白の目覚め/色彩の変容
光の中に、誰かがいた。
翡翠の髪が風にたなびいている。
長杖を抱えるようにして座り込んだ少女は穏やかに微笑んでいた。
慈愛に満ちた、迷いのない目。その目は、こちらを見ているようで、どこか遠くを眺めているようにも見えた。
その輪郭がぼやけていく。
少女は笑っていた。満足そうに。惜しむことなく。
笑ったまま、その身体は虚空へと融けていった。
この結末を認めない。
その思いだけが胸で渦巻いていた。
――◇――
少年の目が開かれた。
柔らかな朝の日差し。
若草の匂い。
人のざわめき。
腰には一振りの剣。
目の前には巨大な門。
(……ここは?)
頭の中を探る。だが——何もない。記憶が、ない。
(俺は……誰だ?)
少し考えて、ようやく一つだけ答えが浮かんだ。
名前が、浮かんだ。ルクス、と。
それ以外は、「白紙」だった。
(この剣は……)
腰の剣に触れる。純白の刀身。まだ何色にも染まっていない。しかし何もなかったはずの記憶が、かすかに囁く――これは大切なものだ。それだけは、なぜか確信できた。
その時だった。
「――あ、よかった。こちらにいらっしゃったんですね」
穏やかな声。
振り向くと、一人の少女が立っていた。翡翠の髪。翡翠の目。長杖を携えて、こちらをまっすぐに見ている。その顔に笑みが浮かんでいた。
「君は……」
「ルクスさん、ですよね。私はクロエ、聖女の役割をいただいています」
クロエはそう言いながら、ルクスの前へ歩み寄った。
「少し、失礼しますね」
返事を待たずに、クロエの手が伸びる。ルクスの外套の襟を、静かに整え始めた。
「――え」
「少し曲がっていましたから。こちらも」
続けて、ルクスの袖口を直した。それから一歩引いて、頭のてっぺんから足元まで眺め、小さく頷く。
「よし!では行きましょうか」
「行くって、どこに?」
「私たちの学び舎――『シアトルム騎士魔導学園』へ」
踵を返して歩き始めるクロエ。その背中を、ルクスはしばらく見ていた。
(初対面、のはずだけど……いや、俺が忘れているだけ、という可能性もあるのか?)
その丁寧さが、どこか引っかかった。初めて会った人間への気遣いとしては、整いすぎている。親しみではなく、習慣のような――まるで、誰に対してもこうするのが当然と、体に刻み込まれているような。
(……なぜだろう。怖い、とは違う。でも)
「――ルクスさん?」
「――あぁ、今行く」
その違和感がうまく言葉にならないまま、ルクスはクロエの背中を追いかけた。
「こちらが、私たちの教室です」
連れられて入った教室は小さかった。
鮮やかな赤い髪の少女と、青い髪に眼鏡をかけた少女。既に着席していた二人は、それぞれがルクスを一瞥してから視線を戻した。
教壇には金髪のシスター。穏やかな笑顔は見る者を安心させ――しかし、どこか底知れない雰囲気を漂わせている。
「クロエさん、ご苦労様です。これで全員揃いましたね。私はマリア、この特待クラス『プロタゴニスト』の担任です。では、皆さんも自己紹介をお願いします」
赤髪の少女が立った。
「アイリス。役割は騎士。世界を守るために戦う」
淡々とした声だった。入れ替わりに青髪の少女が立つ。
「ソフィア。賢者。世界の真理を探究する」
短く言って、手元の手帳に視線を戻した。 次にクロエが立った。
「クロエです。役割は聖女」
そこで一息空けると、クロエは続けた。
「誰もが笑顔で過ごせる平和な世界を。そのために、この身を捧げます」
一瞬の、静寂。
アイリスはとくに反応しなかった。ソフィアも手帳から目を上げなかった。聞き慣れた言葉、とでもいうように。
ルクスだけが、その言葉のどこかに針が引っかかるような感覚を覚えた。
(なんだか、大げさじゃないか……?)
自身の身よりも世界を優先する。その言葉が呑み込めないまま、最後にルクスの番が来た。
「……ルクス。それ以上のことは今のところわからない」
アイリスとソフィアから疑惑の目が向けられる。マリアが静かに補足した。
「ルクス君は記憶喪失なんです。ですが――彼は勇者の役割をお持ちです。皆さん、よろしくお願いしますね」
「……はぁっ!?」
アイリスが驚愕と共に立ち上がる。ソフィアが目を細めて手帳に何かを書き記した。
クロエが、ルクスを見た。先ほどと同じ笑顔。穏やかで、迷いがなく――
(――何かを確かめている?)
その笑顔の意味は、ルクスにはまだ読めなかった。
最低限の座学を終えて、『修練の森』へ向かうことになった一行。
移動中、ルクスは三人の背中を見ながら頭の中を整理した。魔王、魔物、役割。全て今日初めて耳にした話だ。
(勇者として魔王を倒す。世界を救う。それが、俺の役割――)
しっくりこない。役割という言葉そのものより、それを迷いなく受け入れている三人の様子の方が、どこか腹に落ちなかった。
(まぁ、今は余計なことを考えても仕方ないか)
足元の石畳が途切れ、土の地面に変わった。鬱蒼と茂る木々。厚い葉が日差しを遮り、獣の匂いが鼻を突く。
「方針を確認するわよ」
アイリスが振り返った。
「あたしが前衛、ソフィアは中衛から援護、クロエは後衛で支援と回復。ルクスは後ろで見てて。足を引っ張るのが一番困るから」
「わかった」
素直に答えると、アイリスが一瞬だけ拍子抜けした顔をした。
(実際、俺にできることは多分、ない。とにかく記憶が戻らないことには……)
かたり、と腰で小さく揺れる剣を握る。自身のものであるはずのこれの振るい方すら、今のルクスにはわからない。
「クロエ、前に出すぎないように。ルクスのこと、頼んだわよ」
「はい――でも、必要な時には」
「必要な時でも、よ」
アイリスが念を押した。クロエは静かに頷いたが、その頷き方が妙に軽かった。聞いたけれど、その判断基準は自分の中にある――そんな軽さ。アイリスも気づいているのか、一瞬だけ眉を寄せてから前を向いた。
いくらか森を進んだ時、茂みが揺れた。
「来たわね」
緑色の皮膚、鋭い牙。ゴブリンが五体。
「行くわよっ!」
戦闘が始まった。アイリスの剣が閃き、ソフィアの魔法が唸る。クロエは後衛から支援魔法を飛ばし、傷を負ったアイリスへすかさず癒しの光を送る。澱みのない動きだった。
(……うまいな)
ルクスは後ろでその動きを目で追った。三人は少しの無駄もなく、自分の役割を果たしている。特にクロエは、仲間の状態を常に把握していた。光の壁で魔物を牽制し、アイリスが少しでも傷を負えば即座に回復魔法が届けられる。
戦闘はあっという間に終わった。
「よし、先へ進むわよ」
アイリスが前へ進む。クロエがその後ろに続きながら、アイリスの肩口にもう一度魔法を当てた。まだ消えていなかった細かな傷に、丁寧に。
(誠実だな、とは思う。なのに——)
何かが、合わない。言葉にならない引っかかりが、ずっとそこにあった。
森の深部へ進むにつれ、魔物の数が増えてきた。
アイリスが引き付け、ソフィアが薙ぎ払い、クロエが守る。その繰り返しの中で、ルクスはクロエの動きを注視し続けた。
奇妙だった。
クロエは仲間が傷つくより前に動く。アイリスへ向かう攻撃を、光の盾で弾く。ソフィアの死角へ回り込もうとする個体の前に立ちふさがり、長杖で距離を保つ。適宜癒しの光が仲間たちに向けられる。それ自体は、聖女の役割として理解できる。
しかし、それでクロエ自身が受けた傷の処置は、いつも後だった。腕をかすめた爪傷に気づかないわけではないだろう。それでも、仲間の治療が全て終わるまで、その傷は捨て置かれている。
(……痛くないわけがない)
「クロエ」
「はい?」
掃討後、アイリスへ足を向けるクロエに、思わず声をかけていた。
「さっき腕をやられていたな。回復は」
「このくらい、後で大丈夫ですよ?」
あっさりと言った。表情が変わらない。
「アイリスさんの右腕に傷がまだ少し残っていて、ソフィアさんも魔力消費が——」
「――自分の傷の方が先じゃないのか?君の傷が一番深いように思えるが」
クロエが少し首を傾けた。その腕からは、今も鮮烈な赤が滲んでいる。
「私の痛みは、損失ではありませんから」
疑問の余地もない、という顔で言った。ルクスが反論する前に、もう仲間の方へ意識を向けている。
(損失ではない、か——)
その言葉が、頭の隅に引っかかったまま離れなかった。
――◇――
『なんだかこの展開も見飽きてきたわね……少し、難易度を上げてみようかしら?」
世界の外側で女神の気まぐれが世界の運命をほんの少し歪めた。
――◇――
さらに奥へ進んだ時だった。
周囲の茂みが一斉にざわめいた。
「ギャッ!」「ギギィッ!」「――ガァァァッ!」
ゴブリンだけではなかった。獣のような見た目に武器を携えたコボルト、大柄で力強いオーク。そしてそれよりも二回り大きな灰色の影――
「ハイオーク!?強い魔物は間引いてるんじゃなかったの!?」
アイリスが悲鳴のように叫ぶ。
件の魔物――ハイオークが、茂みの奥から姿を現した。
群れの先頭に立ち、こちらを見据えている。
目つきが違う。動きの質が、威圧感が、ゴブリンとは明らかに異なっていた。
「――これは」
ソフィアの声が低くなった。
「散開!クロエ――!」
「プロテクション――!」
光の壁が展開される。ハイオークがそこへ拳を叩き込む。
壁が軋む。クロエが両手で長杖を押さえて堪える。アイリスが前線で多数の魔物を捌き、ソフィアの魔法が群れの密集地点を狙う。
しかし数が多い。アイリスの動きに傷の蓄積が見え始め、ソフィアの魔法の間隔がわずかに広がっていく。
(何もできない――でも、ここで何もしないままじゃ!)
剣を抜き、ルクスが足を踏み出そうとした、その瞬間。
「――きゃっ!」
ハイオークが光の壁を砕いた。弾き飛ばされるクロエ。
ハイオークが再び腕を振り上げた。
その標的は――ルクスだった。
灰色の拳が迫る。
時間が、止まったように感じた。
――視界が、揺れる。
目前に迫った巨躯の前に、翡翠が舞う。
灰は翡翠を穿ち、赤が流れ出していく。
崩れ落ちる少女。しかし、その顔は状況と不釣り合いに穏やかで――
「――あぁ、よかった。あなたが、無事で。私は……」
その瞳が光を失っていく。死の間際ですら、安堵した笑顔を浮かべ、そのまま――
「――っ!?」
一瞬の白昼夢。嫌な実感を伴ったそれに、ルクスの思考が止まる。
(なんだ今の!?いや、そんなことより――)
意識を現実に戻した時にはもう遅かった。
既に灰の拳は振り下ろされていて――
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れる。
垣間見た光景そのままに、翡翠が――クロエがルクスの前にその体を滑り込ませる。
背後をかばうように両腕を広げて立つ少女に拳が文字通り突き刺さった。
胴体に大穴。どう見ても、致命傷。
「クロエ――ッ!!」
「っく……!」
崩れ落ちる少女。遠くからアイリスの悲鳴が聞こえる。ソフィアが息を呑む。必死になって抱き寄せた少女の体はあまりにも軽かった。
「なんで、どうして!役立たずの俺なんか庇ったんだ!」
「――あぁ、よかった。あなたが、無事で。私は……」
ルクスの叫びに対する返答は、弱弱しい。しかし隠し切れない安堵がそこにあった。長年の悲願を果たしたかのような。
「聖女なら、代わりがいます。でもあなたは……勇者は、そうじゃありませんから。こうするのが世界のためなんです……」
「ふざけるな!君は君しかいないだろ!聖女の代わりはいてもクロエの代わりなんていない!」
どこまでも救済に殉ずる少女。その言葉には一片の迷いも後悔もなかった。
激昂するルクスにかかる、暗い影。
「――ッガァァァ!」
「――お前ぇぇぇぇ!!」
再び迫るハイオーク。感情のままにルクスは剣を振るった。
カン、と乾いた音。堅固な皮膚が拙い剣を弾き返した音。
「ウィンドバーストッ!ルクス、離れろ!」
再び拳を振りかぶった巨体に、指向性を持った暴風が襲い掛かる。
空いた距離にアイリスが入り込む。滑らかに切り込んだその剣は、弾き返されはしなかったが、あまりにも浅い痕を残した。
「――硬すぎる……!」
ハイオークにアイリスとソフィアがかかりきりになる。それは、二人が相手をしていた多数の魔物が自由になるということで――
「ギャッ」「ギャァ」「ギィッ」
今尚クロエの体を抱きしめて立ち上がれないルクスに襲い掛かる。
「ルクスッ!立ちなさい!立って、逃げるの!」
「早くしたまえ!そう長くは保たない!」
二人の少女が叫ぶ。少年はまだ立ち上がらない。
「――ルクスさん。あなたは、生きて、世界を……」
「待て!逝くな!勝手に自分を殺して――勝手に俺を、世界を救った気になるな!」
「お願い、します……」
ついにその瞳から光が消え、体から力が抜ける。少女の死が、すぐそこまで来ていた。
(なんだ、これは)
胸の内が燃えるように熱を持つ。
(記憶はない、でも、俺は勇者なんだろう?世界を救う役目が、あるんだろう?)
先ほどよりも軽く感じる少女の体。それを抱き寄せるのとは逆の手に、剣が握られていた。
(――こんな形で生き延びて、どうなる。仲間一人守れないで、どうやって世界を救う)
剣が熱い。なにかを語り掛けるようにガタガタと揺れる。
(そうだ。こんな結末は認めない。こんな世界、認めない。俺が、望む結末は――!)
現実を拒絶する。己の望む未来を思い描く。
そして、視界から色が消えた。
モノクロの世界で、一際輝く純白の剣がその力の一端を解き放つ。
「――邪魔だっ!」
立ち上がらないまま、剣を振るう。
当然、魔物に当たる軌道ではない。ただ空を斬るだけの動作。
「――いいや、当たる。当たるならば、斬れる。斬れるなら、殺せる」
ルクスの言葉と共に、周囲にいた魔物の大半が切り裂かれ、霧散していく。
「――っ!?なに、今の!」
「……!今のは、まさか」
驚愕する気配。ハイオークすら突然味方が消滅したことに動揺したのか、手が緩んでいた。――それら一切がルクスの目に入らない。
彼が意識を向けているのは腕の中で永い眠りにつこうとしている少女のみ。勇者を救った少女は安らかな表情で眠る。その体は少女自身の血で染められていた。
「いいや、クロエの体に傷なんてない。ただ、気を失っているだけだ。すぐに目を覚ます」
少年のつぶやきと同時、少女の体から血痕が剥がれ、消えていく。残ったのは、傷のない少女。その瞳が再び開く。自分自身の状態に困惑を隠せない。
「――これは、一体……?」
「――言いたいことは山ほどあるけど、それは後だ。今は……」
現実離れした奇跡。それを成した少年が次に見据えたのは、今も動揺したままのハイオーク。
「とっとと終わらせる!」
「――ッ!ギィアアアア!!」
剣を片手に駆けるルクス。迎撃の構えを取った魔物めがけて剣を振るう。
それは、最短で、最速で、ハイオークの体に向けられた。
「斬る。お前が何だろうと、どれだけ硬かろうと、俺は、斬れる」
アイリスの剣すら殆ど通さなかった肉体が、冗談のようにあっさりと斬り分けられる。
腕が落ちる、膝が斬れる。そして、首が落ちる。
瞬きの間に解体された肉体が霧散する。
同時に、世界の色が戻る。
「――はぁっ!?」
アイリスが叫んだ。ソフィアが目を見開き――素早く短杖が向けられる。その先には少数の魔物たち。魔物の残党が浮足立つ隙を賢者の瞳は見逃さなかった。
そして、森に静寂が戻った。
「――ルクスさん」
クロエの声。体に空いたはずの大穴は消え、すべてが幻であったかのよう。しかし、腹が見えたままの破れた修道服が、現実であったことを裏付けていた。
「ありがとうございます」
クロエが言った。
その言葉の続きを、ルクスは待った。
「勇者であるあなたが生き残ってくれて、よかった。これで救済の道筋は――」
「――そうじゃないだろう」
思ったより低い声が出た。
「そうじゃない、とは?」
何を言っているのかわからない、という顔。
「君自身が助かったことを、喜べないのか」
クロエが少し黙った。
「……喜んではいますよ。ちゃんと、役割も果たせましたし――」
「役割の話じゃない」
ルクスは言葉を探した。しかし喉元まで来るものは感情で、それをうまく言葉に変換できない。
「君は今日、何度も傷ついた。誰かを守って、死んでしまうところまで。それが――当たり前みたいな顔をして笑っているのが、俺には理解できない」
「でも、それが聖女の役割です。世界を救うための礎、おかしなことは何も――」
「おかしい」
言い切った。
「おかしくない、と思っていることが、おかしい」
クロエは黙った。困惑した顔をしていた。否定されることに慣れていない――というより、そういう発想自体がないような顔だった。
「――変わったことを言うんですね、ルクスさんは。記憶がないから、でしょうか」
しばらくして、クロエが静かに言った。
「私は聖女として、この世界から一つでも多くの苦しみを取り除きたい。そのために必要なら――この身を捧げるでしょう」
「違う、違うんだ。そんな大きな話をしているんじゃない」
思わずその肩をつかむ。
「俺は君に、消えてほしくない。役割がどうとか、世界がどうとか、そういう話じゃなく――今ここにいる君に、消えてほしくない。君に、もっと自分を大切にしてほしい。それだけだ」
沈黙が落ちた。
鳥の声がした。葉が揺れた。クロエはしばらく、何も言わなかった。困惑と、もっと別の何か――うまく処理できていない感情が、その翡翠の目に滲んでいた。
「……そんな風に言われたのは、初めてです」
小さな声だった。
「私が、私を大切に……」
言葉が続かなかった。何かを考えこむように、顔を俯かせていく。
そうしている内に、ソフィアがルクスの隣に来た。声を落として言う。
「さっきの、どうやった」
「……わからない。体が動いていた」
「明らかに異様だった。当たらないはずの攻撃が当たる。致命傷が初めからなかったように消える。神聖魔法か……?それにしたって規模が……いや、しかし……」
何事か呟くソフィアの声には熱があった。興奮ではなく、戦慄に近い色の。手帳を開き、書き込んでいく。
「実に興味深い。また、じっくり話を聞かせてくれ」
「……ああ」
ルクスは頷きながら、クロエの横顔を見た。アイリスの傷の処置を終えたクロエは、自身の体を確かめる。どこか、知らないものを見るような目で。
(やっぱり、わからない)
「とりあえず今日のところは戻りましょうか。よくわからないことも多いし……」
治療を終え、立ち上がるアイリス。
「あぁ、そうだ――ぁ?」
ぐらり、と体が傾いていく。力が入らず、そのまま――
「――っと!大丈夫?」
「大丈夫じゃないな……力が入らない」
倒れこむルクスを咄嗟に支えるアイリス。抱えた体は完全に脱力している。
「さっきのよくわからない力で消耗したのかしらね。肩は貸してあげるから頑張って歩いてちょうだい」
「悪いな。助かる……」
「…………」
ふらつきながら歩きだすルクスの背中を、静かにクロエが眺めていた――
帰還後の教室。
「お疲れ様でした。初実戦としては、上々ですね」
マリアは変わらない微笑みで言った。
「――上々とは言いますけど、あのハイオークは一体?危うく全滅するところだったのですが」
「恐らくはこちらの処理漏れだとは思うのですが……調査を行いますのでしばらく『修練の森』は封鎖します」
ソフィアの追求をあっさりと躱すマリア。納得いかない、という表情の彼女を無視し、ルクスに向き直る。
「ルクス君。何か、思い出せましたか?」
「……いいえ。ただ――体が勝手に動いた、という感覚だけ」
「それはそれは」
マリアの笑顔は崩れなかった。その奥が読めない。
「素晴らしい働きだったようですし。これからの成長が楽しみです――ええ、本当に」
その目は教育者というより興味深いものを見つけた研究者のものに近い輝きを宿していた。
廊下に出ると、クロエが少し後ろからついてきた。
「ルクスさん」
「――なんだ」
「さっきのこと――自分を大切にしろ、と言いましたよね」
「ああ」
「なぜ、そう思うんですか」
ルクスは少し考えた。少女に消えてほしくないと願う理由。
「……わからない。でも、いざというとき、君は笑って自分から消えてしまいそうで――それが嫌だった」
「私にはまだ――よくわからないです。ルクスさんの言葉の意味が」
「悪いが、俺も――うまく説明できない」
「でも」
クロエが、少し間を置いた。
「考えてみます。私を大切にする、その理由を」
そう言って微笑むクロエ。振り返り、歩き出した。
ルクスは一人残されて、腰の剣に手を添えた。白いままの刀身。まだ何色にも染まっていない。
(俺は何を忘れている。あの力は――何だったんだ)
「――っと!あ、れ……?」
体がふらつく。立っていられない。少しずつ倒れこんで――
「――?ルクスさん?ルクスさん!?」
去っていったはずの足音がまた近づいてくる。
窓の外に、夜空が広がり始めていた。
――◇――
そんな夜空の先、天座の書架。
女神ミュトスが手元の栞を眺めた。ほんのわずか——翡翠の色が滲み始めていた。
『……へぇ?』
それは純粋な興味の声。
『まさか、世界を書き換えるほどの力とは……興味深いけれど、ちょっと強すぎるかしら?物語にメリハリがなくなるようなことにならないといいのだけれど……』
少し困ったような微笑み。
『世界を救う殉教者と、その犠牲を拒む者。どちらが先に折れるかしら――存分に楽しませてもらうわよ』
――頁が捲られる。