――天座の書架。
世界の外側。
無数の本が書架に並べられ、その鮮やかな彩りで見る者を惹きつける。
一つ一つに始まりがあり、葛藤があり、終わりがあった。
その全てが一柱の女神によって収蔵された物語である。
女神ミュトスが座するその空間に、存在する異物。
夥しい数の剣の山。
白、赤、青、緑。様々な色の剣、その中に、一際深い青を湛えた剣が、いくつも乱立していた。
あるものは刃が零れ、あるものは刀身が砕け散っている。共通していることはただ一つ。――女神に「解を誤った」と切り捨てられた、知の探求のなれ果てだということ。
勇者であった男は、永劫の磔刑の中でそれを見ていた。
新たに、一本の剣が彼の元に突き刺さる。
また一つ、賢者の少女と白紙の勇者が真理の淵で力尽き、物語が棄却された証。紺碧の剣。
(――また、繰り返される……)
女神の手元で、白紙の栞が淡く揺れる。
――頁が捲られる。
――◇――
『俺』は、いつもの場所に立っていた。
『修練の森』。木漏れ日と、静寂と、これから始まる「役目」の予感。
視界の端で、青い髪をなびかせる少女の横顔が見える。その奥には、赤の騎士と翡翠の聖女の姿もあった。
何度目か、もうわからない。
『俺』にとっては初めての、しかし剣の重みだけが知っている、幾度も繰り返した工程。ただ、今回も同じように問い、同じように解き、同じように消えるのだろうということだけは、わかっていた。
森の奥から、影が湧き出す。
「来るわよ!」
「……ふむ。数が多いね。ルクス、下がっててくれ」
赤い少女が剣を抜き、青い少女が冷静に杖を構える。
影の群れが、四方から押し寄せる。
(また、この場面だ。この先に待つのは、救いのない結末だけだ……)
『俺』は剣を握っていた。しかし、それをどこへ向ければいいかわからなかった。
勇者という役割だけがあって、記憶がない。
目の前で、赤い少女が影に埋もれていく。
いかなる叡智を携えようと、青い少女の魔法は原始の暴力の前に虚しく霧散していく。
翡翠の少女が上げる、祈りの声すら届かない。
気づけば、三人が地に伏していた。
泥の中に沈む赤。泣きながら無意味な癒やしを乞う翡翠。
そして、杖を折られ、絶望に瞳を濁らせた青。
『俺』だけが、立っていた。白紙のまま、守られたままで。
守れなかった。何も識ろうとしなかった。
ただ、見ていた。
その物語は終わった。
「無為」と評価され、捨てられた。
――◇――
別の記憶。
気がつけば、街の中にいた。
街にはいつも通り大勢の人がいた。人目を集める大道芸人。声を張り上げる店番の男性。隣を駆け抜けていく子どもたち。穏やかに微笑む老夫婦。
全てがいつも通り。平穏で、鮮やかな街。
隣には青い髪の少女。念願の魔法を完成させ、数分前までは目を輝かせていた。
世界の真理を解き明かすと息巻いていた少女は今、恐怖と不安に満ちた目で、『俺』を見上げている。
「私は、何を見ているんだ?この人影は……人間なのか?」
少女は、叫ぶように問いかける。切望した魔法越しに見た世界は彼女に救いをもたらさなかった。『俺』にはその絶望も、理由も、理解できなかった。
「どうして顔が見えないんだ!?同じ人間なのに!おかしいのは私だと言うのかい!?」
それは懇願だった。自身の存在を証明したいという、悲痛な叫びだった。
しかし、『俺』の目に映る景色はいつもと変わらない。街の人々はそれぞれの役割に殉じている。真実を見たいと望んでも、それを叶える存在はいなかった。
やがて少女は自我を喪失し、物言わぬ人形となり果てた。『俺』はその隣で、なにをするでもなく寄り添っていた。やがて世界は影に覆われ、全てが無へと帰った。
「惰弱」と評価され、捨てられた。
――◇――
また別の記憶。
今度は、彼女が真理に近づきすぎてしまった。
図書室の片隅で、彼女は独り、狂気的な解析に没頭していた。
焦点の合わない目。痩せこけた頬。
何日も整えていない髪はくすみ、かつての美しい青は見る影もない。
少女は『無銘の剣』をその手にとった。解析を行うも、その表情は晴れないまま。しかし、突如として笑顔を浮かべた。普段の穏やかなものとは違う、狂気的な――それでいて喜色に満ちた笑顔。
「――あぁ、その手があったか」
手の中で『無銘の剣』が翻る。その切っ先が少女自身の体に向けられた。
「……こうすれば、私とこの剣は――世界は、もっと一つに近づくじゃないか」
制する間もなかった。
ずぶり、と。
鮮烈な赤が刻まれる。
勇者の剣は賢者の体をあっさりと貫き、その命が零れ出していく。
死が近づく。だというのに、少女の顔は「救われた」と言わんばかりの、穏やかな安堵に満ちていて――
『俺』は思わず叫ぶ。倒れこむ少女の体を抱き寄せ、その命を救う方法を模索する。
翡翠の聖女はここにはいない。止血を試みるも、あまりにもその穴は大きすぎた。
命の灯が消えていく。必死に呼びかけるも、少しずつその瞳が閉じられていく。
床に広がる赤がその侵攻を止める。流れ出していたその源が尽きていた。
真理を得た対価、絶望と狂気が一人の少女を殺した。
『俺』の体が熱に浮かされたように動く。赤に染まった『無銘の剣』。少女の動きを再現するように、その切っ先が『俺』に向けられる。
少女の絶望を理解したい。その思いが体を動かす。
赤が重なる。赤に塗れた青と白が折り重なるように倒れる。
塗り重ねられた赤の下。勇者の剣は、深く暗い紺碧へと染め上げられていた。
女神はそれを本にした。その叡智ゆえに自刃に至る狂気。非常に美しい絶望だと讃えられ、その書架に収められた。
――◇――
さらに別の記憶。
むせ返るほど濃い獣の――魔物の匂い。そして、目の前の巨躯から発される威圧感。
『修練の森』の奥。大量の魔物。一体一体が不自然な力を発揮していた。『俺』たちがじわじわと追い込まれていた時、暗がりから現れた巨体。
正面には膝をついた赤。背後には倒れ伏す翡翠。
そして、『俺』の腕の中には、脱力した青。
「逃げなさい!あんただけでも!」
「ルクスさん……生きて……」
『俺』たちは懸命に戦った。ただ、敵は強大だった。それだけだった。
都合のいい奇跡など起こらなかった。圧倒的な戦力差に、当然の帰結として敗北が近づく。
仲間たちが命を燃やして叫ぶ中、腕の中の少女だけは、自嘲気味に目を細めた。
「ルクス……すまない……やっぱり、私は私じゃなかった……」
その目が閉じられていく。
自分が「人間」ですらなかったという虚無を抱えたまま、彼女の知性は潰えた。
『俺』の体は動かない。ただ、目の前の魔物に力無くこうべを垂れていた。
巨大な影が降り下ろされる。
「期待外れ」と、一瞥もせず捨てられた。
――◇――
記憶が濁流となって押し寄せる。
何度も出会い、何度も名前を呼び、何度も大切なものをもらった。
しかし彼女たちは、目覚めるたびに『俺』を知らない。
『俺』もまた、彼女たちを、全てを忘れている。
白紙から始まり、役割を全うし、漂白される。
(いつまで、続ければいいんだ)
終わりのない数式を解かされているような虚脱感。
繰り返す度に、観測する度に、心に黒く澱んだナニかが溜まっていくのを感じていた。
――◇――
記憶の濁流から回帰する。
書架には、静寂が満ちていた。
磔にされた男は、虚ろな目で新たな物語を観測している。
また始まった物語。白紙から始まる少年。知を愛する青い少女。
同じだ、と男は思う。
今度も同じように解いて、同じように解き明かせず終わる。
そう思いながら、それでも目が離せない。
いつか見た真紅の勇者は物語を完遂した。魔王を倒し、世界を救い、少女を救った。数多の勇者が成し遂げられなかった役割を、鮮やかに全うしてみせた。
眼下では女神の手中で、栞が淡く揺れている。
白紙の栞。
世界に降り立つ前の、無垢で純粋な勇者の心。
全てを漂白された勇者の、何度目かもわからない物語が綴られる。
何百回と見てきた、残酷な物語。
――頁が捲られる。
やがて蒼穹の輝きと共に世界の真実に辿り着く、勇者と賢者の物語が今、始まった。
これにて二章完結です。前回同様三章の執筆に少し時間をいただきます。お気に入り登録の上お待ちいただければ幸いです。