プロタゴニストにあてがわれた小さな教室。
マリアが教壇に立って、いつもの微笑みを浮かべていた。
「先日のハイオーク出現を受けて、『修練の森』全体を調査していました。それによると森全体で魔物の異常増殖が確認されています。被害が広がる前に、まずは外縁付近の掃討を皆さんにお願いしたいのです」
穏やかな声だった。慈愛に満ちた教師の声だった。これまでと変わらない、いつもの微笑み。
ルクスはその笑顔を見ながら、全く別のものを感じていた。
(――管理している)
情報を与える量と与えない量を、正確に計算している目だ。裏がある、という前提で見れば、その笑顔に隠した何かが、うっすらと透けて見えるような気がした。
視線を横にやると、ソフィアもこちらを見ていた。眼鏡の奥の目が、静かに頷く。
共有した警戒が、その一瞬で確認された。
「何か質問はありますか?」
マリアが柔らかく問う。
「――ありません」
アイリスが答える。
たとえ怪しかろうと、ここで断る方がアイリスとクロエにしてみれば怪しく映る。そう判断し、ルクスとソフィアもそれに倣うのであった。
森の外縁部は、先日より空気が重かった。
足元の土が湿っていて、木々の間から差し込む光が薄い。遠くで鳥が鳴いていたが、それもすぐに止んだ。
「行くわよ」
アイリスが先頭に立った。
ゴブリンの群れが茂みから現れた。先日と同じような光景――しかし、ソフィアの動きが違った。
「――ウィンドバレット」
放たれた風の弾丸が、群れの先頭を的確に仕留めた。続いて二体、三体。群れが崩れる前に指向性を変えて、逃げ場を塞ぐ。最小限の魔力で、最大限の成果を引き出している。
「――ソフィア、やるじゃない!なにか訓練でもしたのかしら?」
「……まぁ、ちょっとね。そら、どんどん来るぞ」
淡々と言いながら、また一体を仕留める。その動きには一切の迷いがない。
(――これが、『前』の記憶を取り戻した賢者か)
実質二回分の経験と知識。それがより効率的で効果的な魔法の運用法をソフィアにもたらしていた。
「よし、俺も負けてられない!」
ルクスが感嘆し、身体強化を起動する。その横で、クロエが長杖を構えた。アイリスへ向かう一体を光の盾で弾き、戦線をコントロールしようとする。
「――っ」
(――今、止まった?)
ほんの一瞬だった。盾を張るより前に、クロエの動きが止まった。迷い、とでも表現するしかない、わずかな逡巡。
ほんの少し遅れて展開された光の盾は、しかし間違いなくその役目を果たす。よろめいた魔物の首を、素早く踏み込んだルクスの剣が刈り取った。
「――ルクスさん」
「大丈夫か」
「……はい。申し訳ありません」
クロエの声が、わずかに揺れていた。
戦闘が終わった。アイリスが息をついて、ソフィアが手帳を開く。
ルクスはクロエを見た。彼女は自分の手を見ていた。
「クロエ」
「――なんでもないです。次は失敗しませんから」
クロエが顔を上げると、そこには微笑みがあった。いつもの穏やかな笑顔。しかしその奥に、迷いが揺れていた。
(――俺のせいか?俺の言葉が、悩ませてしまっているとしたら……)
それを確かめる前に、アイリスが「次へ」と声をかけた。
慌てて後を追うルクス。その胸中には新たな不安が芽生え始めていた。
一通りの掃討が終わって学園に戻ると、空はもう橙色に染まっていた。
あの後も、クロエの動きは精彩を欠き、わずかなズレを生み出していた。一つ二つなら気づかれないようなそれも、積み重なれば周りに伝わる。心配するアイリスの言葉に大丈夫、とだけ返し、足早に去っていくクロエ。
「……なにかあったのかしら?ルクス、知らない?」
「もしかしたら、だけど」
話を振るアイリスに苦々しい顔で答える。
「俺が余計なことを言ったかもしれない。クロエ自身を大切にしてほしい、って」
「それが、原因?別に普通の事じゃない」
「……いや、そうでもないだろうね」
流してしまいそうなそれを、ソフィアが冷静に分析する。
「たとえば、アイリス。キミが丸腰の状態で、隣にルクスがいたとする。魔物がルクスに向かって攻撃した――さぁ、キミはどう動く?」
「――強引にでも庇う、かしら。だってあたしは騎士で、それが役割……そういうこと?」
「そういうこと、だろうね。クロエにとっては自分のことよりも仲間の事、あるいは世界のことを優先するのが聖女としての当たり前だったんだろう。そこに、ルクスから自分も大切にしろ、と言われてそのバランスが崩れた……と見るのが妥当じゃないかな」
「初めて『修練の森』に入った時は確かにそんな感じだったわね……あの時はルクスがよくわからない力で何とかしてたけど。あんた、あれからどうなの?」
「……さっぱりだ。どうすればもう一度あれができるか。見当もつかない」
魔物を裂き、傷を消した、あの不可解な現象。未だ再現できない、謎の力。
「あれについては私の方でももう少し調べておこう。今はクロエの事だ」
「……難しいわね。自分自身を大切にする、か。あたしも正直ぐらっと来てるわ。そんなこと考えたこともなかったし……」
「この世界の知識や記憶がないルクスだからこそ、だろうしね。私だってそこに違和感なんてなかったよ」
「――やっぱり俺が余計な事言ったからだよな……」
ルクスからしてみれば当たり前の指摘だった。しかし、彼女たちには思いもよらぬ指摘だったらしい。
「悪いことばかりでもないと思うけどね。実際無理に庇われるよりは後ろから守ったり治療してくれる方があたしとしてはやりやすいし」
「そうだね。問題なのは迷っていることだ。後衛からの支援に振り切れるなら、それで連携の齟齬はなくなるだろうさ」
「結局、クロエ次第か……」
彼女がどのような答えを出すか、それを見守ろうと意見を固め、それぞれに解散するのだった。
一人になり、ルクスは廊下を歩きながら、クロエの様子を頭の中で反芻していた。あの迷い。あれは悪いことではないはずだ。自分を大切にしろと言い続けてきた自分にとって、あの逡巡は望ましいことですらある――
(――でも、あの迷いが隙になれば)
それも事実だった。今日は問題なかったが、戦いの場での迷いが致命傷になる可能性はある。単純ではない、と思いながら歩いていると、ふと気づく。
「礼拝堂……」
考え事をしながら歩いていたせいか、学園の端まで来ていたらしい。
(覗いてみるか。クロエがいるかもしれない)
そう思って足を向ける。扉に手をかける、その寸前――
「では、クロエさん。あなたに女神様の加護があらんことを」
「――っ!?」
扉が開く。咄嗟に離れたルクスの耳にマリアの声が届いた。
(――マリア先生?いったい何を……)
思い起こすのはソフィアからの警告。
「おや、ルクスさん。どうされました?」
「いや、ちょっとクロエの様子が気になって……ここにいるかな、と」
ルクスがそう言うとマリアは笑みを深める。
「――そうですか。クロエさんは中にいます。どうぞ」
道を譲るマリア。その瞳の奥になにがあるか、ルクスには読み取れない。
「……失礼します」
促されるまま礼拝堂へと踏み込むルクス。その背後で扉が閉まる。
「さて、どう転がるでしょうか……勇者と聖女、二人の答えが楽しみです」
閉じた扉の前で、言葉とは裏腹にその目は冷たく物語を観測していた――
礼拝堂。最奥にある女神像が存在感を放つ中、ともすれば見失ってしまいそうなほどに小さな背中が見えた。
「……クロエ?」
翡翠の聖女が、こちらを向いた。ルクスと目が合った。
彼女は微笑んだ。
いつもの笑顔だった。優し気で、穏やかな微笑み。
(――何かが、違う)
うまく言葉にならない。ただ、前に礼拝堂に並んで座った時の、言葉を探していたあの目が――今は、ない。森で話した時の迷いも、見えなかった。
「――ルクスさん。今日もお疲れ様でした」
「――ああ。クロエ、さっきマリア先生と」
「はい。少し、お話をいただきました。おかげで気持ちの整理がつきました」
「気持ちの整理?」
「えぇ、もう迷いはありません。私は、私の役割を果たします」
それだけ言って、クロエは微笑んだ。
確かに、その顔は晴れ晴れとしていて、一切の陰りがない。しかし――
(――なんだ?なにか、違和感が……)
ルクスはその表情に言いようのない不安を感じる。
勇者と聖女の語らいを、女神像が静かに見守っていた。
翌日の朝。再び森の外縁部を掃討するよう命じられ、『修練の森』に踏み込む。
クロエは変わっていなかった。
――変わっていないように、見えた。
笑顔は同じだった。声も同じだった。ルクスの体調を気遣い、朝の準備を整え、訓練の時間には後衛の位置に立った。理想的な聖女の振舞い。
しかしルクスには、何かが欠けているように感じられた。
昨日、クロエに生じていた「迷い」が、ない。
あった場所が、空白になっている。
(――消えた)
迷いが解消されたのではなく、迷う回路ごと閉じてしまったような。それが何を意味するのか、考える前に戦闘が始まった。
森の外縁部に再び踏み込んだ四人の前に、多数の魔物。
「こいつら――!?」
そのすべてが、昨日より強く、動きが速い。アイリスが舌打ちして前へ出る。ソフィアが魔法を打ち込む。ルクスも剣を抜き、前に出た。
戦闘が始まった。
前衛で剣を振るう騎士と勇者。中衛から魔法で殲滅していく賢者。後衛から支える聖女。昨日と同じ、普段通りの連携の形。
ズレのない、流麗な連携は、多少強化されていようと問題なく群れを殲滅する。
視界内の魔物を全滅させ、一息つく。
「ふぅ、妙に強かったわね……」
「なにか、不自然な記述が混じっていたようだが……」
魔物の変化について考え込むアイリスとソフィア。しかしルクスの意識は別の不穏さに向けられていた。
「……クロエ」
「……?どうされました?どこかお怪我でも?」
献身的な支援。理想的な言葉。優しげな表情。どこを見ても完璧な聖女。
――その完璧さがルクスの目には不自然に映る。
しかし、それは言葉にならずに指の隙間をすり抜けていく。
「――いや、大丈夫だ。次も頼む」
「はいっ!お任せください!」
結局、何も言えずに引き下がるしかなかった。
最初に異変が起きたのは、それからしばらくしてのことだった。
「ハイオーク……こんな森の外縁で遭遇するとは」
いつかも戦った巨体を前にソフィアが息を吐く。
「こんなでかいのがここまで出てくる?やっぱりなにかおかしいわね」
「とにかく、今はこいつを倒さないと!行こう!」
そうして戦闘が始まる。
「ぐっ!相変わらず重いわね……」
「フレアバレット……硬いな」
「決定打が、ない……!」
その強靭な肉体に苦戦を強いられる。強く、硬い。ただそれだけのことが強大な壁として立ちふさがっていた。そして――
「くっ、まず――」
アイリスがハイオークの拳を捌ききれなかった瞬間だった。大きく体が流れる。次の一撃が来る。
クロエが、前へ出た。
「――プロテクション」
光の盾が展開される。ハイオークの拳が直撃した。盾が砕ける。クロエの体が吹き飛んだ。
「クロエ!」
転がり、傷だらけになり、それでも立ち上がる。
「――問題ありません。アイリスさんへの回復を――」
「問題ないわけあるか!今、自分が吹き飛んだんだぞ!まずはそれを――」
「致命傷ではありませんから」
翡翠の目が、こちらを向いた。
笑顔だった。穏やかで、迷いのない笑顔。
しかし――昨日まであった、その奥の揺れが、もうない。ただ、鏡のように滑らかな空虚が広がっていた。
(――マリア先生が、消した。『クロエ』を消して、『聖女』を残した)
熱が腹の底から湧いてくる。
(世界の救済のために自分自身を犠牲にする。そんな選択が迷いなくできるような――救世装置に変えてしまった)
ルクスは剣を握った。強く、強く。願うのはあの力。
(出ろ……!出ろ……!!このままじゃ、またクロエが――)
しかし、手の中の剣は、冷たかった。
何も応えない。何も語らない。ただの鉄の重さのまま、手の中にある。
「――っ!くそっ」
それでも前へ出た。身体強化を全身に通して、ハイオークの横合いへ踏み込む。剣を振った。硬い皮膚がそれを弾いた。手が痺れる。
「ルクス!」
「わかってる――ソフィア、弱点は!」
「――もう少し待て……左の脇腹、記述が薄い!」
全員の意識が集中する。
「アイリス、右を頼む!」
「言われなくても――っ!」
三人が連動した。ソフィアの魔法がハイオークの動きを止め、アイリスが右から切り込む。ルクスは左脇腹へ向けて剣を叩き込んだ。
今度は通った。
(――浅いっ!)
「ガァァァァ!!」
「ぐっ!」
ハイオークが呻いた。両腕を振り回し、敵を遠ざける。
「……ただの一発じゃ足りないみたいね」
「どうする?このままだとどこかで決壊しかねないが」
(――急げ、急がないとまたクロエが……)
振り返れば緩慢な動きでこちらに向かっているクロエ。自身の体に治療を施した形跡はない。
「――もう一回、俺にやらせてくれ。次は決める」
「……考えがあるのね?」
「あぁ、必ずあいつの腹に風穴を開けてやる」
「……いいだろう。もう一度、こっちで隙を作る」
アイリスが前に出る。ソフィアが短杖を構えた。
(手加減はいらない。全力で――貫く!)
思い起こすのは初めて身体強化を使った時のこと――訓練場にあけた大穴。
制御を手放し、全力で魔力を注ぎ込む。
「――っ!今!」
アイリスがハイオークの腕を弾く。明確な隙。
「っあぁぁぁ!」
全力で踏み込む。視界が延び、白く染まる。
衝撃、激痛。そのまま、ルクスの意識は闇に溶けていった――
凄まじい速度でルクスが突っ込み、巨体が崩れ、霧散した。
静寂が戻る。
「ルクスさん!」
息を切らし、血を流しながらクロエが合流する。そのままルクスへと治療の光を当て始めた。
(――歪だ)
自身の傷を顧みないその献身がソフィアの目にはとても歪んで見えた。
「クロエ、ルクスもだけどあんた自身もちゃんと……」
「いえ、わたしなんか後でいいんです。それよりもルクスさんを――!それに皆さんも治さないと……!」
アイリスの呼びかけも聞き入れず、他人を優先するクロエ。
(何かが、壊れている)
それを直視しながら、何もできなかった。
「――っ!ここは……?」
「ルクスさん!よかった……」
「クロエ?……そうか、俺は――って!早く自分の治療もしないと!」
目を覚ますなりクロエの身を案じるルクス。
(なんとかなったのか……あの力があれば、こんな苦戦もせずに済んだのに――)
手の中の剣は沈黙している。身体強化で戦い、強引とはいえ勝つことはできた。しかし、クロエの奥から消えていくものを、取り戻す手段がない。
傷だらけの四人。その治療がようやく終わり――
その時だった。
地面が、揺れた。
足元から伝わる振動。低く、持続する。鳥の声が止んだ。木々の梢が一斉にざわめいた。
「――何だ」
「……っ」
ソフィアが短杖を構え直した。解析魔法の輝きを宿した目が、森の深部へ向く。その目が、見開かれた。
「――これは」
声が低かった。
「ソフィア、何が見えたの」
「……記述が、黒い。森の深部から――溢れ出している」
(まさか、『前』の記録にあったポータル……?だが、あれはもう少し後の出来事だったはずだが――)
振動が大きくなった。遠くで何かが倒れる音がした。無数の足音が、地面の下から湧き上がってくるような。
「外縁の掃除程度で済む話ではないな」
ソフィアが静かに、しかしはっきりと言った。
「魔物たちが――森そのものを飲み込もうとしている」
アイリスが剣を構えた。ルクスも『無銘の剣』を握った。冷たいままの刀身が、震えるような振動の中で揺れた。
クロエが立ち上がった。
傷の処置を終えて――立ち上がって、長杖を構えて、前を向いた。笑顔のまま。空虚な翡翠の目で、来たるべき役割を待ち構えている。
その横顔を、ルクスは見た。
(――絶対に、死なせない)
剣に力を込めた。まだ冷たい。しかしそれでも、手を放すつもりはなかった。
森の奥から、地鳴りが迫ってくる。