カッ!カカン!
爽やかな朝の空気を切り裂く、乾いた音。
学園の中庭、まだ朝露が残る芝生の上で、ルクスとアイリスは対峙していた。その手には木刀。朝陽は低く、二人の影を長く地面に引き伸ばしている。その静謐な時間の中で、アイリスの放つ熱量が鋭く、研ぎ澄まされていた。
「遅い! 足元が疎かになってるわよ、ルクス!」
アイリスの鋭い叱咤と共に、視界に燃えるような赤い髪が翻る。
放たれた横薙ぎの一撃。反射的に木刀を立てて受け止めたが、その衝撃は想像以上に重い。木の軋む音が鼓膜を叩き、痺れが手首から肘まで一気に駆け抜けた。
「……くっ、ああっ!」
たまらず大きく後退するルクスに、アイリスは追撃を緩めない。彼女の剣筋は、一分の無駄もない洗練されたものだ。何千、何万回と繰り返された基礎の積み重ねであり、ルクスにはそれが、まるで計算し尽くされた舞踏のようにすら見えた。
「どうしたの? 最初の実戦で見せたあの動きはいつになったら出てくるわけ? まさか、あれが奇跡の一回きりだったなんて言わせないわよ!」
「……そう、言われ、ても……あれは、勝手に、体が動いた、だけで……! 今の俺にとっては、これが、全力、だっ!」
ルクスは必死に木刀を振り回し、迫りくるアイリスの連撃を凌ぐ。
初戦闘で見せた異常なまでに冴えた動きは、あれ以来一度も現れていない。今の彼は、ただ泥臭く、少女が叩き込む基礎を必死に吸収するだけの少年に過ぎなかった。
アイリスが鋭く地を蹴り、ルクスの懐へ一気に踏み込む。
上段からの振り下ろし――と見せかけた、鋭い突き。
「こんのっ!」
ルクスは間一髪で身体を捻ってそれを躱し、反撃を打ち込む。
「っ、甘いっ!」
予想外の反撃に一瞬、目を見開くが、アイリスの動きは止まらない。彼女は突いた勢いのまま身体を独楽のように回転させ、ルクスの反撃を回避しつつ、腹に向かって突きを叩き込む。
「ぐっ……!?」
肺から空気が弾き出され、ルクスは芝生の上を転がった。草の匂いと湿った土の感覚が顔を覆う。
「……ここまでね。少し休みましょうか」
アイリスが木刀を引き、軽く息を整える。彼女の額には細かな汗の粒が浮かび、朝陽を浴びて宝石のように光っている。
倒れたままのルクスに、アイリスは呆れたような、訝しむような視線を向けた。
「あんた、本当に不思議ね。型は滅茶苦茶だし、基礎体力だってまだまだ。なのに、時折あたしでもひやっとする動きが出てくる。あの時はその動きが当たり前みたいにずっと繰り出せていたけど……」
「今はさっぱり――か。本当に何だったんだろうな」
あの時のルクスが描いた軌跡は今もアイリスの記憶に鮮明に焼き付いている。最短、最速で魔物を討伐する、機能美と表現されるような動き。今のルクスとは似ても似つかない、洗練された剣技だった。
(あの、「何か」が俺を導いたような――不思議な感覚。ああなる条件でもあるのか……?)
「ま、あんた自身でも原理がわかってないようなものを頼りにするのも違うわね。今はとにかく基礎を固めていきましょうか。幸い、飲み込みはかなり早いし」
「自分でも不思議なんだ……君から教わる内容は初めて聞くことのはずなのになんとなく聞き覚えがあるというか、思い出すような感覚になる」
「記憶をなくす前のあんたが知っていたことなのかもね。あの動きも含めて」
(記憶を失う前の俺――か。結局何の手掛かりも見つかっていない。何か知ってそうな先生も『いつかわかる』としか言ってくれないし……)
初めて会った時から訳知り顔で話していたマリアだったが彼女がこちらに情報を明かすことはなかった。淡々と授業や実習を行い、自分たちを育成するばかりである。
「今は地道にやっていくしかないわね。とりあえずあたしから一本とれるくらいにはなってもらわないと。――簡単に負けるつもりは、ないけれど」
そう言ってアイリスはルクスの隣にどさりと腰を下ろした。二人の間に、運動の後の心地よい沈黙が流れる。
(アイリスから一本か。今のままじゃまるでイメージがわかないな……)
脳裏に浮かぶのは目の前の少女の美しい剣舞と自身のつたない剣。こちらが打ち込めば流れる水のように受け流され、あちらの剣は滑らかにこちらの防御の隙間を突いてくる。自身が振るう剣があの域に至るまで、まだまだ道のりは遠い。傍らの『無銘の剣』――銘がわからないため、便宜上こう呼ぶことにした――を握りしめ、より一層の努力を決意する。一日でも早く隣に座る彼女に並び立てるように。
――また不意に視界が揺れる。目の前で汗をぬぐう少女に血化粧で染まった姿が重なる。
「……大丈夫?そこまで強く打ち込んではないと思うんだけど……?」
「っあぁ、何でもない」
誤魔化すほかない。自分でも意味の分からない『これ』を本人に話せるものか。
「君のことを思い返していたんだ。やっぱり綺麗だな、と」
誤魔化しもあったが、その言葉は紛れもない本心だった。ルクスの記憶に彼女の流麗な動きが刻まれたこと、それを思い返していたことは事実である。
その瞬間、アイリスはビクリと肩を震わせた。
彼女の頬が、見る間に真っ赤に染まっていく。普段の凛とした騎士の顔はどこへやら、彼女は慌てて顔を背け、不器用に髪をかき上げた。
「な、何をいきなり……! そういうことはもっと時と場合を選んで……っ!」
「え? いや、本当にそう思ったから……」
「だとしてもよ!突然そんなこと言われても心の準備が……」
アイリスは最後まで言い切らず、恥ずかしそうに口元を隠した。
「前にも言ったけど本当に綺麗だと思ったんだ。俺もいつか君みたいに剣が振れるように頑張ろうと思う」
「…………剣?」
ぽかん、とした、彼女にしては珍しい気の抜けた顔。数瞬空けて、
「えぇそうね、剣の話よね、わかってたわよ、あたしに追いつけるのがいつかは知らないけどビシバシ鍛えてあげるわ、えぇそうしましょう、なんなら今すぐ再開しましょうか、さぁ構えなさいルクス、もう一本行くわよっ!?」
「なんだなんだどうした急に!?もう少し休ませてくれよ!?」
突然早口でまくし立てるアイリスに面食らうルクス。あまりの迫力に気づいていないが、目の前の少女は顔どころか耳まで赤く染まっていた。
「あー、もう! 次はもっと厳しくいくから!覚悟しなさいよね!」
そういって座りなおすアイリス。その顔はまだ赤い。
「まったく……こんなことで取り乱すなんてあたしもまだまだ未熟ね。もっと騎士としてふさわしい存在にならなきゃ」
それは騎士という役割に対する誇りと憧れを滲ませた言葉。ルクスにとっては以前から感じていた僅かな引っ掛かりを刺激する言葉だった。
「なぁ、アイリス」
「なに?」
「アイリスにとって騎士ってなんなんだ?」
それは単純な疑問。役割というものを知ってから、ずっと考えていたことだ。
「何よ藪から棒に。あたしに与えられた役割。仲間を守り、世界を守り、敵を打ち倒す高潔で名誉ある役割よ」
それは当然の回答。与えられた役割に殉ずる、この世界の人間として当然の答え。しかし、ルクスにはどうしても気になることがある。
「アイリスは、どうしてそんなに一生懸命になれるんだ? 騎士として剣を振るうこと。仲間を守り、敵を打ち倒すこと。それ自体は素晴らしいと思うけど……君の言動を見ていると――時々、怖くなることがある」
「怖いってなにがよ?」
「――いつか、君が何かを守るために死んでしまいそうで」
アイリスは意外そうな顔をしてルクスを見た後、ふっと穏やかに微笑んだ。それは、彼女の戦場での鋭い表情からは想像もできないほど、純粋で、慈愛に満ちた笑みだった。
「――そうね。あたしはきっとそうするでしょう。だって、あたしは騎士なのよ。騎士っていうのは、誰かの盾になり、誰かのために剣を振るうために存在しているの。誰かを守って傷つくことは、あたしにとっては誇り。いざという時に、自分の身を犠牲にしてでも勝利を掴み取る――それが、あたしの『騎士という役割』の最後なんだと思ってる。それがあたしにとっての『正しい結末』だって」
どこまでも真っ直ぐな目。ルクスに向けられた赤い目は決意と覚悟を示していた。
赤。彼女を象徴するその色は、勇気の色であり、情熱の色であり、血の――死の色でもある。さっきの血化粧で染まる少女の幻影が頭から離れない。
アイリスは自分の生き方に、一片の疑いも持っていなかった。役割を果たすことに使命を感じている彼女の横顔は、とても凛々しい。だからこそ、ルクスは恐怖を感じるのだ。
「正しい結末、か……。怖くないのか?自分が犠牲になることが」
その問いに、アイリスは少しだけ困ったように、けれど優しく笑った。
「別に、あたしだって死にたいわけじゃないわよ?やりたいことだって沢山あるし、できるなら、ずっと戦って、守り続けていたいって思うわ。でもね、ルクス。あたしは騎士なの。あたしより先に誰かが倒れるなんて絶対に認めない。それが、あたしの歩む道なの」
彼女は照れくさそうに、しかしはっきりと言う。
騎士としての決意と、一人の少女としての願い。二つの心が彼女の中で同居していて、しかし後者が前者を上回ることはない。
ルクスは、彼女のその両方の側面と、騎士の覚悟を感じ取った。しかし、彼女のその選択に対して言及するだけの「自分」が彼にはない。
(……正しい結末、か)
いつかどこかで感じたものと同じ、内臓を冷たい指で撫でられるような酷く冷たい不快感。ルクスはそれが何なのか分からない。自分の役割すらもよくわかっていない人間だから、彼女のように誇り高く生きることができないのだ、と自分を納得させようとする。
「……あんた、また変な顔してる。あたしの教えが厳しすぎて、頭がどうにかなっちゃった?」
「酷い言い草だな。そう思うならもう少し優しくしてくれてもいいぞ?」
「バカ言ってんじゃないの。ほら、そろそろ再開するわよ」
アイリスがくすりと笑い、ルクスの背中を無造作に叩いて立ち上がる。その手の温もりと僅かな痛みが、彼女の命を感じさせてくれる。
「さっきの、あたしが死ぬのが怖いって話」
振り返って、微笑む。
「あんたが早く強くなって、あたしの背中を守ってくれれば済む話よ。……期待してるわよ、勇者様?」
その微笑みは柔らかで、彼女の少女らしい部分を感じさせるものだった。
「……ああ。努力するよ」
ルクスは立ち上がり、彼女の背中を追いかけた。今はまだ不明瞭な、しかし確かに芽生えた衝動を胸に抱えて。
二人の間に、穏やかな時間が流れていた。
空が茜色に染まり、影が長く伸びていく。その日の放課後、ルクスは一人で修練を行っていた。
「……ふっ!……ふっ!」
剣を振る。イメージするのは騎士の少女の美しい剣捌き。
手の中の『無銘の剣』は自在に振るえず、実像とイメージがズレていく。
(……俺は、誰なんだ)
覚えているのは名前のみ。それ以外のことは未だ思い出せず。
記憶の深淵に手を伸ばしても、そこには暗い霧が立ち込めているだけだ。
剣を握る手に力が入る。更に動きはズレていく。そのズレが、自分の役割を確信している騎士の少女と、未だ足元が不確かな自分の差を示しているようで、より情けなくなる。
(もう一度、最初からだ)
気持ちを落ち着け、無心で剣を振る。
『無銘の剣』は静かに、主の成長を見守っている。
――◇――
そして、ここにもう一つ、彼に向けられる視線があった。
『友情、努力、勝利。少年と少女の瑞々しい交流……。王道と言えば聞こえはいいけれど、山も谷もない日常なんて、読者はすぐに飽きてしまうわ。物語には『刺激』が必要なのよ』
天座の書架において、女神ミュトスは不満げに鼻を鳴らし、手元の栞を眺める。
それは以前よりも赤が濃くなり、鮮やかさを増していた。
『いい色になってきたわ。純粋であればあるほど、情熱的であればあるほど、物語は美しくなる。あまり退屈させないでね?この赤が真紅になるか深紅になるか……あなた達の物語の行末。私は、それを特等席で見守っているのだから――』
――頁が捲られる。