社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
翌日。
図書館の開館時間と同時に、僕たちは昨日と同じ席へ向かった。
まだ利用者も少なく、館内は朝の静けさに包まれている。
荷物を置くなり、
ゆうくんは昨日と何も変わらない様子でノートパソコンを開いた。
「じゃあ、今日もどんどん進めちゃおうか」
昨日の続きみたいな、自然な一言。
「うん」
僕も頷きながら席に着く。
そして、わざと少しだけ間を空けてから。
「よろしくね、“雄一くん”」
名前を呼んだ瞬間。
彼の肩が、ぴくりと震えた。
……あ。
反応した。
耳まで少し赤くなっている。
ふふ。
昨日は「璃子さん」なんてぎこちなく呼んでいたのに。
名前で呼ばれただけでこんなに動揺するなんて。
案外、可愛いところがあるじゃないか。
思わず口元が緩む。
すると。
ゆうくんが、ちらりとこちらを見る。
目が合う。
そして――
口元だけで、意地悪そうに笑った。
「余裕そうだね……“璃子”」
……。
…………え?
一瞬、思考が止まる。
よ、呼び捨て……?
昨日まで『璃子さん』だったのに。
一晩でそこまで距離を詰めてくる?
まるで、不意打ちだった。
胸がどくん、と大きく鳴る。
「ぜ、全然余裕じゃないけど……」
慌てて返事をする。
声が少しだけ裏返った気がした。
……しまった。
動揺したのが、完全に伝わった。
だけど。
このまま負けっぱなしは、悔しい。
少しだけ呼吸を整える。
彼の横顔を見る。
まだどこか勝ち誇ったような顔をしている。
……よし。
「……だってさ、」
わざと、少しだけ間を空ける。
「“ゆうくん”がいたら大丈夫でしょ?」
その瞬間だった。
彼の耳が、一気に赤く染まる。
視線が泳ぐ。
「あ……」
小さく何かを言いかけたまま、
逃げるようにノートへ視線を落とし、慌ただしく課題を進め始める。
ページをめくる音だけが、不自然なくらい大きく響いた。
……勝った。
思わず笑みがこぼれる。
甘いよ、ゆうくん。
君が成長するなら――
僕だって、ちゃんと成長するんだから。
心の中で、小さくガッツポーズをする。
……でも。
すぐに首を横へ振った。
ダメだ。
何をやってるんだ、僕は。
今日はそういう駆け引きをしに来たんじゃない。
課題を終わらせるために来たんだ。
そう自分に言い聞かせると、
気持ちを切り替えて資料を開く。
……とはいえ。
さっき「璃子」と呼ばれた声が、
しばらく頭から離れてくれなかった。
……
……
「ふぅ……」
大きく息を吐いて時計を見る。
——14時。
「……え」
思わず声が漏れた。
もう六時間も経っていた。
時間の感覚なんて、とっくになくなっていたらしい。
肩を回すと、じんわりと筋肉が軋む。
……お腹、空いたな。
ふと隣を見る。
ゆうくんは相変わらずだった。
視線は資料だけを追い続け、
キーボードを叩く指も止まらない。
周りの音なんて聞こえていないみたいだ。
「ねえ……ゆうくん」
返事はない。
「ゆうくーん」
今度は肩を軽く揺らす。
「……あ」
そこでようやく彼の意識がこちらへ向いた。
「ごめん。全然気づかなかった」
本当に今気づいたような顔だった。
……すごい。
この人、本気で課題しか見えてなかったんだ。
しかも、自分の課題でもないのに。
そこまで必死になってくれていることが、
不思議と胸の奥を温かくした。
「もうお昼だし」
「私が奢るから、ご飯食べに行かない?」
そう言うと、彼はすぐ首を横に振る。
「いや、いいよ」
「このまま進めよう」
そう言って、もう画面へ向き直ってしまう。
「璃子だけ食べてきなよ」
……。
この人。
せっかく奢るって言ってるのに。
「いや、絶対食べた方がいいよ」
「少しくらい休憩した方が集中力も戻るし」
笑顔を崩さず言う。
だけど。
「俺はいい」
「今のままやった方が楽だから」
取りつく島もない。
視線すらこちらへ向かない。
……うーん。
社畜気質って、こういう人のことを言うのかな。
このままじゃダメだ。
この人には、
ちゃんと休憩することも覚えてもらわないと。
「ゆうくん」
もう一度呼ぶ。
「お願いだから、ご飯行こう?」
「こういう時は、一回休んだ方が効率いいんだよ」
彼はようやくため息をついた。
「……もう、うるさいなぁ」
小さく笑ってしまう。
「何食べるの?」
ようやく折れてくれた。
勝った。
そんな気持ちになる。
「私は何でもいいかな」
「ゆうくんは?」
彼がじっとこちらを見る。
「……何でもいいのに誘ったんだ」
「……わざわざ言ってくるぐらいだから、食べたい物があるのかと思った」
ぼそっと呟く。
……。
…………。
この人、本当に察しが悪い。
普通、お昼になったらお腹空くでしょう。
せっかく気を遣って誘ってるのに。
思わず頬を膨らませそうになる。
——でも。
その鈍さが、不思議と嫌じゃなかった。
今まで近づいてきた男の人は、
みんな必要以上に優しかった。
顔色を窺って。
機嫌を取って。
期待させるような言葉ばかり並べて。
そういうのが、苦手だった。
でも、
ゆうくんは違う。
ぶっきらぼうで。
不器用で。
少し、意地悪で。
でも、困っている人は放っておけない。
そんな人だった。
……だからだろうか。
一緒にいて、肩に力が入らない。
自然に笑えてしまう。
……いや。
違う、違う。
勘違いだ。
こんな男に惹かれるわけがない。
そう自分に言い聞かせてから、気持ちを切り替える。
「じゃあレストランにしよう」
「色々あるし、お互い好きなの選べるでしょ?」
彼の表情が少しだけ柔らかくなる。
「うん。それいいね」
そう言うと、もう荷物をまとめ始めた。
相変わらず行動が早い。
「ちょっと、ゆうくん……」
「ま、待ってよ」
慌てて鞄を掴み、後を追う。
すると。
前を歩いていた彼が、ちらりとこちらを見た。
ほんの少しだけ。
歩く速さが遅くなる。
……気づいてくれたんだ。
それだけで、少し嬉しかった。
……でも、変な人。
本当に。
だけど。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
もっと、彼のことを知りたいと思ってしまう自分がいた。
……ううん。
違う。
そんなわけ、ない。
……ない、はずなんだけど。
◇
大学近くのレストラン。
昼のピークは過ぎていて、店内は思ったより静かだった。
いつもなら大学生で賑わっている店内も、
今日は空席が目立つ。
待ち時間もなく席へ案内され、二人並んでメニューを開いた。
「璃子は何にするの?」
メニューから目を離さないまま、ゆうくんが聞いてくる。
「私は、この特製パスタにしようかな」
「ゆうくんは?」
「うーん……」
腕を組んだまま、佐々木くんが真剣に唸る。
「俺さ、まだ決められなくて」
「特製パスタか……肉じゃが定食か」
その真面目な言い方が妙におかしくて、
思わず吹き出した。
「ふふっ……」
「このレストラン、肉じゃがなんてあるんだね」
「珍しい」
「そうなんだよ」
彼も少し笑う。
けれど——
その笑顔には六時間ぶっ通しで課題を続けた疲れが少しだけ滲んでいた。
それを見て、胸の奥が少しだけ痛む。
……私の課題なのに。
「肉じゃが、結構好きなんだよね」
「でも、パスタも食べたいしなぁ……」
再び腕を組み、本気で悩み始める。
その姿があまりにも真剣で、また笑みがこぼれた。
……あ。
いいこと思いついた。
「……じゃあさ、」
彼が顔を上げる。
「ゆうくんは肉じゃがにしなよ」
「その代わり、私のパスタも食べていいよ?」
「……え?」
きょとん、と目を丸くする。
私は構わず続けた。
「私も肉じゃが、一口もらうから」
「それなら二人とも両方食べられるでしょ?」
我ながら、名案だと思った。
恋人同士なら、こういうことをするって聞いたことがある。
……まあ。
付き合ってもいない相手に提案するのは、
どうなんだろうとは思うけど。
今回はたまたま、
彼が迷っている片方を私が頼もうとしていただけ。
これは、親切心だ。
きっと、不自然ではない。
……たぶん。
恐る恐る、顔を上げる。
……彼は、
顔が真っ赤になっていた。
「あ……」
思わず、自分の頬に触れる。
熱い。
……きっと、私も同じ顔をしている。
こんなことをするのは、初めてだから。
恥ずかしくなって、俯いた。
沈黙。
さっきまで賑やかだった店内の音だけが耳に入る。
……気まずい。
そっと顔を上げる。
すると。
彼もちょうど同じタイミングでこちらを見ていた。
目が合う。
どちらも逸らせない。
数秒。
ただ見つめ合う。
けれど先に負けたのは、彼だった。
照れたように目を逸らし、小さく咳払いをする。
……この人、本当に不思議だ。
親切だったり。
少し意地悪だったり。
信じられないくらい集中力があったり。
社畜みたいな考え方をしたり。
それなのに。
たまに、びっくりするくらい可愛かったりする。
……ほんと、へんな人。
……
注文を終え、どこか気まずい空気のまま料理を待つ。
会話はない。
聞こえるのは、
周りの食器が触れ合う音と、遠くで誰かが笑う声だけ。
その沈黙さえ、どこか落ち着かなかった。
やがて。
「お待たせしましたー」
店員が料理を運んでくる。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる特製パスタ。
鮮やかなトマトソースの赤が目を引き、
ふわりとバジルの香りが鼻をくすぐる。
「……美味しそう」
思わず声が漏れた。
隣には肉じゃが定食。
ほくほくとしたじゃがいもから立ち上る甘辛い醤油の香りは、
どこか懐かしくて優しい。
「……いい匂いだ」
ゆうくんが小さく呟く。
どちらからともなく手を合わせる。
「「いただきます」」
……そして。
私はテーブルを見回した。
「あれ……」
取り皿が、ない。
つまり。
……やるしかない。
さっき自分で言い出したんだから。
フォークでパスタを巻く。
くるり。
くるり。
……。
いや、待って。
これ、本当にやるの?
急に恥ずかしくなってきた。
でも。
ここまできて引くのも格好悪い。
覚悟を決める。
「……はい」
恐る恐る、フォークを差し出した。
ゆうくんの方へ。
「え……あ」
案の定、固まる。
耳まで真っ赤だ。
「……ほら」
「食べたかったんでしょ?」
少しだけ意地悪く笑うと、
彼は困ったように目を逸らし、小さくため息をついた。
そして。
観念したように口を開く。
「……じゃあ、いただきます」
一口。
もぐもぐと噛む。
少しして。
「……美味い」
飾らない、その一言。
なんだろう。
それだけなのに。
頬が勝手に緩んでしまう。
「ふふっ……でしょ?」
自然と笑みがこぼれた。
今度は私の番。
肉じゃがの皿をそっと引き寄せる。
本当なら、自分で取って食べればいい。
だけど。
せっかくだから。
「……ほら」
箸でじゃがいもをつまみ、彼へ差し出す。
「え……肉じゃがも?」
「うん」
「早く」
彼は諦めたように小さく笑うと、口を開けた。
ぱくり。
次の瞬間——
「あっつ!!」
「ぶっ!」
勢いよく顔を背け、咳き込む。
「あ……ご、ごめん!」
慌てて水を差し出す。
彼は一気に飲み干し、
「し……死ぬかと思った……」
と肩で息をした。
その顔がおかしくて笑いそうになる。
すると。
彼がじろりとこちらを見る。
……まずい。
怒った?
そう思った次の瞬間。
彼は肉じゃがを箸でつまみ上げた。
「……次は璃子ね」
「え」
嫌な予感しかしない。
だけど。
彼はふっと息を吹きかける。
一回。
二回。
三回。
真剣な顔で冷ましている。
「……多分、もう熱くないよ」
その何気ない優しさに。
胸が、少しだけ高鳴った。
……肉じゃがのせいかな。
いや。
そんなわけないか。
差し出されたじゃがいもを、ぱくりと口に入れる。
数秒後。
「……っ!」
「あつっ……!」
結局、まだ熱かった。
慌てて水を飲む私を見て、
彼は肩を震わせる。
「ふっ」
「これで、お互い様だね」
悔しい。
でも。
その笑顔を見たら、怒る気にもなれなかった。
「まだ、パスタ食べさせてもらってないけど?」
そう言うと、
「はいはい」
と苦笑しながら、彼はフォークを持つ。
くるくる。
くるくる。
……。
「あれ」
「なんか巻けない」
「え?」
フォークの上でパスタがほどける。
巻く。
ほどける。
巻く。
ほどける。
真剣な顔で、それを延々と繰り返している。
……ダメだ。
「ふっ……」
笑いが漏れた。
「ちょっと」
「笑わないでよ」
「ご、ごめん……!」
もう無理だった。
肩が震える。
「こうやるんだよ」
目の前でフォークを回して見せる。
「おお」
彼は素直に小さく拍手した。
その反応がまたおかしくて。
僕は、
とうとう吹き出した。
「ふふっ……あはははは……!」
お腹を抱えて笑う。
「ちょ、だから笑わないでって」
困ったように眉を下げる彼。
その顔さえ可笑しくて。
笑いが止まらなかった。
……こんなに笑ったの、いつぶりだろう。
この人といると。
肩の力を抜いて笑える。
それが、どうしようもなく心地よかった。
……
食事を終え、二人で図書館へ戻る。
さっきまでとは違う。
気づけば——
歩く距離がほんの少し近くなっていた。
肩が触れるほどじゃない。
でも。
前より、確実に近い。
そのことを、どうしてこんなに意識してしまうんだろう。
……変だ。
こんなの、今まで一度もなかった。
もっと。
この人のことを知りたい。
そんなことばかり考えている自分に気づいて、
慌てて首を振る。
……違う。
今は、課題だ。
ゆうくんは、ただ親切で手伝ってくれているだけ。
変な期待なんてしちゃダメ。
そう言い聞かせるように表情を引き締めた。
「課題……頑張って終わらせるね」
そう言って彼を見る。
視線が合った。
ほんの一瞬だけ。
すると彼は照れたように目を逸らす。
「う、うん」
少しだけ間があって、
「俺も……頑張って手伝うよ」
耳が少し赤い。
……気のせいかな。
いや。
気のせいじゃなかったら、嬉しい。
その直後。
誤魔化すように、彼が大きなあくびをした。
それを見た瞬間、
「ふぁ……」
私までつられてあくびをしてしまう。
目が合う。
数秒。
どちらともなく吹き出した。
「ふふっ」
「ははっ」
本当に。
馬鹿みたい。
でも、そんな時間が心地よかった。
⸻
図書館へ戻る。
席に着いた途端。
さっきまで眠そうだった彼の空気が変わる。
目の色が変わった。
残りの課題だけを見据えるように、
何も言わずパソコンへ向かう。
カタカタ。
ペンが走る。
キーを叩く音だけが静かな館内に響く。
……すごい。
私も負けていられない。
そう思うのに。
横顔が視界に入るたび、集中が切れる。
真剣な表情。
時折前髪をかき上げる仕草。
画面を見つめる横顔。
集中、しなきゃ。
何度も何度も自分に言い聞かせながら、課題を進めた。
……
そして——
「……お、終わったぁ」
思わず机に突っ伏す。
こんなに疲れたのは久しぶりだった。
隣を見る。
彼も椅子にもたれ、ぼんやり天井を見上げている。
そのまま、小さく呟いた。
「璃子……」
「間に合って……よかったね」
人の少なくなった静かな図書館だからこそ、
その声はやけにはっきり耳に届いた。
胸がじんわり温かくなる。
「ゆうくん……本当にありがとう」
「ん?」
「手伝ってくれたこと」
「……ああ」
彼は照れたように笑う。
「そんなことか」
本当に、それだけだった。
見返りなんて最初から求めていない。
そんな人なんだと、もう分かっていた。
だけど。
だからこそ。
分からなかった。
どうして。
ゆうくんは、ここまでしてくれたんだろう。
⸻
帰り道。
駅まで並んで歩く。
課題を終えた疲れもあって、
お互いほとんど口を開かなかった。
だけど。
今しかない。
今を逃したら、きっと聞けない。
「あのさ……ゆうくん」
「ん?」
「なんで、私を助けてくれたの?」
彼の足が一瞬止まる。
「私たち……これまで、話したことなんてなかったよね」
沈黙。
彼は何か言いかける。
やめる。
また言いかける。
そして前を向いたまま、
「……璃子が困ってそうだったから」
「ただ……それだけだよ」
小さく呟く。
目は合わせてくれない。
私は一歩前へ出て、顔を覗き込む。
「……本当に?」
「それだけで、ここまでしてくれる?」
彼は困ったように笑った。
長い沈黙。
やがて、小さく息を吐く。
「……璃子は覚えてないと思うけど」
「新歓でさ」
「俺、酔い潰れたんだ」
その言葉に、私は首を傾げた。
「初めて酒飲んでさ」
「何がなんだか分からなくて」
苦笑する。
「その時、介抱してくれた人がいた」
少しだけ懐かしそうな顔。
「その人さ……」
「その後も、俺だけじゃなくてみんなの面倒見てて」
「きっと……俺のことなんか覚えてないんだろうなって」
少し、照れくさそうに笑う。
「でも」
「優しい人だなって思ってさ」
「ずっと……お礼だけは言いたかった」
「まあ、勇気がなくて言えなかったけどね」
彼はようやく立ち止まり、
私の目を見た。
「だから」
「その時の、借りを返しただけ」
一拍。
「……璃子、」
「あの時は……ありがとう」
その一言だけだった。
私は。
しばらく何も言えなかった。
……そういえば。
そんなことがあった気がする。
でも。
本当に、それくらいだった。
あの日はみんな酔っていて、
誰が誰だったかなんて覚えていない。
ただ——
困っている人を放っておけなかった。
それだけ。
——なのに。
彼はずっと覚えていてくれた。
その事実が。
胸の奥を、静かに締めつける。
そして。
その瞬間、ようやく理解した。
私は——
この人のことが、好きなんだ。
好きに、なってしまった。
これは。
絶対に。
勘違いなんかじゃない。
この胸の高鳴りに、
もう言い訳はできなかった。
……恥ずかしくて。
もう、彼の顔を見ることができなくなってしまった。
……
無言のまま歩いていると、
気がつけば、駅に着いていた。
……もっと。
駅までの道が長ければ良かったのに。
僕はずっと、
大学から駅まで近いことを便利だと思っていた。
だけど、今だけは違う。
あと、少しだけでも。
せめて、五分だけでも。
彼と一緒に歩いていたかった。
……不便だな。
そんなことを思っている自分に、
少しだけ驚いてしまう。
改札を抜け、
二人でホームへ続く階段を上る。
聞けば、
家は真逆の方向らしい。
それだけで、
胸の奥が少しだけ沈んだ。
ちょうどホームへ着いた時、
彼の乗る電車が滑り込んできた。
タイミングが良すぎる。
嬉しくない偶然だった。
扉が開く。
彼は迷いなく乗り込んだ。
「じゃあね、璃子」
振り返って、小さく手を振る。
いつも通りの、不器用そうな笑顔で。
だけど今日は、
その笑顔が少しだけ寂しそうに見えた。
……いや。
寂しいのは、僕の方か。
返事をしようと思った。
でも、声が出ない。
そのまま、
プシュー……
扉が閉まり始める。
その瞬間だった。
身体が勝手に動いた。
考えるより先に。
気づけば、
僕は——
閉まりかけた扉をすり抜けて電車へ飛び乗っていた。
「え……璃子?」
「逆方向じゃないの?」
彼が目を丸くする。
当然だ。
僕だって、自分が何をしたのかわかっていない。
ただ、
今、このまま別れたくなかった。
それだけだった。
「ゆ、ゆうくん……」
顔が熱い。
いや。
顔だけじゃない。
耳も。
首も。
身体中が。
全部が熱い。
こんなに恥ずかしいこと、
人生で一度もしたことがない。
何か言わなきゃ。
何か理由を。
何か——。
「あ……」
そうだ。
「れ、連絡先……」
声が小さすぎた。
「え……?」
「なんて?」
聞き返される。
うぅ……。
もう一回。
勇気を振り絞る。
「また……ちゃんと、お礼したいから」
少しだけ息を吸う。
「ゆうくんの連絡先……」
「教えてって……言ったの……」
彼は一瞬だけ、
ぽかんとした顔をした。
そして、
ふっと笑う。
「そんなことのために?」
「わざわざ逆方向の電車に乗ったの?」
また笑われた。
もう。
この人は本当に。
「べ、別にいいじゃん……」
思わず顔を逸らす。
「明日、大学で聞いてくれれば良かったのに」
「璃子って、面白いね」
……。
違う。
そうじゃない。
今日じゃなきゃ、
意味がなかったんだ。
でも、
そんなこと言えるわけがない。
「……どうしても」
小さく呟く。
「今日が……良かったんだよ」
彼は少しだけ目を丸くして、
「……そっか」
そう言って、
静かにスマホを取り出した。
「じゃあ、交換しよっか」
僕も慌ててスマホを開く。
緊張しすぎて、
違うアプリを二回も開いてしまう。
……落ち着け。
落ち着け、僕。
メッセージアプリ一つ開くだけなのに。
指が言うことを聞いてくれない。
……自分が、こんなに動揺するなんて思いもしなかった。
胸が落ち着かない。
顔は熱いし、指先まで少し震えている。
僕の中の”いつもの僕”が、
少しずつ剥がれ落ちていくような感覚だった。
……
「じゃあ……私はここで降りるね」
「うん。その方がいいよ」
一駅だけ。
本当に、一駅だけ。
そう自分に言い聞かせながら、
電車を降りる。
ホームへ降り立ち、振り返る。
すると、ゆうくんはまだドアの前に立ったまま、
こちらを見ていた。
……何か言いたそうだ。
口を開いては閉じて。
また開いては、やめる。
そんな仕草を何度も繰り返している。
その様子が、少し面白かった。
「——どうしたの?」
思わず声をかける。
でも、彼は何も言わない。
そのまま時間だけが過ぎていく。
ビビーッ。
発車を知らせる音がホームに響いた。
ゆっくりと扉が閉まり始める。
その瞬間だった。
「か……」
彼がようやく口を開く。
閉まりゆく扉の隙間から。
「帰ったら——」
ほんの一拍。
「連絡しても……良い?」
——その言葉が耳に届いた瞬間。
プシューッ、と扉は完全に閉じた。
僕は思わず息を呑む。
……。
……。
……き、聞こえた。
ちゃんと聞こえた。
ぼんやりと。
かすかに。
それでも確かに。
『帰ったら、連絡しても良い?』
って。
顔を上げる。
ガラス越しに目が合う。
彼は耳まで真っ赤にして、
恥ずかしそうに僕を見ていた。
……返事を待ってる。
もう扉は閉まっているのに。
声なんて届かないのに。
それでも。
僕の返事を待っている。
……どうしよう。
こんなの、どう返せばいいんだ。
恋愛なんてしたことがない。
こんな経験だって、もちろん初めてだ。
恥ずかしくて、
目を合わせることすらできない。
……でも。
返事をしないのは、もっと嫌だった。
だから。
ほんの少しだけ。
誰にも気づかれないくらい、小さく。
こくりと、頷いた。
それだけ。
本当に、
それだけだった。
やがて電車はゆっくりと動き始める。
彼を乗せたまま。
窓越しに目が合う。
少しずつ。
少しずつ距離が離れていく。
流れていく景色の中で、
彼の姿だけを目で追い続けた。
……気づいてくれたかな。
僕の返事。
わからない。
でも。
もし、連絡が来なかったら。
今度は僕から送ろう。
……なんか。
ゆうくんって、そういうの気づかなそうだし。
少し鈍感だから。
僕がちゃんとしてあげないと、
仕方ないよね。
……
……
ちなみに。
普通に連絡は来た。
どうやら、あの小さな頷きには気づいてくれていたらしい。
思わずベッドの上で、小さくガッツポーズをする。
少し深呼吸してから、メッセージを開く。
……。
『明日、課題家に忘れちゃダメだよ』
『せっかく二人で頑張ったんだからさ』
『留年するよ?』
……。
…………。
あれ。
もしかして。
僕、ゆうくんに子ども扱いされてる?
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ジュウヨンです。
本当に、久しぶりの投稿になりました。
改めて、小説を書くのは本当に楽しいなと感じています。
頭の中にあるぼんやりとしたイメージを文章にしていくことで、
少しずつ形になり、自分の中でも物語が鮮明になっていく。
その過程がとても好きです。
この作品は、
自分にとって特に思い入れのある作品です。
だからこそ、絶対に途中で終わらせたくありません。
更新はゆっくりになるかもしれませんが、
どれだけ時間がかかっても完結まで書き切るつもりです。
もし最後までお付き合いいただけましたら、
とても嬉しいです。
……やはり、自分は口裂け女を描きたいと思ってしまうので、
璃子との過去はある程度スッキリできるところまでは描き切りたいと思います。
付き合ってから別れるまでの道筋はざっくりしか決めてませんが、
あと2話ぐらいかなと思います。(多分)
遅筆ですが、タイミングを見つけて頑張ります。
『酔い潰れたから、口裂け女に告白してしまった。』とか、
『離れたくなかったから、口裂け女とキスをした。』については、
休職してたからこそ書けた内容でしたね。
勢いのまま夢中で一日中書いていたので、
今読み返しても、自分でも「熱量があるな」と感じます。
何度も読み返しては、
「口裂け女は愛おしいなぁ……」と、自分でも思っていました。
こんな女の子がいたら、
そりゃ惚れるよなぁ、と。
まあ……それはそれとして。
あの頃の勢いには敵わないかもしれませんが、
今だから書けるものもあると思うので、
最後まで大切に描いていきたいと思います。
今後とも、よろしくお願いいたします。
ここまでで一番好きなキャラは誰ですか?(よければ理由もコメントで教えてもらえると嬉しいです!)
-
口裂け女
-
水谷 雪(佐々木の会社の同僚)
-
稲葉 璃子(佐々木の元カノ)
-
佐々木 雄一(主人公)