――天座の書架。
世界の外側。
無数の本が書架に並べられ、その鮮やかな彩りで見る者を惹きつける。
一つ一つに始まりがあり、感動があり、終わりがあった。
その全てが一柱の女神によって収蔵された物語である。
女神ミュトスが座するその空間に、存在する異物。
夥しい数の剣の山。
白の剣、赤の剣、青の剣、緑の剣。彩りも、濃淡も、どれ一つとして同じ物は存在しない。それらに共通していることはただ一つ。――女神によって「駄作」と打ち捨てられた物語のなれ果てだということだけ。
乱立する勇者達の墓標の中心に、男がいた。
両腕を広げた姿勢で磔にされ、動くことができない。いつからそうしているのか、もう覚えていない。時間の感覚は、とうの昔に溶けてしまった。
かつて、勇者と呼ばれた者。その旅路が女神の目に留まったことが、彼の永劫に続く地獄の始まりだった。繰り返し捲られる頁。物語は始まり、終わる。その全てを、女神と共に観測する。
周囲の彩の数が、彼が観測した絶望の数。「それ」を見る度に、自分のことのように記憶が蘇る。
新たに薄紅の剣が彼の元に突き刺さる。一つの物語が終わり、またも捨てられた証。
(――また、始まった……)
女神の手元で、白紙の栞が淡く揺れる。
――頁が捲られる。
――◇――
『俺』は、始まりの場所――オルトゥスの街に立っていた。目の前には巨大な門。それをくぐる。
見覚えのある教室。見覚えのある三人の顔。見覚えのある『俺』自身の手。
そして、見覚えのある終わりへと続く道。
何度目か、もうわからない。『俺』にとっては初めての、しかし幾度も繰り返した工程。ただ、今回も同じように始まり、同じように終わるのだろうということだけは、わかっていた。
森の中だった。
草を踏む音。木漏れ日。そして、遠くから近づいてくる影の群れ。
「来るわよ!」
赤い少女が剣を抜いた。その声には、迷いも恐れもなかった。ただ、役割を果たす者の静けさだけがあった。
群れが来た。
数え切れない程の影が、四方から押し寄せる。
青い少女の礫が二体を砕く。翡翠の少女の盾が一体を弾く。赤い少女の剣が三体を斬り裂く。
しかし、一体倒せば二体が来た。二体倒せば四体が来た。
(また、この場面。どうすれば、これを越えられる……)
『俺』は剣を握っていた。しかし、それをどこへ向ければいいかわからなかった。体が知らなかった。記憶がなかった。役割だけがあって、中身が何もなかった。手の中の冷たい鉄の塊が、『俺』から熱を奪っていくようだった。
「ルクス、下がってて……ッ!」
赤い少女が叫んだ。
その声が、遠くなっていく。
あらゆる方向から迫る影に、赤が埋もれていく。
一人を犠牲にしたところで、事態が解決するわけではない。
『俺』は動けない。
標的を変えた影が、青に襲いかかる。
いかなる叡智を携えようと、原始の暴力に抵抗するにはあまりにも無力だった。
『俺』には何もできない。
抵抗する翡翠が蹂躙される。
信じる神は、少女にも世界にも救いをもたらさない。
『俺』は何もしない。
気づけば、三人が倒れていた。
泥の中に沈む、赤い少女。泣きながら、それでも自身を捨て置き、治療の魔法を放ち続ける翡翠の少女。杖を折られ、倒れたまま虚ろな目で空を見上げる青い少女。
『俺』だけが、立っていた。
守れなかった。
何もできなかった。
ただ、見ていた。
影が『俺』に迫る。それでも、『俺』は動かない。
その物語は終わった。陳腐、と判定され、捨てられた。
――◇――
別の記憶。
今度は違う、と思っていた。
今度こそ、と思っていた。
赤い少女は今回も強かった。いつも通り、誰よりも前に出て、誰よりも多くの傷を受けながら、それでも倒れなかった。
街が燃えていた。
ゴブリンキングと呼ばれる巨躯の前に、彼女は一人で立っていた。
「逃げなさい、ルクス」
振り返らずに、そう言った。騎士が敵から目を逸らすことなどない。
「あたしが死んでも、あんたさえ生きていてくれれば、それはあたしの勝利なの」
その声は穏やかだった。
怖くないはずがなかった。それでも彼女は笑っていた。
騎士として、その役割を全うするために。少女の心は奥底に封じ込められた。
(行かなければ。助けなければ。でも、どうすれば――)
『俺』の思考が空回る。
迷っている間に、刃が振り下ろされた。
赤い少女が、消えた。
気づけば、走り出していた。
逃げ延び、街を見捨てて、命からがら学園まで辿り着いた。
喪失を抱え、それでも世界を救うという役割は『俺』を逃しはしない。
残された三人で、『俺』たちは魔王を倒した。
戦いの中で、青と翡翠も消えた。
『俺』よりも、強い願いや目的を持っていた少女たち。
きっと、『俺』よりも生きたかった少女たち。
犠牲の上に世界は救われた。
しかし、『俺』の心には穴が空いたまま。
たった一人、世界に取り残された。
『俺』が守りたかった物はなんだったのだろうか。
握る剣は未練のように深紅に染まっていた。
女神はそれを本にした。絶望も一つの感動の形だと。鮮やかとは言い難い、暗い色の本だった。
――◇――
また別の記憶。
相変わらず、『俺』は剣の振り方を知らなかった。役割の意味も知らなかった。それでも戦い続けた。仲間がいたから。三人が、隣にいたから。
しかし、ある夜。
訓練を終えて一人になった時、ふと気づいた。
(自分は、何者なんだ)
記憶がない。過去がない。自分がなぜここにいるのかもわからない。ただ「勇者」という役割だけが与えられていて、その役割の中身が何もない。
三人は知っている。自分が何者かを。何のために戦うかを。
騎士は守るために剣を振るう。賢者は真理のために魔法を使う。聖女は救済のために祈る。
では、『俺』は。
白紙の勇者は、何のために戦うのか。
答えが、出なかった。
翌朝、剣は鞘の中にあった。
三人が呼びに来た。しかし、立ち上がれなかった。
役割だけがあって、自分がない。そのことの重さが、全身にのしかかってきた。『俺』を動かすだけの知恵も、感情も、意思も、そこにはなかった。
物語は、止まった。
勇者は立たず、世界は魔王に滅ぼされた。
退屈、と評された。捨てられた剣は鈍く、霞んでいた。
――◇――
さらに別の記憶。
四人で挑んだ。
力が足りなかった。
ただ、それだけだった。
赤が、青が、翡翠が、次々と地に沈んでいく。
最後に残ったのは白だった。
魔王の前に、一人で立った。
剣を握った。
前に出た。
それだけだった。
全てが闇に染まり、世界は終わった。
期待外れ、と一瞥もせず捨てられた。
――◇――
記憶が混ざる。
思い浮かべた「それ」が、自分のものなのか、いずれかの記憶のものなのか、もう何もわからない。
赤い少女の笑顔。青い少女の横顔。翡翠の少女の祈り。
それらが何度現れて、何度消えていったか。
名前も覚えている。顔も覚えている。声も覚えている。
しかし覚えていることが、逆に苦しい。
覚えているのに、また会うたびに彼女たちは『俺』を知らない。白紙から始まる。また同じように笑い、同じように強く、同じように消えていく。
何度目かの喪失の後で、ふと、疑問が浮かぶ。
(これは、いつ終わるのか)
終わらない、と気づいた時に、何かが完全に折れた。
折れたものは、もう戻らなかった。
今の男がそれだ。
その問いへの答えは、未だ世界のどこにもない。
――◇――
記憶の濁流から回帰する。
書架には、静寂が満ちていた。
男は相変わらず磔にされたまま、物語を観測している。
また始まった物語。また白紙から始まる少年。また役割を背負った三人の少女。
同じだ、と男は思う。
今度も同じように進んで、同じように終わる。
そう思いながら、それでも目を逸らせない。
眼下では女神の手中で、栞が淡く揺れている。
いつもの白。
いつもの始まり。
いつもの――
男は、目を細めた。
その白が、今回は、どこか違う白に見えた。
気のせいかもしれない。
何百回と見てきた、同じ白紙の始まり。
しかし男の視線は、その栞からどうしても離れなかった。
――頁が捲られる。
やがて真紅に至る、しかし今は何者でもない、白紙の勇者が世界に降り立った瞬間であった。