無彩の墓守/色彩の墓標
――頁が捲られる。
乾いた音だった。
世界のあらゆる音を押し潰す、冷酷な音だった。
ここは「天座の書架」。無数に配置された書架。そこには、色とりどりの本が並んでいる。
果ても天井も見えないほどの、無限の本棚で構成された空間にその音は不気味に響き渡る。
それは――世界の物語だった。
「この物語は今ひとつ盛り上がらなかったわね……」
本棚の隙間から漏れる微かな光を浴びて、一人の女が溜息をついた。
この世の物とは思えぬ美貌。透き通るような肌は、磁器のように滑らかで、その瞳には星々の運行さえも退屈な日常として映っている。
女神、ミュトス。
彼女は、手元に開かれた一冊の本――『リベラ・オルビス』と題されたその頁を、細く白い指先で無造作に繰っていく。
「悲劇的な場面が多い所は好みだけれど、それ一辺倒というのも……ねぇ? 少しくらいは喜ばしい展開も入れてくれないと物語にメリハリがなくて退屈してしまうじゃない。読者というものは我儘なのよ」
ミュトスは、物語の終盤に差し掛かった頁を見つめ、つまらなさそうに目を細めた。
そこには、一人の少女が絶望の中で命を落とし、それを見た勇者が戦意を喪失して魔王に膝を屈する凄惨な幕引きが綴られていた。彼女にとっては、それは「カタルシスのないバッドエンド」という評価に過ぎない。
「もう少し主人公に気概があればよかったのかしら? あるいはもっと力があれば違う結末になるかしら? あの物語ほどの感動には、なかなか出会えないものね……」
ミュトスが視線を上げた先。そこには、この神聖な書架において明確な「異物」が存在していた。
みすぼらしい格好をした一人の人間。その身体は、本棚の間に打ちつけられた巨大な十字架に磔にされており、四肢を縛る鎖は、吸い込まれそうなほどの漆黒に染まっている。
その男はかつて、「勇者」と定められ、世界を救う役割に選ばれた人間。
男は女神の言葉に応えない。ただ、そこに在るだけだ。
彼の視線は、眼下に広がる異様な光景に釘付けにされていた。
白、赤、白、白、青、白、赤、緑、白、緑、白、青、白、白、白。
彼の周囲には、夥しい数の剣が地面に突き刺さっている。
赤い剣は、炎に包まれ、失意と共に死んだ騎士の少女との研鑽の記憶。
青い剣は、真理に絶望して自ら命を絶った賢者との学びの記憶。
緑の剣は、平和を祈りながら蹂躙された聖女との語らいの記憶。
そして、それらを囲む無数の白い剣は、何者にもなれず、何の色も得られぬまま、道半ばで世界から『脱落』した無名の勇者たちの記憶。
それは、数多の『物語』たちの「成れの果て」だった。
「随分長いことそこに繋がれたままだんまりと……そろそろ反応の一つくらいくれてもいいんじゃない? あなたにとってもまるっきり他人事というわけではないのだし。それとも、もう壊れちゃったのかしら?」
ミュトスは楽しげに男の元へ歩み寄る。彼女の足音は、静寂に包まれた書架の中で、処刑のカウントダウンのように響く。
「ここに来てすぐの、もっと元気だったころが懐かしく思えてきちゃうわ。あの頃のあなたは、物語が悲劇的な展開になる度に、それはそれは見事な絶望の叫びを聞かせてくれたもの。……今のあなたは、まるで読み古されてボロボロになった背表紙のようね」
かつて、男は抗った。
聖剣を与えられ、仲間と絆を結び、魔物と戦う。それが世界に与えられた役割だと信じて疑わなかった。だが、その道のりの果てに彼が辿り着いたのは、平和な世界ではなく、悲しみと絶望に満ちた世界、そしてこの冷たい書架だった。
勇者がどれほど血を流そうとも、女神にとっては「頁を捲るためのインク」に過ぎない。
男は、自分の喉が既に潰れていることを知っている。数万回の悲鳴、数万回の慟哭。それらすべてをこの女神に「消費」され尽くした結果、彼に残されたのは、魂の奥底に溜まった冷たい黒だけだった。
「まぁ、いいわ。この物語はここで終わりのようだし、次の物語にいきましょうか。今度は感動的な結末が見られるといいのだけれど」
ミュトスがパタン、と本を閉じた。
その瞬間、彼女の手の中に一枚の栞が現れる。
それは、先の物語を惜しむように、わずかに赤く色づいていた。
苦難に立ち向かい、しかし膝を折った少年の物語の残照。
ミュトスはそれをしばし眺めた後、ふ、と息を吹きかける。
すると、赤みは霧散し、栞は再び無垢な白へと戻った。
騎士の少女が抱いた恋心も、少女が戦場で散らした覚悟も、それらに対して少年が抱いた様々な感情も、すべてが漂白されたのだ。
同時に、どこからともなく新たな一振りの剣が、吸い込まれるように男の目の前に突き刺さった。
――薄紅色の、不吉な輝きを放つ剣。
それは、先の物語から零れ落ちたある勇者の記憶。女神によって「なかったこと」にされた物語の最後の欠片。
男の瞳が、微かに揺れる。その剣を見つめるたびに、失敗した勇者たちの記憶が呼び覚まされ、彼らの喜び、悲しみ、絶望が流れ込んでくる。
(また……始まるのか……)
声にならない呪詛が、彼の胸を焼く。
だが、ミュトスはそんな彼の内面など一顧だにせず、手元の白紙の本に指をかけた。
「さあ、勇者様。今回も足掻いて、足掻いて、素敵な物語にしてね?」
彼女が最初の一頁を、優雅に、そして残酷に捲る。
その瞬間、書架の虚無を塗り潰すような、眩いほどの光が世界を包み込んだ。
それは新たな宇宙の誕生であり、同時に新たな処刑の始まりでもあった。
女神の手の中で、真っ白だった頁に「文字」が躍り始める。
『――その日、少年は柔らかな陽光の中で目を覚ます』
『――彼の名は、ルクス。まだ何の色も持たない、白紙の勇者である』
『――傍には純白の剣。彼と同じく何色にも染まっていない「無銘の剣」』
ミュトスは恍惚とした表情で、その文字を指でなぞる。
彼女にとって、これは至高の娯楽だ。
ルクスという名の少年が、いつ、どこで、どのようにして絶望し、その魂がどんな「美しい色」に染まるのか。あるいは、奇跡的にハッピーエンドへと辿り着き、自分を驚かせてくれるのか。
「期待しているわよ、ルクス君。……あなたのその輝きがもたらす感動を。あなたの旅路が、いつか私の書架を彩る、最高の物語になることを」
光の渦が世界を飲み込み、そして遠ざかっていく。
磔にされた「勇者のなれ果て」は、消えゆく視界の中で、新しく生まれた「白紙の勇者」を見つめていた。その目には形容し難い、しかしあまりにも重い感情が揺れている。
男の足元で、数多の剣が共鳴するように微かに震えた。
それは死者の恨み言か、それとも、あるかもわからぬ希望への願いか。
光が頂点に達し、世界が再構成される。
鐘の音が響く。
若草の香りが鼻をくすぐる。
何も知らない少年が、女神の掌の上で、最初の一歩を踏み出す。
これより綴られるは、一人の勇者の物語。
何者でもない彼が、自分の色を手に入れるまでの。
あるいは、何もかもを失い絶望に暮れるまでの。
あるいは、――神の想像すら越える、新たな神話へと至るまでの物語である。
これまで読み専でしたが、思い立って執筆してみました。よろしければお楽しみ下さい。
1章完結まで執筆済み。定時更新いたします。