朝の中庭は静寂に包まれていた。
爽やかな朝の空気を、一つの水弾が切り裂く。青い軌跡が描く円、その中心に、一人の少年がいた。
ルクスはベンチに腰を下ろし、魔法の習熟に励んでいた。ソフィアに属性魔法を教わり、シンプルなバレットなら扱えるようになった彼に課されたのが、この『お手玉』だった。
手本として見せられた四属性の魔弾を自在に切り替え、同時に複数操る神秘的な光景は未だに目に焼き付いている。
この訓練を始めて二日。未だ複数属性を切り替えて扱うことはできず、一つの水弾を操作するのでも手一杯である。一応、初日は手綱の外れた水弾で度々水浸しになっていたことを考えると、技術は目に見えて向上しているが。
(昨日よりも感覚が馴染んでいる気がする。属性の切り替え……やってみるか)
魔力を弾丸の形に成形し、水の要素を強調して作り上げた水弾。それを風の要素を強調する形に――パァンッ!
「――っ!?」
「きゃっ!?」
属性を切り替えた直後、弾丸が制御を放れ、崩壊する。内部に込められた魔力が風として周囲に暴発した。背後から驚くような声。
「び、びっくりしました……」
「クロエか。悪いな、急に大きい音を出して」
「い、いえ。私もお声がけしなかったので……」
クロエだった。翡翠の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。
「ルクスさん。少し、お時間はありますか?」
訓練を続けてもいいが、良くも悪くもキリがついたタイミング。
「まぁ、あるな。どうした?」
「よかったら、一緒に礼拝堂へ行きませんか?朝の礼拝の時間なんです」
「礼拝……」
礼拝。神を讃え、感謝と祈りをささげる行為。
(神、ね……)
「行くよ。少し、興味がある」
「……よかった。では、こちらへ」
クロエは微笑み、ルクスを先導していく。
礼拝堂は学園の北棟の奥にあった。
石造りの小さな建物。扉を押し開けると、外の喧噪が嘘のように消えた。高い天井から細い光の柱が幾本も差し込んで、埃が金色に舞っている。石の床、木の長椅子、壁際に並ぶ小さな蝋燭の列。全てが、この場所にある空気の静けさを守るためだけに存在しているような、そんな佇まい。
正面の祭壇に、女神像が置かれていた。白い石で刻まれた、柔らかな笑みを浮かべた像。目を細め、両手を胸の前で重ねて、ただ静かに前を見ている。その視線がどこへ向いているのか、立つ場所によって変わるような気がした。
「毎朝ここへ来るのか」
「はい。聖女としての習慣ですね……少々お待ちください」
クロエは祭壇の前に立ち、長杖を脇に置いて、静かに両手を組んだ。目を閉じる。唇が微かに動く。声は聞こえないが、祈りの形だとわかった。――祈りをささげるその姿はまるで人形のようで、どこか人間的ではない美しさを纏っている。
ルクスは少し離れた場所に立って、その様子を見ていた。
邪魔をしないように、というより、近づけない気がした。信仰というものを持たない自分が、この空気の中に踏み込んでいいのかどうか、判断がつかなかった。記憶がない。神に感謝すべき過去も、祈りを向ける対象も、何も持っていない。ただそこに立っているだけで、自分だけが場違いな存在のような気がした。
女神像の視線が、こちらに向いているような気がして、ルクスは静かに目を逸らした。
しばらくして、クロエが目を開けた。
「――お待たせしました」
「いや。……この女神というのが、信仰の対象なのか」
「はい。この世界を見守ってくださっている方です。私たちに役割を与え、導いてくださる……今日はルクスさんに女神様のことを知っていただこうと思ってお誘いしました」
「それは、どうして?」
「……ルクスさんの、支えになるかと思いまして」
支え。予想だにしない言葉に面食らう。
「最近はソフィアさんと魔法の訓練をされていて、充実されているように見えますけど、初めてお会いした時のあなたは、記憶もなく、どこかふらついているように感じたんです」
クロエは祭壇の像を見上げた。
「あれから、記憶も戻っていないみたいですし……余計なお世話かもしれませんが、ルクスさん自身が『自分』を持つための一助になればいいな、と思ったんです」
女神様の教えを広めるのも聖女の役割ですしね、と締めるクロエ。
(俺自身、か……)
オルトゥスの街で目覚めて数週間。未だ何の記憶も戻らないルクス。勇者の役割のほかには『自分』といえるものはなく、その役割すら今一つ実感がわかない。
「聖女は特に、女神様と近しい役割だと言われています。神聖魔法を扱えるのも、女神様の力を少しだけ借りているからだと」
「君自身は、その役割をどう思ってる」
少し直接的すぎたかもしれない、と聞いてから思った。だがクロエは気を悪くした様子もなく、静かに答えた。
「……誇りに思っています。世界を救う使命を与えていただいた。それは、とても尊いことだと」
迷いのない言葉。本心だろう、とルクスは思った。ただ。
(本心だろうが……どこか、覚えた言葉みたいだな)
言葉が滑らかすぎた。まるで何度も反芻して、自分の中に刻み込んだような言い方。
問い返そうとして、止まった。何を言えばいいのかわからなかった。「覚えた言葉みたいだ」と言うのは簡単だが、それが正しいのかもわからないし、正しかったとしてもクロエを傷つけるだけかもしれない。記憶のない自分が、他人の信仰にとやかく言える立場でもない。
「クロエは、聖女になりたかったのか」
結局、別の問いが出た。
「……?」
「生まれた時から役割は決まってる、とマリア先生が言っていた。君は聖女になりたいと思って聖女になったわけじゃない。でも今は、誇りに思ってる。その間に、何があったんだろうと思って」
クロエがルクスを見た。少し意外そうな目だった。
「……変なことを聞いたか」
「いいえ。ただ、そんな風に聞かれたことなんて、なかったですから」
クロエは祭壇の方へ視線を戻した。
「私たちは誰もが役割を持ってこの世界に生まれます。それは、女神さまからいただいた大切なもので、人生をかけて果たすべき使命なんです。私はそれが聖女だった、というだけのこと。ならば、選ばれた役割に誇りを持って、精いっぱい果たしたい。そう思っています」
ルクスはしばらくそれを聞いていた。
「――そうか」
それ以上は言わなかった。言うべき言葉が見当たらなかった。ただ、以前から感じている言いようのない不快感だけが、腹の内に静かに溜まっていた。
礼拝堂を出ると、外の光が眩しかった。
石造りの建物から一歩踏み出すと、朝の空気が戻ってくる。鳥の声、遠くの笑い声、石畳を踏む足音。さっきまでの静寂が嘘みたいだった。
「少し、歩きませんか」
クロエが言った。断る理由もなかった。
学園の外縁に沿った小道を、二人でゆっくり歩く。石畳の隙間から草が伸びていて、遠くに修練の森の緑が見えた。
「ルクスさんは、役割についてどう思いますか」
「正直、よくわからない。俺は勇者だと言われたけど、実感はあまりない。みんながそれを大切にしていることはわかるけど、どうにもしっくりこないんだ」
「そうですか……」
「クロエは、魔王のことをよく知っているのか。世界がどうなっているかとか」
「一通りは。聖女として、知っておくべきことですから」
「教えてもらえないか。俺は何も知らないままで……少し、困っている」
この世界の知識を、授業の中で教わることはある。しかし、その時間は多くはなく、大半の時間は実戦を交えた戦闘訓練に費やされていた。故に、ルクスは未だこの世界の常識より半歩外にいる。
クロエは穏やかに頷き、微笑んだ。
「わかりました。では、最初からお話しします」
二人は庭園の端、小さな噴水のそばに腰を下ろした。
「この世界は、リベラ・オルビスといいます」
クロエが静かに話し始めた。授業のように誰かに知識を伝える口調ではなく、親が子に寝物語を語り聞かせるような声だった。
「遥か昔から、人は世界の各地に暮らしていました。街を作り、国を興し、女神様を信仰して。……そこへ現れたのが、魔王です」
内容としては授業で学んだことも含まれている。しかし、彼女の語りかけるような声は、自然とその内容が頭に入ってくるような、不思議な感覚をもたらしていた。
「いつ現れたんだ」
「記録では、数百年前とされています。ある日突然、世界の果てのテルミナに現れた、と。魔王は魔物を生み出し、世界に解き放ちます。女神さまがお創りになった世界を蝕む歪み。それが世界の災害――魔物の正体です」
「魔物は魔王が作っているのか」
「はい。魔王が存在する限り、魔物は生み出され続けます。だから、魔王そのものを討つ必要がある」
クロエは両手を膝の上に置いて、続けた。
「過去にも幾度か魔王は蘇り、そのたびに勇者のパーティが世界を救ってきました。私たちのような四人が揃い、テルミナへ向かい、魔王を討った。……その記録が、聖典に残っています」
「繰り返してる、ってことか。魔王が出て、倒されて、また出て」
「そうなります。いつか完全に滅ぼされる日が来ると、信じられていますが……まだ、その時ではないということです」
噴水が静かに水を上げていた。ルクスはそれを見ながら、少し考えた。
何度も繰り返されてきた戦い。自分たちの前にも同じ役割を背負った四人がいて、戦い、倒して、それでも終わらなかった。今ここにいる自分たちも、その連なりの一つに過ぎない。
(それでも、やるしかないんだろうが……)
「――俺たちの戦いでも、終わらないかもしれない、ということか」
「そうですね。私たちで終わらせられたら、とても光栄なことですが……どうなるかは、わかりませんね」
「クロエは怖くないのか。魔王と戦うことが。俺たちの戦いが無為になるかもしれないことが」
「――そう、ですね」
クロエは少し間を置いた。
「怖くない、とは言えません。でも、怖くて逃げたい、と思うことは、あまりありません。もしも、私が私を擲って世界を救えるならすぐにでもそうすると思います」
「どうして」
「逃げたいと思う前に――役割のことを考えるから、だと思います。聖女は世界
を救うために存在する。魔王と戦うことはその一部。私の全てをかけて果たすべき使命の前で、怯えてなんていられませんから」
だから、怖くない。そう言いかけて、クロエが止まった。
「……でも、今日ルクスさんに聞かれるまで、そう考えていることに気づいていなかった気がします」
「怖いかどうかを、考えたことがなかった?」
「はい。……変ですかね」
「変じゃないと思う」
ルクスは率直に言った。
「ただ、怖いかどうかを考えたことがないのは、少しもったいない気がした」
「もったいない?」
「怖いって思えるのは、失いたくないものがあるってことだろう。それを感じる前に役割の話になるなら、失いたくないものを自分でわかってないままかもしれない」
クロエが、ルクスを見た。翡翠の目が少し揺れた。
「……ルクスさんは、変わったことを言いますね」
「記憶がないから、変なことばかり考えるんだと思う」
「いいえ」
クロエは静かに首を振った。
「変ではないと思います。ただ――考えたことがなかったから、少し、驚いています」
噴水の音が、二人の間に続いた。しばらく、どちらも口を開かなかった。
ふと、クロエが噴水の水面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「失いたくないもの、か……」
独り言のような声だった。答えを求めているわけでも、ルクスに向けているわけでもない。ただ、その言葉を自分の中で転がしてみているような。
ルクスは何も言わなかった。言う必要がない気がした。
噴水が水を上げ続ける。光が水面に散らばって、二人の足元まで届いていた。