数日経ち、ルクスの不調が収まってきた頃。
ルクスが訓練場に向かうと、先客がいた。
乾いた風切り音がルクスを出迎える。
他に誰もいない訓練場の中央で、赤い髪の少女が一人、剣を振っていた。見ているものは何もない。ただ前を向いて、繰り返す。踏み込み、振り、戻る。踏み込み、振り、戻る。その動きに迷いがなかった。無駄がなかった。一つ一つの所作が、長い時間をかけて削り出されてきたものだとわかった。
ルクスはしばらく、その場に立ったまま見ていた。美しい剣舞。それに見とれていた。
視線に気づいたアイリスが剣を止めた。こちらを一瞥する。
「……あんた、まだ寝てなくていいの」
呆れた声だった。
「あぁ、体は動く」
「動くのと、動かしていいのは別でしょう――クロエ呼ぶわよ」
「――教えてほしいことがある」
アイリスの言葉を無視して要望を伝える。
アイリスは少しの間、ルクスを見た。値踏みするような目ではなく、何かを確認するような目だった。
「剣を、か」
「あぁ」
「あの時の――」
アイリスが一拍置いた。
「ハイオークすら斬った『あれ』は、使えないってことでいいの?」
「……残念ながら、な。どうやったのかまるでわからん」
「――そう、ならそんな力に頼ってたら、戦場じゃ真っ先に死ぬわよ。原理もわからない、再現もできない、自分でも制御できてない。そんなものを実力とは言わない」
「だから、ここに来たんだ。少しでも強くなるために。そしたら丁度いいところに君が――剣に精通した騎士がいた」
「わかってるならいいわ。あたしが直々に叩き込んであげる。木剣を持ってきなさい」
アイリスは剣を肩に担いで、ルクスを見た。挑戦的な、試すような目だった。
最初の一合で、地面に転がった。
「腰が浮いてる。もう一回」
立ち上がる間もなく、二合目。また転がった。
「視線で次を教えるな。もう一回」
三合目。今度は踏み込む前に木剣を弾かれた。
「踏み込みが遅い。もう一回」
アイリスの剣は速かった。それ以上に、重かった。受け止めるたびに腕が痺れ、足元がぐらつく。どこへ踏み込めばいいか、どこを守ればいいか、考える前に体が遅れる。
「――っ、くそ」
「悪態ついてる暇があったら足を動かしなさい」
容赦がなかった。怒鳴るわけでも、嘲るわけでもない。ただ淡々と、正確に、欠点を指摘して次を求める。その徹底ぶりが、かえって応えた。
転がされた回数が両手両足の指の数を上回った頃。
「……一度休憩しましょうか」
「俺は、まだ、やれる……!」
息を切らし、立ち上がるルクス。それを呆れた目で見るアイリス。
「やれないから言ってるのよ。いいから体を休ませなさい。その間、頭の方に働いてもらうわよ」
そう言って先に腰を下ろす。
流石に強引に続けることもできない。大人しく隣に座る。
「それで?頭を働かせるってのは?」
「焦らないの。まず前提なんだけど――あんた、魔法ってわかる?」
魔法。そう言われて記憶を探る。
「ソフィアが使ってるようなやつ、だよな?」
「あれは属性魔法。そっちじゃなくて……」
「じゃあクロエのやつか」
「それは神聖魔法。それでもないわ」
「……わからん」
「ま、そうよね」
わかっていた、と言わんばかりに肩をすくめる。
「今から教えるのは無属性魔法。その中でも身体強化魔法ね」
「身体強化?」
ここ数日の短い経験の中では聞き覚えのない言葉。
「そう。魔力を体に通して純粋に身体能力を向上させる魔法ね。強さも速さも硬さも、これ一つで強化できるわ」
「おぉ、凄そうだな。あれ、てことはさっきの打ち合いも……」
「えぇ、使ってたわよ?」
「そうなのか、てっきり――いや」
背筋に悪寒。咄嗟に口を閉じるも、時すでに遅し。
「てっきり――何かしら?まさかあたしが素であんたを転がせるくらいの力を持ってるとでも?」
「いや、まぁ、騎士っていうならそれでもおかしくないのかと思ってただけで――」
「――そんなわけないでしょ。とにかく、今からあんたにも教えるから急いで使えるようにしなさい。剣で戦っていくなら必須技能よ」
「了解、よろしく頼む」
勇者と騎士。今度は座学における教導が始まるのであった。
「よし、基礎的なことはこんなものだけど……どうかしら?」
「やってみるか、ふんっ!」
アイリスに教わった通りに魔力を巡らせる。そもそも魔力自体を感じるのも難しかったが操作となると輪をかけて難しい。そのまま軽く踏み出し――
「……うん?ちょっと待――」
「え?――はぁっ!?」
気づいたときには目の前に壁。
激突、衝撃。しかし――
「――痛くない?」
「ちょっと、大丈夫!?」
「あぁ、なんともない。なんだこれ……」
慌てて駆け寄ってくるアイリス。しかしルクスはそれどころではない。
信じられない速度、そして壁に衝突したにもかかわらず全く痛みのない体。
「これが、身体強化……?」
「いや、まぁそうなんだけど……異常ね。コントロールできてないとはいえ、出力だけなら既にあたし以上、か」
「なにか変だったか?」
「いえ、大丈夫よ。まずは加減を覚えるところからみたいね。今のままじゃ魔物にタックルするくらいしかできなさそうだし。ただ――」
言いよどむアイリス。
「ただ?」
「――まずはあれをなんとかした方が良いわね」
視線の先にはマリア。いつものごとく微笑みを浮かべているが――心なしか、威圧感を感じる。
「――お二人とも、訓練に励むのはいいことです。ですが……」
そう言って指を向けた先には大きく破損した訓練場の壁。
視線を戻したルクスの額に大粒の汗が浮き出る。
「流石にあそこまで壊されては困ります。片付け、手伝ってくださいますね?」
「「はい……」」
訓練の再開はもう少し先になりそうだった。
「うん、大分モノになってきたわね」
「そうか?俺としてはもう少し出力を上げたいんだが」
壁面の片づけと修復が完了し、訓練が再開してから数時間。ルクスは身体強化の習得に勤しんでいた。踏み込み、剣を振る。下がる、構える。すべての動作が速く、鋭くなっていた。
「これ以上はあんたの頭が体に追いつかないわよ。……また壁に大穴開ける気?」
「……やめておく。それじゃ、今度はこの状態で――」
「えぇ、打ち合いましょうか」
木剣を握り直して、向かい合う。
アイリスが踏み込んでくる。今度は受けるのではなく、横へ動いた。剣が空を切る。すかさず反撃。こちらもひらりと躱される。
「――少しはマシになったわね」
「そりゃどうも!まだまだ、いくぞ!」
褒め言葉ではなかった。事実の確認だった。更なる高みを目指して、ルクスはさらに一歩踏み込むのだった。
夕闇が訓練場に忍び込んでくる頃、アイリスがようやく木剣を下ろした。
「うん、今日はここまで」
「――ありがとう、ございましたっ……」
ルクスは近くの柱に背中を預けて、そのまま座り込んだ。全身が重い。腕は上がらない。だが、気持ちのいい疲労だった。
アイリスが隣に、少し距離を置いて腰を下ろした。額に汗が光っている。
しばらく、どちらも黙っていた。
「――なぁ、聞いていいか」
「なによ」
「アイリスは、どうしてそこまで強くなろうとするんだ」
アイリスが少し目を細めた。
「あたしは騎士。仲間を守ることが使命なんだから、誰よりも強くなるのは当然よ」
「……役割だから、というだけで、そこまで自分を追い込めるものなのか?」
「当たり前じゃない」
即答だった。
「世界に与えられた役割。魔王を倒して、世界を平和にする。そのために剣を振る。それ以上に、何が必要なの」
「――君は、騎士になりたかったのか?その役割が好きなのか?」
「好き嫌いの話じゃないわ」
アイリスは前を向いたまま言った。
「あたしは騎士として生まれた。騎士として剣を振ることが、あたしがこの世界にいる理由。それを全うすることが、あたしにとっての正しさ。あたしの誇り。――そこに疑問を持つことなんてないでしょ」
淀みがなかった。それが自分にとっての真実であると、疑っていない目。
「……そうか」
ルクスは少し黙ってから、続けた。
「もし――魔王を倒して、その役割が終わったら。世界が平和になった後、アイリスはどうするんだ」
アイリスが、止まった。
思考ごと止まったような――きょとんとした、と表現するほかない顔で、ルクスを見た。
それは初めて見る顔だった。あの鋭い目が、ただ純粋に困惑している。まるで問いの意味を翻訳しようとしているような。
「……考えたこともなかったわ」
少し間があってから、そう言った。
「騎士が騎士であることをやめる時なんて、想像がつかない」
「――想像がつかない、か」
「ええ。あたしはずっと騎士だもの。その先に何があるかなんて――」
アイリスは言葉を途中で止めた。止めたというより、続きを持っていないような止まり方だった。
「でも、世界が平和になった後も、人生は続いていく。だろう?」
「――そうね。確かに平和になった世界でなら、騎士の役割なんて必要ないかもしれない。でも、それは今じゃないわ。今は、世界を救うために強くなる。それだけでいいの」
それきり黙って、立ち上がった。砂を払って、剣を持つ。その背中に迷いはない。ためらいもない。ただ「今」を生きている、一人の騎士の背中だった。
「――そうだな。俺も、もっと強くなるよ。誰にも負けないくらいに」
「――いい度胸ね。明日も来なさい。今日よりきつくするわ」
それだけ言って、歩き出した。
「望むところだ。よろしく頼む」
背中越しに手を振りながら、夕闇の中に、赤い髪が消えていく。
ルクスはその背中を見送りながら、腰の剣に手を添えた。白いままの刀身。まだ何色にも染まっていない。
(自分の役割に全てを懸ける。それが、彼女たちの強さだ)
美しいと思った。本心から。あれほど迷いなく今を生きられることは、何かを持っていなければできない。
(でも――)
アイリスの背中が見えなくなった。
(俺は、その先を願わずにはいられない。これは、俺の記憶がないからなんだろうか……)
自分だけが「役割のその先」を見たいと思っている。役割が終わった後も、彼女たちが笑っている世界を。その願いが正しいのかどうか、まだわからない。
ただ、諦める気にはなれなかった。
夕の光が完全に落ちた。訓練場に夜の静けさが満ちていく。
「――帰るか」
明日も早い。汗が冷える前に訓練場を後にするのだった。