朝の陽射しが差し込む廊下。まぶしさに目を細めつつも歩みを進め、立ち止まる。目の前には、図書室。
(いないならそれでいい。ちゃんと休んでるってことだから。もし、いるなら……)
ルクスが扉を開けると、いつものテーブルに短杖と手帳が並んでいるのが目に入り、思わずため息が出る。短杖と手帳の主――ソフィアは椅子に座ったまま、振り返って入室者を認める。目の下の隈はまだ残っていたが、昨日とは目の色――輝きが違った。
「おや、キミか。呼びに行く手間が省けたな」
「まさか、とは思ったけど……昨日はちゃんと休んだのか?」
「相対的には休んだといえるだろう。睡眠もとったしね」
確かに、隈こそ残っているものの顔色は悪くない。それに――やはり、目の色が違う。
「……まぁ、いい。呼びに行く手間というのは?何か用があったのか」
「解析魔法が完成した」
短く、しかし確かな重みのある言葉だった。
「いつの間に」
「昨日の夜に。色々とかみ合ってね」
「……そうか」
やっぱり休んでないじゃないか、という言葉をいったん飲み込み、ルクスは向かいの椅子を引いて座った。ソフィアが手帳を開く。びっしりと書き込まれたページを一枚めくり、また一枚めくる。
「というわけで色々と試してみたいところだが――まず、その剣を見せてくれ」
ソフィアの視線が向けられた先、『無銘の剣』。ルクスは腰のそれを外して、テーブルに置いた。ソフィアが短杖を構え、魔法を展開する。攻撃に用いる魔法とは少し違う、滑らかな魔力の広がり方だった。
それからしばらく、ソフィアが眉をひそめた。
「……おかしい」
「おかしいって、何が?」
「ノイズが多すぎる。他の物に使った時は記述がはっきり読み取れたのに、この剣だけ情報が乱れている。ろくに読み取れやしない」
ソフィアの視界に広がるのは意味の分からない乱雑なノイズのようなもの。まるで、何度も『何か』を塗り重ねたような――
「かろうじてわかるのは……記述の密度が異常に高いということだけだ。尋常ではないほどに情報が書き込まれているようだが……中に何があるのか、今の私には読めない。まだ調整が必要なのか……?」
ソフィアが短杖を下ろした。不満そうな顔だったが、すぐに切り替える。
「……今は置いておこう。次はキミ自身だ。もしかしたらキミの記憶についても何かわかるかもしれない」
「それは……少し、興味を惹かれるな。頼む」
今度はルクスに向けて術式を展開する。
「……勇者。ルクス。記憶喪失。それ以外は——」
「それ以外は?」
「特に私と変わらない記述だ。特別な情報は読み取れない。記憶がないというのは世界の記述にも反映されているみたいだが……それが何を意味するのかは、まだわからない、か」
手帳に書き込みながら、ソフィアは静かに言った。
「剣もキミも、この魔法では核心に届かない。もう少し精度を上げないといけないか……」
「当てはあるのか?」
「ない。が、今はもう少し見る対象を増やしてみよう。まだこの部屋の中でしか試していないからね」
「なら街にでも出てみるか。たまには『修練の森』以外のきれいな空気も吸っておけ」
そう言うと不思議そうな顔で、
「おや、付き合ってくれるのかい?別に私は一人でいいんだけど」
「興味はあるしな。それに――」
今のソフィアを一人にするのは少し怖い。そう言いかけて、止まる。先ほどからソフィアの目の光があまりも強い。どこか不安定な、危うい雰囲気を感じてしまう。
「いや、とにかく付き合うよ」
そういって立ち上がり図書室の扉を開く。少しだけ、普段より重いような気がした。
「校舎の材質、調度品の由来……世界というのはなかなか情報にあふれているね」
図書室を出てから、ソフィアは常に解析魔法を使用していた。目に映るものすべてが新鮮という雰囲気で、賢者であるとは思えない表情に見えた。
「それ、ずっと使っていて疲れないのか?」
「消費する魔力自体は微々たるものだからね。問題ないさ。それにしても――」
そういって言葉を切るソフィア。
「どうした?」
「いや、なにか違和感があるような……なんだ?」
すれ違う生徒たちに目もくれず、何かを考えこんでいた。そこに――
「おや、ルクス君にソフィアさん。どうしましたか?」
「っと。マリア先生。ちょっと街まで出てこようかと」
「――っ!?」
マリアだった。普段通りの穏やかな笑み。優しい声色。
「……珍しいですね。ソフィアさんが外出とは……逢い引き、でしょうか?」
「……まさか。私だってたまには外の空気を吸いたいときもありますよ」
さらりと流して足早に通り過ぎていくソフィア。
「え、ちょっ、待てって!すみません先生。それじゃ!」
「えぇ。お気をつけて」
慌てて後を追うルクスを見送る。
「――本当に、お気をつけて」
その声は誰にも届かず静かに朝の空気に融けていった。
朝の活動を行う生徒たちをすり抜け、なんとかソフィアに追いついたルクス。気づけば校門近くまで来ていた。
「ソフィア!待てって。どうしたんだ?」
振り返ったソフィアの表情は、どこか固い。
「…………ったんだ」
「え?」
「違ったんだよ。マリア女史を解析した時、マリアという名前の後に読み取れた、彼女の役割。それが教師でもシスターでもなかったんだ。」
「それは、そんなにおかしいことなのか?」
「おかしいなんてものじゃない。役割は世界に与えられたもの。それを偽ることなんてできないししようとも思わないはずだ」
そういうと一呼吸おいて、
「だが、彼女の役割として表示されたのは、『観測者』だった」
「観測者?何をする役割なんだ?」
「わからない。なにかを観測するんだろうが、何を見るのか……」
役割の偽装。本来であれば暴かれるはずのないそれが、解析魔法によって暴かれた。それがもたらす事実とは――
「まぁ、今は置いておかないか?街でもっといろいろと試せば何かわかるかもしれないし!」
「……非論理的だが、今回はそれが良さそうだ。やっと解析魔法が完成したというのに、まだまだ課題は山積みだな」
ため息を一つ。そうして二人は学園の外、オルトゥスの街に踏み出すのだった。
オルトゥスの街は朝の賑わいの中にあった。石畳の通り、立ち並ぶ店、行き交う人々。いつもと変わらない光景。鮮やかな街並みに目が覚めるような感覚を覚える。
「――?…………っ!?」
「?どうした?」
傍らのソフィアから穏やかな街にそぐわない、並々ならぬ気配。
「……もう少しだけ、待ってくれ。他の場所も見て回ってみたい」
歯切れの悪い返答。信じられないものを見た、と言わんばかりの表情。
散策を続ける。ソフィアは時折解析魔法を展開し直し、せわしなく周囲を観察していく。そうしてある程度街を回り切った頃。
「どうだ?一通り街を見て回ったと思うが……」
「……そうだね、最後にもう一度だけ……」
ソフィアが短杖を構えた。再度、解析魔法を展開する。それはまるで絞首台に上る罪人のような表情で――
「顔が、ない」
「……は?」
静かな声だった。
「……顔がない?なんだそれは」
「この通りを歩いている人たち。これまで見て回った街の人たちも。解析魔法越しに見ると——顔がない。名前の記述もない。あるのは役割だけ。ただ、人の形をした何かが動いている」
ルクスはその言葉を聞きながら、街を見渡した。笑い声が聞こえる。話し声が聞こえる。普通の、何でもない朝の光景。その一部をソフィアの震える指が指し示す。
「通りの奥、人が消えた。あっちの誰もいなかった場所には、人影が現れた。なんだ。なんなんだこれは……」
「ソフィア?いったい何が見えて――」
理解できずソフィアに向き直る。少女の顔は驚愕と恐怖に彩られていて――その瞬間だった。
――視界が、揺れる。
人がいた。
大勢の人がいた。
肩が触れ合うほど近くに、笑い声が聞こえるほど近くに。
なのに、顔が、なかった。
誰一人として、顔がない。輪郭だけが人の形をしていて、その内側は滑らかに白く、空虚だった。目もなく、鼻もなく、口もない。なのに笑い声がして、言葉が聞こえるような気がしてくる。
やがて端の方から、人影が薄れ始めた。溶けるように。頁から文字が剥がれるように。輪郭がほどけて、何もなかったかのように消えていく。残った影たちは気づかない。消えた者がいたことを、誰も知らないようだった。
入れ替わるように、新しい人影が現れる。頁に文字が浮き出るように。初めからそこにいたかのように振る舞う。やはり、顔は見えない。
隣には一人の少女。こちらを見るその目には恐怖と不安が満ちていた。
「■は、何を■ているんだ?この人■は……■■なのか?」
聞き取れない言葉。
「どうして■が■■ないんだ!?同じ■■なのに!■■しいのは私だと言うのかい!?」
叫ぶような、懇願するような、しかし内容の聞き取れない問いかけ。それに答えようとして――
「――ス、おい、ルクス!」
「――っ!?」
ソフィアの声で現実に引き戻された。
「どうした。キミまでなにかおかしくなったのか……?」
いつも理性的な彼女らしからぬ、どこか縋るような声。垣間見た光景と重なる。
「……大丈夫だ。妙なものが見えて……」
「妙なもの?」
「――顔のない人が、消えたり現れたりするのが見えた」
「――私が見たものと同じだ。だが、どうやって……?何がどうなってるんだ……」
考え込むソフィア。その間にルクス自身も垣間見たものを整理していく。
(今のは……初めて魔法を使った時に見た――みんなが倒れてしまう光景、あれに似ている?)
『修練の森』に初めて踏み込んだ時、突如幻視した光景。三人の少女たちが魔物に敗北するビジョン。
(結局、あの通りにはならなかった。でも、俺が魔法を使えないまま、守られているままだったら……?あの光景は現実になっていたんじゃないか?)
思考が回転する。
(なら、今見えたものはなんだ。ソフィアの口ぶりでは解析魔法で見えたものと一致しているようだが……)
だが、ルクス自身に解析魔法は使えない。だというのに、見えるはずのないものが見えた。
(ソフィアの様子も、動揺はしているように見えるけど、さっき見えたものよりは落ち着いているみたいだし……)
「――よし、ひとまずの指針は決まった」
ソフィアの声に、思考を打ち切る。見れば、手帳を開く少女の姿。
手帳に猛烈な勢いで何かを書きこんでいく。それを閉じると、短く言った。
「一度、学園に戻ろう。確認したいことがある」
決意を帯びた表情。足早に戻る少女の背を慌てて追いかけるのだった。
「おや、お早いお戻りでしたね?」
「……マリア女史」
足早に学園を歩くソフィアとルクスの前に、マリアが通りかかる。
(マリア、観測者。……これ以上は読み取れない、か)
「気分転換はできましたか?近頃、ソフィアさんは根を詰めていたようでしたし……」
「……えぇ、それはもう。ところで、アイリスとクロエがどこにいるか、ご存知ですか?」
「今日は各自自由に過ごすと聞いていますから……訓練場と礼拝堂、でしょうか?」
「どうも。では、これで」
用は済んだとばかりに通り過ぎるソフィア。笑顔で見送るマリア。
「ルクス君はよろしいのですか?」
「……いえ、俺も行きます。失礼します」
いつもと変わらない笑み。それが空恐ろしく感じてならなかった。
訓練場で稽古中だったアイリス、礼拝堂で祈りを捧げていたクロエ。二人を引き連れて、図書室へと舞い戻る。困惑する二人に無言で解析魔法をかけるソフィア。
「騎士、アイリス、軽度の疲労」
「な、なによ急に。というかちゃんと体を休めておくように言ったでしょう」
「聖女、クロエ、健康体」
「えっと、あの、ソフィアさん……?」
ソフィアは答えず、廊下へ出た。通りかかった生徒に解析魔法を向ける。
「……生徒。名前の記述、なし。顔の記述、なし」
別の生徒。また別の生徒。
「生徒。なし。なし」
「……何をしてるのよ。ちゃんと説明してくれる?」
「今、確認している。少し待ってくれ」
何人かの生徒を解析した後、ソフィアは図書室に戻り、椅子に座った。手帳を開くと、静かに告げた。
「……わかったことを、話す」
平坦すぎる声だった。同席した三人も思わず姿勢を正す。
「この学園の、いや、おそらくこの世界の大半の人間には――名前がない。顔がない。あるのは役割のみだ。解析魔法で見ると、彼らには『存在している』という記述があるだけで、『生きている』という記述がない」
沈黙がその場を満たす。突拍子のない発言に全員の思考が止まる。
「――どういうこと」
アイリスが低い声で言った。
「そのままの意味だ。私たちが日常的に目にしている人間の大半は、生きていない。存在しているが、生きていない。名前もなく、顔もなく、ただそこに存在して、役割を果たすだけのナニカだ」
「そんなことが……」
クロエが口元を押さえた。ルクスの脳裏に先程見た光景が過る。
(あれと同じモノが世界にあふれている……?)
「……にわかには信じられないわね」
「私も信じがたい。ただ、これが解析魔法の示した事実だ」
ソフィアは手帳を閉じた。
「私が間違っている可能性もある。解析魔法はまだ完成したばかりだ。精度が足りないのかもしれない。だが——」
そこで一度、言葉が途切れた。視線がルクスに向く。
「だが、なんだ?」
「……整合性がある。私がこれまで見聞きし、疑問を抱いたことの多くが、これを事実と仮定すれば辻褄が合う。……合ってしまう」
「……例えば、どんなことですか?」
震える声でクロエが問いかける。
「そうだな……クロエ。キミは聖女という役割から、多くの生徒を治療してきたね?彼らのことについて思い出せることはあるかい?」
「もちろんです。問診だってするんですから、お名前も、治療に来た理由だって……だっ、て……あ、あれ?」
考え込み、少しずつ顔が青くなっていく。
「――思い、出せない……?みなさんを治療した時のことは……覚えてます。でも、他の生徒さんを治療した時のことは……」
「それが、答えだよ」
「そんなわけありません!だって、絶対にお話したんです!なのに、どうして……?」
取り乱すクロエ。他者への献身を常とする彼女にとって、その対象を忘れるなんてことは信じられないのだろう。
「私もそうだよ。何人もの人と話したし、関わった。あるいは、その時に名前も聞いていたのかもしれない。でも、それが記憶に残っていないんだ。まるで最初からなかったみたいに、ね」
再び沈黙が満ちる。
「……たしかに」
それを破ったのは、アイリス。その目は困惑に揺れ、しかし確かな意思をにじませていた。
「あたしも、誰のことも思い出せない。だとして、それが何だって言うの?あたしたちは魔王を倒し、世界を救う。そのために集まっているんじゃないの?」
揺れる『アイリス』という個人を『騎士』としての役割で支える。そうやって辛うじて平静を取り戻していた。
「そう、ですね……何もかもわかりませんけど、それだけは、世界を救うという使命だけは私たちの中で確かにある。今は、それでいいんですよね」
「……そうだな、今日のところはここまでにしよう。全員頭の整理が必要だろう。私も、まだ確認しなければならないことがある」
そういって会話を打ち切るソフィア。ノロノロと立ち上がり、他の三人は扉に向かう。アイリスとクロエが扉をくぐり、ルクスもそれに続こうとしたところで、振り返る。
「――ソフィア。君は……」
「どうした?」
「……いや、なんでもない。何か手伝えることがあればまた声をかけてくれ」
言いようのない不安が胸中に浮かび上がる。しかし言葉にならないそれは口から出る前に霧散してしまった。
――かたり、と主の動揺を肩代わりするかのように『無銘の剣』が震えていた。
――◇――
紺碧に染まりつつある栞。それを弄びながら、世界の外側で女神が笑う。
『ここまでたどり着くなんて珍しいわね。さて、どう転がるのかしら……』
世界の真理。その一端をつかんだ少年少女を眺め、心底面白いと言わんばかりに笑っている。
物語の結末は、未だ確定していない。
――頁が捲られる。