天座の書架と白紙の勇者   作:maki@

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白の言葉/翠の未来

 目が覚めた時、最初に見えたのは光だった。

 

 窓から差し込む朝の日差しが、白い天井を柔らかく染めている。見慣れない天井だ、と思ってから、気づく。体が重い。腕を持ち上げようとすると、そこに鉛でも詰まっているかのような感覚がある。

 

 視線だけを動かすと、枕元に人影があった。

 

 翡翠の髪。クロエが椅子に腰かけて、手元の何かに集中している。

 

 ルクスの剣だった。白い布で、丁寧に刀身を磨いている。一拭き、また一拭き。音もなく、急ぐでもなく、祈りに似た所作で。朝の光がその刀身に反射して、静かな輝きを放っていた。

 

(……いつから、いたんだ)

 

「目が覚めましたか」

 

 ルクスが動いた気配を感じたのか、クロエが顔を上げた。その顔に疲労の色はない。

 

「クロエ……なんで、というか、ここは……?」

 

「学園の救護室です。覚えてませんか?」

 

 そう言われ、記憶を探る。

 

「確か、森から帰ってきて、報告して、それで……」

 

「私と話した後、突然倒れたんですよ?」

 

 びっくりしたんですから、と苦笑するクロエ。

 

「そうか。ありがとう。剣の方も、手入れしてくれてたんだな」

 

「はい、見守るだけ、というのも少し手すきでしたから」

 

 磨かれた剣身は美しく輝いていて、相応の時間手入れされたことが見てとれる。

 

「――どれくらい見てくれてたんだ?」

 

「昨晩から伺っていました。容態を見ておく必要がありましたので」

 

 恐る恐るの問いにあっさりとそう言った。

 

「一晩中、か」

 

「ええ」

 

「君は眠ったのか」

 

「少しは」

 

 少しは、というのがどの程度かはわからない。椅子の上で、という意味だろう。クロエはそれ以上説明しようとせず、視線をルクスの体に走らせる。

 

「そんなことより、体の具合はどうですか。頭痛は、吐き気は」

 

「少し重い感じがするくらいだ。動けないほどじゃない」

 

「無理に動かないでください。昨日のあれは、普通の消耗とは違うはずですから」

 

 昨日のあれ。脳裏に森の中の光景が蘇る。翡翠が倒れ、血が流れ、それを認めなかった。剣を振った。世界が変わった。

 

「クロエ」

 

「はい」

 

「昨日の――君の体はどうなんだ。あの傷は」

 

「ルクスさんが治してくださいましたから。今は何ともないですよ」

 

 穏やかな声。微笑みすら含んでいる。

 

「何ともない、か」

 

「はい」

 

「もうすぐ、死ぬところだったんだぞ」

 

「ええ。でも、生きています」

 

 それ以上でも以下でもない、という顔だった。昨日の致命傷を、まるで昨日の天気の話をするような口調で語っている。怖かったとも、痛かったとも、生きていてよかったとも——何も言わない。言う必要を感じていないような顔で。

 

「……そうか」

 

 それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。

 

「意識もはっきりしているみたいですし、もう大丈夫ですね。一度、失礼します」

 

「あぁ、ありがとう――君も、ゆっくり休んだ方が良い」

 

 そう言うと、困ったような顔。

 

「お気持ちだけ、いただいておきます。まだまだやることが残ってますから」

 

 そう言って部屋を出ていくクロエ。部屋に静寂が戻る。

 

 その静寂は穏やかだったが、ルクスの胸の底には、消えない澱のようなものが沈んでいた。

 

 

 

 昼頃、ルクスはどうにか体を起こして廊下へ出た。足元がまだ少し頼りない。壁に手を添えながら歩いていると、厨房の方から何かの匂いがした。食欲をそそる匂いに腹が鳴る。起きてから何も口にしていないことに気づいた。

 

 引き寄せられるように足を向けると、クロエがいた。

 

 小さな作業台の前に立ち、何かを刻んでいる。傍らには数種類の植物と、小瓶が並んでいた。手際がいい。迷いのない動きで材料を処理して、鍋に加えていく。

 

「――起きられたんですね」

 

 気配を感じたのか、クロエが振り向いた。

 

「こちらへどうぞ。もうすぐできますから」

 

「何を作ってるんだ」

 

「滋養強壮の薬湯です。あとは昼食も。体力の回復には栄養を取るのが一番ですから」

 

 隣の鍋には、昼食らしき準備も進んでいた。ルクスをここに引き寄せた匂いの元。消耗した体に負担のかからないよう、素材を選んで組み合わせた献立だとすぐにわかった。

 

「……クロエも昨日消耗しただろう。自分のことは」

 

「私は大丈夫ですよ」

 

 即答だった。

 

「……本当に大丈夫なのか」

 

「ルクスさんのサポートを適切に行うには、私が健康でなければなりません。ですからきちんと食事もとりますし、休息もとります」

 

 その答えが、少し引っかかる。

 

「――自分のために、休みたいとは思わないのか」

 

 鍋をかき混ぜていたクロエの手が、一瞬止まった。

 

「自分のため……?」

 

 翻訳の難しい言語を聞いたような顔だった。首を傾けて、少し考えて——

 

「私が健康であれば、皆さんをより効率的にサポートできます。ですから、自分を保つことはとても大切なことです。もちろん、きちんとしていますよ」

 

「そういう話じゃなく」

 

「——え?」

 

 心底意味が分からないという反応。

 

「疲れた時に疲れたと思う。休みたい時に休みたいと思う。そういう気持ちは、君にはないのか」

 

 クロエはまた少し黙った。今度は長く。

 

「……そういう気持ち、ですか」

 

「ああ」

 

「疲れた、というのは感じますよ。それを解消するために休むことも、します」

 

「でも、それは自分のためじゃなくて」

 

「――次の仕事を適切にこなすため、ですね」

 

 静かに言った。否定でも肯定でもない、ただの事実の確認として。

 ルクスはそれを聞いて、何も言えなかった。反論の言葉が出てこないのではなく、どこから話せばいいのかわからなかった。

 

「――よし、できました。座ってください」

 

 クロエが薬湯の入った椀と、昼食の皿を並べた。どちらも丁寧に、過不足なく。

 

「……いただきます」

 

 薬湯を一口。

 

 その温かさは優しく、ルクスの体に染みわたっていた。

 

 

 

 夕暮れになった。

 

 橙色の光が救護室を染めあげた頃、クロエに礼拝堂へ来てほしいと言われた。

 

 石造りの小さな建物。扉を開けると、外の音が消えた。細い光の柱が差し込んで、埃が金色に舞っている。正面の女神像が、夕の光の中で柔らかな翳りを帯びていた。

 

 クロエが祭壇の前の長椅子に腰かける。その隣に、ルクスも座った。

 

 しばらく、どちらも口を開かなかった。

 

「――考えてみました」

 

 先に口を開いたのはクロエだった。

 

「昨日、ルクスさんが言ったこと。自分を大切にしてほしい、と」

 

「ああ」

 

「今日一日、考えて――わかったことをお話ししてもいいですか」

 

「聞かせてくれ」

 

 クロエは正面の女神像を見たまま、静かに言った。

 

「私は『聖女クロエ』という役割以外の自分を、見つけられませんでした。ルクスさん――そしてアイリスさんにソフィアさん。皆さんを支え、世界を救う。それ以外には、なにも……」

 

 淡々とした声だった。

 

「もし私という個体が消えても、役割は残ります。代わりの誰かが引き継いで、世界は救われます。だから――私が私を特別視する理由は、どこにもないんです」

 

「――それは」

 

「おかしいと思いますか」

 

「あぁ、思う」

 

 即答した。クロエが少しだけ目を動かして、こちらを見た。

 

「代わりの聖女の話をしているんじゃない。世界の話をしているんでもない」

 

 ルクスは言葉を探した。うまく出てこない。それでも続けた。

 

「クロエ、君の話をしているんだ。君が消えることを、俺は嫌だと思っている。役割がどうとか、世界がどうとか関係なく――今ここにいる君が消えることが、嫌なんだ」

 

「……でも、私が消えても、勇者であるルクスさんが救済を完遂できるなら――」

 

 どこかかみ合わない会話。そして、ルクスがあることに気づいた。

 

「――クロエ、君の言う『世界』ってのはなんだ?君は何を救おうとしているんだ?」

 

「え?」

 

 クロエの目が、少し揺れた。

 

「……世界は、世界でしょう?このリベラ・オルビスという世界に生きる全ての生命が平穏に暮らせることを願っているんです」

 

 なにかを諳んじるような、淀みのない返答。それが引っかかる。

 

「――君の言う『世界』に、君自身は含まれていないのか?」

 

「そ、れは……」

 

 言いよどむクロエ。少しの間黙りこみ、考える。

 

 顔を上げ、改めて言葉を吐き出した。

 

「――意識したこともありませんでした。私は救済のための礎。私自身が救われることなんて……」

 

「そこだ。そこなんだよ。俺がずっと引っかかっていたのは」

 

 ずっと胸にあった違和感。その根源にあったのは自己の軽視――もはや無視といってもいい、自意識の薄さだった。

 

「君は周りを守る。世界を救う。でも自分を救おうとはしてないんだ」

 

 仲間のため、世界の救済のため。そこに自分を救うという「余分」は存在しない。

 

「――それでは、いけないんでしょうか。私はそのためにこの世界で生きているのに……」

 

「それだけじゃ、足りない。俺はそう思う」

 

 沈黙が落ちた。

 

 夕の光が傾いて、女神像の顔に翳りが深くなる。クロエはしばらく動かなかった。正面を見たまま、何かを考えているような――あるいは、言葉を受け取る場所を探しているような。

 

「――ルクスさん」

 

「なんだ」

 

「あなたは、変わっています」

 

「かもしれないな。なんたって俺には記憶も常識もない。でも、記憶があっても同じことを言ったと思う」

 

 クロエが少しだけ俯いた。翡翠の目が、膝の上の手を見ている。

 

「私には――わからないんです。ルクスさんが言う『私』が、どこにいるのか」

 

 その声は静かだった。冷たくも、悲しくもない。ただ、事実を述べているような。

 

「聖女としての私しか、私には見えないんです。それ以外の私が何を感じて、何を望んでいるのか――考えても、霧の中みたいで何も掴めない」

 

「霧の中」

 

「ええ。ルクスさんは『君に消えてほしくない』と言う。でも、その『私』が――私自身には、見えない」

 

 ルクスは黙ってその言葉を聞いていた。

 

 笑顔の奥に、どんな言葉も吸い込まれていくような場所がある。慈愛に満ちた、暖かい顔の奥に、何も届かない虚ろが広がっている。それを今日一日かけて、ルクスは少しずつ感じていた。

 

「――そうか」

 

 結局、それしか言えなかった。

 

「すみません。うまく答えられなくて」

 

「謝ることじゃない」

 

「でも、ルクスさんが望む答えを返せていないのは――」

 

「いいんだ。俺が勝手に君に考えを押し付けてるだけなんだから。考えてくれただけで、十分だ」

 

 礼拝堂に沈黙が戻った。女神像が夕の光の中で、ただ静かに前を向いている。その視線がどこへ向いているのか、ルクスにはわからなかった。

 

(まだ、届かない)

 

 その言葉が、腹の底に沈んでいく。今日一日を通じて感じてきたことが、今確かな形になった気がした。クロエは冷たいわけでも、頑なでもない。どこまでも柔らかく、暖かく、誠実だ。なのに、その言葉が届く場所が――彼女の中に、まだない。

 

「――難しいです。自分が何者か、なんて――」

 

 クロエが静かに言った。困ったように苦笑を浮かべて。

 

「――確かに、そうかもしれないな」

 

 ルクスが応えた。彼もまた、明確に自分というものを確立できてはいない。

 

 二人は並んで、夕の光が消えていくのを黙って見ていた。

 

 

 

 夜になった。

 

 一人、月光を浴びながら剣を握っていた。

 

 冷たかった。昨日あれほど熱かったそれは、今夜はただの鉄の重さしか持っていない。力を込めても、集中しても、何も起きない。昨日の感覚を手繰り寄せようとすればするほど、指の間からこぼれていく。

 

(――どうすれば)

 

 一度、剣を膝に置いた。

 

 月の光が白い刀身を照らしている。

 

(彼女は死にたいわけじゃない)

 

 それはわかっている。昨日の森でも、今日の礼拝堂でも——クロエはどこまでも穏やかで、生を厭うような気配は微塵もなかった。

 

(ただ、自分を――余剰だと思っている)

 

 あってもなくてもいい部品。役割を果たすための器。それ以外の自分を見つけられない、と彼女は言った。霧の中みたいで何も掴めない、と。

 

 その言葉の重さを、ルクスは今更になって実感していた。昨日、森で「消えてほしくない」と叫んだ。今日も、礼拝堂で同じことを言った。心からの言葉。しかしその言葉は――

 

(届いていない)

 

 彼女の笑顔は変わらなかった。暖かく、慈愛に満ちていた。しかしその笑顔が、言葉を受け取る場所になっていない。言葉が届こうとすると、救世の論理が静かに、優しく、それを解体していく。

 

(俺のエゴでしかないのか)

 

 生きていてほしいという願いは、間違いなく自分のものだ。クロエが望む結末と、ルクスが望む結末は――今のところ、重なっていないのだろう。

 

 剣を握り直した。やはり冷たい。

 

(でも)

 

 諦める気にはなれなかった。

 

 理由を言葉にしろと言われたら、まだうまくできない。記憶のない自分には、これが正しいと断言できる根拠もない。ただ――昨日のあの笑顔。翡翠の色が消えていく最中の笑顔を、もう一度見ることだけは、体が拒否していた。

 

 月が雲に隠れた。部屋が少し暗くなる。

 

(もっと言葉が欲しい。届く言葉が)

 

 今持っているものでは、足りない。それだけははっきりしていた。どうすれば彼女の霧の中に手が届くのか――まだわからないまま、夜は静かに更けていった。

 

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