(俺は――どうすればいい?)
ルクスの手の中で、まだ何色でもない剣が冷たく収まっている。
ルクスには記憶がない。折に触れて疼く頭が、その空白をより印象付けてくる。だからこそ――
「さぁ」
「誰を」
「選びますか?」
目の前で三人の少女が差し出した手。そのどれを握ればいいのか、今のルクスには見当もつかなかった。
時は少し遡る。
担任であるマリアが退室し、教室に残された四人は図書室へと移動していた。
少女たちが「順番」についての話し合いをしている間、ルクスに少しでもこの世界の前提を知ってもらうためだ。
ソフィアが選定した数冊の本を前に、ルクスはそこに記された知識を頭の中で整理していた。
(魔王、魔物。これが世界を脅かしている存在。そして、それに対抗するのが勇者とその仲間たち、か。アイリスは俺と一緒に魔王を倒した、と言っていたが……)
先ほど聞いた三人の少女の言葉を思い返す。聖女、騎士、賢者。彼女たちは、自分自身を勇者だとは呼ばなかった。つまりは、自分がそうなのだろう、と結論付ける。
(だが、勇者が――記憶を失う前の俺がすでに魔王を倒したのなら、これ以上戦う必要はないはずだ。なら、俺は今、彼女たちから何を求められている?)
自らの内に何も持たない白紙の勇者では、その答えに辿り着くことはできなかった。
「まず初めに、確認しておきたいんだが」
ソフィアが手帳を開く。ルクスを図書室の片隅に座らせ、少女たちの密談が始まった。
「私たちが覚えている『前』はそれぞれ別物だ。そして、それぞれの記憶ではルクスと関係を深めていた――ということでいいかい? ちなみに私はルクスに告白し、また会えたら返事をもらう約束をしているが」
「なんで今ちょっとマウントとった?」
心なしか自慢げに顎を引くソフィアを、アイリスが鋭く睨む。
「そう、ですね。私も似たようなものです。私は思いを伝えましたし、再会の約束もしました――ちゃんと伝わったかは、わかりませんけど」
「まぁ、あのルクスだからな。私の方も、正しく理解されているかは五分五分といったところか」
クロエが少しだけ耳を赤くして俯きながら答えた。彼女の認識では、世界が漂白される直前、最後の瞬間に思いを伝えたはず。しかし、あの朴念仁の勇者に正しく伝わったかを確認する時間はなかった。
「あたしは……まぁ、仲良くはなったわよ。あいつは最後まであたしのことをただの戦友としか思ってなかったみたいだけど――」
アイリスはばつが悪そうに顔をそらす。しかし、すぐに不敵な、決意に満ちた表情に変わる。
「でも、こんな機会を得たんだもの。今度こそきっちりあいつを振り向かせるわ」
「そこの是非については改めて議論するべきだが――やはり、私たちが色濃く持った記憶はそれぞれ違うようだな」
「そうね。でも、それはあくまであたしの中心にある記憶がそれってだけ。世界全体の知識はちゃんとあるわ」
アイリスが頭の赤い髪を指先でいじりながら話す。
「『あたし』自身の記憶では魔王を倒して終わりだった。でも、この世界のこと――何度も繰り返してるってことも理解してる。ソフィアのおかげで今この記憶があるってこともね。だから、そこは感謝してるわ」
「そうですね。ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいさ。そもそもこれを達成したのは私よりも後の『私』だしね」
ソフィアは軽く苦笑して、肩をすくめた。
「まぁ、キミたちが本当に感謝するというなら、誠意の示し方があると思うけどね? 具体的にはルクスを私に譲るとか――」
「それとこれとは話が別よ」
「それだけはないです」
「……言ってみただけだ――本当に気にするな。これは『私』自身のためでもあったんだ。それで――」
改めてソフィアは、視線を二人に向けた。
「ここにいる全員が正しく理解しているという前提で話すが……今回の状況は間違いなくイレギュラーだ。『次』も同じようになる保証はない以上、今回で何らかの成果を出さなければ再び全てが漂白されるだろう」
「ただ魔王を倒すだけじゃこれまでと同じ。なにか違う方法があればいいけど……」
「そもそも何を目標にするべきなんでしょう? 世界の漂白を防ぐことでしょうか?」
「……まだ、わからない。ただ、漂白を防いだところで、この世界を観測している『誰か』からの干渉が完全に止まるとも考えづらい。ここはもう少し私に研究させてくれ」
そう言うと手帳を閉じる。世界が――物語がどうなるかは、今のところ、誰にもわからない。
「現状の最大の問題は、ルクス本人が何も覚えていない、ということだ。私達と違い、ルクスだけはこれまでと全く同じ――一切の記憶がない状態だった。このままだと、また『前』の焼き増しにしかならない恐れがある」
「やはりルクスさんにも思い出していただかないと……その方が、私達の思いも伝えやすいでしょうし」
「じゃあ、それぞれが話しかければいいんじゃない? あたしはあたしのことを話す。それであいつが思い出すならそれでよし。もし思い出さないなら――また一から、あたしの色に染めてあげるわ」
「――それ、いいですね。ルクスさんを私の色に染める……少しぞくぞくします」
なにやら空恐ろしい気配を醸し出し始める聖女。それを断ち切るようにソフィアが口を開いた。
「意気込みは結構だが……無闇に情報を与えすぎると本人が混乱する可能性もある。段階的に、一人ずつ話す機会を設けた方がいいだろう」
「順番を決めましょう、ということですね」
三人の視線が中央で交錯し、無音の火花が散った。
「あたしが最初よ」
アイリスが即座に挙手した。
「――なぜ?」
「ルクスの聖剣――『最初』に目覚めたのはあたしのアペリトールでしょう? なら、当然その順番をなぞるべきじゃないかしら」
「論理的とは言えないね。私の知識を先に伝えた方がそれ以降の話も理解しやすいと思うが」
「私との記憶を思い出すのが一番情報が多いんじゃないでしょうか? ルクスさんの記憶が私達みたいにこの世界の情報を引き継いでいるかわかりませんし」
「どんな時だってあいつに剣を教えたのはあたしでしょ。魔王と戦うのか、もっと別のものと戦うのかは分からないけど、ルクスが早く戦えるようになっておいた方が良いに決まってるじゃない」
「それを言うなら、研究を進めるためにも早くルクスにはクエリトルを目覚めさせてほしいね」
「でも、結局最後には私との記憶が――サルヴァトルの力が必要になります。少しでも早く思い出していただいて、体に慣らしておかないと!」
「「「うむむむむ……!」」」
議論は完全に平行線。このままでは話が進まないところだったが、この膠着した状況に一石が――あるいは無垢な子羊が投じられる。
「あ、ソフィア。もらった本は読み終わったんだけど……次、は――なんだこの空気」
のこのこと近寄ってきたのは、まさに話題の渦中にあったルクスその人だった。
ギラついた三対の視線に同時に射抜かれ、ルクスは思わず半歩後退する。
「――そうですね、ここは本人に決めてもらいませんか?」
「それが一番後腐れない、かしらね」
「いいだろう。結果は見えていると思うがね」
言葉を交わし、三人の少女が同時に立ち上がって距離を詰める。あまりの迫力に更に後退し――とん、と背中に壁が当たった。
「なんだ、なんなんだ!? なんでそんなに近づいてくるんだ!?」
「細かい説明は省こう。キミが最低限の知識を身に着けたところで、より詳しい話をしようと思うんだが――」
「私達三人から順番にお話させてもらいます」
「あんたが決めなさい。誰から話をするか」
それぞれに手を差し出してくる。
「さぁ」
「誰を」
「選びますか?」
「い、いや、いきなりそんなこと聞かれても――」
そう言って逃れようとするが、少女たちの鋭い目がそれを許さない。
(わからない。誰を選ぶべきなんだ?)
思い悩み、最後にルクスの直感が選んだ答えは――
「さて、始めましょうか?」
「……話をするんじゃなかったのか?」
図書室での一悶着の後。ルクスはアイリスに連れられて、夕暮れ時の訓練場にいた。
アイリスを選んだ理由は、ルクスにもわからない。だが、あの時一番『熱い』と感じたのがアイリスだった。
「話はするわよ? でも、その前に、やるべきことがあるわ」
そう言って、アイリスは手慣れた動作で木剣を投げ渡してくる。
「あんた、何も覚えてないんでしょう? だったら体に思い出させてあげる。構えなさい!」
「は? ちょ、いきなり――!」
即座に鋭い構えを取るアイリス。見様見真似でルクスも木剣を両手で握り、構えを取った。
(あれ、なんだこの感覚。どう体を動かすのか、不思議とわかる。これは――記憶を失う前の俺の感覚か?)
「――なによ、ちゃんと様になってるじゃない。これなら案外やれるかも……ねっ!」
「っ!」
アイリスが一気に距離を詰めてきた。上段からの一閃。
(見える! なら――!)
かん、と乾いた音を立てて木剣同士が激しくぶつかり合う。
「どんどん行くわよ!」
「あぁ! 来い!」
訓練場に、小気味よい木剣の打撃音が連続して響き渡る。
(……なんとなく、これが初めてじゃない気がするな。心地いい)
少女との激しい鍛錬は、ルクスの胸の奥にどこか深い懐かしさを覚えさせた。
(――体は覚えている。あたしが教えた型、動き、体の捌き方……なによ。ちゃんと残ってるじゃない)
アイリスもまた、ルクスの動きに確かな既視感を覚えていた。かつて自身が文字通り叩き込んだ剣の使い方。それを、一切の記憶がないまま正確に振るうルクスを見て、胸の奥が熱くなる。
二人の逢瀬のような剣戟がしばらく続き、そして。
「……休憩にしましょうか」
二人は並んで、訓練場の芝生に腰を下ろした。気づけば日は大きく傾き、燃えるようなオレンジの光が周囲を満たしている。
「なぁ、アイリス」
「なに?」
「俺と君は、どんな関係だったんだ?」
それは、目覚めてからずっと聞きたかった疑問だった。アイリスは遠い空を眺め、言葉を噛み締めるように口を開く。
「……戦友、かな。最初はあたしがあんたに剣を教えた。一緒に戦った。そして――あたしを守ってくれた。それで――」
宝物を自慢するような、それでいて、失った何かを惜しむような。相反する感情が込められた言葉だった。
「それで?」
「……あんたが言ったのよ。あたしと生きたい、って」
それは、驚くほど静かな声だった。
「俺が?」
「えぇ。スタンピードが起こって、街に魔物が溢れたことがあったの。その親玉との戦いで、あたしが死を覚悟した時にね。あんたはあたしの前に飛び出して……それで、そう言ったのよ」
ルクスは黙って聞いた。覚えてはいない。しかしその言葉を聞いた時、胸の奥の、一番深い場所がかすかに反応した気がした。腰に提げた白い剣が、がたがたと小さく震え始める。
心地よい沈黙。風が吹き抜け、アイリスの赤い髪が揺れた。
「――ルクス」
「なんだ?」
アイリスが両膝を抱え込んだ。夕日に照らされたその横顔が、ひどく赤い。
「あたしも……言ったの。あんたと生きたい、って。あの時ね」
「……ああ」
「でも、それだけじゃ――足りなかった気がしてた。ずっと。でも、その先を言えないまま――こんな風になっちゃった」
その先の言葉を必死に探すように、アイリスが少しだけ間を置いた。そして、まっすぐにルクスを見た。
「あたしは、あんたのことが好きよ」
燃えるような夕焼けの中に、その言葉は静かに落ちた。
「俺、は……」
「わかってる。今のあんたに言っても困らせるだけだって。それでも。記憶がないとしても、それを聞いてくれる今のあんたに、どうしても伝えたかったの――『あの時のあたし』は、最後まで言えなかったから」
夕焼けの色に負けないほどに赤く染まったアイリスの顔。不意に、ルクスの視界の中で、その顔に別の残像が重なる。
血で汚れ、しかし真っ直ぐにこちらを見る、激しい炎に照らされた少女の顔。
胸の奥で、せき止められていた何かが激しく動いていた。
「――っ」
――視界が、大きく揺れた。
(なんだ、これは――)
脳内に、色が溢れてくる。赤い。鮮やかな、燃えるような真紅。それは情熱の色で、勇気の色で――何があっても共に戦うと決めた、目の前の少女の色だった。
『俺は、君と生きたい。この世界で、君とともに歩んでいきたい。今は、それが俺の戦う理由だ!』
自分の声が、脳裏に木霊した。熱い言葉。思わず胸が焦げるほどの、確かな熱。
『君が死んで俺だけ生き残るのは、俺にとっての負けだ。騎士がどうとか、勇者がどうとか、そんなことどうだっていい――俺は、アイリスに生きていてほしい』
知らないはずの言葉。しかし確かに、自分の魂が叫んだ言葉だった。
(これは、俺の、記憶――!?)
アイリスの顔が見えた。血と泥に塗れて、それでもなお立ち上がろうとしていたアイリスの目が。剣を握り直して、ルクスを見つめた時の強い目が。そして――涙を流しながら、己の弱さを吐き出した時の、愛おしい目が。
「――っ!」
ルクスは激しく胸を押さえた。目の前には、今にも泣き出しそうな心配の表情を浮かべるアイリス。
「どうしたの? やっぱり……今のあんたには、迷惑だったかしら」
「いや……違う。違うんだ、アイリス」
ルクスはゆっくりと、深く息を吐き出した。そして、自分の手をじっと見つめる。
「思い出したよ。少しだけ、だけど確実に」
「……え」
「君のことを、命懸けで守ろうとした記憶。肩を並べて過酷な戦場を駆け抜けた記憶。君が俺に弱さを見せてくれた記憶。……胸が熱くなるような、俺たちの、大切な記憶を」
その瞬間だった。
腰に提げた白い剣が、強烈な熱を持ち始めた。
じわりと、根元から。まるで長い眠りから目を覚ますように。
白かった刀身が、鮮やかに染まり始める。
薄紅から、緋色へ。緋色から、圧倒的な輝きを放つ真紅へ。
「その剣……!」
「――『アペリトール』」
自然と、その銘がルクスの口から滑り出た。
聖剣から、失われていた力が五感に流れ込んでくる。同時に、真紅の記憶がなだれ込んでくる。断片的に、しかし濁流のように。熱が、言葉が、アイリスの流した涙が――やがて、ひとつの形を結ぶ。
街で目覚め、彼女と絆を育み、そして魔王を倒した、真紅の物語のすべてを。
ルクスは静かに目を閉じ、その熱い記憶をすべて魂に受け止めた。
再び目を開けると、アイリスがこちらをじっと見つめていた。固唾を飲んで、祈るように息を止めて。
「……アイリス」
「……なに?」
「俺と生きたい、と言ってくれたな」
アイリスの大きな瞳が、激しく揺れた。
「……言ったわよ、何度も。」
「俺も、そう思ったんだ。あの時も、そして――今も」
しばらくの間、二人は何も言わずに見つめ合った。
真紅に輝く聖剣が、ゆっくりとその眩い熱を収めていく。しかしその鮮やかな色は消えず、ルクスの手の中で確かに真紅の輝きを保ち続けている。
「――まったく」
アイリスが勢いよく顔を背けた。その白い耳の裏までが、真っ赤に染まっている。
「――遅いのよ、バカ。あたし、ずっと待ってたんだから」
「……悪い」
「……いいわ、許してあげる。その代わり、今度はもう絶対に離さないんだからね!」
「あぁ。これからはずっと一緒だ」
アイリスが、夕暮れの光の中で最高の笑顔を見せた。
訓練場の芝生に長く伸びる二つの影が、ゆっくりと重なり合う。
世界を越えた二人の思いが、いま、確かな形となって結実した。