毒薬令嬢じゃありませんから〜婚約破棄された私を薬師として見出したのは、瘴気喰らいの辺境伯でした〜 作:鈍色シロップ
それからどうやって自分の屋敷に戻ったのか、まったく記憶にない。
気づいたときには、寝間着に着替えさせられて、自室のベッドの上にいた。
頭の奥がじんじんして、身体は鉛みたいに重い。
しばらく天井を見つめてから、ようやく上体を起こす。
窓の外はすでに明るい。
カーテンの隙間から差し込む光が、容赦なく目を刺した。
(……最低の夢ってことにしてしまえたら、少しは楽なのに)
昨夜のことを思い返そうとしても、最後に残るのは――
『君の薬は、毒薬などではない』
あの言葉だけだった。
枕元の水をひと口飲み、顔を洗ってから鏡を覗き込む。
そこに映っていた私は――ひどい有様だった。
目の下のクマは隠しようがないほど濃く、髪はオイルの名残と寝癖でぼさぼさだった。
あれほど整えてもらった葡萄色のドレスも、椅子の上でくしゃくしゃに皺になっている。
――『毒婦』
――『毒薬令嬢』
昨夜浴びせられた呼び名だけが、しつこく頭のなかで反芻される。
それを振り払うみたいに、タオルで水気を拭ったあと、自分の頬を軽く叩いた。
簡単に髪をまとめ、落ち着いたプラム色のドレスに着替えたところで、ようやく部屋を出る気になった。
廊下に出た瞬間――背中のほうで、ひそひそ声がした。
「……本当に、『毒薬令嬢』なんて呼ばれてるのかしら」
「しっ、聞こえるわよ……」
振り返ると、下働きの使用人たちが慌てて頭を下げる。
けれど誰も、私の目を真正面からは見ない。
(もう、屋敷にまで届いてるなんて……)
階段を降りると、ちょうど廊下の先に父と母の姿が見えた。
ふたりとも礼服に着替えていて、顔色は悪い。
「……起きたか」
父が低く言う。母はためらうように、
「……体調は? 顔色が酷いわよ……」
とだけ告げた。
「大丈夫です、お父様。お母様」
喉が少し震えたけれど、どうにか笑顔を作って頭を下げる。
父と母が一瞬だけ視線を交わし、口を開いたのは父だった。
「その……応接間に、お客様がおいでだ。北の砦を預かる辺境伯殿が、直々に」
思わず瞬きをする。
「昨夜、あの場にいらしたかた……ですよね?」
パーティー会場に現れた、軍服姿の長身の男の影が頭に浮かぶ。
父が、静かに頷く。
「ああ、陛下にも話を通しておられるらしい。……こちらとしても、粗相はできん。失礼のないようにな」
「……陛下? 国王陛下、ですか?」
なぜそこで陛下が出てくるのか、と疑問が浮かんだ瞬間――父が簡潔に言い切った。
「お前は知らなかったか。辺境伯殿は第五王子だ。……王族でありながら辺境伯を兼ねるなど、普通はありえん。それだけ北境が重いということだ」
「第五……王子……」
まさか、王族だったなんて。
途端に、昨夜の一幕が洒落にならないほど重く感じられてきた。
(父も母も、昨日のことを叱りもしないなんて……信じてくれているのか、それとも――どう扱えばいいか、迷っているだけなのかな)
……わからないことを考えても仕方がない。
いまは応接間へ行かなくては。
◇ ◇ ◇
応接間の扉をノックして、返事を待ってから入る。
昨夜と同じ軍服。
ゆるく撫でつけた黒髪のあいだに混じる、青灰色の筋。
辺境伯はソファから立ち上がり、こちらを一瞥した。
「お待たせいたしました、辺境伯殿。……娘のソフィアーナです」
父がそう紹介すると、辺境伯は軽く会釈してみせる。
「ロイベル・ヴァルデン・カストールだ。北の砦と、その周辺一帯を預かっている。……昨日ぶりだな、ソフィアーナ伯爵令嬢」
よく通るのに落ち着いた、低い声だった。
緊張で喉がカラカラになりながら、ドレスの裾を摘まんで礼をする。
「はっ、はじめまして……ソフィアーナ・エルネリアです。昨夜は、その……取り乱してしまい、失礼を……」
「取り乱していたのは、君だけじゃない」
短くそう返され、言葉に詰まった。
父と母も席につき、簡単な挨拶を済ませる。
辺境伯――ロイベルは、前置きもなく本題に入った。
「単刀直入に言おう。――北境で、君の力を借りたい」
「私の力を……北境で?」
問い返すと、ロイベルは表情を変えずに続けた。
「北の森から噴き出る瘴気は、知っているか?」
「……噂程度には。長くその場にいると、息が苦しくなったり、身体が重くなったりするものだと聞いています」
「そうだ。ここ数年で濃くなっている。どうにかできないかと、森の奥まで踏み込もうともした。だが、これ以上は危険だと判断して、途中で引き上げるしかなかった」
そこで一度、言葉を切る。
「……そうしているうちに、森の入り口を見回っていた兵から倒れていき、砦やその周辺でも息苦しさを訴える者が増えた。医者でも打つ手がない」
「そんな……そこまでひどい状況だったなんて」
言葉を失っていると、ロイベルはじっとこちらを見つめてきた。
「昨夜、君の薬を飲んだ時だ」
どきりと心臓が跳ねた。
なにを言われるのだろうという不安と、両親がどんな顔で聞いているのかを想像する居たたまれなさが、胸のなかでごちゃ混ぜになる。
思わず身構えた私に、ロイベルが告げたのは――予想外の言葉だった。
「一度だけだが、すっと息が楽になった」
「えっ……」
間の抜けた声が漏れた。
「瘴気とつき合って十年以上だ。あんなふうに息が楽になったのは、初めてだった。……だから、言っただろう? 君の薬は毒薬などではないし、それどころか――俺を少しだけ、楽にしてくれた」
「楽に……してくれた……?」
(辺境伯様の身体にも、瘴気の影響が出ているってこと……?)
父が、信じられないといった調子で声を上げた。
「辺境伯殿、それはつまり――娘の薬が本当に効いている、と? ああ、いえ……遠い昔、親族で薬師になった者がおったそうでしてな。少々変わってはいたが、腕は確かだったとか。娘は、その者の残した古い資料を頼りにしたと言うのですよ」
ロイベルはゆっくりと頷く。
「少なくとも、瘴気に蝕まれた者には『効いている』と見ていいだろう。……エルネリアには、優れた薬師の血が流れているらしいな」
父が背筋を伸ばす。
恐れ多さと、かすかな誇らしさが入り混じったような表情だった。
淡々とした口調なのに、その評価の一言一言が、私の胸にも深く染み込んでいく。
(でも……)
口を開いた瞬間――自分でも驚くほど、声が震えていた。
「……私は、素人です。本物の薬師のように、きちんとした教えや訓練を受けたわけではありません。昨日みたいに……誰かに『毒薬だ』と責められて、もし今度こそ取り返しのつかないことが起きたらと思うと――怖いんです」
ロイベルは、すぐには何も言わなかった。
しばらく黙ったまま私を見て、それからふっと視線を落とす。
そして――昨夜に続き、またも常識ではありえないことをした。
ソファから立ち上がり、私と父母の前で……静かに頭を垂れたのだ。
「やっ、やめてください! そんな、頭を下げないでください……!」
慌てて自分の腰を浮かせる。
父も母も目を見開いている。
ロイベルは顔を上げることなく続ける。
「北境は、瘴気に喰われつつある。日に日に弱っていく兵や民を、これ以上ただ見ているわけにはいかない。――どうか、俺たちのために薬を作ってほしい。君の力を貸してくれ」
王族で、しかも辺境を預かる身分の人間が、伯爵家の娘ごときに頭を下げるなんて。
もはや恐れ多いを通り越して、いっそ消えてしまいたいくらいだ。
けれど――
(――ああ、ずるい)
頭を下げたままの姿が、どうしようもなく真剣で。
本当に、心から兵と民のことを考えているのだと……誇りをかけて北境を守っている人なんだと、思い知らされる。
深く息を吸って、吐く。
「……わかりました」
自分の声なのに、妙に遠くから聞こえた。
「怖いのは変わりません。でも、救えるかもしれない人がいて……いまの私にできることがあるのなら、何もしないままではいたくありません。私に――やらせてください」
私の言葉に、ようやくロイベルが頭を上げた。
その黒い瞳の奥に、一瞬だけほっとした色が浮かんだ気がする。
「あっ、でも……条件があります! ちゃんと様子を見ながら作りたいので……私の知らないところで、勝手に配ったりしないこと。……それで、いいですね?」
こういうことは先に言っておいたほうがいい気がして、慌てて付け足した。
ロイベルは力強く頷く。
「約束しよう。君の知らないところで、勝手に使わせはしない」
ちゃんと受け止めてもらえたのだとわかって、気持ちが少しだけ軽くなる。
父と母のほうを振り向くと、ふたりとも難しい顔をしながらも、静かに頷いた。
ロイベルのほうへ向き直り、私は口を開く。
「……では、北境へ参ります」