深夜、世界が寝静まる頃。
暗闇の中に浮かぶ一つの灯。その元は学園上部、図書室だった。
蝋燭の明かりが手帳を照らしている。ソフィアはページを捲り、魔法の構造を見直した。何度確認したかわからない、解析魔法の理論。もうすぐ完成する、という感触はある。あと少し、何かひとかけらがはまれば——その「ひとかけら」が、どうしても見えなかった。
短杖を構えて術式を展開しようとするたびに、魔力の流れがどこかで詰まる。愛用する属性魔法とは根本的に違う。世界の記述を「読む」という行為は、記述に干渉する既存の魔法とは異なる方向性の考えが求められている、というのが現在のソフィアの考えだ。
(単に干渉するだけなら簡単なんだが……読み解き、理解するとなるとこうも難しいか。こちらが読み取ろうとすると、はじき返されるような……そんな感覚)
「ふぅ……ままならないね」
ため息をついて、短杖を置いた。
あてもなく周囲に巡らせた視線が、テーブルの端に置かれた一冊の本に留まる。
世界五分前説――マリアが持ち込んだ書物の一冊。以前に読んだその内容が、ふと頭をよぎった。
この世界に存在するあらゆるもの——記憶も、歴史も、苦労も——全て、五分前に作られたのかもしれない。
(今この瞬間に至るまでの全てが、植え付けられたものだとしたら)
解析魔法の研究に費やした時間。完成が近いという実感。それを成し遂げようとする意欲。それら全てが、誰かによって予め書き込まれたものだとしたら。
自分がこうして悩んでいるこの瞬間も、悩むように設定されているだけだとしたら。
(……馬鹿馬鹿しい)
頭を振った。証明も反証もできない話だ。考えても意味がない。それはわかっていた。それでも一度引っかかると、なかなか振り払えない。
窓の外を見た。空の端が、ごくわずかに白み始めている。
またやってしまった、とソフィアは思った。
のろのろと椅子を離れ、部屋の隅のソファに横になった。毛布を引き寄せる。目を閉じる。意識が速やかに暗闇に飲み込まれていく。
これが最近の生活パターンだった。研究して、行き詰まって、空が白む頃に少しだけ眠る。それを繰り返していた。なまじ完成が近いという感覚があるせいで、研究に歯止めが利かなくなっている。
(明日こそ、必ず……)
何度目かもわからぬ決意を胸に一時の休息を甘受するのであった。
朝の『修練の森』での訓練は、いつも通りだった。
四人で森に入り、散発する魔物の群れと戦闘する。連携の形は先日よりも噛み合ってきていた。
「ウィンドバレット!」
ルクスが風弾を放つ。ゴブリンが足を止めた瞬間にアイリスが踏み込む。クロエの光の盾が側面からの奇襲を弾く。ソフィアが中衛から残党を掃う。一連の流れが、淀みなく繋がる。
「少し、試してもいいか」
次の接敵を前に、ルクスが声を上げた。
「何を?」
「ストーム系。まだ実戦では使ったことがないから」
「……いいんじゃないかしら。こっちが余裕のある時に試しておきましょうか」
「なら次に群れが現れたらキミに任せよう。ただ、味方にだけは当てないように」
「もちろん。ありがとう」
手の中の『無銘の剣』を握り直す。勇者の少年は着実に力を身に着けていた。
「――来たわね。ルクス!やってみなさい!」
「あぁ!」
しばらくの後、魔物の群れが来た。ルクスは魔力を広く薄く展開する。面として広げる感覚は、小さくまとめるバレットとはまるで違う。練習を重ねた感覚を思い出し――放つ。
「ウィンドストームッ!」
風が渦を巻いて広がった。群れの半数が吹き飛ぶ。被害を免れた魔物たちも浮足立っていた。
「威力は十分ね。範囲の制御がまだ雑だけど」
アイリスが言いながら踏み込み、残党を片付けていく。
「でも、すごいです!魔法の訓練を初めてそんなに経ってないのにもうこんな魔法が使えるなんて」
「……師匠の教えが良いのさ。な?」
クロエの称賛に照れながらもソフィアに水を向けるルクス。しかし――
「ソフィアさん?」
「っ!あぁ。どうした?」
「いや、どうした、はこっちのセリフだ。大丈夫か?」
ぼんやりしていたのか返答が遅れるソフィア。よく見ればその顔には深い隈が刻まれていた。
「問題はないよ。気にしないでくれ」
「……なら、いいけど。何かあったら言ってくれよ?」
頷くソフィアにひとまず追及を取りやめるのだった。
ソフィアの言葉とは裏腹に、問題が出たのはそれから少し後だった。
ゴブリンの一団が現れた。特に数が多いわけでもない。いつも通りの流れでいつも通りの対応ができるはずだった。
「よし、今よ!」
「――っ!?ウィンドストーム!」
アイリスが引き付け、ルクスとクロエが集団を誘導、ソフィアがまとめて薙ぎ払う流れ。その中で――ソフィアの魔法の起動が、遅れた。
ほんの数秒の遅れ。しかしその遅れが連携の中に隙を作り、一体が横から抜けてきた。その矛先がソフィアに向かう。
「っ!させるか!」
咄嗟の反応。使用する魔法を身体強化に切り替え、一閃。声もなく霧散していくゴブリンを前に、大きく息を吐きだす一同。
「……やるじゃない、ルクス。剣の方も訓練の成果が出ているようで何よりだわ。――それで」
アイリスがソフィアを見た。
「……ソフィア」
「……わかってる」
「わかってないでしょうに。手が震えてるじゃない。普通じゃないでしょ」
ソフィアは自分の手を見た。かすかに、しかし確かに震えていた。
「……昨夜も研究してたのか?」
ルクスが聞いた。ソフィアは少しの間黙った。
「……今、いいところで、ね。少し無理をした」
「少し、ね」
アイリスが息を吐いた。
「今日の午後の訓練は中止。ソフィアは休みなさい。これは命令よ」
「まだ——」
「まだ、じゃない。さっきだって、ルクスがいなかったらどうなってたか、わかってるの?」
ソフィアは口を閉じた。反論はなかった。
「未熟なやつならともかく、自己管理もできないようなやつを守ってやるほど、あたしの手は大きくないわ」
突き放すような物言い。しかし隠し切れない心配が滲みだしていた。
学園に戻り、解散した後。
(ソフィア……ちゃんと休めるといいが)
訓練場で魔法の練習を繰り返すルクスだったが、頭の片隅に別れ際のソフィアの疲れた表情が過る。
とはいえ、特に何かできるわけでもない。気を取り直して、魔法――ストーム系の制御練習を始めた。
(バレットが点なら、ストームは面だ。感覚としては掴めてきている。問題は……)
「ウィンドストーム」
多数の的が並ぶ中心を狙って打ち込む。より中心に近い的を破壊し、そうでないものは傷つけないようにする練習。正確に魔法の範囲をコントロールする必要がある。立ち上る嵐が収まると、その結果が露わになった。
(……ダメだな。やっぱり想定より範囲が広くなっている。このままじゃ実戦で使いづらい)
的を立て直す。今度は少し狭めに展開した。――破壊するつもりだった的まで残ってしまう。
(難しい!どうしても正確な効果範囲の指定ができない。ソフィアはいったいどうやってるんだ……?)
思い出されるのは緻密に制御されたソフィアの魔法。過不足ない範囲で発動するあの魔法にはまだ遠く及ばない。
(さすがに休んでるところに聞きに行くのもな……今日のところは自力で頑張ろう)
改めて、もう一度。今度は属性を変えて繰り返した。土、水、炎。それぞれで感覚が微妙に違う。土は重くて広げにくい。水は形を保ちにくい。炎は広がりやすいが収束が難しい。ひとつひとつを手探りで確かめていく。見習い魔法使いは着実に歩みを進めていた。
図書室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
ソフィアは短杖を構えたまま、改めて解析魔法の構造を頭の中で展開していた。
自室に戻り、横になったのは事実。眠ろうともした。しかし、できなかった。あと少し、という感触がどうにも頭から離れない。横になって三十分もしないうちに図書室へ戻っていた――進捗は芳しくない。
(……キミは、心配するだろうな)
別れ際、少年の心配するような表情。それが浮かんだ瞬間、意識してかき消した。今は関係ない。集中しなければならない。
魔法を展開しようとして、また、止まった。
毎回、同じところで詰まる。魔力の流れが「読む」方向に向かいきれない。
何が足りないのか。あるいは、そもそも不可能なのだろうか。そんな考えすら頭を過る。
(どうにも、気分が晴れない……『あれ』を見てからというもの、頭から離れてくれない)
視線の先にはマリアが持ち込んだいくつかの書物。
(世界は五分前に生み出されたのかもしれない……なんて、馬鹿げた説だ。でも証明も反証もできない。この考えすらも五分前に生み出されたものかもしれないのだから)
自己の存在を保証する物などない。あるのは、「世界の真理を解き明かす」という賢者の役割と衝動だけだった。
ソフィアは椅子に深く座り直した。目を閉じて、魔法の構造を一から辿る。幾度となく繰り返した行為。それでも止められない――たとえ一歩も進んでいなかったとしても、止まることは許されない。
(そうだとも。この世界の全てを解き明かすのが私の役割だ。もし本当にこの世界がついさっき生まれたのだとしたら、その事実をつかんで見せる。それができなければ私のこれまでにもこれからにも、意味などないのだから……っ?)
微かな引っかかり。
(待て。これまで私は、私が世界の真理を解き明かすことを前提に考えていた。それは当然のこと。だが、魔法は技術だ。魔力をもって世界の記述に干渉する技術。であれば……)
思考が回る。この世界で最上位の知識を持つ少女の脳内で数多のピースが組みあがっていく。
(そうだ。私が欲しいのは世界の記述を読み解く魔法であって、それを誰が使うかなんてどうでもいいこと)
手帳を開く。新たな白紙のページに次々と書き込まれていく記述。
(私自身の主観を削除。こちらから読みに行くんじゃない。向こうから見せてもらえばいい。どちらにせよ、結果は変わらないのだから!)
何かが外れた気がした。
目を開けて、短杖を構える。世界の記述。目に見えないそれを、見えないままに理解するため。自分と世界の境界を、できる限り薄くしていくような感覚。
(私と、世界。この二つに境界などない。そう定義すれば、世界の記述は私の目の前にあるのが必然。なればこそ、我を捨て、世界と一つになる――)
魔力が、滑らかに広がった。
そして、世界の記述に、触れた。
棚、本、椅子、テーブル。それぞれの輪郭が薄い光の膜に包まれるように見えた。意識を向けると、記述が浮かび上がる。手元の本——図書室の本棚の第三段に収められた、古い理論書。素材、重さ、頁数。この場所にこの状態で存在することが、世界に定義されていた。
(これが、世界の記述。人間だけではない、この世界に存在するすべてに役割があるのか)
試しに自分の体に解析魔法を向けた。賢者、ソフィア、重度の疲労状態……読み取れたが、それだけだった。名前はある。役割はある。確かに疲れてもいるだろう。しかしその奥に何があるのか、術式は答えを返してこなかった。――役割、名前、そして状態。世界の記述においては無機物だろうと人間だろうと情報量は変わらないのだろうか。
(――これは後で考えよう。まずは、解析魔法についてまとめておかないと……)
手帳を開き、記録を書き始めた。解析魔法の完成。展開時間、魔力消費量、読み取り範囲。疲れからか、震える手を意識的に落ち着けながら、書き込んでいく。
記録し終えて、手帳を閉じる。
(もっと多くの検証が必要だ。サンプルを増やして――ああ、そうだ)
脳内で解析の対象を挙げていく。思い当たったのは、以前見た不可思議な物体――『無銘の剣』。
(あの剣には何か秘密がある。それに、ルクスにも。あの二つのサンプルを解析すればまた新しい発見ができるかもだ。――ついでに、ルクスの記憶についても何かわかるかもしれない)
次の実験対象は決まった。それと同時に抗いきれない重さが瞼にかかるのを感じる。
(今日のところは、休もう。明日、ルクスを呼び出して――)
ふらつきながらソファに倒れこむ。思考は止まらず、今見たものを検証し始めるが――一瞬で意識は暗転し、深い眠りへと落ちていくのだった。