私は机の上の卓上カレンダーに目をやる。
明日の日付には小さく印をつけてある。待ちに待った、お父さんとの面会日だ。
お父さんはいつだって、離婚した後だって、私の味方だった。
いつも私の話を聞いてくれるし、一緒にクレープも食べてくれる。
きっと明日だって、引っ越したくないと言えば、何とかしてくれるだろう。少なくとも母親に対して、『娘の意向を無視するな』くらいの抗議はしてくれるはずだ。
あわよくば、そこで話がこじれて、『じゃあ、あなたが面倒見れば』となってくれれば、最高なんだけど・・・
正直、私は二人の離婚理由を知らない。
なぜ母親が私の親権を持つことになったのかも。
最初は単純に、母親が客と不倫したんだろうと思っていたけど、今ではその線は薄いと思っている。
母親の倫理感を信用しているわけではなく、単に計算高いからだ。
あの母親が感情に流されて、『安定した幸せな家庭』という看板を捨てるわけがない。
店に来る客など、その財布の重さでしか評価していないに決まっている。ただのお金の入り口に過ぎない。
そして私は、お金の出口に過ぎないのだろう。
なぜ母親は私の親権を要求したのだろうか。やはり、お金や時間を受け取るためなんだろうか・・・
次の日、私はまだ寝ている母親を放っておいて、出かける準備をする。
折角の面会日だというのに、気分は晴れない。
どうすればお父さんに協力してもらえるだろうか。何かうまい手を考えてくれるだろうか。
それだけが気掛かりだった。
ふと見れば、心臓は少し元気がないような気がした。
水温は36.5度で、いつも通り。水替えも昨日したばかりだ。
多分、本体の方の不調が、心臓に現れているのだろう。
引っ越しについて、母親の方でもこれだけの心労があるということなのだろうか。
でも今は心臓を観察している時間はない。
私は自転車で、いつもの待ち合わせ場所にしている公園に向かう。
よく晴れた休日の午前中ということで、公園の中はどこも子ども連れでいっぱいだ。
道沿いには露店も並び、華やかさを演出している。
本当はもっと落ち着いた雰囲気の所がいいんだけど、国道沿いで大きな駐車場もあるので、待ち合わせ場所はずっと、ここにしている。
今日くらいは別の場所にした方がよかったかな・・・
そんなことを考えながら公園の駐車場に入ると、いつも通りの場所にお父さんの車がある。お父さんはそのすぐそばのベンチで、公園で遊ぶ子どもたちの方を眺めていた。
「お父さん」
「お、みどり、おはよう」
私が声を掛けると、お父さんはいつもの優しい笑顔で振り返る。
その笑顔だけで安心してしまい、何から話そうかなという準備が吹き飛んでしまう。
私はお父さんと並んで、温かな日差しの中をぶらぶらと歩く。
お父さんは途中でホットドッグを買ってくれた。たっぷりのケチャップを犬肉に絡め、こぼさないように食べる。
笑いあって食べるその味は格別だ。一人では何を食べても、こんなにおいしくはない。
「お父さんは心臓、拾ったことある?」
私はいつも、ここ1カ月の出来事をお父さんに話している。
今日の話題は何と言ってもこれだ。
「小さい頃に一度だけな。お前、拾ったのか?」
「うん、このくらいの。大人サイズだって」
私は自分の握り拳を見せる。
「へぇ~、今時珍しいな。ちゃんと管理できてるか?」
「うん。友達に聞いて、保温と水替えもしてるよ」
私は得意気に返す。
「そうか。みどりは細かい事にも気が回せるから、向いてるかもな。大切にしてやれよ」
「・・・うん、分かってる」
そのお父さんの言葉に、私の心はチクリと痛んだ。
別にお父さんは母親を大切にしろと言ったわけではない。一般論として、拾った命を粗末にするなと言っただけだ。
それなのに私は、母親を押し付けられたように感じてしまう。完全な被害妄想だ。
そんな私の反応に、お父さんはすぐに気が付く。
「・・・何かあったのか?」
「うん・・・」
嫌な話は後回しにしようと思っていたけど、もう話してしまおう。
「お母さんね、引っ越しするって」
そう切り出して、引っ越し予定地を言うと、お父さんは少しだけ真顔になった。
やはり、月一回とは言え、往復で二時間の追加はそれなりの負担になるのだろう。
「・・・そうか。みどりはどうなんだ? 転校することになるんだろ?」
「うん、私の方は平気。学校は何とでもなるから」
心配そうなお父さんに、ついそんな風に言ってしまう。本当は転校なんかしたくないのに。
「そうか。お父さんの方は大丈夫だぞ。どこへだって会いに行くさ」
お父さんは笑いながら言う。
「流石に毎日は無理だけど、毎週だって会いに来たいくらいなんだ」
「ホントに~?」
「本当だよ。それにこっちでも報告することがあってな・・・」
私はお父さんの照れたような言葉遣いに、咄嗟に身構えてしまう。
でもお父さんの言葉は止まってくれない。
「再婚、するかもしれない。向こうには中学生の娘さんがいてな。新しいお姉ちゃんができるって楽しみにしてるんだ」
「へぇ~。よかったじゃない」
私は精一杯の喜びを込めて、そう言った。
「じゃあ、来月とか、会えるのかなぁ」
ダメ押しで、精一杯の期待も込めてみる。
「おう。お前がよければ連れて来るよ。後で、いつがいいか決めような」
「うん。お願いね」
何のことはない約束。それが私には決定的だった。
今までは別れ際に二人で次の予定を決めていた。
でももう、二人だけでは決められないんだ・・・
お父さんは私だけのお父さんじゃなくなったんだ・・・
それから後のことは、何も覚えていない。
ただ車で帰っていくお父さんを見送った時に、この距離がそのまま心の距離だと思ってしまったことだけは覚えている。
その後、どうやって帰って来たのか、最初に目に付いたのは自室の円筒水槽の中の心臓だった。
朝よりももっと弱々しくなっている心臓。
私がこの心臓を大切に管理していかなければならないんだ。
公園でお父さんの言った言葉が、重々しくのしかかってくる。
母親は私に無関心。
私も母親に無関心。
二人をつなぐのは、この心臓だけ。
私はこれから先、ずっと誰にも必要とされないまま、ただこの心臓を管理していかなければならないんだろうか。
私はあの時、強がりだとばれてもいいから、『もう会いに来なくていいよ』と言わなかったことを後悔していた。
心臓は弱々しく、でも規則的にずっと拍動していた。
――― 孤立エンド