図書室は静謐な雰囲気を漂わせていた。
朝の光が高い窓から差し込んで、埃が金色に漂っている。棚から棚へ、本が壁を作るように並んでいた。その奥の一角に、古書の山が築かれていた。
山の前にソフィアがいた。
手帳を開いて、何かを書いている。ルクスが扉を開けた音にも顔を上げない。ペンが止まらない。
「――来たか」
それでも静寂を破った存在には気づいていた。
「あぁ、すごい本の数だな……」
「少し待っていてくれ。あと少しで区切りがつく」
ルクスは入口近くの椅子に腰を下ろして、待った。
ソフィアのペンが走る音だけが続いた。窓の外で鳥が鳴いた。
暫くしてペンが止まる。ソフィアが手帳を閉じて、こちらを向いた。眼鏡の奥の目が、品定めをするような色をしていた。
「さて、改めてよく来てくれたね。今日はいろいろと調べさせてもらうよ」
「こちらこそ。何もかもわからないんでな。何でもいいから解明しておきたい」
「まずは確認していこう。初日の訓練中、キミが起こした不可思議な現象は私の目から見て三つ。一つ、剣の一振りで射程内外問わず多数の魔物を斬った。二つ、クロエの体に空いた大穴――明らかな致命傷を癒した。三つ、ハイオークの硬い肉体をあっさりと、しかも的確に解体した。相違ないかい?」
「あぁ、自分でもどうやったかわからないが、そうだな」
あの日、追い込まれた状況を一人でひっくり返した力。それを発生させたルクス自身にも説明のできない現象。
「そして現在はその力を発揮できていない……か。その時のことで何か覚えていることはあるかな?些細なことでもいい、思い出してみてくれ」
「そうだな……」
手帳を再度開き、問いかけるソフィア。あの時、何が起こっていたか。
「まず、色が消えた。世界が灰色になって――体が勝手に動いた」
「視覚に異常、運動神経にも異常、か。他には?」
ソフィアは短くつぶやき、手帳に何かを書きこむ。
「あの時は、なにをどうすればいいか勝手に頭に浮かんだんだよな。その通りに体も動いた。剣を振れば斬れる、癒せる、って」
「なるほど、ちなみにキミはその時何を考えていた?あの現象を引き起こそうとしていたのか?」
「――いや、違う……気がする。あの時は無我夢中で……ただ」
「ただ?」
思い起こす。あの時の感情を。
「あの結末を――クロエが死ぬってことが認められなかった。どうしても変えたかったんだ。そう思ったら、剣が熱くなって――」
「――ふむ、やはり起点はその剣か?強い感情に合わせて力を発揮した……勇者の剣だ。そういう不可解な力があってもおかしくはない、か」
腰の剣に視線を向ける。目覚めた時から傍にあった、純白の剣。
「その剣、少し調べてみてもいいかい?」
立ち上がって、ルクスの隣に来た。その視線は観察対象に釘付けだった。
「それは構わないけど――何かわかるのか?」
「わからないから調べるんだ。魔力を通せば表面上の情報くらいは拾えるだろう……少し失礼する」
鞘から抜いて手渡す。ソフィアの手が、柄に触れた。
その瞬間だった。
「――っ」
ソフィアの体が固まった。眼鏡の奥の目が見開かれる。
(何だ、これは……)
少女の目が揺れていた。何かを見ている。いや、見せられている。口が薄く開いて、しかし声が出ない。
(――何が起きている)
咄嗟に剣から手を離そうとしたが、固く握りしめた指が動かない。
断片が、流れ込んでくる。
深夜の図書室。白く侵食されていく世界。蒼い輝きを放つ剣。震える手で記述を刻もうとする誰か。
白が全てを塗り潰す寸前の——
『次に出会うとき、答えを聞かせてくれ。――あまり、待たせないでくれよ?』
声が、した。
ソフィア自身の声だった。しかし今ここにいるソフィアの口は動いていない。剣の中から、あるいは記憶の底から滲み出てくるような――
蒼い光が弾けた。
「ちょっ!?」
ソフィアの手が剣から離れた。
からん、と音を立てて床に落下する剣。瞬きの真に放った蒼の輝きは影を潜め、普段通りの純白に戻っている。
「どうした?何か見えたのか?」
剣を鞘に収める。ソフィアは未だ呆然としていて、動きがない。
「――ふむ」
数秒後、ソフィアが動き出した。椅子を引いて、座った。手帳を開いた。ペンを持った。しかし、すぐには書かなかった。眼鏡の奥の目が、どこか遠い場所を見ていた。
それがしばらく続いた後、瞳に変化が生じた。
何かが宿った。静かな光。見ているものを全て記述として読み取るような――研ぎ澄まされた、知性の輝き。
「――驚いたな」
ソフィアがぽつりと言った。
「どうやら私は、一度『終わった』はずの自分を観測してしまったらしい」
「――何が起きたんだ」
「おそらく、だが。剣の深層に刻まれていた記述と、私の中の何かが共鳴した。……キミの剣には、尋常ではない数の記述が積み重なっている。今ならはっきりわかる」
ソフィアはペンを走らせ始めた。速い。見ているものを全て書き留めようとするような速さで。
「そして、その中に――私のものがあった」
ルクスは何も言わなかった。
「整理するから少し待ってくれ」
ソフィアが書き続ける。ルクスは待った。
やがてペンが止まった。ソフィアが手帳を閉じて、ルクスを見た。
「記録として報告する。感情的な含意は省く」
「――ああ」
「かつて私は、キミと共に魔王を討伐した。その過程で、世界が物語であることを突き止めた。漂白によって全てが初期化される直前、私はキミの剣の深層に記述を刻み込んだ。――それが今、私の中に戻ってきた」
「――情報量が多い」
淡々とした声だった。事実の羅列として語っている。
「記録によれば、私はその時、キミを愛していたらしい」
「本当に情報量が多い!」
素知らぬ顔で告げていくソフィア。
「まぁ、今の私にはそんな非合理な情動はない。記憶も感情も、漂白によって初期化されている。だが、記述としてそこにある以上、否定はできん。あの瞬間の私が、確かにそれを選んだという事実は—――消えていない」
ソフィアは手帳を膝に置いて、続けた。
「キミも、何か感じたか」
「――蒼い光と、声が聞こえた気がした。それだけだ」
「そうか。キミの方には感情の記述は届いていないらしい。当然か――刻んだのは私の側だけだから」
どこか確認作業のような口調だった。
(――愛していた、か)
ルクスは手元の剣を見た。白いままの刀身。何も語らない。
「その『無銘の剣』に残された記述から、前の『私』の記憶を引き継いだ。ちゃんと精査する必要はあるが――少々、刺激的だな」
「『無銘の剣』?」
「――あぁ、その銘もまだ付けられていないのか。その剣の銘だよ。銘がないから『無銘の剣』。私にしては随分安直な銘をつけたものだ。他にもいくらかあるみたいだが………」
『無銘の剣』。妙にしっくりとくる。
「さて、情報の精査がてら、少し話に付き合ってもらうよ。半分壁打ちのようになるだろうが、聞き手がいる方がやりやすいからね」
そう言って、手帳を開き、書き込んだばかりの内容を読み始める。
「まず、前提の話から始めよう――キミは世界の記述について知っているかい?」
そこから始まったソフィアの話は、あまりにも現実感のない話だった――
話を終え、ぱたり、と手帳が閉じられる。
「――こんなところか。どうだい?」
「――やっぱり情報量が多いな」
「ある意味では私の一生分の情報ではあるからね。さもあらん、といったところだ」
(世界の記述、解析魔法、顔のない人々、この世界は別の世界から観測されていて、魔王を倒しても世界は終わる……)
「じゃあ、この世界はどうすれば救われるんだ?魔王を倒さないと魔物が滅ぼすのに、魔王を倒したら世界が漂白されるって……」
「さてね。私に流れ込んできたのは漂白された世界の記憶だ。どうすればいいかは、これからの私が考えるしかない」
ただ魔王を倒せばいいわけじゃない、と気づけたのが幸いだね、と苦笑するソフィア。
魔王を倒す。その目標に向けて真摯に取り組んでいた自分たちの根底を揺らがす事実。
「――君は、平気なのか。俺は今の話を聞いてから不安でならない。ただでさえ記憶のない自分が、更に輪郭をなくしたような気がしてくる」
「平気……ではないね。ただ、実感はないとしてもそれを乗り越えた『私』の記憶がある。『私』にできることなら私にもできるだろう、とは思っているよ」
「……強いな、君は」
「強くなんかないさ。世界の真理に押しつぶされていた『私』を救ったのはキミなんだよ?」
どこか呆れたような、懐かしむような声色。
「俺が?」
「正確には『前のキミ』だけどね。随分と熱烈な言葉をかけてくれたみたいじゃないか」
「いや、それは知らないけど……でも、そうか。『俺』は乗り越えたんだな。なら、負けていられない、か」
『無銘の剣』を握る。かたり、と揺れたような気がした。
「一通りの情報は精査できた。後は改めてこれらを整理しておこう。どこかのタイミングでアイリスとクロエにも伝えておかないとね」
「あぁ。よろしく頼む。――マリア先生には伝えないのか?」
「――言ってなかったか。そのことなんだが……」
ソフィアは眼鏡を押し上げた。
「マリア女史には気をつけろ。彼女は役割を偽って私たちと接していたようだ。彼女は教師でもシスターでもない。『観測者』の役割を持つ人間……」
「役割を、偽る?そんなことがあり得るのか?」
思いだすのは自身の役割に誇りと執着を見せていた二人の少女。
「少なくとも普通ではないね。だからこそ、この世界の成り立ちと無関係とは思えない。あの笑顔の裏には――何かある。記述が読めるようになった今、改めて確認する必要がある」
「――わかった。俺も注意しておくよ」
頷き、ソフィアは手帳を開いた。
「さて、ずいぶんと長い前置きになってしまったが……本題に戻ろうか」
「本題?」
「――そもそも今日はキミが起こした不可思議な現象について調べる予定だったんだが?」
衝撃的な事実に流されていたが、それが今日の目的であったことを思い出す。
「そうだったな。すっかり忘れていた……それで?さっきは不可解だ、って言ってたけど」
「前提条件がかなり変わったからね、推論は立てられる」
そう言って指を一本立てる。
「まず初めに、キミが行使したものは神聖魔法に近いものではないか、と考えている」
「神聖魔法?というとクロエが使ってるような……」
「そう、彼女が扱う魔法だ。治療、支援、防壁……様々な形で世界の記述を書き換える神の奇跡だ」
世界の記述に干渉し、書き換える。神の御業に近い所業。
「――確かにクロエの体から傷が消えてはいたけど……魔物を斬ったのもそうなのか?」
「そこが難しい所だ。少なくとも、私の知識では神聖魔法が攻撃に転用された、など聞いたことがない。そもそもキミは神聖魔法を扱えるほど信心深くはないだろう?」
多数の魔物を斬り、ハイオークすらも斬り伏せた剣。
「だが、もしその剣が世界の記述を書き換えているとするなら、いくつかの辻褄が合う。『斬った』という結果だけを世界に刻むことができれば、射程も硬度も関係ないからね」
対象そのものを斬るのではなく世界に『斬った』という事実を書き込む。後は世界の側がそれに合わせる。回避も防御も困難な斬撃。
「――凄くないか?」
「紛れもなく神域の業だ――それが意識的にできているなら、ね」
「うぐっ」
あれ以来、あの力は発揮できていない。何をどうすればもう一度再現できるのか、ルクスにはわからない。
「あるいは、あれも『無銘の剣』の可能性の一つなんだろう。真紅とも、蒼穹とも異なる進化の形……興味深いね」
「真紅?蒼穹?……何の話だ?」
「キミの話だ。まぁ、気にしなくていい。多分、その方が状況が好転する」
そう言うと、それきり口を閉ざす。
話が終わった、という合図だった。ルクスは立ち上がる。
「――そうか。今日はありがとう……いろいろと考えてみるよ。この世界についても、な」
「礼はいらない」
ソフィアは机から書物を引っ張り出しながら言った。
「私にとっても望外の情報を得られた良い時間だった。私は私のために、世界の真理を――この理不尽な仕組みを暴く。キミはキミのために、その剣を振るいたまえ。願わくば、その先に正しい世界の救済があらんことを」
「――ああ。そうだな」
ルクスは扉へ向かった。
「最後に一つだけ」
背中にソフィアの声がかかった。
「以前の私が刻んだものは――キミの剣の深層にまだある。消えていない。記述として残っている」
手は止めないまま、続けた。
「それが何を意味するかは、今の私にはわからない。だが――なかったことには、したくないと思っている」
「――俺も、なかったことにするつもりはない。あったかもしれない、これまでの全部の『俺』を」
扉を開けると、廊下の光が差し込んできた。
図書室に残ったソフィアは、もう顔を上げなかった。手帳の上にペンが走り続ける。『自分』から届けられた解析魔法の輝きを宿した目が、世界の記述を読み取りながら、次なる問いへ向かっていた。