礼拝堂を夕焼けが染め上げていた。
クロエは祭壇の前に――女神の像の前に跪いていた。長杖を両手で握り、目を伏せて、厳かに祈りの言葉を唱える。いつも通りの礼拝。しかしその胸中は常のように穏やかではなかった。
(――迷った)
あの瞬間のことを、何度も反芻していた。アイリスへ向かう魔物の前に立とうとして、止まった。ほんの刹那。しかし確かに、止まった。
ルクスの言葉が、耳の奥で繰り返す。
(自分を大切にしろ――)
それは正しいのだろうか。聖女が自分を大切にすることと、聖女としての役割を果たすことは、両立するのだろうか。どちらかしか選べないとしたら――
(あの人は、世界の救済と私自身を天秤にかけられるのでしょうか……?)
「――クロエさん」
静かで、しかし不思議と通る声。
振り向くと、マリアが礼拝堂の入口に立っていた。いつもの微笑みを浮かべて。
「お一人ですか?礼拝、というにはすこし雑念を感じますが」
「マリア先生……すみません、少し考え事を」
「――今日の訓練中のことでしょうか?」
どうして知っているのか、とクロエは思った。あるいは糾弾されるのではないか、とも。しかしマリアの笑顔には責める色がない。むしろ、慈しむような温かさがある。
「……はい。ルクスさんに言われたことが、頭から離れなくて」
「ルクス君が、何か?」
「自分を大切にしてほしい、と。自分のために生きるという気持ちがないのか、と……」
マリアが少し近づいた。
「――それで、迷ってしまったんですね」
「はい。あの言葉が頭にあって、咄嗟の判断が遅れてしまいました。世界を救うために私は聖女として役割を果たさなければならない。そのためならこの身など捧げても惜しくない、はずなのに……それが正しいのかどうか――」
「クロエさん」
マリアが静かに遮った。
その声は変わらず穏やかだった。しかし、その穏やかさの奥に、別の何かが滑り込んでくるような気がした。
「あなたは何も間違っていません。迷いは雑音になりますよ」
「雑音……」
「世界を救うために不要な感情は、捨て置きなさい。あなたは聖女。女神様から与えられた役割を、誰よりも純粋に体現できる方です。その美しさを汚すものは――必要ありません」
クロエは黙って聞いていた。
(そうなの、でしょうか……でも――ルクスさんは)
「――あなたにしかできない救済があります、クロエさん」
マリアの声が、少し変わった。
「万が一の時――あなたの存在をかけて世界を守ることができる方法があります。それはあなたにしか使えない、至高の救済です」
長杖を持つ手に、力が籠もった。至高の救済。その響きは迷いを秘めた心にはひどく魅力的に感じた。
「――私にしか、使えない」
「ええ。これこそが、あなたがこの世界に生まれた意味ではないでしょうか」
クロエは女神像を見た。白い石の像が、変わらない笑顔で前を向いている。
(ルクスさんの言葉は――)
その言葉が、まだそこにあった。消えていなかった。しかし――
(――私が迷うことで、仲間が傷つくかもしれません。あの一瞬の遅れが、いつか誰かの命を奪うかも……)
「――教えてください、先生」
クロエは顔を上げた。
「全てを捧げる方法を――世界を救う方法を」
「えぇ、もちろん。女神様もそれをお望みでしょうから……」
マリアが微笑んだ。その奥に潜んだ冷たさを目の前の聖女に悟らせないまま――
長杖を握りしめる。自身の命の使いどころが近づいている、とクロエは直感していた。
まず、地鳴りが来た。
それは音というより、地面そのものが脈動するような揺れだった。足の裏から這い上がってくる、低く持続する振動。
ソフィアが短杖を構えたまま、目を細めた。解析魔法の輝きが、その瞳の奥で揺れている。
「――来る」
「どれくらいだ」
「わからない。多すぎるし、記述が重なり合っている。数えていられないね」
アイリスが息を吐いた。剣を握り直す。
「――撤退は?」
「このまま森の外に出ればひとまずは逃げられる。ただそうしたら――」
「――森を抜けて、学園に、街に。魔物があふれ出す、か」
静寂が落ちた。鳥が鳴かない。虫も鳴かない。森が、息を呑んでいる。地鳴りだけが少しずつ音量を上げていく。
沈黙を破ったのはクロエだった。
「――ここで、食い止めましょう」
「――本気か?無謀、なんてものじゃないぞ」
「街を――世界を救うのが私達の使命でしょう?この命ある限り、戦うべきです。たとえ私一人だとしても――」
一人でも戦う。そう言わんばかりの真剣な目。あまりにも迷いのないその目に思わずたじろぐ。
「……やるしかない、か」
「アイリス、キミもか?」
ソフィアが怪訝な目を向ける。
「どのみち魔物が街に出たら戦わないといけないんだから。少しでも手前で抑え込んで、勢いを削いでおいた方が被害を最小限にできるでしょ」
(その街を守る必要がそもそもあるのかが怪しい――が、今それを言っても無駄か。やむを得ない)
ルクスとソフィアの間で視線が交わされる。
「ソフィア」
「……わかった。やれるだけはやってみようか」
そうして全員が武器を構えた。
程なく、茂みが割れる。
「ギャッ!」「ガァァ!」「ギィィッ!」
最初の一体が現れた。続いて、二体。三体。視界の端から端まで、影が埋め尽くしていく。
「――行くわよ!」
アイリスが前へ踏み出した。剣が閃く。一体、また一体。しかし斬り伏せるより早く、次が来る。
「ソフィア、クロエ!後ろは頼むぞ!」
ルクスも踏み込む。斬る、斬る、躱す。斬る、防ぐ、躱す――対処が追い付かなくなっていく。
「ウィンドストームッ!」
ソフィアの広範囲魔法が群れの中央を抉った。一帯が吹き飛ぶ。一瞬の間隙。しかし消えた分だけ、後ろから新しい影が埋める。
「――きりがない!」
「口より手を動かしなさい――!」
制御できる限界まで強化を施す。正面のゴブリンを斬る。遠方からコボルトが放った矢を弾く。また前へ。オークの拳を躱して一閃。泥臭く、一体ずつ、ただ削る。しかし削っても削っても、視界が黒で埋まっていく。
(――出ろ。出てくれ――!)
剣を握る手に力を込めた。変わらず沈黙している『無銘の剣』に、願いをぶつける――剣は応えない。
アイリスの動きが重くなり始めた。積み重なる傷――剣は応えない。
ソフィアの魔法の間隔が広がり始めた。前衛を越えて接近する魔物が現れ始めた――剣は応えない。
クロエの回復が飛ぶ。防壁の展開が追い付かず、負傷した。構わず仲間を治療する――剣が震える。
「――防衛線が、保たない」
ソフィアの声が、事実の確認として届いた。
「選択肢は――撤退か、突破か」
「今更撤退なんて――!」
「だから、詰みだと言っている。ここから切り返す手段が思いつかない」
ルクスは歯を食いしばった。包囲が縮まっていく。四人の立てる場所が、少しずつ狭くなっていく。
その時だった。
「――では、ここでしょうか」
クロエの声が響いた。
静かな声だった。けれど不思議とその声ははっきりと響いた。穏やかで、迷いがない。ルクスは振り返った。
クロエが長杖を両手で構えていた。その目が、周囲を見渡している。見渡しながら、遠くを見ている。戦場の向こう、あるいは役割の終着点を。
「これが、最も効率的に皆さんを――世界を救う方法です」
「――クロエ?」
「ご安心ください。全員、生きて帰れます」
「クロエ、なにを――」
笑顔だった。空虚な翡翠の目が、しかし確かな決意を帯びていた。
長杖を中心に、光が集まり始めた。クロエ自身の輪郭が、ほんのわずかに滲んで見えた。
(――まずい。なにか、致命的なものを感じる。あれは、なにかよくない――!)
ルクスは動いた。包囲を強引に割って、クロエへ向かって走った。
「クロエ、何する気だ、やめろっ!」
「――ルクスさん、来ないでください」
光が強くなった。クロエ以外の三人を囲むように、光の膜が覆う。
「――っ!?」「ガッ!?」
ルクスの手が伸びた。その指先が、膜に触れた瞬間、弾き飛ばされた。背後から迫っていたゴブリンが即座にその身を霧散させる。
それは双方の干渉を妨げる結界。
「これは、凄まじい魔力……内からも外からもそれぞれに強い抵抗を示している……」
「クロエ!あんた、何する気!?」
解析魔法を走らせるソフィア。必死に呼びかけるアイリス。
クロエは動かない。ルクスたちに向けられた背中が薄く透け始めていた。
「皆さんは死なせません。世界を救うために、皆さんには生きていていただかないといけませんから」
振り返らず、静かに告げる。
「私は聖女。世界を救うため、この祈りを、この身を。女神さまに捧げます」
「クロエ!クロエ――!」
結界を殴る。斬りかかる。どちらも弾かれ、光の膜には傷一つない。
「ルクスさん。自分自身を大切にする。私にはどうしても理解できませんでした」
さらに光が強まる。もはやクロエの体はほとんど透けていて、その奥の魔物すら見えている。
「私よりも皆さんが大切です。私よりも世界が大切です。世界を救うためには勇者が――ルクスさんが必要です。だから、これが私にとっての最善なんです」
「クロエ!やめなさい!誰かを犠牲にした勝利なんてあたしは――!」
「なんだ?クロエの体から記述が消えて――まさか、自分の存在そのものを力に変換しているのか!?」
ついに光が視界をかき消すほどに輝く。思わず目を覆う。
――寸前に見えた少女の体は、小さく震えていた。
「必ず世界を救ってください。それが私の最後の願いです。皆さんに、この世界に。女神様の加護があらんことを――」
魔物たちの気配が消えた。
視覚が回復していく。
「魔物が、全滅……!?」
「記述ごと消えている。これは……」
開いた目に飛び込んできたのは、魔物の姿が一切ない、静かな森。呆然とするアイリス。何かを考え込むソフィア。そして――
今まさに消えようとするクロエ。力を使い果たしたのか、座り込んでいる。
その身体が完全に光に透けていた。おぼろげな幻のようで、瞬きの間に消えてしまいそうに儚い。
「ク、ロエ――!」
立ち上がった。走った。結界はもう消えていた。
腰砕けに座り込んでいるクロエの前に膝をつく。その肩に手を置こうとして――指先が、すり抜けた。
(――消えていく)
翡翠の髪が、光に透けている。その顔はまだ笑っていた。穏やかで、満足そうで――
(――また、この顔だ。もう見たくないと思っていたのに)
あのときと同じだった。翡翠の色が白に溶けていく。微笑みのまま、消えていく。
少女は、己の存在すべてと引き換えに救世の礎となった。
「――これでよかったんです」
クロエが言った。
――その体はほんの少し震えていた。
「皆さんが生きている。世界が救われる。私の役割は――」
「うるさい!」
ルクスの中で何かが切れた。
「目の前で消えていく女の子一人救えないで、世界なんか救えるか!」
手の中が熱い。さっきまで何の反応もなかったはずの『無銘の剣』が、いまは火傷しそうなほどに熱かった。
「世界がなんだ!魔王がなんだ!勇者がなんだ!そんなもの、どうだっていい!」
勇者の中で、彼自身の願いがようやく言葉となる。それが、引き金だった。
「俺は、今!君を救いたいんだ!」
じわりと、根元から。まるで長い眠りから目を覚ますように。
白かった刀身が、翠に染まり始める。主の願いに応えるように。
月白から、若草へ。若草から、翡翠へ。その感情の純度が高まるように。
それは、決意の色だった。あるいは、慈愛の色だった。
記憶も経験も持たない少年が、それでも確かに手に入れた、一つの色。
(――『サルヴァトル』?それが、この剣の本当の名前……?)
ルクスの脳内に自然と浮んだ銘。
その聖剣の銘は『サルヴァトル』。物語の運命を覆し、その決意ですべてを救済する聖剣。
翡翠の輝きを宿した聖剣が振るわれる。
消えゆくクロエの体。その周囲に漂う、白い光の残滓――彼女の輪郭を溶かしていく、消滅の記述――その、根元を、翡翠の輝きが塗りつぶした。
「俺は『それ』を認めない」
――世界が、歪む。
――少女は、己の存在すべてと引き換えに救世の礎となった。
――少女■、己■■在す■■と引き■■■救■の■となった。
――■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。
「――えっ?」
クロエの体に色が戻る。存在の消滅は棄却され、少女は確かにこの世界に根を下ろした。
滲んでいた翡翠の髪が、鮮明さを取り戻した。透けていた肩に、確かな質量が戻った。消えかけていた少女の体が、強引に引き戻されてそこにある。
「これは、一体――っ!?」
クロエが目を見開いた。自分の手を見た。透けていない。消えていない。そこにある。
それと同時。
「――ガァァァッ!」「「「ギィィッ!」」」
森に音が戻った。
「ここで新手!?」
「いや、違う、戻ったんだ!」
アイリスが叫んだ。ソフィアが短杖を構え直した。
消えたはずの魔物が、戻っていた。
時間が巻き戻ったかのように、戦場が元に戻っていた。クロエの魔法が消し去ったはずの包囲が、再び四人を取り囲んでいる。
「――どういうこと!?」
「手段はわからないが……」
その声に動揺はない。ただ、隠し切れない興奮が滲んでいた。
「クロエが自分自身を代償に魔物を消去した。ルクスはその行為そのものをなかったことにしたんだ。その結果消されなかったことになった魔物が元通りになった」
事象の書き換え。世界の記述――物語そのものへの干渉が一人の勇者の手によって行われていた。
魔物が再びその牙を向ける。しかし、既に勇者は次の一手を構えていた。
「ルクスさん!」
「――大丈夫だ」
もう一度、聖剣を強く握った。
翡翠の輝きがまだそこにある。救うのだ、と。人よりも優先される世界など書き換えろ、と。
「『これ』で終わりだ」
振るわれる聖剣。しかし、それはどの魔物にも当たらない軌道。
――世界が、歪む
――当然、一匹たりとも斬ることはできない。
――当然、一匹■り■■斬ることは■■ない。
――当然、一匹■■■■斬■■■■■■ない。
――当然、一匹として、斬られぬものはない。
剣を払った。
その次の瞬間、一斉に魔物が霧散していく。
大きさも、強度も、距離すらも関係ない。
一振りで、すべての魔物が例外なくその存在を斬り捨てられる。
視界が、晴れた。
再び森に静寂が戻る。風が吹いた。鳥が、遠くで鳴いた。
ルクスは剣を下ろした。翡翠の輝きが、ゆっくりと落ち着いていく。手が震えていた。足元がおぼつかない。全身から力が抜けていくのを感じながら、膝をついた。
「――ルクス!」
「あの時と同じ……だが、何か違うな」
アイリスが駆け寄る声がした。ソフィアが何かを確認している声がした。
(クロエ、君は……)
しかしルクスの視線は、クロエだけを見ていた。
(一体、何が――)
少女は、呆然と座り込んでいた。
自分の手を見た。表と裏を、交互に見た。透けていない。確かにそこに存在している。
(――消えていない。でも、私は確かに……)
周囲を見た。消えた魔物の跡を。そして、勇者の持つ翡翠の色に染まった聖剣を。
(――世界に救いを。そのために、この身が必要なら捧げる。それが世界のためであり女神様のご意思なら。でも……)
少女の中で、何かが、崩れていた。
迷いは雑音。自分を代価にすることによる至高の救済。それが正解だと思っていた。信じていた。だから怖くなかった。消えることを恐れなかった。
しかし今、一人の少年の手がそこに触れた。
(怖かった。本当は、こんなにも怖かった。こうして助かって初めて、消えることが怖いと思った)
視線が少年に向けられる。こちらへとゆっくり歩み寄ってきていた。
(あぁ、これが、自分を大切にする、ってことなんですね。私は今まで、自分を自分と思わずに蔑ろにしていた……)
少年のまっすぐな視線に、ドクン、と少女の胸で鼓動が鳴る。それは少女に自身の生を実感させる音だった。
「――クロエ」
翡翠の剣を持ったまま、ルクスが膝をついて、顔を覗き込んでいた。その顔は傷だらけで、疲労で青白かった。それでも、クロエを見ていた。
「生きてるか」
その言葉が、クロエの胸に落ちた。
(――生きてるか)
当たり前の問いかけだった。当たり前すぎて、今まで誰も言わなかった問いかけだった。役割を果たせたか、世界は救われたか――そういう問いかけではなく。ただ、生きているかどうかを聞く声。
何かが、解けていく感覚がした。
胸の奥の、ずっと閉じていた場所が。
「――私は」
声が出なかった。続きを探した。
「私は、消えようとしていました」
「ああ」
「それが――正しいと、思っていました。世界の救済のためなら、と」
「俺は思わない」
ルクスが言った。迷いなく。疲れ切った顔で、しかし一点の曇りもなく。
「君が消えた世界に、意味なんてない。少なくとも俺には、ない」
「――どうして」
「君が大切だからだ。世界なんてあやふやな物よりも、俺にとっては今目の前にいる君が大切なんだ」
「世界、よりも……」
クロエの目が、揺れた。
(――雑音、と言われた。余分だと、言われた)
聖女にとって、『クロエ』は不要。それがマリアの言葉だった。でも、今のルクスの言葉では――雑音ではなかった。余分でもなかった。誰かが自分の生をただそのままに願う、その重さが――初めて、少女の心に届いた。
「――ルクスさん」
声が、震えた。
「私は――」
続きが、出てこなかった。
ルクスが手を伸ばす。透けていない手が、今度は確かに触れた。クロエの手を確かに掴んだ。
温かかった。
その温度が、最後の堰を切った。
涙が、出た。
クロエは自分でも理解できなかった。泣いている。なぜ泣いているのかわからない。怖かったから、ではない。痛かったから、でも、ない。ただ——誰かの体温が、こんなに確かに自分のところに届いたことが――これほど大きなものとして感じられたことが――
「――っ、う……」
「泣いていい」
ルクスが言った。他に何も言わなかった。それだけ言って、手を放さなかった。
「う、うぁぁぁぁっ!」
ルクスの体に縋りつく。感情のままに、声を上げた。あるいは、それこそが少女がこの世界に本当の意味で誕生した産声だったのかもしれない。
アイリスが何かを言いかけて、止まった。ソフィアが手帳を開きかけて、静かに閉じた。
森の中に、風が通った。誰も動かない。ただ、少女の涙だけが流れ続けていた。
しばらくして。
クロエが顔を上げた。目が赤かった。頬が濡れていた。それでも、顔を上げた。
「――ルクスさん」
「なんだ」
「怖かったです」
ルクスが少し目を見開いた。
「消えることが――怖かった、と思います。あの瞬間。消えかけた時に、初めて――気づきました」
「……そうか」
「ずっと怖くなかったのに、急に怖くなりました。ルクスさんが――走ってくるのが見えたから」
ルクスは何も言わなかった。ただ、クロエの手を握っていた。
「まだ、理由はわかりません。でも――」
クロエが、自分の手を見た。透けていない手を。確かにここにある、自分の手を。
「消えたくない、と――今は、思っています」
小さな声だった。しかし、それは確かに彼女自身の言葉だった。役割でも、救世でも、女神の教えでもない――クロエ自身の、初めての言葉。
「――あぁ、それで、十分だ」
ルクスが言った。
その言葉に、クロエはもう一度だけ、目を潤ませた。しかし今度は泣かなかった。
聖女が救いを願う世界の中に、『クロエ』という少女が含まれた瞬間だった。
その一部始終を、『遠く』から見ている目があった。
マリアは礼拝堂で一人佇んでいた。その表情は常とは違う、冷たいもの。
「……」
そのまま、何も言わなかった。
美しい殉教のはずだった。聖女が世界のために散る、完璧な物語の一頁。それを――白紙だった勇者が、乱暴に塗り替えた。記述を書き換え、シナリオを破り、役割の終わりを強引に拒絶した。
(美しい世界に紡がれた物語――それを書き換える翡翠の聖剣、ですか……)
マリアの指先が、小さく動いた。
「――どうしたものでしょうか」
独り言だった。聞いているものは、いない。
「ミュトス様、今回の物語の行く末はこれまでで最も予測できないものになるでしょう……」
その声に応える者はいない――ただ、静寂に満ちた空間に溶けていくだけの言葉。
「傑作になるか駄作になるか……全ては勇者の行動次第。願わくば、我が神の御心を打たんことを――」
そうして微笑みを浮かべる。礼拝堂から、『修練の森』の入口の方へ歩いていく。その背中が、遠ざかっていく。
『面白いじゃない。あの子は物語を編集しようとすることが多かったし――楽しみね』
誰もいなくなった空間に、そんな声が響いていた。
――◇――
天座の書架。
物語を見守る女神――ミュトスが手元の栞を眺めていた。翡翠の色が、濃くなっていた。一切の翳りがない。それどころか――見たことがないほど、鮮烈な翡翠が、栞に宿っていた。
『うん。久しぶりに、誰の意思も介在しない純粋な物語になりそうね』
満足げにつぶやく女神。
『――ただ』
独り言のような声。今度は少し違う色があった。
『汚された、かしらね。あの美しい殉教が。聖女ちゃんの純粋な祈りと信仰は心地よかったのだけれど』
微笑みが、浮かんだ。
『とはいえ』
栞を光に透かした。翡翠が輝く。
『嫌いじゃないわ』
本音だった。想定外の展開が物語を壊すこともある。しかし、想定外の展開が物語を飛躍させることも、ある。
『役割の外から手を伸ばした、役割に縛られた少女を引き戻す――陳腐と言えば陳腐。でも、それをこの子がやるから、意味がある』
書架の奥を見る。磔の男が、相変わらず動かずにいた。
『――あなたも見ているでしょう。どう思う?』
答えはなかった。
ミュトスは微笑んで、視線を戻した。
『さぁーー翡翠の物語が完成するまで、まだ頁は残っているわよ。続きを見せてもらいましょうか』
――物語に没頭する女神の意識の外。ピクリ、と男の指が動く。その瞳は一心に女神の背を睨みつけていた。
――頁が捲られる。