天座の書架と白紙の勇者   作:maki@

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翠の自覚/翡翠の改稿

 目が覚めた時、最初に見えたのは光だった。

 

 窓から差し込む朝の日差しが、白い天井を柔らかく染めている。見慣れた天井――学園の救護室。体は重く、起き上がるのも億劫に感じる。そして、殊更に重いのが右腕だった。

 

(……なんだ?というかなんでこんなに体が……)

 

 視線だけを動かすと、右腕のあたりに翡翠が見えた。

 

 クロエがベッドにもたれかかるように眠っていた。傍らには、もう一つの翡翠。

 

(聖剣――サルヴァトル、だったか。森でスタンピードに対処して、それから……)

 

 少しずつ意識と記憶がかみ合っていく。聖剣の輝きが世界を塗りつぶし一人の少女を救った。

 

(俺が、世界を書き換えた……?理屈は分からないのに、『そういうものだ』って感覚だけがある)

 

 聖剣の覚醒。勇者の『救う』という意思に呼応した救済の剣。

 

(で、結局これはどういう状況なんだ。森で戦った後の記憶がない……)

 

「んぅ?」

 

 ルクスの身じろぎに反応して、クロエの目が開かれていく。

 

「――っ!?目が覚めましたかっ!」

 

「うぉっ!?」

 

 ルクスを認識した途端、ずいっと詰め寄るクロエ。

 

「気分はどうですか?痛むところや、違和感があるところは――!」

 

「待て!待てって!大丈夫だ!ちょっと体が重いけど痛んだりとかはない!」

 

「――そう、ですか。よかった……」

 

 そういって座り直すクロエ。その目には多大なる安堵があった。

 

「えっと、どういう状況だ?森でスタンピードがあってからの記憶がないんだけど……」

 

「――覚えてないんですか?あの後、学園に戻るってところでルクスさんが突然倒れこんで……それから丸一日寝てたんですよ?」

 

「それは……心配をかけたな」

 

 そう言うと、クロエは微笑みながら首を振る。

 

「いいんです。心配はしましたけど……こうして目覚めてくれたら、それで十分ですよ」

 

「君は、大丈夫なのか?あの時、君は……」

 

 クロエの体に傷はない。その手が透けているわけでもない。しかしどうにも不安が拭えなかった。

 

「――大丈夫です。ちゃんと、ここに。私は生きています」

 

 そう言ってルクスの手を握るクロエ。その温度がルクスに実感を与える。

 

「私が捨てようとした『私』を、ルクスさんが救ってくれました。その重さも教えてくれました。だから、私はもう大丈夫です。世界を救う、自分も大切にする。今は、ちゃんとわかっていますから」

 

「――そうか。そう、か……」

 

 その言葉が、ルクスが聞きたかった言葉がクロエの口から出た。それだけで暖かい気持ちが溢れてくる。

 

 世界を救う勇者が、まずは一人の少女を救った。そんな一幕。

 

 

 

「さて」

 

 静かな室内に、賢者の声が響く。

 

 高い窓から差し込む光の中で、ソフィアが手帳を広げていた。机上には翡翠の聖剣――サルヴァトル。陽光を反射し、きらめいていた。

 

 机を囲んで着席しているのは、四人の少年少女。世界を救う、勇者のパーティ。

 

「スタンピードから一夜どころか二夜明けて、ようやく全員がそろったわけだが……」

 

「悪いな。まさか丸一日眠る羽目になるとは……」

 

「ま、起きたならいいじゃない。それで?わざわざ集めたってことはなにか話があるんでしょう?」

 

 再び視線がソフィアに集まる。注目を浴びたソフィアは眼鏡を押し上げ改めて手帳を見た。

 

「話すべきことは色々あるんだが……確認したいこともある。クロエ。キミが森でしようとしたことはなんだったんだ?」

 

 周囲の魔物全てを消し去り、自分自身すらも消えるところだった力。

 

「――あれは、私の存在そのものを糧とした、至高の救済。魔に連なる存在を全て消し去り、世界に安息をもたらす魔法です」

 

「やはり、代償はキミ自身か。神聖魔法はそんなこともできるんだな。初耳だ」

 

 手帳へと情報が書き込まれていく。

 

「確かにすごかったけど――もう使うんじゃないわよ。犠牲なんて出さない、全員で生きて世界を救う。もし、誰かが死ぬなら――その最初は、騎士であるあたしなんだから」

 

「はい。もう使いません。『私』を大切にする。そう約束しましたから。そして、アイリスさんも死なせません。必ず私が救います」

 

 クロエの言葉に満足げに頷くアイリス。

 

「――ええ。頼りにしてるわよ」

 

「ところで、なんだが」

 

 クロエとアイリスが互いを守り合う決意を固めていたところ、ソフィアが口をはさむ。

 

「あの魔法はもとから使えたのか?以前のキミならもっと前に使っていたように思えるが……」

 

「それは……」

 

 言いよどむクロエ。それを見たルクスの脳裏にいつかの光景が過る。

 

「――マリア先生、か?」

 

「――っ!はい……前に私がうまく戦えなくなったときに。私にしかできない、世界を救う切り札だ、と」

 

「なるほど、ね。色々と合点がいった」

 

 納得した、と言わんばかりに手早く手帳に書き込んでいく。

 

「なにがなるほど、なのよ。こっちは全然なんだけど?」

 

「詳しくは後で話すよ。他にもいろいろと共有しておかないといけないからね。とりあえずあの力はもう使わない、ということで。クロエ、いいかい?」

 

「はい。わかってます。私も、皆さんも、世界も。全部を救うために頑張ります」

 

 両手を握って力強く宣言するクロエ。その姿に思わずルクスの頬が緩む。自然と口を開いていた。

 

「――そうだな。絶対に全部守ろう。もう二度と君を失いたくはない。俺にとっても大切な存在だからな」

 

「――へっ!?」

 

「へぇ?」

 

「ふむ……」

 

 クロエの声が裏返る。その顔が次第に赤く染まっていく。

 

「必ず守るよ。世界を救うんだ。仲間一人守れないで、そんなことができるか」

 

「は、はい……」

 

「――あー、いいかい?まだまだ話さないといけないことがあるんだが」

 

 ソフィアが遠慮がちに、しかし微笑みを浮かべながら声をかける。

 

「もう少し見ててもいいわよ?面白いし」

 

「面白い?なにがだ?」

 

「何でもないです!次!次の話に行きましょう!」

 

 大声で主張するクロエ。にやにやとした笑みを浮かべるアイリス。首をひねるルクス。三者三様の反応に苦笑しつつ、話を本筋に戻していく。

 

「次、この剣について、だ」

 

 そういって翡翠の聖剣を指す。

 

「まず前提の確認だ。魔法には三種類ある。無属性魔法、属性魔法、神聖魔法。どれも世界の記述に干渉するということは同じだが……このうち神聖魔法だけが記述そのものを書き換えられる。クロエが使う回復や防壁は全てそれだ」

 

「はい。女神様への祈りをもってこの世界に救いをもたらす魔法です」

 

「ルクスがこの剣でやったことは、神聖魔法に近い。しかし同じではない」

 

 一度言葉を切り、ルクスへと視線を向ける。

 

「キミに、世界を書き換えるほどの信仰が芽生えているとは思えない。そうだろう?」

 

「そうだな。別に女神に特段の思い入れはない。あの時は『とにかくなんとかしないと!』って感じだったな」

 

「神聖魔法は『女神の力を借りた書き換え』だ。神という上位権限を経由して、世界を改変する。だからこそ普通の魔法では不可能な記述の書き換えが可能なんだ。しかしこの剣は――女神を経由していない」

 

「――つまり」

 

「神に依らない書き換え。権限を持たない者が、許可なく記述を塗り替えている。世界にとっては本来あってはならない力だよ」

 

 全員が少し黙った。

 

「禁忌、ということかしら」

 

「そう表現するのが最も近い。ただ、そう気にすることでもないだろう。後で話すが、この世界そのものが既に瑕疵を抱えているのだから」

 

 手帳を捲り、続ける。

 

「とはいえ、一日中起きないほどの消耗だ。なにかしらの代償や負担があることも否めない。あまり大規模に乱発する物でもないだろうね」

 

「使いどころは見極めないと、か」

 

「戦闘中に倒れられたらたまったもんじゃないものね。ある程度は温存しないと」

 

「まとめよう」

 

 そう言ってソフィアが全員の注目を集めなおす。

 

「この剣はルクスの意思に呼応して世界を書き換える。神聖魔法と同等かそれ以上の規模で行使できるが、多大な消耗も付随してくる。使いどころは見極めないといけないが、非常に強力な力、というわけだね」

 

「なるほど……」

 

「剣に関してはこんなところか。さて、最後、これが本題だ」

 

 言葉と共に手帳が捲られる。

 

「前にルクスには少し話したんだが……この世界の真実について、だ」

 

 

 

 アイリスは最初、腕を組んで聞いていた。途中から眉間に皺が寄った。最後まで黙って聞いて、それから長い沈黙の後に口を開いた。

 

「――つまり。私たちがどれだけ頑張っても、魔王を倒したら世界が終わる。魔王に負けても、世界が終わる。そういうことを言っている?」

 

「正確には、世界が漂白されてリセットされる。そうしたらもう一度、初めから。この世界はそれを何度も繰り返してきたようだ」

 

「……」

 

 アイリスがまた黙った。

 

「私たちの役割も、記憶も、街や学園の人たちも、世界そのものすら――全部、作り物だった、ということですか」

 

 震える声でクロエが問う。

 

「恐らくは、そうだね。確実に本物だと思われるのは私たちが初めて会った日――つまり、今のルクスの意識が始まった日から、ということになる」

 

 沈黙が満ちる。

 

(無理もない、か。初めから記憶がない俺と比べれば、この二人が受ける衝撃は大きいだろうし……)

 

「キミたちにとって信じがたいのはわかる。ただ――」

 

「信じる」

 

 アイリスが短く言った。

 

「は?」

 

「ソフィアが言うなら信じるわよ。あんたこんな嘘つくタイプじゃないでしょ。……思うところは、あるけど。でもあたしはあたし。今更変わらないし変えられないわ」

 

「はい。それよりもこれからどうするか、ですね。シスターマリアまで味方じゃないかもしれないなんて……」

 

 ソフィアが少し目を丸くした。

 

(――強いな、キミたちは。『前』の私とは大違いだ……)

 

「なにか言った?」

 

「何でもない。話が早くて助かるよ」

 

「……で、どうするの。魔王を倒したら終わる、倒さなくても世界が滅ぶ。八方塞がりじゃない?」

 

「今は、そうだ。ただ――現状を把握した上で考える方が、知らないよりはいい。それに、今の私達にはこれがある」

 

 そう言って再び聖剣に目をやる。

 

「世界を書き換える力。これがあれば、何か打てる手があるかもしれない。何が起きるかわからないから慎重に考えないといけないが」

 

「――そう。協力できることがあれば言いなさい。それまではあたしのできることをするわ。剣を振るぐらいしか、ないけどね」

 

「私も、何かできることがないか考えてみます」

 

「俺も、もっとこの剣の力を引き出せるようにならないとな。ソフィアの要求に応えられるように」

 

 力強く宣言する三人。

 

「――話は以上だ。後は各自で考えてくれ。ただし、マリア女史には注意しておくように」

 

「あの先生が怪しいってことも、わかったわ」

 

「対処は今のところない。ただ警戒はしておいてくれ。特にクロエ。もう唆されないでくれよ?」

 

「ええ。もう私自身を蔑ろにしたりしません。よく考えて、私の大切なものを守ります」

 

 その目には確固たる自我が浮かんでいた。これまではなかった『自分』を少女が手に入れた証だった。

 

 

 

 じゃあこれから研究するから、と図書室から放り出された三人。

 

 アイリスは鍛錬に、ルクスとクロエは再び救護室に向かった。

 

「もう大丈夫だって。別に自分の部屋でも――」

 

「駄目ですっ。私は忘れてませんからね!初めて会った日、いきなり倒れたこと!油断大敵です!」

 

 強引にベッドに寝かしつけられ、休養を命じられるルクス。今までにない圧をクロエから感じていた。

 

「ルクスさんが言ったんですよ?自分を大切にしろ、って。私は私を大切にします。でも、ルクスさんだって自分を大切にしてくれないと!」

 

「――それを言われると、つらいな」

 

 真っ向から説き伏せられる。大人しくベッドに体を預けた。

 

「はい。では今日はしっかり体を休めてくださいね?私もここにいますから」

 

 傍に椅子を置き、横から覗き込むように様子を確認するクロエ。二人の視線がぶつかる。

 

 ――ドクン

 

「――っ?」

 

「……?どうした?まさか、やっぱりどこか悪いんじゃ!?」

 

「い、いえ!大丈夫です!大丈夫ですから!」

 

 突然胸を抑えたクロエだったが、大丈夫の一点張り。クロエが顔を背けたため、横になっているルクスからはその表情が窺えない。

 

 顔を見せないまま立ち上がり、ベッドから離れていく。

 

「とにかく、しっかり休んでくださいね!」

 

「あ、あぁ。今日のところは大人しくしておくよ。また明日から頑張ることにする」

 

「それでいいんです。なにかあったらなんでも言ってくださいね!」

 

 そう言ってベッドから離れ、カーテンで仕切られる。

 

 静寂に包まれた空間。頭に浮かぶのは今日目覚めてからのクロエの様子。

 

(――よかった。クロエはちゃんと『自分』を見つけられたんだな……)

 

 深い安堵と共にルクスの意識は落ちていくのだった。

 

 

 

 そんなルクスとカーテン一枚挟んだ逆側、救護室の机の前でクロエは改めて自分の胸に手を当てる。

 

(あの時から、ルクスさんの顔を見ると不自然に鼓動が……これは、一体……?)

 

 体に不調はない。いつも通りの体調。しかし、鼓動が高鳴り、頬が熱い。

 

(風邪のようなものではない。動悸……特に運動をしたわけでもないですし――)

 

 聖女として一定の医療知識は身に着けている。それと照らし合わせて自身の状態を確認していく。

 

(――わかりませんね。ルクスさんと、この症状に、何か関係があるのでしょうか……まさか)

 

 そうして一つ、心当たりを見つける。

 

(いや、まさか。でも……)

 

 考えれば考えるほどその可能性が高まっていく。

 

 少しだけカーテンを開き、中の様子を窺う。既にルクスは眠りについていた。

 

「――っ」

 

 ――ドクン。

 

 カーテンを閉じ、できるだけ離れる。

 

「本当に?いえ、ここは知恵をお借りしましょう――!」

 

 最後にもう一度だけルクスの様子を窺う。再び高鳴る鼓動を無視してしっかりと眠っていることを確認し、少女は救護室を後にするのだった。

 

 

 

 訓練場でアイリスに声をかけ、再び図書室に戻る。

 

「――私、研究するから。そう言ったつもりだったんだが」

 

「言ってたわよ。だからちゃんと出ていったんだけど……」

 

「ごめんなさい。ただ、お二人の知恵をお借りしたくて……」

 

「知恵、ねぇ……あたし、必要?」

 

 研究中だったソフィアも巻き込み、開催された相談会。やや言葉に棘があるのも当然であった。

 

「まぁ、いい。速やかに片付けようか、一体何があった?」

 

 ソフィアが促す。その手にはいつもの手帳。話を聞く気はあるが研究を止める気はないらしい。

 

 クロエは少し黙った。それから、意を決したように顔を上げた。

 

「……ルクスさんの前に出ると、鼓動がうるさくて。顔も熱くなって何を話せばいいかわからなくなるんです」

 

 沈黙が落ちた。

 

 アイリスがゆっくりとソフィアを見た。ソフィアが手帳から顔を上げてアイリスを見た。二人の視線が交わった。

 

「それは……」

 

「――キミはその理由に心当たりはないのかい?」

 

 その問いを前に、クロエは顔を俯かせる。

 

「もしかしたら、というものはあります。でも、これが正しいのか、これでいいのか……私にはわからなくて」

 

「ふむ……」

 

 再び顔を見合わせる二人。

 

「ま、その反応なら間違ってはないんじゃないの?つまり――恋、よ」

 

「そう、恋だな」

 

 暫しの沈黙。

 

 恋。その言葉を改めて咀嚼する。

 

「……やっぱり、そうなんでしょうか?」

 

「それしかないでしょう?あんただってわかってたでしょうに」

 

「でも、私は聖女で――」

 

「聖女は恋しちゃいけないの?」

 

「そういうわけでは……ない、と思いますが」

 

「じゃあ恋ね。決まり」

 

「決まりって、そんな簡単に――!」

 

 ばっさりと切り捨てるアイリス。言葉を紡ぐたびにクロエの顔が赤みを増していく。

 

「だって鼓動がうるさいんでしょ。顔も真っ赤じゃない」

 

「そうですけど!でもそれは――」

 

「ルクスの話をしているから、だろう?」

 

 興奮するクロエを押しとどめる冷静な一言。思わず言葉に詰まった。

 

「……ソフィアさん」

 

「これは事実を述べているだけであり、今の私とは関係のない話だが」

 

 ソフィアが手帳を閉じた。前置きと共に語り始める。

 

「参考までに。記録によれば以前の『私』も同じ状態になっていたらしい。鼓動がうるさくなり、思考の効率が落ち、非合理な行動を取った」

 

「……ソフィアさんも、ですか」

 

「重ねて言うが記録上の話だ。今の私には感触がないが――その記録の中の私は、それを『本物の感情』と呼んでいた」

 

「本物の感情……」

 

「この世界が、私たちが。作り物であったとしても、この胸に湧き上がる感情は本物であり、これこそが『私』を『私』として定義する。そう考えていたようだ」

 

 考え込むクロエ。それを見つめるソフィアの顔には微笑みが浮かんでいた。

 

「クロエ、あんたこの前まで自分を捨ててもいいと思ってたじゃない。世界を救うためなら、聖女として当然だ、って」

 

 アイリスが静かに言った。

 

「でも今、鼓動が高鳴る。それって――自分で思ってるより、すごいことじゃないの?」

 

「……」

 

「あたしだって、役割のことしか考えてこなかった。自分のために生きるとか、正直今でもよくわからない。挙句の果てには世界が作り物?たまったもんじゃないわ。でも――」

 

 アイリスが微笑む――ほんの少しの悔しさを滲ませて。

 

「あんたがちゃんと泣けたの、見てたわよ。あたしには、まだできないことだと思った。あれが本物の感情、なんでしょうね」

 

 クロエが目を見開いた。

 

「アイリスさん……」

 

「別に、そうなりたいって言ってるわけじゃないわよ?それ以外にも自分を定義する方法なんていくらでもあるでしょうし。ただ――その胸の鼓動、大事にした方がいいんじゃないか、って思っただけ」

 

 部屋に静寂が落ちた。

 

 クロエが膝を抱えて、俯いた。

 

「――好き、なんでしょうか。私、ルクスさんが」

 

「聞いてどうするの。自分で感じてるんでしょう」

 

「……はい」

 

「なら、それが答えじゃない」

 

 クロエがゆっくりと顔を上げた。目が少し潤んでいた。

 

「――好きで、いいんでしょうか。私は聖女でルクスさんは勇者で……」

 

「そういったお題目は必要ないのさ。役割なんて関係ない『クロエ』という少女が『ルクス』という少年を好ましく思うかどうか、それだけだよ。誰に言われるものでもない」

 

 視線を上げればアイリスとソフィアが優しく微笑んでいる。

 

「――好き、なのかもしれません」

 

「かもしれない、じゃないでしょう」

 

「言ってしまえ。それが、真実になる」

 

「――好き、です。私はルクスさんが好きです」

 

 言い切った途端、顔が一気に赤くなった。

 

「いやぁぁぁ、声に出して言ってしまいましたぁ……!」

 

「今更何を。わかっていたことだろう」

 

「で、でも、恥ずかしいですよ!?声に出すのと心の中で思うのは全然違いますから!!」

 

「そうなの?」

 

「そうなんです!!」

 

 やっぱり私にはまだわからないわね、とアイリスが笑った。からかうような、しかしどこか温かい笑い方で。

 

「――で、どうするの。告白でもする?」

 

「し、しません!というか――ルクスさんに伝えるなんて、絶対に無理です!!」

 

「なんでよ」

 

「恥ずかしいですし、それに、ルクスさんは……その、なんといいますか――」

 

「言いたまえよ。ここまで来たんだ。洗いざらい吐いていけ」

 

「……だって、ちゃんと届かないじゃないですか!さっきだって!失いたくない、大切だって言ってくれましたけど!あれ絶対女としてじゃなく仲間として、でしょう!?どうせアイリスさんやソフィアさんにだって同じこと言うんですよ――!」

 

「あー……」

 

 アイリスが遠い目をした。

 

「それは、そうね……あいつ、記憶がないからかその辺の情緒が子供だし。確かに、難儀ね」

 

「でしょう!?気づかない相手に告白するなんて恥ずかしくて――!」

 

「記録によれば、だが」

 

 ソフィアが口を挟んだ。

 

「前の『私』は、最後まで気づかなかった相手に気持ちを伝えたらしい。――世界が終わる直前に、だったが」

 

 部屋が静まった。興奮していたクロエも落ち着きを取り戻していく。

 

「……それは」

 

「伝わったかどうかは、わからない。記録の続きがないから。ただ――伝えなかったよりは良かったと、思っていたようだね」

 

 ソフィアが淡々と言った。感情の色がない声で。しかしその言葉の重さは、確かにそこにあった。

 

「別に今すぐ世界が終わるわけじゃない。魔王を倒すか、あるいは負けるか……それまでは猶予がある」

 

 クロエが小さく息を吸った。

 

「……私には、まだ時間がありますね」

 

「あるわよ――そう長くはないかもしれないけど」

 

「では――少しずつ、考えます。いつか、伝えられるように」

 

 それは決意。聖女として、ではなく。一人の少女としての初めての決意。

 

「ルクスが気付くのが先か、あんたが告白するのが先か……ソフィア、賭ける?」

 

「アイリスさん!?」

 

「賭けになってないだろう?結果が分かり切った事柄じゃ意味がない」

 

「ソフィアさん!?」

 

「冗談だ……半分は」

 

「半分!?」

 

 また笑い声が上がった。

 

 クロエは顔を赤くしたまま、しかし確かに笑っていた。その表情には陰りがない。希望に満ちた笑顔だった。

 

 

 

 改めて二人を追い出し、研究に戻るソフィア。その手には手帳。眼前の机は天板が見えないほどに書物で埋め尽くされている。

 

 積み重ねられた計算式が、夕の光を受けて静かに並んでいた。

 

(――魔王を倒すと、世界が消える。魔王に負けても、世界が終わる)

 

 それは認識した時から、解決できない命題としてずっと頭にあった。そこに差し込んだのは一筋の光明。

 

(しかし、サルヴァトルは――記述を書き換えた。世界を、運命を捻じ曲げた)

 

 消えていくはずのクロエが、戻った。あるはずのない因果が、塗り替えられた。

 

(ならば――)

 

 ソフィアは机に戻った。手帳を開いて、ペンを取った。

 

(魔王を倒すと、世界は消える。それがルール――世界の記述だ。しかし――『魔王を倒した後に世界が消えなかった』という記述を、強引に挿入することは――可能か?)

 

 ペンが走り始めた。

 

 それは荒唐無稽な発想だった。世界のシステムそのものに逆らう、無謀な着想だった。これまでのソフィアなら一考の価値もない、と切り捨てるような考え。

 

 しかし――サルヴァトルは既に、世界のシステムを一度破った。

 

(前提が変わった。可能性の話ができる)

 

 計算式が膨らんでいく。一つの式が次の問いを生んで、また式が伸びる。伸びて、伸びて……一度、止まる。

 

(『私』には悪いが……今日のクロエの笑顔はよかった。あれをなかったことにはしたくない)

 

 再び手が動き出す。夜が深くなっても、ソフィアのペンはもう止まらなかった。

 

――◇――

 

 天座の書架。

 

 ミュトスが栞を眺めていた。翡翠の色が、昨日よりも温かみを帯びていた。

 

『――ふぅん』

 

 微笑みが浮かんだ。

 

『救済の装置が恋する少女に。かなり物語が色づいてきたわね』

 

 栞を指先で弾く。

 

『でも――』

 

 視線が、書架の奥へ向いた。その先には蒼穹の輝きを宿した本。

 

『あの賢者、少し面白いことを考え始めたわね。……まぁ、できるはずがないけれど』

 

 微笑みが深くなった。手元の本を弄ぶ。頁を捲るも、本を閉じるも女神の指先一つ。

 

『まぁ、みせてもらいましょう。不確定要素が増えれば増えるだけ、私の知らない物語が生まれるのだから』

 

 栞を本の間に差し込んだ。

 

『さぁーー残りの頁は少ないわよ。翡翠の物語、どう締めてくれるかしら』

 

――頁が捲られる。

 

 

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