毒薬令嬢じゃありませんから〜婚約破棄された私を薬師として見出したのは、瘴気喰らいの辺境伯でした〜   作:鈍色シロップ

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似たような日々を繰り返すうちに――朝に外へ出ると、城壁の石に薄く霜が降りている日も増えてきた。

 

砦や、すぐ近くの町で暮らす人たちの様子は、薬のおかげで前よりずっと安定してきている。

けれどその一方で……砦の外から診療に来て、軍医に「瘴気のせいかもしれない」とこちらへ回される人たちの顔ぶれが、少しずつ変わり始めていた。

 

砦からさらに離れた町や村からやって来る人が、目につくようになってきたのだ。どの人も、症状自体はまだ軽い。

咳が出るとか、胸がつかえるとか、その程度だ。薬を飲めば、いったんは楽になる。

……なのに、しばらくするとまた、同じ顔ぶれが戻ってくることが多くなった。

 

(瘴気の影響が……砦の外まで広がってる?)

 

そう思いながら、瘴気に関する診療の記録に印をつけていくうちに――同じような違和感を口にする人たちの声が、砦のあちこちから聞こえるようになってきた。

兵長もまた、眉をひそめて、

 

「嫌な増えかただな……」

 

とだけ漏らしていた。

 

そうして、不安だけが少しずつ膨らんでいった、ある日のこと。

私は兵長と一緒に、砦の会議室で診療のまとめを報告していた。

 

机の上の地図には、瘴気の症状が出始めた町や村の名に、小さな印がいくつも増えている。

ロイベルは地図に目を落としたまま、口を開いた。

 

「……見張り台の兵からも、『森の上にかかる黒いもやが、日に日に濃くなっている』と報告が入っている。森から噴き出る瘴気の勢いが、増しているのかもしれん」

 

「黒いもや……ですか?」

 

私の声に、ロイベルが短くうなずいた。

 

「ああ。濃すぎる瘴気は、黒いもやとして目に見えるようになる。……いずれ、王都にも伝えねばならんだろう」

 

重い沈黙が部屋に落ちかけた――その時だった。

会議室の扉が慌ただしく叩かれ、伝令の兵が駆け込んでくる。

 

「正門より報告です! ……王都からの使者が、到着しました」

 

「王都から? ……ずいぶんと急だな」

 

わずかに眉を寄せたロイベルを見て、事前の報せすら入っていなかったのだとわかった。

会議室の空気が、ぴんと張り詰める。

 

(こんなこと、北境に来てから初めてだ……)

 

嫌な予感に、身体が強張る。

ロイベルが、ちらりとこちらへ視線を向けた。

 

「この辺境まで来るとすれば、瘴気絡みの用向きかもしれん。念のため、ソフィアーナ嬢も同席してくれ」

 

「……はい」

 

鼓動が急に早まっていくのを自覚しながら、私はロイベルと兵長のあとに続いて会議室を出た。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

砦でいちばんそれらしい部屋――謁見室に入ると、まずロイベルが奥へ進んだ。

その背後に兵長や副官たちが並び、私は列のいちばん端よりさらに外れた、壁際の位置に控えた。

ほどなくして、扉の外から兵の声が響く。

 

「王都よりの使者、お通しします」

 

開いた扉の向こうから、旅装のままの使者がひとり、部屋のなかへ入ってきた。

上質な生地で仕立てられた王都式の軍服の胸元には、王家の紋章が縫い取られている。

その後ろには、護衛の兵が数人続いていた。

 

中央まで進み出た使者が、ロイベルへ向かって一礼する。

 

「お初にお目にかかります、ロイベル殿下。王都よりの使者として、陛下の命を受け参りました」

 

「遠路ご苦労だった。……用件を聞こう」

 

ロイベルの低い声に、使者は「はっ!」と背筋を伸ばしたまま答える。

 

「北の森から流れ出た瘴気が、想定より早く南下しております。王都近郊でも息苦しさや頭痛、発作を訴える者が増え、医師も神殿も対応に追われている状況です」

 

王都近郊でも――その言葉に、背筋がひやりとした。

 

(もう、そこまで広がっているの……?)

 

診療部屋で見てきた、砦から離れた町や村の人たちの姿が頭によぎる。

王都に残してきた家族は、大丈夫だろうか――そんな不安も胸をかすめた。

 

使者は淡々と続ける。

 

「なかでも……レルード侯爵家のご子息ルシアン様が倒れられ、いまは話すこともできぬほど重い症状で臥せっておられるのです」

 

(……ルシアン?)

 

最近はあまり思い出すこともなかった、ルシアン――元婚約者の顔が浮かぶとともに、砦に来てまもなくのころの記憶が蘇った。

瘴気の影響を受けた重症者のなかには、横たわったまま、返事すらできなかった者もいた。

 

(そんなに……悪いんだ……)

 

呆然としたまま、私は次の言葉を待った。

 

「……ルシアン様は、つい数ヶ月ほど前にも深刻な症状で倒れられております。王都で瘴気の症状が広がり、北境からの報告と照らし合わせた結果――それもまた、瘴気の影響だった可能性が高いと考えております」

 

全身の体温が、一気に下がった気がした。

あの時、誰にも原因のわからなかった不調すら、いまになって「瘴気のせいだった」とわかるなんて。

……けれど彼を可哀想だと思うよりも先に、婚約を破棄された時の記憶が蘇る。

 

(いい気味だわ……バチが当たったのよ。あんなふうに人を、貶めたりなんかするから)

 

なんて――そう思えたなら、どんなに楽だったか。

ルシアンへの未練なんてないけれど、それでも……いままで見てきた「瘴気で苦しむ人たち」の姿に、どうしても彼が重なってしまう。

 

使者は、わずかに間を置いてから、あらためて用件を告げた。

 

「このように、すでに有力貴族の家にも被害がおよんでおり、王都の混乱も看過できぬ段階に入っております。北境で症状を抑える薬が用いられているとの報告を受けた陛下は、王都への支援を命じておられます」

 

話を聞き終えたロイベルは、すぐには答えなかった。

一度だけゆっくりと頷いてから、使者をまっすぐ見据えた。

 

「王都の状況は理解した。だが、そこまで被害が広がっているのなら……症状を抑えるだけでは、もはや追いつかんだろう。大量の薬をすぐに用意するのも難しいが、それを抜きにしてもだ」

 

使者は言葉を失ったように見えた。

私も、その返答の意味をすぐには飲み込めなかった。

 

(抑えるだけじゃ追いつかないって……じゃあ、どうすればいいの……?)

 

誰も口を開かないまま、数秒が過ぎ――重い沈黙を破ったのは、ロイベル自身だった。

 

「……ひとつ、考えがある。いまなら、瘴気の大元に近づいて――どうにかする手がかりくらいは、掴めるかもしれん」

 

「どうにかする……手がかり?」

 

つい繰り返してしまい、慌てて口をつぐんだ。

 

けれど……瘴気が噴き出る森の奥へは、これまで踏み込むことすらできなかったはず。

一体どうするというのか、想像もつかなかった。

 

ロイベルは一度だけこちらを振り返ると、すぐに使者へ向き直る。

 

「――俺が、森の奥まで行く」

 

謁見室の空気が、凍りついた。

 

「殿下、まさか……おひとりで行かれるおつもりですか。それだけはいけません。そんなことをすれば、お命に関わります」

 

兵長がすぐに、強い口調でロイベルを止めた。

途端に、嫌な汗が背中を伝う。

 

ロイベルは「瘴気喰らい」と呼ばれるほど、身体に瘴気を取り込みやすい体質だ。

そのぶん、他の人間よりは瘴気に耐えられると聞いている。

普通の兵では近づけない場所へ踏み込めるとしたら、たしかに彼しかいない。

頭では、そうなんだろうと思う。

 

(でも、そんなの……私だって止めたい)

 

どうしたらいいのかわからないままでいると……ロイベルが、わずかに息を吐いた。

 

「心配するな。さすがに俺も、無策ではない。――ソフィアーナ嬢」

 

「えっ……? は、はい……っ!」

 

背筋を伸ばして返事をする。

振り向いたロイベルが、視線だけで前に出るよう促してきた。

 

「……?」

 

戸惑いながらも、私は足早に彼の隣へ並んだ。

 

「薬を作っているのは、ここにいるソフィアーナ・エルネリア伯爵令嬢だ。いま北境にある薬は、必要なぶんを残したうえで王都へ送る。そのうえで、俺が森の奥へ踏み込むための薬を――これから新たに作ってもらう」

 

「森の奥へ……踏み込むための薬? それって……どういうことですか!?」

 

自分でも驚くほど大きな声が出た。

謁見室だということも、一瞬だけ頭から吹き飛んでいた。

ロイベルはこちらへ顔を向け、私の目をじっと見た。

 

その目の奥にある覚悟が、あまりにも揺るがなくて、呼吸すら忘れそうになった。目を逸らしたくなった。

けれど、ここで逃げたら――その覚悟ごと見ないふりをすることになる気がして、できなかった。

 

「君の薬は、これまで瘴気の症状を抑えるためのものだった。だが今回は違う。森のなかで瘴気を取り込み続けても、すぐ倒れないための薬が要る。その薬を作ってほしい」

 

「まっ……待ってください……!」

 

叫ぶように言ったはずなのに、語尾が掠れた。

 

「それって……命に関わるほどの瘴気を、取り込み続けるってことですよね……!? もし途中で薬が足りなくなったら、どうするんですか……それどころか、薬が効かなくなったら……っ!」

 

「――そんな顔をするな」

 

ひどく静かな声だった。

兵長に止められても、私に詰め寄られても、ロイベルは少しも揺らいでいない。

それがかえって、彼の本気を突きつけてくる。

 

「限界は見極める。無理だと判断した時点で、すぐ退く。だから――ソフィアーナ嬢。俺には、君の薬が必要だ」

 

胸の奥が、ぎゅっと詰まった。

頼られたことが嬉しいはずなのに、それ以上に怖かった。

ここで私が何を言っても、この人の覚悟は変わらない。

 

なら――せめて。

 

「……わかりました」

 

さっきまで震えていたはずの声は、嘘みたいに落ち着いていた。

 

「辺境伯様が森の奥へ向かうための薬は、作ります。ですが……効き目を上げれば、そのぶん身体への負担も強くなります。その調整は――譲れませんので」

 

そう言い切って、唇を引き結ぶ。

ロイベルの顔を見つめ返すと、彼はわずかに目元を和らげた。

 

「ああ。君に任せる」

 

短くそう答えると、ロイベルはそのまま使者へ向き直った。

 

「王都へ送る薬はこちらで用意する。副官、取りまとめを急げ」

 

「はっ」

 

副官が答えると、使者も深く頭を下げた。

 

「殿下。王都へ送る薬の件、確かに承ります」

 

「ああ。陛下には、北境でも事態の収束に向けて動くと伝えろ」

 

それからロイベルは、兵長たちと今後の段取りを話し始めた。

皆が慌ただしく動き出すなか、私はひとつだけ、深く息を吸った。

 

(これまでとは違う薬を、本当に作れるかなんてわからない……それでも、やるしかないんだ)

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