社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
今回から、雄一視点になります。
次の日——
各々の生徒が、
教授に課題を提出していく。
俺も、その列に並び、
完成したレポートを教授へ手渡した。
「はい、ご苦労さま」
短い一言を聞いた瞬間、
張り詰めていた糸がふっと緩む。
「……はぁ」
思わず、大きく息を吐いた。
実は——
俺も、課題の完成は相当ギリギリだった。
途中までは順調に進めていた。
だが、璃子の課題を手伝っていた分、
自分の作業はどうしても後回しになってしまった。
もちろん、言い訳をするつもりはない。
結局、自分の課題を仕上げ終えたのは——ついさっき。
提出時間に間に合ったのが奇跡なくらいだった。
本当に……
ギリギリも、ギリギリだ。
璃子の前では余裕そうな顔をしていたけれど、
内心はずっと冷や汗ものだった。
「あぁ……」
終わった。
本当に、終わった。
安心した途端、徹夜の疲れと眠気が一気に押し寄せてくる。
俺はそのまま机に突っ伏した。
頬に触れる木の机は、
ほんのり冷たくて気持ちいい。
その冷たさに身を預けるように、ゆっくりと瞼が重くなっていく。
意識が、少しずつ沈んでいく——
その時だった。
「おはよう、ゆうくん」
耳元で、優しい声がした。
ここ数日ですっかり聞き慣れた声。
「……璃子か」
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
「……おはよう」
ぼやけた視界が少しずつ鮮明になっていく。
そこには、柔らかく微笑む璃子がいた。
俺の隣に腰を下ろし、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「昨日は、よく寝れた?」
「……全然」
苦笑しながら答える。
「帰ってから少しだけ本を読もうと思ったんだけどさ……
気付いたら朝方だった」
「へぇ……」
璃子が楽しそうに目を細める。
「ゆうくんって、本読む人なんだね」
「まぁ、たまにね」
「何読んでたの?」
俺のついた嘘に、興味津々といった様子で、
身を少し乗り出してくる。
……その顔を、ぼんやりと眺めた。
近くで見ると——
本当に、整った顔立ちをしている。
噂では聞いていた。
大学でも有名なくらいの美人だということも、
この数日で何度も実感していた。
だけど、こうして改めて見ると、
やっぱり綺麗だ。
新歓の日なんて、俺は酔い潰れていた。
そんなことを気にする余裕なんて、
当然なかった。
もし、あの日の俺がシラフだったなら。
「こんな美人に助けてもらったのか……」と、
きっと腰を抜かしていただろう。
優しくて。
気遣いができて。
その上、美人で——
……俺とは、全く釣り合わないな。
そんな考えが、自然と頭をよぎる。
……
…………
「おーい」
「ゆうくーーん」
肩を優しく揺すられ、意識が現実へと引き戻された。
「あっ……ごめん」
「なんか眠すぎて、意識飛んでた」
「ふふっ」
璃子が小さく笑う。
「たしかに……」
「よく見たら、すっごい隈だね」
そう言って、じっと俺の顔を覗き込む。
璃子の大きくて切れ長の瞳が、
真っ直ぐ俺を映していた。
……少し前の俺なら。
こんな距離で璃子と話すなんて、
想像すらできなかっただろう。
すると璃子が、急にもじもじと指先を動かし始めた。
どこか落ち着かない様子で視線を泳がせる。
「ゆ、ゆうくん……」
「眠いところ悪いんだけどさ……」
少しだけ間を空けて。
意を決したように顔を上げた。
「今日のお昼も、一緒に食べない……?」
言った直後、慌てたように両手をぶんぶん振る。
「あ、アレだよっ!?」
「課題手伝ってもらったし……
しばらくは、お昼をご馳走しようかなぁって思ってさ」
笑っている。
だけど、その笑顔はどこかぎこちない。
まるで、
何かを隠しているみたいだった。
「ゆうくんが……」
「嫌なら……いいんだけど」
最後だけ、小さな声になる。
少しだけ寂しそうに。
そんな表情を見せられて、断れるわけがない。
「うん、いいよ」
璃子の顔がぱっと明るくなる。
「でも、ご馳走とかはいいかな」
「昨日も言ったけど……昔の借りを返しただけだからさ」
その言葉を聞いた途端、
璃子の頬がみるみる赤く染まっていく。
「……で、でも」
視線を落としたまま、小さく呟いた。
「私は——
ゆうくんと、これからもお昼を食べたいのだけど……」
教室の喧騒が、不思議なくらい遠く感じた。
俺は、一瞬だけ言葉を失う。
……そういう、意味だったのか。
そのことを理解した途端、
眠気はすっかり吹き飛んでいた。
「……ゆ、ゆうくん?」
不安そうな声が聞こえる。
俺は慌てて笑った。
「もちろん」
「俺も、璃子と食べたいよ」
「一人よりその方が楽しいし」
その瞬間——
璃子の表情が、花が咲くようにぱっと明るくなった。
「……ほ、ほんと?」
「うん」
「じゃあ……約束だから、ね?」
嬉しそうに笑い、
小さく手を振りながら自分の席へ戻っていく。
(……約束、か)
たった、お昼を一緒に食べるだけ。
それだけの約束なのに。
その一言は、
不思議なくらい胸の奥に残った。
そして——
今まで何でもなかった昼休みが。
今日は、
少しだけ待ち遠しく感じられた。
……
…………
気付けば、
午前中の講義はあっという間に終わっていた。
教室のあちこちで椅子を引く音が響き、
学生たちが思い思いに立ち上がっていく。
俺は壁の時計へ目を向けた。
針は、十二時を少し回ったところだった。
(……約束、だったな)
何気なく教室の入口へ視線を向ける。
すると、璃子がこちらを見つけ、
小さく手を振っていた。
目が合うと、
ふわりと笑いかけてくる。
俺も自然と手を振り返した。
その瞬間——
教室中の視線が、一斉に俺へ突き刺さる。
「……え」
思わず固まる。
視線の大半は、男性陣からだった。
「なんであいつが稲葉さんと……」
「マジかよ……」
「くそが……」
そんな声が、
どことなく聞こえてくる。
……いや、怖い怖い。
俺、何か悪いことしたか?
周りの目を気にしながら、
気まずそうに準備をしていると。
入口で首を傾げる璃子。
俺は苦笑しながら璃子のもとへ向かった。
⸻
「ゆうくんは肉じゃがが好きなんだねぇ」
璃子がくすっと笑いながら、
フォークでパスタをくるくると巻く。
「なんだかんだ一番落ち着く味だからね」
「ふふっ、おじいちゃんみたい」
「ひどいな」
「だって、大学生で肉じゃが定食とパスタなら……
普通パスタじゃない?」
「いや、肉じゃがでしょ」
「えぇ~?」
璃子が肩を揺らして笑う。
その笑い声につられて、俺まで笑ってしまう。
本当に、どうでもいい話だ。
好きな食べ物の話。
子どもの頃の話。
講義中に居眠りしそうだった話。
そんな他愛もない会話ばかりなのに——
不思議なくらい時間が心地良かった。
それは、俺だけじゃないらしい。
璃子も……
終始楽しそうに笑っていた。
「ほら——ゆうくん」
突然、璃子がフォークを俺の方へ差し出してくる。
フォークの先には、
綺麗に巻かれたパスタ。
「 “僕” のパスタも食べなよ」
……ん?
今——
「“僕”……?」
思わず、その一言だけが口から漏れた。
「あ——」
璃子がぴたりと固まる。
「いや……“私”ね、“私”!」
慌てて言い直す。
「あははは……!」
耳まで真っ赤にして、
両手をぶんぶん振っている。
……しまった。
悪いことをしちゃったかな。
「あ……ごめん」
俺が謝ると、少しだけ気まずい空気が流れた。
璃子は照れ臭そうに笑いながら、
小さく息を吐く。
「……いやぁ、」
「実は……さ……」
少しだけ、
間を置いてから話し始めた。
「私ね……気が抜けると、
つい……自分のことを”僕”って言っちゃうんだ」
「小さい頃からの癖で……さ」
「高校くらいまでは、ずっと”僕”だったの」
「でも、大学に入る前に頑張って直したんだ」
そう言って苦笑する。
「だけど……安心すると、つい出ちゃうんだ」
恥ずかしそうに笑いながら、
璃子は視線をテーブルへ落とした。
指先でコップをなぞる仕草まで、
どこか照れ隠しみたいだった。
「安心すると、か……」
俺は小さく呟く。
正直、そこまで深く考えたことはなかった。
でも。
俺の前で——
そんな素を出してくれる。
そう考えると、
不思議と悪い気はしなかった。
「……そうなんだ」
少し照れ臭くなって、短く返事をする。
すると璃子が、おそるおそる顔を上げた。
「……やっぱり、さ」
「変……だよね?」
その表情は、
どこか不安そうだった。
……ああ。
変なふうに受け取ったと思われたのか。
「……いや、」
俺は首を横に振る。
「別に、変じゃないと思うよ」
「人それぞれそういう癖ってあるし」
「反応しといてなんだけど、俺は全然気にならない」
少しだけ笑って続ける。
「俺は——そのままの璃子でいいと思うよ」
その瞬間。
璃子は目を丸くした。
まるで、予想もしなかった言葉を聞いたみたいに。
そして——
ふっと、優しく笑う。
「……ふふ」
「そんなこと、初めて言われたよ」
照れ臭そうに笑う璃子は、
さっきより少しだけ嬉しそうだった。
「やっぱり、ゆうくんは優しいね」
そう言うと、またフォークを俺へ突き出してくる。
「ほら」
「食べてよ」
「……その代わり、」
少しだけ照れながら笑う。
「後で、ゆうくんの肉じゃがも」
「“僕”に……食べさせてね?」
悪戯っぽく笑う璃子を見て、
俺も思わず笑ってしまった。
そして、その笑顔を見つめながら——
俺は、
自分の気持ちに気付かざるを得なくなっていった。
⸻
それから——
気付けば……
璃子と一緒に過ごす時間が、当たり前になっていた。
璃子はバイトで忙しく、
大学が終わると急いで職場へ向かう毎日だった。
それでも——
講義の合間や昼休み、空いた時間があれば、
自然と、隣には璃子がいた。
昼ご飯を一緒に食べて。
講義が早く終わった日は、そのまま駅前まで歩いて。
休日が合えば、映画を観に行ったり、
ショッピングモールをぶらぶら歩いたり。
特に目的もなく、
公園のベンチで他愛もない話をして笑い合うこともあった。
好きな音楽。
将来のこと。
お互いの趣味や、
どうでもいいような話まで。
話せば話すほど、
知らなかった璃子を知っていく。
そして、そのたびに。
俺は——
もっと璃子のことを知りたいと思ってしまっていた。
璃子もまた、
俺のくだらない話を楽しそうに聞いてくれた。
目が合えば笑って。
冗談を言えば笑って。
その笑顔を見るだけで、
その日一日が少しだけ特別になる。
そんな日々が、少しずつ積み重なっていった。
だけど——
それ以上の関係になることは、なかった。
手を繋ぐこともない。
恋人みたいな言葉を交わすこともない。
どこからどう見ても仲の良い友達。
ただ、それだけ。
……俺はもう、自分の気持ちを理解していた。
璃子の笑顔を見るたびに嬉しくなって。
誰かと楽しそうに話しているだけで、
少し胸がざわつく。
きっと——
これは、恋なんだと思う。
璃子も、
もしかしたら……
そう思える瞬間は、何度もあった。
俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきたり。
何かあるたびに真っ先に俺を頼ってくれたり。
二人きりでいる時間を、
誰よりも大切そうにしてくれたり。
期待してしまうには、十分すぎるくらいだった。
……それでも。
あと一歩だけが、
踏み出せなかった。
もし全部——
俺の勘違いだったら。
告白して、今の関係まで失ってしまったら。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
この距離なら、
まだ隣にいられる。
恋人になれなくても。
友達のままでも。
璃子が笑っていてくれるなら、
それでいい。
そんな言い訳を、
自分に何度も繰り返していた。
曖昧なままでも——
ただ俺は……
璃子と一緒にいられる時間を失いたくなかった。
⸻
いつものように、
二人で遊びに出掛けた帰り道。
夕焼けが街を橙色に染め始めていた。
他愛もない話をしながら並んで歩く、
この何気ない帰り道も、いつの間にか当たり前になっていた。
こんな日々が、ずっと続けば良いのに。
そんな中——
「ねえ……ゆうくん」
璃子が、不意に立ち止まる。
「……ん、どうしたの?」
振り返ると、璃子の様子がどこか違っていた。
いつもなら柔らかく笑っているはずの表情が、
今日はぎこちない。
何かを決意しているようで。
それでいて、怖がっているようでもあった。
「あのね……」
そう切り出したまま、璃子は口を閉じる。
視線が泳ぐ。
指先が落ち着きなくスカートの裾をいじっている。
「あの……さ……」
言葉が喉まで出かかっては、引っ込む。
何度も何度も。
そして——
「いや……」
「やっぱり、いいや」
困ったように笑って、小さく首を振った。
「え、気になるんだけど……」
「何かあったの?」
俺がそう尋ねると、璃子はしばらく黙っていた。
夕暮れの風だけが、二人の間を静かに通り抜けていく。
やがて璃子は、小さく息を吸って。
覚悟を決めたように、ゆっくり口を開いた。
「僕——ゼミの×××君から、告白されたんだ」
……え。
その一言で。
時間が止まった。
耳に入るはずだった車の音も。
人の話し声も。
風の音さえも。
何も聞こえなくなった。
頭の中が真っ白になる。
理解が、
全く追いつかなかった。
ジュウヨンです。
元々は18話・19話を1話にまとめていましたが、
文字数が多くなったため、2話に分割しました。
混乱された方がいらっしゃいましたら、
申し訳ありません。