社畜の俺。メンヘラな口裂け女をビンタしたら同棲が始まった。 作:ジュウヨン
次の日——
各々の生徒が、
教授に課題を提出していく。
俺も、その列に並び、
完成したレポートを教授へ手渡した。
「はい、ご苦労さま」
短い一言を聞いた瞬間、
張り詰めていた糸がふっと緩む。
「……はぁ」
思わず、大きく息を吐いた。
実は——
俺も、課題の完成は相当ギリギリだった。
途中までは順調に進めていた。
だが、璃子の課題を手伝っていた分、
自分の作業はどうしても後回しになってしまった。
もちろん、言い訳をするつもりはない。
結局、自分の課題を仕上げ終えたのは——ついさっき。
提出時間に間に合ったのが奇跡なくらいだった。
本当に……
ギリギリも、ギリギリだ。
璃子の前では余裕そうな顔をしていたけれど、
内心はずっと冷や汗ものだった。
「あぁ……」
終わった。
本当に、終わった。
安心した途端、徹夜の疲れと眠気が一気に押し寄せてくる。
俺はそのまま机に突っ伏した。
頬に触れる木の机は、
ほんのり冷たくて気持ちいい。
その冷たさに身を預けるように、ゆっくりと瞼が重くなっていく。
意識が、少しずつ沈んでいく——
その時だった。
「おはよう、ゆうくん」
耳元で、優しい声がした。
ここ数日ですっかり聞き慣れた声。
「……璃子か」
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
「……おはよう」
ぼやけた視界が少しずつ鮮明になっていく。
そこには、柔らかく微笑む璃子がいた。
俺の隣に腰を下ろし、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「昨日は、よく寝れた?」
「……全然」
苦笑しながら答える。
「帰ってから少しだけ本を読もうと思ったんだけどさ……
気付いたら朝方だった」
「へぇ……」
璃子が楽しそうに目を細める。
「ゆうくんって、本読む人なんだね」
「まぁ、たまにね」
「何読んでたの?」
俺のついた嘘に、興味津々といった様子で、
身を少し乗り出してくる。
……その顔を、ぼんやりと眺めた。
近くで見ると——
本当に、整った顔立ちをしている。
噂では聞いていた。
大学でも有名なくらいの美人だということも、
この数日で何度も実感していた。
だけど、こうして改めて見ると、
やっぱり綺麗だ。
新歓の日なんて、俺は酔い潰れていた。
そんなことを気にする余裕なんて、
当然なかった。
もし、あの日の俺がシラフだったなら。
「こんな美人に助けてもらったのか……」と、
きっと腰を抜かしていただろう。
優しくて。
気遣いができて。
その上、美人で——
……俺とは、全く釣り合わないな。
そんな考えが、自然と頭をよぎる。
……
…………
「おーい」
「ゆうくーーん」
肩を優しく揺すられ、意識が現実へと引き戻された。
「あっ……ごめん」
「なんか眠すぎて、意識飛んでた」
「ふふっ」
璃子が小さく笑う。
「たしかに……」
「よく見たら、すっごい隈だね」
そう言って、じっと俺の顔を覗き込む。
璃子の大きくて切れ長の瞳が、
真っ直ぐ俺を映していた。
……少し前の俺なら。
こんな距離で璃子と話すなんて、
想像すらできなかっただろう。
すると璃子が、急にもじもじと指先を動かし始めた。
どこか落ち着かない様子で視線を泳がせる。
「ゆ、ゆうくん……」
「眠いところ悪いんだけどさ……」
少しだけ間を空けて。
意を決したように顔を上げた。
「今日のお昼も、一緒に食べない……?」
言った直後、慌てたように両手をぶんぶん振る。
「あ、アレだよっ!?」
「課題手伝ってもらったし……
しばらくは、お昼をご馳走しようかなぁって思ってさ」
笑っている。
だけど、その笑顔はどこかぎこちない。
まるで、
何かを隠しているみたいだった。
「ゆうくんが……」
「嫌なら……いいんだけど」
最後だけ、小さな声になる。
少しだけ寂しそうに。
そんな表情を見せられて、断れるわけがない。
「うん、いいよ」
璃子の顔がぱっと明るくなる。
「でも、ご馳走とかはいいかな」
「昨日も言ったけど……昔の借りを返しただけだからさ」
その言葉を聞いた途端、
璃子の頬がみるみる赤く染まっていく。
「……で、でも」
視線を落としたまま、小さく呟いた。
「僕は——
ゆうくんと、これからもお昼を食べたいのだけど……」
教室の喧騒が、不思議なくらい遠く感じた。
俺は、一瞬だけ言葉を失う。
……そういう、意味だったのか。
そのことを理解した途端、
眠気はすっかり吹き飛んでいた。
「……ゆ、ゆうくん?」
不安そうな声が聞こえる。
俺は慌てて笑った。
「もちろん」
「俺も璃子と食べたいよ」
「一人より、その方が楽しいし」
その瞬間——
璃子の表情が、花が咲くようにぱっと明るくなった。
「……ほ、ほんと?」
「うん」
「じゃあ……約束だから、ね?」
嬉しそうに笑い、
小さく手を振りながら自分の席へ戻っていく。
(……約束、か)
たった、お昼を一緒に食べるだけ。
それだけの約束なのに。
その一言は、
不思議なくらい胸の奥に残った。
そして——
今まで何でもなかった昼休みが。
今日は、
少しだけ待ち遠しく感じられた。
……
…………
気付けば、
午前中の講義はあっという間に終わっていた。
教室のあちこちで椅子を引く音が響き、
学生たちが思い思いに立ち上がっていく。
俺は壁の時計へ目を向けた。
針は、十二時を少し回ったところだった。
(……約束、だったな)
何気なく教室の入口へ視線を向ける。
すると、璃子がこちらを見つけ、
小さく手を振っていた。
目が合うと、
ふわりと笑いかけてくる。
俺も自然と手を振り返した。
その瞬間——
教室中の視線が、一斉に俺へ突き刺さる。
「……え」
思わず固まる。
視線の大半は、男性陣からだった。
「なんであいつが稲葉さんと……」
「マジかよ……」
「くそが……」
そんな声が、
どことなく聞こえてくる。
……いや、怖い怖い。
俺、何か悪いことしたか?
周りの目を気にしながら、
気まずそうに準備をしていると。
入口で首を傾げる璃子。
俺は苦笑しながら璃子のもとへ向かった。
⸻
「ゆうくんは、肉じゃがが好きなんだねぇ」
璃子がくすっと笑いながら、
フォークでパスタをくるくると巻く。
「なんだかんだ、一番落ち着く味だからね」
「ふふっ、おじいちゃんみたい」
「ひどいな」
「だって、大学生で肉じゃが定食とパスタなら……
普通パスタじゃない?」
「いや、肉じゃがでしょ」
「えぇ~?」
璃子が肩を揺らして笑う。
その笑い声につられて、俺まで笑ってしまう。
本当に、どうでもいい話だ。
好きな食べ物の話。
子どもの頃の話。
講義中に居眠りしそうだった話。
そんな他愛もない会話ばかりなのに——
不思議なくらい時間が心地良かった。
それは、俺だけじゃないらしい。
璃子も……
終始楽しそうに笑っていた。
「ほら——ゆうくん」
突然、璃子がフォークを俺の方へ差し出してくる。
フォークの先には、
綺麗に巻かれたパスタ。
「僕のパスタも食べなよ」
……ん?
今——
「“僕”……?」
思わず、その一言だけが口から漏れた。
「あ——」
璃子がぴたりと固まる。
「いや……“私”ね、“私”!」
慌てて言い直す。
「あははは……!」
耳まで真っ赤にして、両手をぶんぶん振っている。
……しまった。
悪いことをしちゃったかな。
「あ……ごめん」
俺が謝ると、少しだけ気まずい空気が流れた。
璃子は照れ臭そうに笑いながら、
小さく息を吐く。
「……実は、さ」
少しだけ間を置いてから話し始めた。
「私ね……気が抜けると、
自分のことを”僕”って言っちゃうんだよね」
「小さい頃からの癖で……さ」
「高校くらいまでは、ずっと”僕”だったの」
「でも、大学に入る前に頑張って直したんだ」
そう言って苦笑する。
「だけど……安心すると、つい出ちゃうんだよね」
恥ずかしそうに笑いながら、
璃子は視線をテーブルへ落とした。
指先でコップをなぞる仕草まで、
どこか照れ隠しみたいだった。
「安心すると、か……」
俺は小さく呟く。
正直、そこまで深く考えたことはなかった。
でも。
俺の前だからこそ、そんな素が出る。
そう考えると、
不思議と悪い気はしなかった。
「……そうなんだ」
少し照れ臭くなって、短く返事をする。
すると璃子が、おそるおそる顔を上げた。
「……やっぱり、さ」
「変……だよね?」
その表情は、
どこか不安そうだった。
……ああ。
変なふうに受け取ったと思われたのか。
「……いや」
俺は首を横に振る。
「別に、変じゃないと思うよ」
「人それぞれ、そういう癖ってあるし」
「反応しといてなんだけど、俺は全然気にならない」
少しだけ笑って続ける。
「俺は——そのままの璃子でいいと思うよ」
その瞬間。
璃子は目を丸くした。
まるで、予想もしなかった言葉を聞いたみたいに。
そして——
ふっと、優しく笑う。
「……ふふ」
「そんなこと、初めて言われたよ」
照れ臭そうに笑う璃子は、
さっきより少しだけ嬉しそうだった。
「やっぱり、ゆうくんは優しいね」
そう言うと、またフォークを俺へ突き出してくる。
「ほら」
「食べてよ」
「……その代わり、」
少しだけ照れながら笑う。
「後で、ゆうくんの肉じゃがも」
「僕に……食べさせてね?」
悪戯っぽく笑う璃子を見て、
俺も思わず笑ってしまった。
そして、その笑顔を見つめながら——
俺は、自分の気持ちを認めざるを得なくなった。
⸻
それから——
気付けば、
璃子と一緒に過ごす時間が当たり前になっていた。
璃子はバイトで忙しく、
大学が終わると急いで職場へ向かう毎日だった。
それでも——
講義の合間や昼休み、空いた時間があれば、
自然と、隣には璃子がいた。
昼ご飯を一緒に食べて。
講義が早く終わった日は、そのまま駅前まで歩いて。
休日が合えば、映画を観に行ったり、
ショッピングモールをぶらぶら歩いたり。
特に目的もなく、
公園のベンチで他愛もない話をして笑い合うこともあった。
好きな映画。
子どもの頃の失敗談。
将来のこと。
家族のこと。
お互いの趣味や、
どうでもいいような話まで。
話せば話すほど、
知らなかった璃子を知っていく。
そして、そのたびに。
俺は——
もっと璃子のことを知りたいと思ってしまっていた。
璃子もまた、
俺のくだらない話を楽しそうに聞いてくれた。
目が合えば笑って。
冗談を言えば笑って。
その笑顔を見るだけで、
その日一日が少しだけ特別になる。
そんな日々が、少しずつ積み重なっていった。
だけど——
それ以上の関係になることは、なかった。
手を繋ぐこともない。
恋人みたいな言葉を交わすこともない。
どこからどう見ても仲の良い友達。
ただ、それだけ。
……俺はもう、自分の気持ちに気付いていた。
璃子の笑顔を見るたびに嬉しくなって。
誰かと楽しそうに話しているだけで、
少し胸がざわつく。
きっと——恋なんだと思う。
璃子も、
もしかしたら……
そう思える瞬間は何度もあった。
俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきたり。
何かあるたびに真っ先に俺を頼ってくれたり。
二人きりでいる時間を、
誰よりも大切そうにしてくれたり。
期待してしまうには、十分すぎるくらいだった。
……それでも。
あと一歩だけが、
踏み出せなかった。
もし全部——
俺の勘違いだったら。
告白して、今の関係まで失ってしまったら。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
この距離なら、まだ隣にいられる。
恋人になれなくても。
友達のままでも。
璃子が笑っていてくれるなら、
それでいい。
そんな言い訳を、
自分に何度も繰り返していた。
曖昧なままでも——
ただ俺は……
璃子と一緒にいられる時間を失いたくなかった。
⸻
いつものように、
二人で遊びに出掛けた帰り道。
夕焼けが街を橙色に染め始めていた。
他愛もない話をしながら並んで歩く、
この何気ない帰り道も、いつの間にか当たり前になっていた。
そんな中——
「ねえ——ゆうくん」
璃子が、不意に立ち止まる。
「……ん、どうしたの?」
振り返ると、璃子の様子がどこか違っていた。
いつもなら柔らかく笑っているはずの表情が、
今日はぎこちない。
何かを決意しているようで。
それでいて、怖がっているようでもあった。
「あのね……」
そう切り出したまま、璃子は口を閉じる。
視線が泳ぐ。
指先が落ち着きなくスカートの裾をいじっている。
「あの……さ……」
言葉が喉まで出かかっては、引っ込む。
何度も何度も。
そして——
「いや……」
「やっぱり、いいや」
困ったように笑って、小さく首を振った。
「え、気になるんだけど……」
「何かあったの?」
俺がそう尋ねると、璃子はしばらく黙っていた。
夕暮れの風だけが、二人の間を静かに通り抜けていく。
やがて璃子は、小さく息を吸って。
覚悟を決めたように、ゆっくり口を開いた。
「僕——ゼミの×××君から、告白されたんだ」
……え。
その一言で。
時間が止まった。
耳に入るはずだった車の音も。
人の話し声も。
風の音さえも。
何も聞こえなくなった。
頭の中が真っ白になる。
理解が追いつかない。
いや——
理解したく、なかった。
×××といえば……
大学内でも、
人気のある男だ。
俺はほとんど話したことはない。
でも、身長が高くて、顔も良くて。
成績も優秀。
性格も良いと評判で、
悪い噂なんて一度も聞いたことがない。
……そういえば。
最近、あいつが璃子によく話しかけていた。
講義の後も。
ゼミの前も。
俺は何となく目にしていた。
でも、その時は深く考えもしなかった。
ただの世間話だろう、と。
——あれは、そういうことだったのか。
ゆっくりと璃子へ目を向ける。
璃子は俯いたまま、
頬を真っ赤に染めていた。
唇を何度も開きかけては閉じる。
何かを待っているように。
何かを期待しているように。
でも——
俺には、その意味を考える余裕なんてなかった。
胸の奥が、嫌な音を立てて締め付けられる。
どうするの?
付き合うの?
璃子は——
×××のことが好きなの?
聞きたいことは、山ほどあった。
今すぐ、
全部聞いてしまいたかった。
だけど。
もし。
「付き合うつもり」
そう言われたら。
俺はきっと、笑えない。
平気な顔なんて、できない。
だから——
聞けなかった。
知りたく、なかった。
「そう、なんだ」
それ以上は……何も言わず。
何も聞かず。
ただ黙って——
前だけを見て歩き続けた。
隣に璃子がいるのに。
その距離が、
今までで一番遠く感じた。
結局——
俺は、何も言えなかった。
傷つくのが怖くて、
目を背けて、逃げたんだ。
⸻
それから、数日が過ぎた。
璃子とは——
ほとんど話さなくなった。
喧嘩をしたわけじゃない。
仲違いをしたわけじゃない。
ただ——
俺が、話しかけられなくなった。
教室で顔を合わせても、
視線を逸らす。
……璃子の表情も、まともに見ずに。
そして。
昼休みになれば、
一人で食堂へ向かう。
……小さく手を振る璃子を、見えないフリして。
帰り道も、
わざと時間をずらした。
……璃子が話しかけてくる、その前に。
何度、璃子から連絡がきても——
俺は、素っ気無い返事をした。
……。
それから——自然に。
本当に自然に。
俺たちの距離は離れていった。
代わりに——
ゼミが終わるたび、
×××が璃子の隣にいる姿を見かけるようになった。
何かを話して。
璃子が笑って。
×××も笑って。
そんな、ごく普通の光景。
それだけなのに。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
……璃子は、笑っていた。
俺と話していた時と同じように。
いや。
もしかしたら——
それ以上に楽しそうに見えた。
その笑顔を見るたびに、
あの日——
俺が何か一言だけでも言えていたら……
そんな考えだけが、何度も頭をよぎる。
璃子が好きだ、と。
そんなの嫌だ、と。
せめて——
どうしたいのかだけでも聞いていたら。
未来は少し違っていたんじゃないか。
そんな”もしも”ばかりが増えていく。
……もちろん。
今さら考えたところで意味なんてない。
全部、自分で選んだ結果なんだから。
踏み込まなかったのは俺だ。
逃げたのも俺だ。
そのツケが、
今になって返ってきただけ。
……だけど。
分かっていても、苦しかった。
最初から——
俺と璃子じゃ、釣り合わない。
優しくて。
綺麗で。
誰からも好かれる璃子と。
……隣に立つのは、最初から俺じゃなかった。
最初から、
勝負にすらなっていなかったんだ。
そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
×××と並んで歩く二人は、
不思議なくらい絵になっていた。
「あの二人、お似合いだよねー」
そんな、誰かがしてる噂を、
頻繁に耳にする。
その度に——
俺も、そう思ってしまった。
だから。
二人が視界に入るたび、
俺は机に突っ伏した。
見たくなかった。
見れば見るほど、
自分が惨めになるから。
目を閉じても。
耳を塞いでも。
笑い声だけは、
どこまでも追いかけてくる気がした。
俺はただ——
現実から、目を背け続けた。
……
…………
数週間後——
大学から真っ直ぐ家へ帰ると、
そのままベッドへ倒れ込んだ。
スプリングが小さく軋む音だけが、
静かな部屋に響く。
体は疲れているはずなのに、
眠気はまるで来ない。
ぼんやりと天井を見上げる。
白い天井は、何も答えてくれない。
……少し前だったら。
今頃——
璃子と一緒にいたかもしれない。
講義が終わって。
駅前を歩いて。
他愛もない話で笑い合って。
——また、明日ね。
そう言って、
手を振り合っていたかもしれない。
そんな甘い幻想を振り払うように、
強引に目を閉じる。
考えるな。
忘れろ。
そう自分に言い聞かせても——
瞼の裏に浮かぶのは、
璃子の姿だけだった。
嬉しそうに笑う顔。
「ゆうくん」と名前を呼ぶ声。
遠くから、
手を振ってくれる姿。
俺も笑い返して。
璃子もまた笑ってくれて。
少し前までは、
それが当たり前だった。
なのに——今は。
その当たり前が、
もう二度と戻らないような気がしていた。
もう——
今さら何を後悔したって遅い。
そう思えば思うほど。
頭の中は璃子で埋め尽くされていく。
もし——
あの日に戻れるなら。
もし、もう一度だけやり直せるなら——
——プルルルルルッ。
突然、部屋中に着信音が鳴り響いた。
静寂を切り裂くような、大きな音。
思わず肩が跳ねる。
……電話か。
こんな時に。
今は、誰とも話したくない。
誰の慰めも、
励ましも聞きたくなかった。
重たい体を起こし、
気怠さを感じながらスマホへ手を伸ばす。
何気なく画面を見る。
——その瞬間。
俺の思考は、完全に止まった。
『
着信
稲葉 璃子
』
……え。
璃子……?
な、なんで。
どうして——
頭の中に疑問ばかりが浮かぶ。
あいつの告白を、
受けたんじゃないのか。
もう俺なんかに連絡してくる理由なんて、
きっと、ないはずなのに。
何かあったのか。
間違い電話か。
それとも——。
考えろ。
早く。
必死に頭を回転させる。
だけど。
焦れば焦るほど、何もまとまらない。
プルルルルルッ——
鳴り続けるコール音が、胸の鼓動と重なる。
ドクン。
ドクン。
心臓だけが、やけにうるさい。
出るべきか。
出ないべきか。
指先が震える。
……いや。
考えていても、答えなんて出ない。
ええい——
ままよ。
震える指で、通話ボタンを押した。
「もっ……もしもし…………」
恐る恐る、電話に出る。
数秒の沈黙。
耳元では、
自分の心臓の音ばかりがやけに大きく聞こえていた。
そして——
「もう……」
少しだけ拗ねたような声。
「出るのが遅いよ、ゆうくん」
……聞き慣れた、璃子の声だった。
その声を聞いた瞬間、
胸の奥で張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
「あ……ごめん……」
「ふふっ、別にいいよ」
電話越しでも分かるくらい、
璃子はいつもの調子で笑っていた。
その柔らかな笑い声に、思わず肩の力が抜ける。
……どうやら、怒ってはいないらしい。
いや——
そもそも璃子が怒る理由なんて、何もない。
勝手に距離を置いた俺が、
独り善がりに怖がっているだけだった。
……俺は、何をそんなに怯えていたんだ。
「……久々に、ゆうくんの声を聞いた気がする」
璃子がぽつりと呟く。
「……そう?」
「そうだよ」
少し笑いながら続ける。
「ゆうくん、誰とも一切話さないしさ」
「ずーっと、一人でいるし……」
図星だった。
「……ちょっと、イジんないでよ」
照れ隠しのように返すと、
「ふふっ……ごめんごめん」
璃子がくすっと笑う。
その笑い声が、懐かしかった。
ほんの数日前まで毎日のように聞いていたはずなのに。
ずっと昔の思い出みたいに感じる。
「ゆうくん……今、誰かと一緒にいる?」
不意に、璃子の声色が少しだけ真剣になる。
「……え?」
予想外の質問だった。
「いや……いないけど……」
部屋を見回す。
もちろん、一人だ。
……なんでそんなことを聞くんだろう。
そんなこと、
むしろ俺の方が気になっているくらいなのに。
今、璃子の隣には誰がいるんだろう。
×××は一緒じゃないのか。
そんな考えが頭をよぎる。
「そっか……」
璃子が、小さく息を吐く。
「よかったぁ……」
その一言には、
心底安心したような響きがあった。
……よかった?
どういう意味だ。
胸の鼓動が、
少しだけ速くなる。
何を言えばいいのか分からない。
聞きたいことは山ほどあるのに。
言葉が喉につかえて出てこない。
「……」
「……」
電話越しに流れる沈黙。
お互い息遣いだけが聞こえる。
その数秒が、何分にも感じられた。
そして——
「ゆうくん……あのね」
沈黙を破るように、
璃子が静かに口を開く。
その声は、どこか覚悟を決めたような響きを帯びていた。
「僕……×××君の告白を受けなかったよ」
「……えっ?」
心臓が、大きく跳ねた。
ドクン、と。
胸の奥で音が鳴る。
一瞬だけ。
抑え込んでいた希望が、
顔を覗かせる。
……いや。
期待するな。
また勘違いだったらどうする。
そう自分に言い聞かせながら、
「……そうなんだ」
できるだけ平静を装って返事をする。
声が震えないように。
気持ちが伝わらないように。
必死だった。
だけど——
どうしても、
一つだけ聞かずにはいられなかった。
「な……なんで……?」
その瞬間。
電話の向こうが、静まり返る。
璃子の息遣いが、ふっと止まった。
電話越しなのに。
空気まで凍りついたような気がした。
……え。
俺、何か変なこと言ったか……?
そうして、
しばらくすると——
電話口の向こうから、
かすかに息の漏れる音が聞こえた。
ほんの一瞬。
何かを諦めたような。
期待を胸の奥へ押し込めるような、
静かな吐息だった。
「やっぱり——」
「ゆうくんは、何もわかってないんだね」
璃子の声は、
怒っているわけでも責めているわけでもなかった。
どこか悲しそうで。
どこか寂しそうで。
それが余計に胸へ突き刺さる。
「僕が、なぜ君にこうやって連絡をしているのか……」
「本当に……わからないの?」
「考えようとも……してくれないの?」
一言、一言が。
まるで胸の奥に直接落ちてくるようだった。
そんなの——
本当は、俺だって分かってる。
分かっていた。
璃子が何を伝えたいのか。
何を期待しているのか。
そんなことくらい、本当は気付いていた。
だけど。
もし全部、俺の勘違いだったら。
もし告白して、「ごめんね」と笑われたら。
今まで築いてきた時間まで全部失ってしまう。
そう思うだけで、足が竦んだ。
だって——
俺と璃子とじゃ、釣り合わない。
その思い込みだけが、ずっと俺を縛っていた。
すると璃子は、小さく息を吐いて言った。
「——もういいよ」
静かな声だった。
諦めたような。
でも、どこか覚悟を決めたような声。
「僕は……君の優しいところが大好きだよ」
その言葉に、胸が締め付けられる。
「でも……今のままじゃ、嫌だ」
「優しいだけのゆうくんじゃ……僕は嫌だ」
「ずっと曖昧なままじゃ——」
「僕は、もう嫌なんだ」
電話の向こうで、
小さく息を吸う音が聞こえる。
「——だから……」
そこで璃子は言葉を止めた。
何かを言おうとして。
飲み込んで。
また黙ってしまう。
その沈黙が。
震える息遣いが。
どうしようもなく愛おしかった。
もう、十分だった。
これ以上、自分の弱さを言い訳にしたくない。
「……でも、もういいよ」
小さく笑った。
その笑い方は、
泣くのを我慢しているようだった。
「ここまで言っても伝わらないなら」
「もう、仕方ないよね」
「……じゃあね」
璃子が、
小さく別れを告げる。
「ゆうくん——」
その瞬間。
もう——
我慢するのはやめた。
「好きだっ……!」
気付けば、叫ぶように言っていた。
「俺は……璃子のことが好きだ……っ……」
「誰よりも、優しくて……」
「誰よりも、明るく笑う璃子が好きだ」
「もし……璃子が嫌じゃなかったら」
「俺と——付き合ってほしい」
息が苦しい。
胸が熱い。
「俺……優柔不断だし」
「すぐ、逃げるし」
「本当に……情けない奴だと思う」
「それでも——」
「それでも、俺は……」
「璃子の、隣にいたい」
言い終えた瞬間。
電話の向こうが、静まり返った。
……。
何も聞こえない。
璃子の息遣いまで止まってしまったようだった。
何秒経ったのかも分からない。
永遠みたいな沈黙。
「……え、」
耐え切れなくなって口を開く。
「な、何か言ってよ……」
返事が怖い。
でも、返事がない方がもっと怖かった。
すると。
「……ふふっ」
小さな笑い声が聞こえた。
その声だけで、張り詰めていた心が少しだけほどける。
「本当に、ゆうくんらしいね」
「……えっ?」
「……僕が、君の告白を断るわけないじゃないか」
その一言で。
世界に音が戻ってきた。
「僕も……ゆうくんのことが好きだからね」
その瞬間。
胸の奥で何かが弾けた。
信じられない。
夢なんじゃないか。
「……あの日、」
璃子が優しく笑う。
「君が僕のことを助けてくれた、あの時から……」
「ずっと……君のことが好きだったんだよ」
……。
……え、そんなに前から?
頭が、全く追いつかない。
「え……本当に?」
思わず聞き返してしまう。
「ふふっ」
「こんな時に、嘘なんてつかないよ」
優しい声。
泣きそうになるくらい、優しい声だった。
「ゆうくんはね」
「ずっと僕のことを……普通の女の子として見てくれた」
「見た目とかじゃなくて」
「ありのままの僕自身を見てくれた」
「優しくて」
「でも……ちょっぴり意地悪で」
「そんなゆうくんが……
僕はずっと好きだったんだ」
もう駄目だった。
璃子に——
今すぐ会いたい。
顔が見たい。
ちゃんと目を見て、この気持ちを伝えたい。
「……璃子、」
「俺さ」
もう、自分に嘘はつかない。
「璃子に、会いたい」
少しだけ間があって。
「僕も……ゆうくんに、会いたい」
その言葉だけで、
胸がいっぱいになる。
「……今から、会いに行ってもいい?」
恐る恐る、聞いてみる。
——すると。
「はぁ……」
電話の向こうで、
大きなため息が聞こえた。
「ゆうくん」
呆れたように笑いながら。
でも、とても嬉しそうに。
「そういうのはね——」
「何も言わずに……会いにくるものなんだよ」
思わず笑ってしまう。
だが——
そこで、ふと気付いた。
「あれ……」
「でも、バイトは?」
また璃子が黙る。
何かをモゴモゴと呟いている。
耳を澄ますと、小さな声が聞こえた。
「……こうなるかもしれないから」
「バイトがお休みの日に……電話したの」
電話越しでも分かるくらい。
璃子は照れていた。
「……じゃあ、待ってるね」
消え入りそうな、小さな声。
その一言だけで十分だった。
「うん……っ」
そう返事をするより早く。
俺は立ち上がっていた。
財布だけを掴み。
靴もまともに履かないまま玄関を飛び出す。
アパートの階段を、
駆け下りる。
夜風が頬を叩く。
今はただ。
一秒でも早く。
一歩でも早く。
俺は——
璃子に会いたかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ジュウヨンです。
昨日更新したばかりですが、
没入感があるうちに璃子との過去編を描き切りたくて、
今日も必死に書いていました。
璃子とのエピソードは書いていて本当に楽しいですし、
感情もたくさん込めました。
……とはいえ、作者としては早く本編を進めたい気持ちもあります。
何より、早く”今”の口裂け女に会いたいです。
キャラクター投票でもダントツでしたが、
やはりこの作品は口裂け女がいてこそ成り立つ作品だと思っています。
もちろん璃子も大切なキャラクターですが、
口裂け女が輝いてこそ、この物語は本領を発揮すると感じています。
次回は、付き合い始めから大学卒業、
佐々木が社畜化。
そして同棲を経て、
二人の関係が少しずつ変化していくところまで描く予定です。
書いているうちに予定より長くなる可能性はありますが、
おおむねこの流れで進めていこうと思っています。
今後とも、よろしくお願いいたします。