「では、授業を始めましょう」
静かな声が教室に響く。
教壇に立つのは担任教師、マリア。優しそうな笑顔の奥に、どこか底知れない気配を滲ませる女性。
生徒は四人。席に座るのは、三人の少女と一人の少年。
赤い情熱を秘めた『騎士』、アイリス。
青い英知を備えた『賢者』、ソフィア。
翡翠の慈愛を備えた『聖女』、クロエ。
そして――『勇者』、ルクス。
ただし。
(勇者って、何ですか?)
そんな質問を昨日投げたばかりの、白紙の勇者だった。
アイリスが机に肘をつき、深いため息を吐く。
「信じられない……」
「記憶喪失というお話ですし、仕方のないことでしょう」
隣でクロエが控えめにフォローを入れる。
「でも、勇者なのよ?」
アイリスは苛立ちを隠さずルクスを睨んだ。
「自分の役割も知らない人間なんて、聞いたこともないわ」
ルクスは困惑したように肩をすくめる。
「……俺も、聞いたことがない」
「当たり前よ!」
「まあまあ、皆さん」
マリアが優しく手を叩き、場を収めた。
「ちょうどいい機会です。今日は基本から説明しましょう」
黒板に白墨で文字が刻まれていく。
『魔王』 『魔物』 『勇者』
「この世界は現在、魔王の脅威にさらされています」
マリアは淡々と言葉を紡ぐ。
「魔王は魔物を生み出し、世界を終幕へと導こうとする存在。そして、それに対抗するのが――勇者パーティ『プロタゴニスト』。このクラスの名前でもありますね」
勇者の横に三つの役割が記され、それらが大きな円で囲まれた。
「勇者、騎士、賢者、聖女。この四つの役割が揃うことで、初めて魔王に対抗し得る力が生まれます。歴史上、魔王を退けてきたパーティはすべて、この構成でした」
ルクスは腕を組み、その図を見つめた。
(勇者パーティ……プロタゴニスト)
自分がその中心に据えられている。そう説かれても、どうにも実感が伴わない。
「魔物についても改めて説明しておきましょう」
マリアの声に、ルクスは思考を向け直す。
「魔物はこの世界、リベラ・オルビスの『歪み』です。世界の果て、テルミナに座す魔王によって生み出された、形を持った災害。魔王は過去、幾度となく蘇り、魔物を世界に生み出し続け、そのたびに勇者の役割を持つ者によって退けられてきました。……ルクス君、ここまでは大丈夫ですか?」
水を向けられ、ルクスはずっと引っかかっていた疑問を口にした。
「……さっきから出てくる『役割』というのは、一体何なんですか?」
勇者だけでなく、他の三人にも定められているという、その区分。
「そのままの意味ですよ。生まれながらにして世界に定められている『生き方』。それが役割です。皆さんのような特別なものだけでなく、狩人や農民、私のような教師というのも、一つの役割に過ぎません」
「生まれた時から……自分がどう生きるかが、既に決まっていると?」
「ええ。何かおかしいですか?」
マリアの微笑みはどこまでも穏やかだった。
(わからない……。でも、何かが酷く、気持ち悪い)
内臓を冷たい指で撫でられたような不快感。
――かたり。
また、腰の剣が鞘の中で揺れた気がした。
「座学はこのくらいにして、そろそろ実習に移りましょうか」
「実習?」
アイリスが眉を跳ね上げる。
「学園の裏手にある『修練の森』へ向かいます。魔物が発生しやすい環境を整え、結界で覆った訓練用の敷地です。皆さんには協力して、魔物の討伐を行っていただきます」
マリアは出席簿を閉じ、ルクスに視線を向けた。
「強力な魔物は間引いてありますから、問題はないはずです。ルクス君も、戦いの中で何かを思い出すかもしれませんし。頑張ってくださいね?」
「戦うって言われても……俺、剣の振り方すら分かりませんよ?」
隣でアイリスが絶句する気配がした。
一切の記憶がない勇者ルクスにとって、戦闘すらも未知の領域。それが今の彼の、偽らざる現実だった。
鬱蒼と茂る木々、日の光を遮る厚い葉。茂みの奥から漂う、鼻を突くような獣臭。
ルクスが『修練の森』に抱いた第一印象は「薄気味悪い」の一言に尽きた。
「戦闘方針を確認するわよ」
アイリスの凛とした声が響く。
「私が前衛、魔物と直接交戦する。ソフィアは中衛から適宜援護。クロエは後衛で支援と、必要なら回復を。撤退の判断もクロエに任せるわ」
「定石に則った、妥当な判断だね。しかし……」
ソフィアが言葉を濁し、クロエが不安げにルクスを見た。
「ルクスさんは、どうしましょうか……?」
「本来ならあたしと組んで前衛、もしくは遊撃を担うのが基本だけれど。……あんた、本当に戦えるの?」
アイリスの鋭い視線がルクスを射抜く。その双眸には明らかな疑念が渦巻いていた。
「記憶もない、役割すら知らない。先生は大丈夫だと言っていたけれど……少なくとも今のあんたに、背中を預けることはできないわ」
厳しい物言いだが、反論する材料を今のルクスは持たない。
「まずはあたしたちの戦いを見てなさい。何か思い出せたら参加してもいいけれど、そうじゃないなら、今日のところは引っ込んでいて」
「……了解」
「あんたがどんな人間であろうと、仲間であるならあたしは全力であなたを守るために戦う。それが騎士の役割であり、私の誉よ。あんたも勇者だっていうなら早く戦えるようになることね」
役割。それに従い、個人の感情を押し込むアイリス。それは騎士としては高潔で――少女としては歪だった。
――かたり、と震える剣。
ルクスはその柄を、逃さぬように強く握りしめた。
森を進むこと数分、アイリスが足を止める。
「……来たわね」
黒い影が現れた。
「ギギィ……」
小さな体、緑色の皮膚に鋭い牙。
「ゴブリン……」
クロエが息を飲む。
4体のゴブリンが現れる。
アイリスが剣を抜く。
「打合せ通りに、いくわよ!」
彼女は前へ出る。
「騎士の仕事は仲間を守ること。さぁ、来なさい!」
ゴブリンが唸り、次の瞬間、一斉に飛びかかってきた。
アイリスの剣が閃く。
あっさりとゴブリンの首と胴が分かたれ、そのまま霧と消える。
だが。
「ギャッ!」
ゴブリンは1体だけではない。
「ちっ」
アイリスが舌打ちする。
3体のゴブリンは距離を取り、バラバラに襲い掛かってくる。
「ソフィア!右のやつをお願い!クロエ、左のやつが近づこうとしたら弾いてやりなさい!」
「任されよう」
「わ、分かりましたっ!」
アイリスからの指示に迅速に応じる二人。
「ストーンバレット」
ソフィアがそう唱えると周囲の石が固まって浮かび上がる。
拳大になったそれはゴブリンへと一直線に飛びその頭部を粉砕した。
その間に別の一体がソフィアに迫る。そこに、
「プロテクション!」
「ギャッ!?」
翡翠色の光壁が展開され、ゴブリンを弾き飛ばす。そこへ、背後から回り込んだアイリスの刃が吸い込まれるように突き立てられた。その後ろでは、既にもう一体のゴブリンが霧散しようとしている。
「これで、終わりっ!」
その一連の流れを見ていたルクス。
(正確に一撃で仕留めている。動きに無駄がないっていうか……そう、綺麗だ。)
少女が振るう剣閃。その残酷なまでの美しさに、一瞬、見惚れていた。
「……どう? 何かつかめたかしら」
構えを解いたアイリスが、勝ち気な笑みで問いかける。
「正直まだわからない。……ただ、君の動きは綺麗だった。俺もあんな風に剣を振れたらいい、と思ったよ」
「ななっ……!?」
「わお、情熱的だねぇ」
「でも、本当に凄かったです、アイリスさん!」
仲間たちの茶化しに、アイリスは顔を赤らめながらも、凛とした表情を作り直した。
「……とりあえず、基本は今の形で。もう少し奥まで行ってみましょうか」
――◇――
『なかなかやるじゃない。でも、主人公にも活躍の場は必要よねぇ?』
――頁が捲られる。
――◇――
「……だいぶ奥まで来たね。そろそろ引き返さないか?」
遭遇する魔物を蹴散らしながら進むこと、小一時間。ソフィアが周囲を警戒しながら声を上げた。
「そうね。今日のところはこのくらいにしておきましょうか」
(……結局、何もできず終いか)
三人が実戦を通じて連携を深めていく中、終始見ているだけだったルクスの胸に、焦燥がじわりと滲む。世界を救う勇者の役割。実感を伴わないその重圧が、重く肩にのしかかる。
「ルクス、あんたも……ッ、危ない、魔物よ!」
アイリスが何かを言いかけた瞬間、茂みのすべてがざわめいた。
「ギャッ」
「ギャギャッ!」「ギャシッ!」「ギギィィッ!」
「おいおい……何匹いるんだ、これは」
「この数は、流石に……っ」
これまでとは比較にならない影の数。視界を埋め尽くすのは、優に二十体を超えるゴブリンの群れだった。
「……っ! 方針は同じ! 背後からの奇襲をより警戒して戦闘!」
アイリスの指示が飛ぶ。その表情には、今日一番の緊張が張り詰めていた。
――視界が、揺れる。
ゴブリンの群れ。
全身に傷を負い、泥にまみれて倒れる騎士。
ゴブリンの群れ。
泣きじゃくりながら、虚しく回復魔法を放ち続ける聖女。
ゴブリンの群れ。
杖を折られ、絶望に瞳を濁らせた賢者。
――◇――
『さあ、見せて頂戴? 主人公の……勇者の力が、どれほどのものかを』
――頁が捲られる。
――◇――
――ガチャリッ、ガチャガチャッ!
ルクスの腰で、一際大きく剣が鳴った。
主の目覚めを急かすような、不吉な金属音を立てて。
「……っ、あたしができるだけ引き付ける! ソフィア、零れたやつをお願い!」
「くっ、あまり早撃ちは得意じゃないんだけどねぇ!」
アイリスの叫びが、無数の嘲笑にかき消される。
二十体を超えるゴブリンの群れ。それは単なる数だけでなく、獲物を追い詰める「悪意」を共有していた。
騎士の剣が閃き、三体を同時に斬り裂く。だが、一体を倒せば二体がその隙に潜り込んでくる。
加えて、茂みの奥から絶えず新手が追加される。
「ストーンバレット! くっ、数が多すぎる……!範囲火力を投下する隙さえあれば……!」
ソフィアの礫がゴブリンを砕き、その身体が霧散するよりも早く次のゴブリンが迫る。
「し、支援を……きゃっ!?」
クロエが援護を試みるが、迫るゴブリンに防御を強要される。
悲鳴。泥を蹴る音。
ルクスは動けなかった。頭は「助けなければ」と叫んでいる。鞘から抜いた剣が鈍く光る。しかし、その振り方を知らない体が、彼を「観客」の役に繋ぎ止めていた。
「ルクス、下がってて……ッ!」
アイリスが叫ぶ。彼女の肩には、既に浅い切り傷が刻まれていた。
彼女は自分一人が突出することで、魔物の注意をルクスたちから逸らそうとしていた。それは勇敢な騎士の振る舞いであり――同時に、ルクスが脳裏で見た「血まみれの結末」への最短距離を突き進む姿だった。
「騎士は仲間を守る。あたしより先に仲間が死ぬことなんて絶対に認めない!」
しかし、どれほど必死に戦っていても限界はある。
「ギャギャァッ!」
「くっ、ダメッ! ルクスさん!」
「ぐっ……!?」
三人の必死の防御をすり抜けて、一匹のゴブリンがルクスに迫る。
遮二無二、剣を振りかぶるルクス。
その構えは崩れていて、アイリスの美しい構えとは似ても似つかない。
「ギャイ!」
「くそっ!」
弱々しい斬撃は空を切り、突っ込んでくるゴブリンと自身の間になんとか剣を滑り込ませ、距離を取る。
「ルクス! あんたは攻撃しなくていい! 防御を固めて生き残ることだけ考えなさい!」
今も多数のゴブリンに囲まれながらアイリスが必死に叫ぶ。
体には傷が増え、動きも少しずつ鈍くなっている。
(ダメだ……あんな風に、アイリスが消えるのは……!)
何度か垣間見た光景がルクスの脳裏を過る。
(戦う術が欲しい。勇者とか世界を守るとか魔王を倒すとか。そんなことはまだわからない。だけど今!ここで!彼女を守れる力が欲しい!!)
それは原初の思い。記憶も経験もない少年に芽生えた、少女を守りたいという純粋な願い。
その願いは天には届かず、しかし少年に握られた『それ』は応えた。
白紙だった少年の心に、初めて宿った強い衝動。それは『無銘の剣』に秘められた可能性の一部をこじ開ける。
――◇――
『あら? この展開は……?』
頁を捲る手がしばし止まり、そして――
――頁が捲られる。
――◇――
その瞬間、ルクスの視界から色が消えた。
同時に脳を駆け巡る多数の情報。
――左の個体は、あと三歩で体勢を崩す。
――右の個体は、喉元が空いている。
――アイリスの足元。石に躓く、コンマ数秒後の未来。
――知らないはずの「解」が、脳内に直接書き込まれていく。
思考よりも早く、ルクスの身体は頭に浮かぶ正解をなぞるように地を蹴った。
剣の振り方は知らない。だが、この刃をどこへ、どの角度で置けば、この「結末」が書き換わるのかを、ルクスの本能だけが理解していた。
「きゃっ!?」
「ギギッ!?」
躓き、体勢が崩れるアイリスの背後に迫っていたゴブリンが、困惑の声を漏らした。
その首筋を、白色の閃光が正確に断ち切る。
ルクスがいつの間にか、その場所にいた。
「……え?」
アイリスが目を見開く。背中から倒れるはずだった体は、目の前の少年に優しく抱き留められている。
「……大丈夫か?」
「え、えぇ。今のは……?」
さっきまでまともに剣も振れなかったはずの勇者。繰り出された鋭い一撃と巧みな体さばきは、その場の全員を困惑させた。――勇者自身も含めて。
(なんだ今の!? 情報が一気に頭に流れ込んだと思ったら体が勝手に動いた!? どうなってるんだ!?)
だが、魔物は同胞が一匹死んだ程度では止まらない。故にルクスも止まるわけにはいかない。
「アイリス、右だ! ソフィア、俺が左を抑える、その隙に魔法を!」
「……っ、分かった!」
ルクスの鋭い指示に、三人が弾かれたように動く。
ルクスの剣筋は、アイリスのような華麗さはない。しかし、驚くほどに「効率的」だった。最小限の動きで急所を貫き、魔物の勢いを殺していく。
「そこだっ!」
ルクスが道を切り開き、
「逃がさない!」
アイリスがその横を駆け抜けて残党を狩る。
「一掃しようか。ウィンドバースト!」
ソフィアが群れの中心に風の砲弾を撃ち込み、
「通しませんっ!」
被害から逃れた個体をクロエの盾が弾き返す。
『一人の足手まといと三人』だった戦闘の形が、『四人の勇者パーティ』として噛み合った。
「これで……最後っ!」
アイリスの剣が、最後のゴブリンを両断する。
「っはぁ……」
周囲から魔物の気配が消えたのを確認して、四人が同時に息を吐き出す。
顔を見合わせて笑うその姿は、間違いなく一つの集団としてまとまった証だった。
帰還後の教室。
「……お疲れ様でした。アクシデントがあったとはいえ、初実戦としては素晴らしい成果ですね」
夕刻の光が差し込む中、マリアは先刻と変わらぬ柔らかな微笑を浮かべていた。
「ルクス君。何か、思い出せましたか?」
「……いいえ。ただ、身体が勝手に動いたような、そんな感覚でした」
あの後、散発的に現れた魔物に対しては嘘のように体が動かず、他の三人に守ってもらう形になった。
群れと戦った時の異常な冴えは鳴りを潜め、今もあの感覚は戻ってきていない。けれど自分の手で戦い、魔物を倒したのは紛れもなく事実だ。
「それはそれは。これからの成長が、本当に楽しみです」
マリアはそう言って優しく微笑むのだった。
「――えぇ、本当に、楽しみです……」
解散し、自室へ戻る廊下。
アイリスがルクスを呼び止めた。
「……ねえ。明日の朝、中庭に来なさい」
「朝? 何の用だ?」
「あんたのあのデタラメな剣の振り方、見てられないもの。次もまたあんな風に戦えるかはわからないし……あたしが、ちゃんと教えてあげるわ」
アイリスはそっぽを向いて、早足で去っていった。
一人残されたルクスは、腰の剣をそっと撫でる。
(あれは何だったんだ……? 俺は何を忘れている? 勇者として、俺はこれからどうすればいいんだ……?)
見上げれば、果てしない夜空が広がり始めていた。
――◇――
少年が見上げる空、その向こうから、勇者を見つめる女神。
『これは初めて見る展開だったわね……続きが楽しみになってきたわ』
――頁が捲られる。
微笑みを浮かべる女神。その視線の先で、白かった栞が淡い赤に染められていくのだった。