「何?」
玄関のドア開けると、そこには少し申し訳なさそうな顔をした朋子が立っている。
そんな顔をするんだったら、最初から来なければいいのに。
そんなことを思っている間にも、さっきの閃きが両手からこぼれ落ちて、どこかに消えていく感覚がある。
今更、話を切り上げても、あれはもう元には戻らないだろう。
「何?」
黙っている朋子に、私はもう一度言う。
「あ、あのね・・・ 私、みどりに謝らなきゃいけなくって・・・」
朋子はやっと決心がついたかのように、絞り出す。
そりゃそうだ。
朋子は私に対して、いくら謝罪しても、し足りないはずだ。
いつも特別扱いしてごめんなさい。一度もわがまま言わないでごめんなさい。優し気な顔でごめんなさい。家にパパがいてごめんなさい。
私だけ幸せでごめんなさい。
でも朋子の謝りたかったことというのは、そのどれでもなかった。
「あのね・・・ 昨日、模試の封筒届けに来たでしょ? その時ね・・・ あったんだ・・・」
朋子の話は珍しく、要領を得ない。
「何が」
「・・・心臓」
「・・・え?」
「私が来た時、みどりの玄関の前に、心臓があったの・・・」
意外過ぎる告白だった。
じゃあ、朋子は目の前の心臓を放っておいて、そのまま帰ったってこと?
「だって、うちだとネコがいるから心臓の管理なんて出来ないし・・・ まだ元気そうだったし・・・ それに私に拾われるより、みどりに拾われた方が幸せになれるだろうし・・・ それに・・・」
朋子は延々と自分に悪意はなかった、不可抗力だったといった内容をつらつらと並べ立てる。
でもそんなことは、私には関係ない。勝手に朋子が反省していればいいことだ。私だったら反省の必要も感じないけど。
朋子だってそのくらいわがままになっていい。
「誰か置いて行ったような人、見た?」
私は朋子がごちゃごちゃと言っているのを遮って尋ねる。
「・・・ううん。私が来た時は誰もいなかったよ」
「そっか・・・」
その瞬間、私の手には、さっき逃げて行ったと思っていた閃きが戻って来た。
やっぱりそういうことだ・・・
「うん、朋子、ありがと」
「え?」
「じゃあね」
私は戸惑っている朋子を置き去りにして、ドアを閉めると、自室へと急ぐ。
そこには円筒水槽の中で、何事もなかったかのように、いや、実際何事もないんだけど、とにかくいつも通りに拍動している心臓がある。
これ、母親のだ・・・
私が帰って来た時には何もなかった。
その後で母親が出勤して行った。
そして朋子がやって来て、心臓を見つける。
これはもう決まりだろう。母親は自分の心臓を落としたまま、気付かずに仕事に行ったんだ。
そう思って見れば、確かにいかにも不健康そうな心臓だ。
母親は夕方、スーパーで二時間くらいのパートをした後、そのまま夜の仕事に直行する。
少しうちの事情を知っている人は『お母さん一人で大変でしょう』なんて言うけど、何のことはない、母親はおしゃれをしてちやほやされるのが好きなだけだ。しかもそこではただ酒がいくらでも飲める。
私は一度、寝ている母親のバッグを漁り、その店を特定してこっそり見に行ったことがある。高級そうな店で、入って行く男はみんな金持ちそうに見えた。
あんな男たちに媚びているのかと思うと、吐き気がする。
でもそのおかげで母親は金回りがいい。
正規の給料の他に、店の外でも客の男たちからお金や物品を貰っていると言っていたし、市の一人親世帯への給付金も貰っていて、お父さんから養育費まで取っている。
そのせいで私のお小遣いは、周りが聞いたらびっくりするような額になっている。
それにわざわざ申請して、一人親用の余剰時間も受け取っている。私は高校生なので一日一時間しか給付されないけど、多分その時間で遊び歩いているのだろう。
母親は手料理を作るのも、娘の話を聞くのも、一緒に買い物に出かけるのも、全部お金に換算して、お小遣いの中に含めたのだろう。『お金は出すが人は出さない』そんな批判が母親にも当てはまりそうだ。
まぁ、相手に関心がないのはお互い様だから、いいんだけど。
私は溜息をついて、円筒水槽の中の心臓を眺める。
さて、どうするか・・・
とりあえず今までの神秘的な、何となくわくわくするような感情はなくなってしまった。
返すのが一番なんだろうけど、基本、私と母親の生活はすれ違いが多い。
私が学校から帰ってくる時には出勤しているし、母親が帰って来るのは夜中で、私は寝ている。かといって、黙ってリビングに置いておけば、何も考えずに捨ててしまうかもしれない。
「・・・めんどくさ」
そう呟いてベッドに寝転び、ファッション誌に手を伸ばした。
どうせ困っていないんだろうから、言われたら返せばいいや。それまでの管理費と引き換えに。
これ以上、母親のことで悩むなんてまっぴらごめんだ。
そうして夕食とお風呂を済ませ、SNSを眺めてベッドに入る。
代わり映えのしない日常だけど、その日はガチャッという玄関の音で目が覚めてしまった。
まだ辺りは真っ暗だ。
部屋の外から、ドタ、ドタ、と不規則な足音が聞こえてくる。母親だ。
いつもだったらもっと静かなのに、たまにこんな風に騒がしく帰って来ることがある。調子に乗って飲み過ぎたんだろう。
母親のそんな姿を何度も見ているので、私は酔っぱらいが一番嫌いだ。
時計を見ると、午前2時過ぎだった。
何でこんな時間に起こされなきゃいけないんだ。
軽く頭痛がする。そのせいで眠りが浅くなって起きてしまったのかもしれない。
私は再び布団を引っ張り上げた。
そして気付けば朝になり、目覚ましのアラームが鳴っていた。
目覚ましを止めてのろのろと起き上がるけど、夜の間の頭痛はまだ続いている。
私は薬を飲むと、母親の部屋をそっと覗いて見る。
母親は外出着のまま、ベッドにうつ伏せになっていた。肩がかすかに動いているので、死んではいない。
だらしない・・・
私は部屋のドアをそっと閉める。
そうして自分の部屋に戻り、円筒水槽の心臓を眺める。
本人もこれくらい静かにしていればいいのに。
そんなことを思いながら、心臓の様子を観察する。
そこで私は違和感を覚えた。
・・・これ、徐脈になってない?
別に心臓の血色は悪くなっていないし、水が濁っているわけでもない。
昨日の時点で計ったわけじゃないからはっきりとは言えないけど、何となく昨日とは違う気がする。
拍動を数えてみると、三十秒で26回。一分で52回だから、やっぱり徐脈になってる。
もしかして、そのせいで母親はベッドにぶっ倒れているのだろうか。
私はもう一度、母親の部屋を覗こうとして、やめる。
まぁ、軽度だし、急ぐほどのことでもないだろう。学校に行く途中に、朋子に聞いてみよう。どうせいつもの場所で待っているんだろうし。
そうして支度をして、家を出る。
やはり朋子はマンションの少し先で、自転車を停めて待っていた。
「おはよう、みどり」
朋子は相変わらず、『何がそんなに楽しいの?』と聞きたくなるような笑顔だ。
そして余計なことは言わずに、私に付き添うように歩き出す。
「おととい拾った心臓なんだけどさ」
「うん」
しばらくしてから私がそう切り出すと、朋子は待ってましたとばかりにこちらに視線を向ける。
「今朝、ちょっと心拍が遅い気がしたんだけど、大丈夫かな?」
たったそれだけの情報では答えようもないと思うけど、それでも朋子は首をかしげる。
「徐脈? 一番可能性があるのはカリウムの上昇だけど、リンゲル液とか心臓の様子はどうだった?」
「リンゲル液は濁りもなくて透明のまま。心臓の色調はよかったし浮腫もなし」
「じゃあ、広範囲の壊死や感染はないかな。急性の虚血でもないだろうし・・・ 徐脈の程度は?」
「まぁ、軽度かな。52回」
「その程度だったら、心筋壊死はないかな。カリウム濃度とかpHが分かればいいんだけど・・・」
朋子はスラスラと答える。これは最初から知っていたのか、それとも心臓を私に押し付けた罪悪感から、いつでも答えられるように調べておいたのか。
「そうだ、保温はしてる?」
「・・・ううん、してない。ヒーターいるの?」
なんだか思ったよりも面倒そうだな、心臓の管理。
「今の時期だったらなくても死ぬことはないと思うけど、あった方がいいかな。低体温だと徐脈になりやすいから」
「ふ~ん・・・ 何度くらいがいい?」
「36.5度でいいと思う」
朋子は即答する。うん、よく勉強してるね。
私はさっと、今日の時間割を思い出す。面倒なのは英語の小泉くらいだ。
「今日、具合悪くて休みだって言っておいて」
「え?」
私は朋子を残して、家に引き返す。
マッキが開くにはまだ早いけど、途中で抜けるよりは最初から行かないほうが簡単だ。
私は部屋に戻ると、心臓の様子を確認する。
これで徐脈が治っていたら無駄足になるんだけど、そんなことはなかった。心拍は一分で52回のまま。
これがヒーターの導入でどのくらい変わるのか、そしてそれが母親に対してどのように反映されるのか、楽しみだ。
私は9時まで待って、マッキにヒーターを買いに行く。
リンゲル液や水槽が売っているんだから、ヒーターもあるだろうと思ったんだけど、その読みは正しかった。
水槽の向こう側の棚にはヒーターやエアレーション装置、そして本格的な灌流装置なんてものもあった。でもそこまで大きなものはいらないし、何より部屋に置くにはかわいくない。
そうして私が見付けたのは、この前買った円筒水槽専用の台座型ヒーターだった。薄いプレートの上に水槽を嵌めるだけで、水槽の底のガラス面を通して水を温めてくれるらしい。これなら配線が目立つこともないし、水槽の中は心臓だけなので見栄えもいい。
直接、水槽内にセンサーやヒーターを入れる方が精度は高いらしいけど、やはりここは見た目重視だ。
私はそのプレート式のヒーターと、水槽に張り付けるデジタル水温計、そして念のために、水替え用のリンゲル液も買った。
そして帰ると、すぐに水槽をセットして、目立たない場所に水温計を貼り付ける。
それだけで、いかにも生き物を飼っている水槽、というふうになる。
私は満足して、ベッドに横になる。
薬を飲んだのに、頭が重い感じはまだ治らない。ただのサボりのつもりだったんだけど、これじゃあ、本当に体調不良の欠席だ。
もったいないなぁ。
そんなことを考えながら、私はすぐに寝入ってしまったようだ。
そして目を覚ましたのは、午後一時過ぎ。
その時には頭痛はきれいさっぱりなくなっていた。気付かないうちに疲れていたのだろうか。
水槽の温度を確認すると、設定温度と同じ、36.5度になっている。流石にこの水槽専用だけあって、精度は確保されているようだ。
そして心拍は三十秒で32回、一分で64回。低め安定といったところか。
さて、本体は?
リビングに行くと、スマホをいじっていた母親がこちらの方をちらりと見る。
「学校は?」
そう尋ねてくるけど、そこには疑問も非難も何もない。『親が子どもにかけるべき言葉』の中から一つ選んで、口にしただけだ。
「具合悪かったから休んだ」
「そう」
私たちの会話はそれだけ。
母親はまたスマホをいじり始め、私は冷凍庫から市販の冷凍パスタを出してレンジに入れる。
その間にさりげなく母親の様子を観察する。
まだ出勤時間には早いからメイクはしていないけど、ぐちゃぐちゃになっていた髪は整えられている。ここから見る限りは、肌の色艶もよさそうだ。
「夜中に大声出しながら帰って来たの、覚えてる?」
「あ~、ごめん」
私がカマをかけると、母親は謝った。何も覚えていない状態でも、家には帰って来られるらしい。
「仕事、行けるの?」
「別に具合は悪くないから」
母親は視線を挙げることなく答える。やはり母親の体調は心臓と連動しているようだ。
「そう」
私は出来上がったキノコソースのパスタを持って、自室に戻る。
そこには保温され、元気に拍動する心臓。
私の管理が必要な心臓。
私は今までのような一方的な依存ではなく、母親と対等になったように感じていた。
毎日、円筒水槽の水温をチェックする。
二日に一回はリンゲル液の水替えもする。
それが日課になっていった。
そうして密かな支配感を覚えていたある日、いよいよ明日は月一回のお父さんとの面会の日、という時だった。
「来月、引っ越しすることになるけど、いいよね?」
いつもなら昼近くまで寝ている母親が、珍しく起きだしてきたと思ったら、そんな風に言ったのだった。
言葉の上では『いいよね?』などと疑問文になってはいるけど、その実、ただの決定事項の報告で、私に選択肢などない。
自分以外の人間に、都合などというものがあるとは考えていないのが、母親の特徴だ。
「来月から支店の方で管理者やることになってさ。給料はいいんだけど、拘束時間も長くなるから、支店の近くに引っ越さないとね」
「どこに引っ越すの?」
そう聞くと、母親は隣の市の地名を口にした。
かなり遠い。
そこから今の高校に通うのはさすがに無理だ。転入先を探したり、また一から人間関係を作ったりと、面倒なことになりそうだ。
でもそれより問題なのは、お父さんの住むところと正反対に移動してしまうことだった。
今でもお父さんは遠い所をわざわざ待ち合わせ場所まで来てくれている。それがさらに片道一時間近くも増えたら、これまで通り会えるのだろうか。
母親が、わざとそっち方面を選んだのではないかとも、勘ぐってしまう。
「私だって我慢してるんだから、あなたも我慢してくれるでしょ」
一体、誰のために何を我慢しているというのか。自分のことしか考えていないくせに。
とにかく、引っ越しは嫌だ。
どうして私がこんな母親のために、交友関係を一から作り直すなどという面倒なことをしなくちゃいけないんだ。
でも私一人で何ができるだろう。
いくら心臓を管理してやっているとはいっても、母親はそのことを知らない。
生活費は全て母親頼りだ。
私は無言で引き下がった。
それを母親は了承と受け取ったのだろう。何も言わずにスマホに目を落とすのだけが見えた。
私は自室でベッドに寝転がる。
今何を言っても始まらない。『一人で生活できるの?』と言われればお終いだ。
じゃあ、どうするか・・・
サイドチェストの円筒水槽の中の心臓は、少し元気がなさそうに見えた。
断定的に言っていたけど、母親にも迷いはあるということだろうか・・・
ここで選択です。
一人で生活することなどできない。お父さんに助けを求める、という場合は『第4章』へ
これは二人の問題だ。ケンカしてでも我を通してやる、という場合は『第5章』へ