夜明けが、オルトゥスの街を静かに染めていく。
赤みがかった空の下、昨夜の戦いの爪痕があらわになっていた。崩れた石壁。焼け焦げた木材。ひっくり返った屋台の残骸。それらが朝の光の中に浮かび上がり、昨夜の出来事が夢ではなかったことを静かに証明している。
四人は学園の指示のもと、後処理に当たっていた。
がれきを退かし、負傷者の搬送を手伝い、クロエが傷ついた住民を一人一人癒していく。翡翠色の光が朝の街に柔らかく灯るたびに、安堵の声が上がる。
「……ありがとう、お嬢ちゃん。おかげで助かったよ」
昨夜、ルクスが魔物から守った老人が、クロエの手を握った。
「いいえ、それが私の――」
クロエは一瞬止まり、そして静かに微笑んだ。
「……お役に立てて、よかったです」
役割ではなく、自分の言葉で。その小さな変化に、傍らで作業していたルクスだけが気づいていた。
アイリスは黙々とがれきを退けていた。自身の実務を淡々とこなすその姿は、いつもと変わらない。しかし時折、ルクスの方へ向ける視線に、以前とは違う何かが宿っている。しかし、ルクスと目が合うと、すぐに逸らす。その頬が、わずかに赤い。
「……?」
「……私が見ていない間になにがあったんだい?あれじゃあ物語に出てくる健気なヒロインみたいじゃないか」
平時と違うその反応にルクスが首をかしげていると、ソフィアが近寄ってくる。
「……?最初からアイリスは可愛い女の子だろ。もちろん格好いいところも多かったけど」
「おや?この反応は……?」
思案するソフィアを横目に作業を続けるルクス。視界の端では少女の頬に差す赤が色を増していた。
そこへ、マリアが歩み寄ってくる。
「皆さん、お疲れ様でした。本当によく頑張ってくれました」
柔らかな声。いつもと変わらぬ微笑み。
「被害状況はどうですか……?オルトゥスの人たちは?」
表情を引き締め、アイリスが問う。
「建物への被害は甚大ですが、復旧の見通しは立っています。怪我人も、クロエさんを始めとした皆さんの尽力で続々と治療を終えています。そして……」
マリアは四人の顔を順に見渡し、穏やかに告げた。
「死者は、ゼロです」
静寂。
それから、ほっと息を吐く声が重なった。アイリスが目を閉じ、クロエが胸に手を当てる。ルクスも、体の奥から力が抜けていくのを感じた。
「そうですか……よかった」
「ええ。皆さんのおかげです」
マリアはそう言って、柔らかく頭を下げた。
――ただ一人、ソフィアだけが、その言葉を反芻するように視線を落としていた。
(死者はゼロ……? あれだけの規模のスタンピードで?)
昨夜の街の惨状が脳裏をよぎる。逃げ遅れた住民。崩れる建物。あの混乱の中で、本当に一人も死ななかったのか。
(……おかしい。いや、でも)
マリアが嘘をつく理由もない。街に住む人の数を把握しているわけでもない。ただ、何かが引っかかる。言葉の端に、説明のつかない違和感が残る。
結局、ソフィアはその疑念を口にしなかった。今は、それを追う頭も気力も残っていない。仲間たちの喜びに水を差すこともないだろう。
(……後で、考える)
眼鏡のブリッジを押し上げ、次の作業へと向かうのだった。
学園への帰り道。
ソフィアとクロエは先に戻った。正確にはソフィアがクロエを連れて行った、が正しい。その目はやけにアイリスを見ているように見えたが――二人分の足音が遠ざかり、石畳の路地にルクスとアイリスだけが残される。
しばらく、沈黙が続いた。
夜明けの空気が、二人の間を静かに流れる。
「……昨日は」
アイリスが、前を向いたまま口を開いた。
「色々と、見苦しいところを見せたわね」
「見苦しくなかった」
「……泣いたのよ、あたし」
「知ってる」
「……最悪ね」
「泣いていい、って言ったのは俺だ」
アイリスはそれ以上言わず、ただ歩き続けた。その耳が、朝の光の中で赤く染まっている。
「俺は君と生きたい。それは良い所だけを見せ合う、ってことじゃないと思うんだ。俺はアイリスのああいうところを知れてよかった」
ルクスもそれ以上は何も言わなかった。言葉にしなくても、昨夜交わしたものは確かにそこにある。
二人の影が、並んで石畳に伸びていた。
その日の午後。図書室。
四人が丸テーブルを囲んでいた。ソフィアの前には羊皮紙が広げられ、走り書きのような図と数式が並んでいる。そしてルクスの前には真紅の聖剣――『アペリトール』が置かれていた。
「昨夜の出来事――特にこの剣について、整理しておきたい」
ソフィアが眼鏡を押し上げ、全員を見渡す。
「異論がある人は?」
「ないわよ。あたしも気になってたし」
「私も……この剣を見ていると、とても不思議な感覚になります」
「俺も、自分でよくわかってないからな。よろしく頼む」
ソフィアは羽根ペンを手に取り、話し始めた。こういった論理的な探求は彼女の得意分野である。
「まず事実を確認していこう。私も自分の目で見たわけではないからね。昨夜、ルクスの『無銘の剣』が赤く染まった。同時に、これまでの情けないものとは桁の違う身体能力を発揮した。そしてルクス本人は、剣から何らかの知識や経験が流れ込んできたと感じている。……ここまでは合っているかい?」
「……ああ。後、『無銘の剣』じゃなく、『アペリトール』って銘らしい」
――言い方がひどくないか、とは思ったが、事実ではあるので飲み込むルクス。
「『アペリトール』――切り拓く者、と言った所か」
真紅の聖剣アペリトール。一夜明けた後も鮮やかな色を放つ、ルクスの愛剣の新たな姿。
「既存の魔法体系から考えると、その現象自体は無属性魔法の身体強化で再現できる。しかし、通常の身体強化とは明らかに質が違う。話によれば、その時のルクスの動きはそれはもう凄まじいものだったそうじゃないか。アイリス、キミよりも速く、強かったんだろう?」
水を向けられたアイリスは苦々しげな表情で、
「……それは認めたくないけど、事実ね。あの時の動きはあたしでもできないと思う」
「問題は、なぜそれが可能だったか、だ。ルクスの魔力総量が突然増えたわけではない。これは今向き合ってみてもわかる。なんならその時はむしろ消耗していたはずだ。にもかかわらず、それだけの出力が出た。……これをどう説明するか」
ソフィアは羊皮紙に円を描き、その中心に『アペリトール』と書いた。
「私の仮説はこうだ。あの剣は、ルクス自身の何かを媒介として、外部から力を引き込んでいる。あるいは、同時に知識、経験も。なんらかのトリガーによって、剣の中に蓄積された何かが解放される。……剣が赤く染まったのも、その表れではないかと思う」
「外部から、力を……」
ルクスは剣に触れた。その感触は、いつもと変わらない。しかし確かに昨夜、この剣は熱を持ち、彼に力を与えた。あの感覚は、今でも覚えている。
「なにか、トリガーとなりうるものに心当たりはないかい?そうなる直前に起こった出来事とか。アイリスも、覚えている範囲で教えてほしい」
「あの時は……アイリスが一人で俺たちを守ろうとして、俺はそれが許せなくて、立って、ゴブリンキングの前に出て……」
「あたしの代わりにゴブリンキングの攻撃を受け止めて、弾き返して、それで……っ!?」
「それで、なんだい?――なんで顔を赤くしている?」
顔を赤らめるアイリス。
「……? ああ、そうだ。思ったんだよ。アイリスを絶対に守るんだって。今までで一番――と言ってもこの学園に来てからだけど、強い感情だった。それがトリガーになった……とか?」
「そ、そうね!あたしから見てもそんな印象だったわ!」
「ふむ?強い感情……論理的とは言えないが、本人と唯一の目撃者が言うなら一旦そう仮定しておこう。剣から流れてきた力については?」
そう言われ、改めてあの時のことを思い出していく。
「そうだな……剣が赤く染まったとき、こいつが語りかけてくるような感覚があった。剣の銘とか、戦い方とか、知らないはずのことが、わかる。初めて『修練の森』で戦った時みたいな……そんな感じだった。でも、あの時と違って流れ込んできた内容は今も俺の中にある」
「なるほど」
ソフィアが身を乗り出し、羊皮紙に書き足していく。
「記憶を持たないキミに、知識が流れ込む。それは実際には記憶を思い出しているだけなのかもしれないが、まぁ重要じゃない。重要なのは、それが何らかの干渉だということ。その起点が剣にあり、キミの感情がトリガーである可能性が高いということだ」
『アペリトール』と『ルクス』の間に矢印が描かれ、『強い感情(仮)』と書き足される。
「いいですか?」
クロエが静かに口を開いた。ソフィアが先を促す。
「その時のことは直接は見ていないのですが……今こうしてこの剣を見ていると、神聖魔法に近い質の何かを感じます。女神様の奇跡に近い、そういう気配が」
「神聖魔法に近い、か」
ソフィアが顎に手を当てる。
「それは興味深い指摘だね。神聖魔法は世界の記述に直接干渉できる唯一の魔法だ。もしあの剣が世界の記述に触れているとしたら、通常の身体強化を超えた出力が出ることの説明がつく」
「……でも、マリア先生の神聖魔法とも、私の神聖魔法とも違う気がします。もっと、根源的な何かというか」
言いよどむクロエ。彼女自身、感覚的に魔法を行使するため、うまく言葉にならないようだ。
「女神様に祈り、それを叶えていただくのが神聖魔法。でも、ルクスさんはそうじゃない……ですよね?」
「そうだな。クロエには悪いけど、俺はそういう信仰心みたいなのはまるでない」
「世界の記述に干渉するほどの力、しかし神への祈りではない、か。なら一体、何が力を貸しているのか……」
考え込むソフィア。魔法を通して世界の真理を探究する彼女にとって、この題材は興味深いものなのだろう。
「細かい理屈は、あたしにはわからないけど」
アイリスが、ぽつりと言う。
「あたしに言わせれば、理屈はどうでもいい。この剣が光った時、あたしは思った。あれはルクスそのものだ、って」
部屋に満ちる静寂。
ルクスはその言葉を、ゆっくりと噛み締めた。昨夜、あの剣は応えた。自分の感情に、自分の願いに。そして、それは「自分」という存在を他者に感じさせるほどのものだったらしい。
「……ありがとう。アイリス」
ルクスは静かに言った。アイリスは首をかしげているが、「自分」がなかったルクスにとっては何よりも価値のある言葉だったのだ。
「さて」
ソフィアが肩をすくめる。結局確かな結論は出ず、しかしその口元には、珍しく柔らかな笑みが浮かんでいた。
「今日のところはここまでにしよう。仮説を詰めるのにも限界があるしね……また何かあれば是非教えてくれよ?」
ソフィアはルクスをまっすぐに見た。
「キミとあの剣を理解するとき、この世界の何か大きなものも、同時に見えてくる気がしてならない。……予感でしかないけどね」
それ以上は言わず、羽根ペンを置いた。
翌朝。
学園の中庭には、いつもの訓練を行う二人の姿があった。
「本当に、ずいぶんと動きのキレが増したわね!」
「おかげさまで!君から教わった事が本当の意味で身になった気分だ!」
これまで行われていた騎士が勇者を導く教導ではない。同等の立場で、少女と少年が競い合い、高め合う研鑽。
「ここっ!」
「っ!しぃっ!」
「きゃっ!?」
ルクスの木剣がアイリスのそれを弾き飛ばす。これまでなら考えられなかった光景。今朝の戦績はこれで3勝7敗。
「これで、なんとか三勝……まだ追いつけない、か」
「よく言うわ。こないだまで剣の振り方も知らなかった奴に負かされるこっちの身にもなりなさい?」
芝生に座り込み、休息をとる二人。ふわり、と優しい風が火照った体を冷ましていく。
「間違いなく体の動かし方は身についてるんだけどな……とっさの判断力みたいなものが欠けてる気がする」
「そうね。一つ一つの動きは良いけれどその隙間――繋ぎの部分がまだ甘いわ。そこを突けば、崩せる。こればかりは慣れの部分も大きいから、地道にやっていくしかないわね」
「今後の課題だなぁ。どうせ強くなるならその辺りも一緒に覚えさせてくれればよかったのに」
傍らの聖剣を見やる。あの夜以降、また語りかけるような感覚はなく、しかしほのかな熱を感じる。
「ところで……」
「ちょっと、待ちなさい」
視線をアイリスに戻す。すると、少女はルクスから距離を取り始めた。その頬はうっすらと上気している。
「どうした?……体調でも悪いのか?」
「いいから!ちょっと近づかないで……!」
ルクスが近づこうとするとそれを制止するアイリス。突然の拒絶に軽いショックを受ける。しかし、突然様子の変わった少女を放っておくという選択肢は彼の中にはない。頻りに周囲を見渡すアイリス。何かを探しているように見える。
「探し物か?俺も手伝うけど……」
「っ!あった!」
そういって立ち上がった少女が駆け寄ったのは――
(……? いつもの荷物?)
タオルを取り出し、体を拭く。それ自体に特に違和感はないが……随分と念入りな様子。
(普段はそんなに気にしてなかったような……? 軽くぬぐって終わりだったと思うんだけど)
思案しているうちに少女が戻ってくる。その距離は最初と変わらない。
「待たせたわね」
「それは別にいいけど……どうしたんだ?」
「何でもないわ、気にしないで。そろそろ次、いくわよ!」
「???」
結局、少女が行動の理由を話すことはなく、二人の訓練は再開するのであった――
「――ということがあったんだが、何だと思う?」
その日の午前中。教員がスタンピードの調査や後処理に追われ手が空かないために自由となった時間。ルクスはクロエを伴って図書室までソフィアを訪ねていた。当のアイリスは自由時間になったとたん剣を片手に何処かへと消えている。
「私、結構真面目な題材について考えていたんだが……くだらないことで邪魔しないでくれないか?」
「ルクスさん……さすがにこれは……」
聞きたいことがある、と告げたときの神妙な顔、手伝ってほしいと連れ出した時の優しい笑顔。そのどちらもが呆れたような表情に塗り替わっていく。
「なんだ二人して。こっちは結構悩んでいるんだけど?」
「なにか新しい発見でもあったのか、と期待していたらくだらない色恋沙汰に巻き込まれた私の落胆も察してほしいものだね。帰りたまえ」
「何かお力になれるなら、と思って付いてきたんですけど……戻らせてもらいます」
今朝のことを説明したものの二人の反応はそっけない。彼女らはアイリスの行動の意味を理解しているようだ。
「……というか色恋沙汰?何の話だ?」
「ん?キミと、アイリスの話だが?」
ルクスの反応に、ソフィアとクロエの表情が強張る。
――もしや、この男――
「ルクスさん、話は変わるんですけど、スタンピードの夜、アイリスさんになんて言ったか覚えていますか?」
「急にどうした?今はそんなことより今朝の話を……」
「いいから!この話が関係してくるかもしれませんから!」
「そうだね、答えたまえ。さもなければ速やかに帰りたまえ」
「どれだけ帰ってほしいんだ……?」
二人の少女から、底知れない圧を感じるルクス。とはいえ自分の目的が達成できるなら、その程度のことはなんでもない。
「確か……『君と生きたい、君に生きていてほしい』みたいなことを言ったような……?あの時は俺も気持ちが昂っていて正確には覚えてないけど」
「……それで、アイリスさんはそれに対して何か言ってましたか?」
「ん……自分もそうだ、と言ってたはずだ」
答えると、少女たちは顔を見合わせ、小声で話し始める。
(どう思います?あの平然とした顔、もしやとは思いましたが……)
(ああ、そのもしや、かもしれないね。だとすると俄然アイリスが気の毒になってくるな)
(どうしましょうか?本当のことを直接伝えるのもアイリスさんに悪いですし……)
(あぁ。とはいえ、何も教えないままではこの男、いずれとんでもないことをやらかしてくれそうだ)
「ちなみに、なんだがルクス。キミのその発言をそのまま私やクロエに言えるかい?」
「え?まぁそう思ってるから言えるが」
(おい、この男本物だぞ!情緒ってものをまるで理解していない……そういえば記憶が無いんだったな!)
(記憶が無いためにある種無垢で純粋な願いを持った、ということでしょうか。願いそのものは非常に尊いので否定もできませんし……)
(ここは当たり障りのない回答で濁しておくか……アイリスの事は、また後で考えよう)
(私もお手伝いします!このままじゃいくらなんでもアイリスさんが可哀そうですよう!)
意思を一つとする二人。
「えっと……結局どうなんだ?」
「そうだな、結論から言えばキミは何も気にしないでいいし、何もしなくていい。今後、アイリスが妙だと感じても基本的には気に留めないことだ。どうしても気になるなら私かクロエに聞くと良い」
「急に協力的だな。さっきまで渋ってたのはなんだったんだ?」
「気が変わったのさ。とにかく、そういうことで。いいかい?」
結局何もわからないが、ソフィアがこうまで言い、後ろでクロエも頷いているのであればそうなのだろう。特に気にしないことを決めるルクス。
「とりあえず助かったよ。もしまた何かあれば頼む」
そう言い残し図書室を去るルクス。扉が閉まり、室内にはため息が二つ。
「……まさか、こんなことになるなんて」
「話を聞く限り、自由時間になった途端飛び出していったのも、素振りなりなんなりで精神統一するためだろうしね。相当キてるよ、あれは」
「アイリスさん……。これからどうしましょうか?」
「基本は見守るしかないとは思うが……。悩ましいね」
またため息が二つ。それは、赤の少女の恋路が前途多難であることを如実に表していた――