翌日、ソフィアは顔を見せなかった。
昨日の続きでも調べてるんでしょう、とアイリスが言い、様子を見てきます、とクロエが立ち上がった。しかし――
「一人にしてくれ」
それだけだったと、クロエが戻ってきて言った。その顔が少し青かった。
その次の日も、同じだった。
ルクスが扉を叩いた。返ってきたのはやはり同じ言葉だった。
さらに次の日。
渋るアイリスをクロエとルクスが追いやり、彼女も試みた。結果は変わらなかった。
その夕方、ルクスはアイリスとクロエを食堂の隅に集めた。
「このまま放っておくわけにはいかないと思う」
「ソフィアさん……心配です」
「……あたしもそう思ってるわ」
アイリスが腕を組んだ。声は平静を装っていたが、目が落ち着かなかった。
「でも、あいつが一人にしてくれと言ってるなら、それはあいつの問題よ。無理に踏み込んでも逆効果になるかもしれない」
「アイリスさんの言う通りかもしれません。でも……」
クロエが手を膝の上で重ねた。
「一人にしておくのも、違う気がします。私たちを集めた、あの時のソフィアさんの様子を思うと……」
沈黙。
「――俺が行く」
「……ルクスさん」
「少し強引だけど、扉を開けて入る。怒られるかもしれない。でも、このままにはしておけない」
「……ルクス、あんた――」
アイリスが何か言いかけて、止まった。
「……好きにしなさい。ただし」
少し間があった。
「無理はさせないでよ」
そう言って、視線を窓の外へ向けた。
「あぁ、上手くやれるかはわからないけど努力するよ」
そして、翌日。
「ソフィア、いるんだろ?」
図書室の扉に語りかける。声は帰ってこない。
「……悪いが、入るぞ」
図書室の扉を開けると、紙の匂いがした。
テーブルの上に紙が散乱していた。びっしりと書き込まれたもの、途中で止まっているもの、何かを書いて消したもの。その中心に、ソフィアがいた。
「……また来たのか」
やつれていた。隈が以前より深く、顔の輪郭が少し尖って見えた。それでも手は動いていた。ルクスが入ってきても、顔を上げなかった。
「あぁ、みんな心配してるぞ、ちゃんと食べて寝てるのか?」
「一人にしてくれ、と言ったはずだが」
にべもない返答。視線は、合わないまま。
「聞こえてた。それでも、来たんだ」
手が止まった。ソフィアがルクスを見た。数日ぶりに見た目は疲弊していた。怒っているようには見えなかった。ただ、昏く、深かった。
「……好きにしたまえ」
ルクスは部屋の隅の椅子を引いてきて、テーブルの端に座った。散乱した紙を見た。数式のようなものと、文字と、図が混在している。
「何を書いてるんだ」
「解析魔法の精度を上げる方法を探している。もっと多くの世界の記述が読めれば、何かわかるかもしれない。そう思って」
「成果はあったのか?」
「……あったさ。どこまで主観を捨て、世界と一体化するか。ここが肝になってくるだろう」
そういった彼女の目はとても喜ばしい発見をしたようには見えなかった。
「あぁ、そうだ。もう一度、その剣を解析してみてもいいかい?今なら、何かわかるかもしれない」
「……こいつを、か」
逡巡。普段なら断る理由などない。だが、あまりにも危うい雰囲気を醸し出している彼女に、渡していいものか、判断がつかない。
少し迷って、頷いた。
剣を外してテーブルに置く。ソフィアが短杖を構えた。三日前より手の動きが安定していない。なのに、魔力の流れは非常に滑らかだった。
数秒後、短杖が下りた。
「……まだ駄目、か。他のものはいくらか精度が上がっていたんだが……」
ソフィアが目を閉じた。深く息を吐いた。その息に、隠し切れない疲労が滲んでいた。
「……一度、ゆっくり休んだ方が良い。体を壊したら元も子もないだろう?」
「必要ない。世界の真理にたどり着くためなら、そんなもの――あぁ、その手があったか」
そう言って顔を上げたソフィア。その顔はあまりにも昏く、なのに迷子が親を見つけた時のような安堵に満ちていた。
「ソフィア?何を――」
――視界が、揺れる。
焦点の合わない目。
痩せこけた頬。
目元には濃い隈を浮かべている。
何日も整えていないのか髪も乱れ、美しい青はくすんでいる。
そして――そこに鮮烈な赤が刻まれる。
少女の口から洩れる赤。
視線を下ろせば、体には白が突き刺さり、そこからも赤があふれ出している。
だというのに、救われたような安堵の表情に満ちていて――
「……こうすれば、私とこの剣は――世界は、もっと一つに近づくじゃないか」
「――っ!?」
意識が現実に戻る。視界に飛び込んできたのは白の剣をその体に向けるソフィア。
(今のビジョンは!?いや、それよりも――!)
脳裏に、垣間見た赤が過る。あの光景が現実のものになろうとしている。
「ソフィアっ!」
突き動かされるように、必死で手を伸ばす。そして、手に感じる灼熱。
「な、にを……ルクス、なにを、している……?」
視線を向ければ、そこには赤があった。しかし、それはルクス自身の手からあふれている。白がソフィアの体に刺さる寸前。その手で掴み、逸らした。必然の代償として、深い傷がその手に刻まれている。
「っ痛ぅ……それは、こっちの、台詞だ。何、考えてるんだ」
「私は、ただ、これと、一つになれば、解析できると。世界を、解き明かして、違う、キミは……」
支離滅裂な発言。先程までの危うい雰囲気は引き、混乱しているのが傍目にも伝わってくる。
「……とりあえず、なんか、布、止血――」
「っあぁ!少し待ってくれ!」
我に返り、手早く止血処理を施す。その動きは淀みない。ひとまず、今以上の出血を抑え、改めて向き合う二人。
「――それで?なんであんなことしようとしたんだ?」
「……あの剣を解析するためだよ」
「わからん。解析魔法と自傷に何の因果があるっていうんだ」
いたずらを見咎められたかのような、ばつの悪そうな顔。
「さっきも言ったように、解析魔法は主観を捨て、どれだけ対象と――世界と一つになれるかが精度に直結していた。魔法が完成するきっかけもそうだったし、ここ数日の検証でも、それは間違いなかった……」
「……だから、剣を体に刺せばもっと精度の高い解析ができる、って?」
「あぁ……」
「……実は、ソフィアってかなり馬鹿なのか?」
「うるさい。どうかしていたんだよ。だって世界の真理を解き明かさないと、私は……」
そう言って、思いつめた表情を浮かべる。
(以前から口に出してはいたけど……ここまで執心しているようには見えなかった。何か、他に原因が……?)
「……一体何がそこまで君を駆り立てる?自分を犠牲にしてでもかなえたい願いなのか?」
その問いかけに視線を落とすソフィア。
「だって、そうでないと、私が私でいられなくなる……」
「どういう意味だ?ここまで来たら全部話してくれ」
「……断る、私は――」
ソフィアの言葉を遮るように手を翳す。その手に巻かれた布と染み出した赤がソフィアの視線を釘付けにする。
「痛かったなぁ、この傷!これの分くらいは話してくれてもいいと思うんだけどなぁ!」
「こ、この男……!」
罪悪感につけこむルクス。茶化すような物言いをやめ、表情を引き締める。
「頼む。教えてくれよ。力になりたいんだ。それとも、俺じゃ役に立たないか?」
葛藤。ソフィアの中で様々な感情がせめぎあっていた。
「………………わかった」
その末に、口をついたのは了承の言葉だった。
「『世界五分前説』。覚えているかい?」
ソフィアの語り。始まりはその言葉からだった。
「世界は五分前に生み出された。記憶も、歴史も全て……って説だったか」
「……ああ。それを知ってから、どうにも頭から離れなかった。どこか他人事ではないような……」
ルクスが促したとはいえ、与えたのは話すきっかけのみ。それで十分だったのか、あるいは限界だったのか、溢れるように言葉が出てきた。
「私はずっと、賢者として世界の真理を解き明かすことを、自分の核だと思っていた。己に与えられた役割であり、至上の命題である、と」
テーブルの上の一点――使い込まれた手帳を見ながら話していた。ルクスを見てはいなかった。
「知りたいという衝動。解き明かしたいという意欲。それが私だと思っていた。他に何も要らないと思っていた」
「今は、違うのか?」
「……それが役割として最初から書き込まれたものだとしたら、どうなる」
静かな、そしてどこまでも冷たい声色。
「私が知りたいと思うのは、賢者という役割がそう定義しているからかもしれない。この胸にある探求心も、好奇心も、私が生み出したものじゃなく、全部最初から仕込まれた衝動かもしれない。そうだとしたら――私の意志というものが、どこにある?」
「……」
「自分で選んだと思っていたことが、全部そうあるように設定されていただけだとしたら。私という存在の根拠が、どこにもない。私が私であると、証明することができない」
声が、最後の方で少し揺れた。
「それだけじゃないんだ」
震えたまま、ソフィアが続けた。
「キミと出会う以前のことが、思い出せない。記憶はある。魔法を学んだ、旅をした、本を読んだ。でも、それがいつで、誰と、どこでだったか――掴もうとするとすり抜ける。事実として知っているが、体験として覚えていない」
「……」
「つまり私は『ソフィアという人物が存在していたこと』を知っているだけで、『ソフィアとして生きてきた』証拠がない。街で見た名前も顔もない人影と、私の間に――本質的な違いがあるのかどうか、わからない」
静かな声だった。静かすぎて、かえって重かった。
「私は私がわからない。今ここにいる私は、『賢者ソフィア』という役割を与えられただけのナニカなんじゃないかと。街で見たように、『私』も前触れなく消えてしまうんじゃないか、次の瞬間には別の『私』が『ソフィア』としてキミたちと笑っているんじゃないか、と。そう思ったらその考えが頭から離れてくれないんだよ」
吐き出す度に、苦しげな表情が浮かぶ。
「だから、知りたいんだ。世界の記述を、真理を解き明かせば、私が私である意味も、理由も、証拠も、見出せるかもしれないから」
そういって、ソフィアの独白は終わった。
「……ありがとう。話してくれて」
「いや、いいんだ。それより、早くその傷を治療しに――」
「――俺は、君のことがわかるよ」
ソフィアの言葉を遮り、ルクスが言った。
「……何?」
「顔のない人たちとは違う。ソフィアはここにいる。俺にはそれがわかる」
「……それはキミの主観に過ぎないだろ」
ソフィアが静かに返した。
「私が本当に生きているのか、それともそう見えるように作られているだけなのか、キミには判断できない。キミ自身もこの世界の記述の中にいるんだから」
「だとしても、さ」
ルクスの脳裏にこれまでの短くも濃密な経験が過る。
「君は俺に魔法をくれた。知恵をくれた。冷静さもくれたよ。俺の主観?その通りだ。でも、俺は君を――ソフィアを、知っている。俺だけじゃない。アイリスもクロエも、マリア先生だって。みんなが君のことを知っている」
「だから、どうしたって言うんだ」
「いつも冷静で、でも洒落っ気がないわけじゃない。遊ぶときは遊ぶし、真剣に魔法や世界を研究している。それに、意外と優しいところも多いよな」
「だから、それがなんだって――」
「君の問いに答えは出せない。その絶望を消す言葉も、持ってない。世界の記述に何が書いてあるかなんて、見当もつかない」
「……」
「でも、俺はここにいる。今、君の隣に。君がくれた力も、記憶も、思いも。ここにある。それだけは確かだ。俺にとって、『賢者ソフィア』は君しかいない」
ソフィアが顔を上げた。
「答えを出す必要はない。ただ、一緒にいよう。俺に、もっと君の事を教えてくれ。君が君を見失っても、俺が見つけるから。……それじゃ駄目か?」
沈黙が続いた。
窓の外が暗くなっている。いつの間にか、夜になっていた。
どのくらい経ったか、ソフィアが言った。
「私は、世界の真理を解き明かす。これが誰かに与えれた衝動だとしても、少なくともその思いを胸に生きた私に、嘘はなかったはずだから――たとえ、その先に何もなかったとしても、成し遂げてみせる」
「あぁ。俺も手伝うよ。いつか必ず、見つけよう」
「……また、迷惑をかけるかもしれない。世界の真理が恐ろしいものかもしれない、なんて考えたこともなかったから」
「構わないさ。どうしても耐えきれなくなったら言えばいい。俺も付き合うからさ」
「――いいのか?私は、キミに……」
「当たり前だろ?俺、まだまだ君に教わりたいことがたくさんあるんだ。だから、隣で待ってるよ。君が自分の力で立ち上がるのを。それができると信じてる」
「そう、か……それは、嬉しい……と、思う……」
少しずつ、ソフィアの瞼が落ちていく。張り詰めていた糸が緩むように。
「眠りたく、ないな……この気持ちが、無くなってしまうのが……怖い……」
「大丈夫。無くならない。もし無くなっても、また取り戻せるさ」
「なら……いい、か……」
「あぁ。今日はゆっくり休め」
朦朧としているソフィアを抱え、隅のソファに移動する。
抱えられ、移動している揺れ。それと同時にトクン、トクン、という音がソフィアの耳に届く。
(これ……ルクスの、鼓動……ここに、生きている……どこか、安心、する……)
「お休み、ソフィア。また明日、だ」
それだけ言うと、ルクスは立ち上がった。椅子を元の場所に戻して、扉に向かう。
部屋を出て、扉が閉まる。その寸前ーー
「……ありがとう」
声が、聞こえた気がした。