

……。

 

……戻りたい、なんて。

 

思う資格もないのに。

 

ゆうくんとの関係を壊したのは、

僕の方なのに。

 

それでも。

 

頭のどこかで、

そんなことを考えてしまう自分がいて。

 

「……はは……」

 

乾いた笑いが、

小さく漏れる。

 

涙でぐしゃぐしゃのまま。

 

空を見上げる。

 

街灯のせいで、

星はほとんど見えない。

 

……それでも。

 

「……ずるいよ……ゆうくんは……」

 

誰もいない夜に、

小さく呟く。

 

責めているのか。

 

縋っているのか。

 

自分でも、わからない。

 

ただ。

 

胸の奥に残っているのは——

 

まだ消えていない、

確かな感情だった。

 

「……僕は……」

 

「……まだ、君が好きなのに……」

 

その言葉だけが。

 

夜の中に、

静かに溶けていった。

 

 

……

 

……

 

僕がゆうくんを意識し始めたのは、

大学3年の頃だった。

 

それまでは、本当にただの“同じゼミにいる人”。

 

講義室の同じ空間にいて、同じ資料を開いて、

同じ教授の話を聞いている——

 

ただ、それだけの関係。

 

視界には入るけど、

意識には残らない。

 

そんな距離だった。

 

彼のことは。

良く言えば、誠実そうで静かな人。

 

悪く言えば——地味な人。

 

目立つわけでもなく、

かといって完全に空気でもない。

 

どこにでもいる、

“普通の男子大学生”。

 

それが、

僕の『佐々木 雄一』に対しての印象だった。

 

……本当に、

それだけだった。

 

だけど。

 

ある出来事を境に。

 

僕の中で彼の印象は、

まるで別物みたいに変わることになる。

 

 

……。

 

……。

 

僕は、大学時代、

ほとんどをバイトに費やしていた。

 

朝から講義に出て、

空きコマで少しだけ仮眠を取って。

 

夕方からはそのままバイト先へ。

 

帰るのはいつも夜遅く。

 

日付が変わる頃も、

珍しくなかった。

 

無理して入った有名な私立の大学。

 

合格した時は嬉しかったけど、

現実は甘くなかった。

 

学費は重い。

 

生活費もかかる。

 

最低限の奨学金は借りていたけど、

それだけじゃ到底足りない。

 

……だから、働いた。

 

大学で、

 

なんとなく講義を受けて。

 

なんとなく友達と過ごして。

 

なんとなく時間を潰す。

 

——そんな“曖昧な時間”を送るくらいなら。

 

その時間で、

一円でも多く稼いだ方がいい。

 

その方が、

よっぽど将来の自分のためになる。

 

そう、本気で思っていた。

 

……いや。

 

思い込もうとしていたのかもしれない。

 

その結果。

 

単位は、いつもギリギリだった。

 

落とさない程度に、

最低限だけ拾う。

 

余裕なんて、どこにもない。

 

でも——

 

それでも、

なんとかなっていた。

 

今までは。

 

「——今回の必修課題ですが」

 

講義の終わり。

 

ざわつき始めた教室の中で。

 

教授の声だけが、

妙に静かに響いた。

 

「みなさん——ご存知だと思いますが」

 

一拍。

 

「提出期限は、二日後です」

 

淡々とした口調。

 

感情の乗っていない、

ただの事実の提示。

 

「——以上です」

 

それだけ言って、

教授は資料を閉じる。

 

ガタン、と椅子の音がして。

 

講義終了の空気が、一気に広がる。

 

……。

 

「……え?」

 

頭が、止まる。

 

二日後?

 

今、二日後って言った?

 

……いや、そんなはずない。

 

だって。

 

そんな話、

聞いた覚えがない。

 

資料を慌ててめくる。

 

ページを遡る。

 

シラバスも、メモも、全部確認する。

 

——あった。

 

小さく。

 

目立たないところに。

 

“必修課題・提出期限:◯月◯日”

 

……二日後だ。

 

「……っ」

 

血の気が引く。

 

指先が、冷たくなる。

 

(ど、どうしよう……)

 

思考が、一気に現実に引き戻される。

 

やばい。

 

本当に、やばい。

 

大学内に友人はいる。

 

言えば、

きっと何かしら助けてもらえるかもしれない。

 

だけど——

 

相談する、という選択肢が、

どうしても頭に浮かばなかった。

 

……いや。

 

浮かんではいた。

 

でも。

選べなかった。

 

絶対に。

 

“そういうキャラじゃない”と思われている。

 

今まで。

助けることはあっても。

 

助けられる側になったことなんて、

一度もなかった。

 

余裕がある側。

 

頼られる側。

 

そういう立ち位置で、

ずっとやってきた。

 

そうやって、生きてきた。

 

……今さら。

 

「課題がやばいから助けて」なんて。

言えるわけがない。

 

プライドが。

 

喉元で、

言葉を押し潰す。

 

……結果。

 

僕は——

 

講義室の席に座ったまま、

頭を抱えていた。

 

周りの学生が、

次々と席を立っていく。

 

笑い声。

 

雑談。

 

椅子の擦れる音。

 

全部が、

遠くに聞こえる。

 

(これ……間に合わなかったら……)

 

最悪。

 

——留年だ。

 

その言葉が、

やけに鮮明に頭に浮かぶ。

 

呼吸が浅くなる。

 

胸の奥が、ざわつく。

 

残された時間は、

二日。

 

全く何も手をつけていない状態で、

二日。

 

……無理だ。

 

どう考えても。

 

目の前が、

じわじわと暗くなっていく。

 

 

 

 

 

その時。

 

 

 

 

 

「——どうしたの?」

 

不意に。

 

聞き馴染みのない声が、

すぐ近くで響いた。

 

びくりと、

肩が揺れる。

 

顔を上げる。

 

ぼやけた視界の中で、

声の主を探す。

 

……あぁ。

 

佐々木くんか。

 

ゼミで見たことのある顔。

 

でも、それだけの存在。

 

「いや……」

 

とっさに、言葉が出る。

 

反射的に。

 

「別に、何もないよ?」

 

口元を動かす。

 

いつも通りの、

当たり障りのない笑顔を作る。

 

……作れているのかは、

わからない。

 

頬が引きつっている気がする。

 

うまく笑えていない気がする。

 

でも。

 

それでも。

 

そうするしかなかった。

 

佐々木くんは、何も言わずに。

ただ、じっと僕の顔を見ていた。

 

視線が、逸れない。

 

逃がしてくれない。

 

「もしかしてだけどさ……」

 

一拍。

 

ほんの少しの間。

 

「課題——やばいの?」

 

——ビクン。

 

体が、勝手に反応した。

 

心臓が、一瞬跳ねる。

 

……バレてる。

 

なんで。

 

そんなに分かりやすかった?

 

……いや。

 

多分、顔に全部出てたんだろう。

 

「ふふ……」

 

乾いた笑いが、

喉から漏れる。

 

「実は、そうなんだよ」

 

観念したみたいに、

言葉が出た。

 

……ああ。

 

本当に、疲れてるな。

 

僕。

 

こんな風に。

 

簡単に弱音を吐くなんて。

 

……いつもなら、

絶対に否定していた。

 

「違うよ」って。

 

笑って、

流していたはずなのに。

 

でも。

 

普段、関わりがないからこそ。

 

逆に。

 

変な見栄を張る必要がなかったのかもしれない。

 

「バイトばっかりしてたらさ」

 

ぽつりと、続ける。

 

「忘れちゃってたんだ……」

 

視線を少し落とす。

 

机の上の資料が、

やけに遠く感じる。

 

「まだ、何も手をつけてなくて……ね」

 

言いながら。

 

自分で自分の状況を、

改めて実感してしまう。

 

「ははは……」

 

乾いた笑い。

 

空っぽな音。

 

佐々木くんは——

笑わなかった。

 

茶化すこともなく。

 

同情を露骨に見せることもなく。

 

ただ。

 

静かに聞いていた。

 

そのまま。

 

何かを考えるみたいに、

少しだけ黙り込む。

 

「……」

 

沈黙。

 

気まずい。

 

何か言ってほしい。

 

でも。

 

何を言われても困る気もする。

 

……まあ、いいか。

 

「だから——困ってるってわけさ」

 

少しだけ間を空けて。

 

軽くまとめる。

 

別に、

助けてほしいわけじゃない。

 

「まあ、自分でどうにかするから大丈夫だよ」

 

そう言って、

話を終わらせようとする。

 

これ以上、

時間を無駄にしたくない。

 

一秒でも早く、

手をつけなきゃいけない。

 

……たとえ、

間に合わないとしても。

 

そんな。

 

どうしようもない絶望の中で。

 

——ようやく。

 

彼が、口を開いた。

 

「……俺で良ければ、手伝うよ」

 

「稲葉さんの課題」

 

静かな声だった。

 

押し付けるでもなく。

 

遠慮するでもなく。

 

ただ。

 

そこに置くみたいに。

 

……。

 

何を言ってるんだろう。

 

思考が、ほんの一瞬止まる。

 

普段ほとんど関わりのない僕を、

助けるって——

 

そんなこと、

普通はしない。

 

……。

 

じっと、彼の顔を見る。

 

正直、特別優しそうな顔でもない。

 

かといって、

何か企んでいそうな顔でもない。

 

ただ、

いつも通りの、あの地味で落ち着いた表情。

 

——余計に、わからない。

 

……この人。

 

僕のことが、

気になるのかな。

 

ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 

……いや。

 

多分、そうなんだろう。

 

男は、だいたいそうだ。

 

正直、僕は——

男から優しくされることが多い。

 

昔から、ずっとだ。

 

今に始まったことじゃない。

 

慣れている。

 

だからこそ。

 

(ああ、またか)

 

そんな風にしか思えない。

 

……面倒くさい。

 

本当に。

 

だから、避けてきた。

 

隙を見せないように、意識してきた。

 

大学の飲み会だって、

ほとんど一度も行ったことがない。

 

そういうふうに、

されるのが分かっているから。

 

断るのも、期待させるのも、

全てが面倒だった。

 

……はぁ。

 

小さく、息が漏れる。

 

男なんて、苦手だ。

 

「——いや、大丈夫」

 

一拍。

 

言葉を選ぶ。

 

角が立たないように。

 

でも、しっかり距離を取るように。

 

「気持ちはありがたいけど、自分で頑張るよ」

 

丁重に、断る。

 

視線も、少しだけ逸らす。

 

これ以上踏み込ませないように。

 

……こんなことで借りを作るのは、嫌だ。

 

後から、何かを要求される。

 

そんな展開は、

想像するだけで面倒くさい。

 

……正直。

 

ありがたい提案ではあった。

 

今の状況なら、

喉から手が出るほど欲しい助けだ。

 

それでも。

 

それ以上に、

リスクの方が大きく感じた。

 

だから——断った。

 

……のに。

 

「こういう時は助け合いだよ」

 

彼は、引かなかった。

 

少しも。

 

当たり前みたいに、

言葉を重ねてくる。

 

「今から稲葉さん一人でやっても、間に合わないと思うし」

 

淡々と。

 

事実だけを並べるみたいに。

 

「——でも、」

 

「二人で協力すればなんとかなるかもしれない」

 

一拍。

 

ほんの少しの間。

 

逃げ道を塞ぐように。

 

「しかもさ、これ落としたら多分稲葉さん留年するけど——」

 

……。

 

視線が、合う。

 

逃げられない。

 

まっすぐに。

 

じっと、見られる。

 

「いいの?」

 

首を、わずかに傾ける。

 

その仕草。

 

そして——

 

口元に浮かんだ、

ニヤリとした笑み。

 

……。

 

——グサリ。

 

『“留年”』

 

その言葉が、

頭の中で、やけに大きく響く。

 

鼓膜に、

直接突き刺さるみたいに。

 

「……っ」

 

胸の奥が、ざわつく。

 

さっきまで無理やり押し込めていた現実が、

一気に浮かび上がってくる。

 

……な、なんて。

 

なんて、意地悪な人なんだ。

 

わざわざ、

そこを突いてくる?

 

一番、触れてほしくないところを。

 

……プライドが。

ズタズタになる音が聞こえた気がした。

 

今まで。

 

こんな風に、

真正面から突き崩されたことなんてなかった。

 

余裕のある自分。

 

できる自分。

 

そういう仮面が。

 

今、この瞬間、

無理やり剥がされたみたいだった。

 

……く、屈辱だ。

 

大学生活で、

初めて味わう感覚。

 

でも。

 

「……」

 

言い返せない。

 

何も。

 

だって——

全部、正しいから。

 

悔しいけど。

 

ぐうの音も出ないくらい、

正論だった。

 

……。

 

ほんの少しだけ、

唇を噛む。

 

視線を落とす。

 

……そして。

 

「お願いします」

 

気づけば。

 

口から、言葉が出ていた。

 

小さく。

 

でも、はっきりと。

 

「……助けてください」

 

絞り出すように。

 

プライドなんて、

もうどうでもよかった。

 

背に腹は変えられない。

 

今は——

そんなこと言ってる場合じゃない。

 

……もう。

 

どうにでもなれ。

 

彼が、ふっと微笑む。

 

さっきの意地悪な笑みとは違う。

 

少しだけ、

柔らかい表情。

 

「じゃあ——今から大学の図書館に行ってやろっか」

 

自然な流れで、

次の行動を決める。

 

迷いがない。

 

「なるべく早い方がいい」

 

実務的な口調。

 

状況を理解している人間の言い方。

 

少し間があって。

 

彼が、ボソリと付け足す。

 

「……間に合わなかったら、大変だしね」

 

また。

 

さっきと同じ、

少しだけ意地悪な笑み。

 

……なのに。

 

どうしてか。

 

その表情に。

 

「……うん、ありがとう」

 

素直に、そう返していた。

 

胸の奥が、

ほんの少しだけ跳ねる。

 

ドキッとした。

 

……なんで?

 

一瞬、自分でもわからなかった。

 

私、こういうのに弱いタイプだったっけ。

 

……いや。

 

違う。

 

きっと。

 

こんな風に、

男に接せられることがなかったからだ。

 

変に媚びるでもなく。

 

下心を隠すでもなく。

 

ただ、まっすぐに、

必要なことを言ってくる。

 

……だからだ。

 

きっと。

 

そう、自分に言い聞かせる。

 

……でも。

 

不思議と。

 

この人がいれば。

 

なんとかなるかもしれない。

 

そんな感覚が、

胸の奥に、静かに生まれていた。

 

立ち上がる彼の背中を、

ぼんやりと見つめる。

 

普段は、

地味で目立たないはずのその背中が。

 

今は——

やけに大きく見えた。

 

そして。

 

少しだけ。

 

頼り甲斐があるように、感じてしまった。

 

 

 

黙々と、一緒に課題を進めていく。

 

ページをめくる音。

キーボードを叩く乾いた音。

ペン先が紙を擦る、細い音。

 

図書館の静けさの中で、

そのどれもがやけに大きく聞こえた。

 

……だけど。

 

一番、意識を引っ張られるのは——

隣にいる彼だった。

 

(……何、この人)

 

思わず、手が止まりそうになる。

 

——速い。

 

とにかく、速い。

 

資料を手に取ってから、

必要な箇所を見つけるまでが異常に早い。

 

ページをざっと流し見るだけで、

重要な部分だけを正確に抜き出していく。

 

まるで、最初から答えの場所を知っているみたいに。

 

(いや、ちょっと……)

 

引く。

 

普通じゃない。

 

僕が一つの文献を理解するのに数分かかっている間に、

彼はもう、その要点をまとめ終えている。

 

しかも——

 

「ここ、多分こういうことだと思う」

 

差し出されたノート。

 

そこに書かれている文章を見て、

思わず息が止まる。

 

(……綺麗)

 

無駄がない。

 

でも、冷たいわけでもない。

 

必要な情報だけを、

ちゃんと“意味が通る形”で整えている。

 

まるで、そのまま提出できるんじゃないかって思うくらい。

 

「この表現の方が伝わりやすいかも」

 

僕の書いた文章に、軽く手を入れる。

 

ほんの数語、言い換えただけなのに——

 

(……全然違う)

 

読みやすさが、段違いだった。

 

悔しい。

 

でも。

 

(すごい……)

 

それ以上に、素直にそう思ってしまった。

 

……。

 

「……っ」

 

気づけば、

僕も必死に手を動かしていた。

 

負けたくない。

 

そんな感情が、じわじわと湧いてくる。

 

普段なら。

 

適当に流して、最低限で終わらせる。

 

それが僕のやり方だった。

 

……でも、今日は違う。

 

隣で、あのスピードで進められると。

 

嫌でも、自分の遅さが浮き彫りになる。

 

(……やるしかない)

 

ペンを持つ手に、力が入る。

 

ページをめくるスピードが上がる。

 

頭をフル回転させる。

 

——こんなに集中したの、いつぶりだろう。

 

時間の感覚が、

どんどん曖昧になっていく。

 

 

……

 

気づけば。

 

窓の外は、完全に暗くなっていた。

 

館内アナウンスが、

静かに流れ始める。

 

『まもなく閉館のお時間です——』

 

その声で、ようやく現実に引き戻される。

 

「——そろそろ良い時間だね」

 

彼の声に、耳がぴくりと反応する。

 

顔を上げると。

 

目の奥がじんわりと熱い。

 

……ずっと、画面と紙だけ見ていたせいだ。

 

窓の外は、真っ暗だった。

 

(……嘘でしょ)

 

こんなに時間が経ってたの?

 

全然、気づかなかった。

 

「佐々木くん……」

 

「今日はありがとう」

 

少しだけ、肩の力を抜く。

 

「おかげで結構進められたよ」

 

実際、かなり進んでいる。

 

一人じゃ、ここまで絶対に無理だった。

 

「残りは自分で——」

 

言いかけた瞬間。

 

「いや、まだ終わってないでしょ」

 

ぴたりと、言葉を遮られる。

 

「また明日、ここで一緒に頑張ろう」

 

そう言って、彼は軽く微笑む。

 

その顔を見て——

 

思わず、息を呑んだ。

 

……疲れている。

 

明らかに。

 

目の下が、少しだけ重い。

 

肩も、ほんの少し落ちている。

 

それでも。

その顔には、余裕みたいなものが残っていた。

 

(……なんで)

 

僕の課題なのに。

 

この人には、関係ないのに。

 

ここまで付き合う理由なんて、ないはずなのに。

 

……なのに。

 

「とりあえず、明日の朝8時から図書館開くから」

 

当たり前みたいに、次の話をする。

 

「1日かけて頑張って終わらせようね」

 

ニヤリ、と笑う。

 

また、その意地悪そうな顔。

 

でも——

 

(……嫌じゃない)

 

むしろ。

 

少しだけ、安心する。

 

……この人がいれば。

 

本当に、なんとかなるかもしれない。

 

「うん……お願いします」

 

自然と、頭が下がる。

 

こんな風に誰かに頼るのは、久しぶりだった。

 

いや——

 

初めてかもしれない。

 

……。

 

彼が、大きく伸びをする。

 

骨が鳴る、小さな音。

 

それから、淡々と荷物をまとめ始める。

その動きも、無駄がない。

 

ある程度片付け終えると。

 

ふと。

 

改まったように、こちらを見る。

 

「じゃあ……稲葉さん」

 

——ほら、やっぱりきた。

 

少し、身構える。

 

何か言われる。

 

何か、見返りを求められる。

 

……そう思った。

 

けど。

 

「俺——帰るね」

 

「疲れたし」

 

あっさりと。

 

本当にあっさりと、そう言った。

 

立ち上がろうとする背中。

 

少しだけ、不自然な笑顔。

 

……ああ。

 

この人、無理してたんだ。

 

ずっと。

 

僕に気を遣って。

 

ペースを合わせて。

 

それでも、何も言わなかった。

 

……なのに。

 

僕は。

 

そのまま帰らせるのが、

なんだか嫌で。

 

気づけば——

 

腕を、掴んでいた。

 

「……」

 

一瞬、空気が止まる。

 

(……なんで)

 

自分でも、わからない。

 

なんで引き止めたのか。

 

頭が真っ白になる。

 

何か言わないと。

 

何か——

 

……あ、そうだ。

 

無理やり、言葉を引っ張り出す。

 

「——私のことは、璃子って呼んでよ」

 

彼の目が、少しだけ見開かれる。

 

「……へ?」

 

「私も……雄一くんって呼ぶから」

 

一拍。

 

「特別だよ?」

 

にこり、と笑う。

 

……負けっぱなしは、嫌だ。

 

せめてこれくらいは。

 

対等でいたい。

 

彼の顔が、一気に赤くなる。

 

「わ、わかった……」

 

喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。

 

「じゃ、じゃあね……」

 

一拍。

 

「り、璃子さん」

 

……。

 

(“さん”?)

 

思わず、心の中で鼻で笑う。

 

臆病だな。

 

でも。

 

「うん。ありがとうね雄一くん」

 

軽く手を振る。

 

彼も、ぎこちなく手を振り返して。

 

そのまま、去っていく。

 

……。

 

……ふふ。

 

(勝った)

 

机の下で、小さくガッツポーズ。

 

自然と、口元が緩む。

 

鼻歌が、こぼれる。

 

静まり返った図書館に、

自分の声だけが、ぽつんと浮かぶ。

 

——その時。

 

「すみません。もう閉館するので……」

 

背後から声をかけられる。

 

「……っ」

 

一気に現実に引き戻される。

 

「あ……あぁ、すみません……」

 

情けない声。

 

顔が、熱い。

 

周りを見渡すと。

 

もう、誰もいない。

 

……やばい。

 

急いで荷物をまとめる。

 

足早に、図書館を出る。

 

夜の空気が、ひんやりと頬に当たる。

 

……

 

(……明日が、楽しみだな)

 

こんな状況なのに。

 

締め切りギリギリなのに。

 

間に合うかもわからないのに。

 

それでも。

 

胸の奥が、少しだけ弾んでいる。

 

——彼と一緒なら。

なんとかなる気がしていた。

 

 







ここまで読んでいただきありがとうございます。
ジュウヨンです。

今回の話は、本来は第一部ラスト付近に入れる予定だった幕間になります。
璃子が家を出た後の帰り道、その時の心情を描いた回です。

少し重たい内容ではありますが、
この描写が入ることで、璃子というキャラクターの見え方が変われば嬉しいです。

今後は引き続き、
・課題をきっかけに距離が縮まっていく過程
・同棲に至るまでの流れ
・別れに至る決定的な出来事
など、璃子視点の回想を描いていく予定です。

物語全体の厚みとして、楽しんでいただければ幸いです。

書こうと思えたのは、好きなキャラのアンケートで璃子にも票が入っていたのを見たからです。
個人的にも好きなキャラなので、そう思っていただけてとても嬉しかったです。

ご投票いただいた皆様、本当にありがとうございます。

お気に入り登録や感想・評価などいただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いします。

ここまでで一番好きなキャラは誰ですか?(よければ理由もコメントで教えてもらえると嬉しいです!)

  • 口裂け女
  • 水谷 雪(佐々木の会社の同僚)
  • 稲葉 璃子(佐々木の元カノ)
  • 佐々木 雄一(主人公)
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