翌朝。
訓練前に教室に集合した四人。その雰囲気はきっぱりと分かれていた――陽が一人と陰が二人、そして困惑する一人。
「いやー、やっぱり愛の力ね!まさか一回でルクスの記憶が戻るなんて!」
「――言っているがいいさ、次は私だ……すぐに塗り替わる」
「羨ましい……でも、最後に勝つのは私ですから!」
(これは……まさかソフィアとクロエも?でもそんな素振りはなかったはずだが――)
取り戻した記憶を探るが二人の様子に違和感はなかった――あったとして、ルクスがそれに気づくかは怪しかったが。
「ええい、キミはさっさと訓練場で剣でも振ってきたまえ!今日は私の番だ!ルクス、行くぞ!」
「あ、ちょっ、待てって!そんな引っ張らなくてもちゃんとついていくから!」
勝ち誇るアイリスに苦々しげに吐き捨て、ルクスを引っ張っていくソフィア。記憶の中の冷静なソフィアと一致しない、珍しい姿に感じられた。
辿り着いたのは図書室。昨日も来た場所だが、記憶を取り戻したルクスにとってはより懐かしい気分になる場所だった。
「やっぱり、ここだよな」
「その様子だと、キミの記憶でも私とキミはここで語らったようだね」
あっさりと言い放つソフィアだったがルクスからすれば聞き逃せない言葉だった。
「――どういう意味だ。俺はここで君に魔法について教わった。他にもいろいろなことを聞いたが……違うのか?」
「違わないさ、君にとってはね。だが私からすればそれだけじゃないのさ」
昨日のアイリスと同じ、郷愁と哀愁をにじませた表情。
「何度も、キミはここで私と過ごしたんだ。私がキミに授業をした。キミが私を救ってくれた。それに――いや、今はいい」
詳しく聞きたかったが、ルクスが言葉を発する前にソフィアが先を続けた。
「早速だが、聞きたいことがある」
「なんだ?」
「この世界について、キミがどこまで理解しているか確認させてほしい」
ソフィアが手帳を開く。几帳面な文字で、びっしりと何かが書き込まれていた。
「キミは昨日、アイリスと深く関わった『回』の記憶を取り戻した。しかし、わたしはそれを知らない。キミの認識している範囲を把握しておきたいんだ」
(――回?何の話だ?)
「何か聞きたげな表情だが今は置いておいてくれ。後でまとめて説明する」
「わかった。でも、昨日読んだ本と変わらないぞ?魔物がいて、魔王がいて、俺たちがそれと戦った。それだけだ」
「ふむ……」
ルクスの返答に、しばし考えこむソフィア。
「大体わかった。まず、キミの勘違いを一つ、正しておこうか――魔王は、倒されてなどいないよ」
「――は?」
その一言はルクスの思考を停止させるのに十分な衝撃を秘めていた。
「いや、何を言ってるんだ?俺達四人で魔王を倒しただろう?」
「あぁ、そうだ。その認識は間違っていない。ただし、それは『今回』の話じゃない」
混乱が深まる。
「今回、か。さっきも回がどうのとか言ってたな」
「そう、勇者とその仲間が力を合わせて魔王を倒す。これがこの世界の表面上の話だ」
「つまり、裏がある、ってことか」
「相変わらず話が早いな。そこは共通のようだね……少し、長い話になる。覚悟はいいかい?」
「――あぁ、頼む」
それからソフィアは話し始めた。
静かな、しかし熱のある声で。
この世界が物語であること。それを観測する存在がいること。魔王を倒すことで世界が完結し、漂白が起こること。それを何度も繰り返していること――そして『今回』の状況が、これまでとは根本的に異なるイレギュラーであること。
「――つまり、俺たちがここで生きていることそのものが、誰かの手の上にある。始まったばかりのこの物語では当然魔王も倒されていないし、魔王を倒せばまた『次』に進んでしまう、ということか」
「そうなる。気分はいいものじゃないが、事実だ。だが、『今回』は違う。私たちはその事実を既に知っているからね」
「君は、それをいつ知ったんだ?」
「私が直接確かめたのはおそらく『前々回』。解析魔法越しに見た世界は虚飾に塗れていて――真実を受け止めるのに苦労した」
「それは、辛かっただろうな」
直接の記憶はないが、ソフィアがどれだけ世界の真理にこだわっていたかはルクスも覚えている。想像しただけでも辛い記憶だとわかった。
「……まぁ、そうだな」
ソフィアは視線を手帳に落とした。わずかな沈黙。しかし、その表情に陰はなかった。
「正直、辛かった。だが、『キミ』に救われたんだ。話してよかったと、今でも思っている」
「……そうか」
「あぁ。だからこそ、私はキミに期待しているんだ。『前回』、たった一度の物語で私達三人の『引き継ぎ』を成功させた『キミ』にね」
顔を上げ、ソフィアがルクスを見た。その目に、何か複雑なものが宿っている。
「ルクス、少し剣を貸してもらえるかい?解析魔法で調べたいことがある」
「構わないが」
腰の剣を抜き、テーブルの上に置く。真紅の刀身が光を弾いた。
「――昨日から、この色になっているのか」
「あぁ。アペリトール、と言うらしい。知ってるか?」
「『私』の記憶にもある。直接見るのは初めてだが……」
ソフィアが剣の柄に触れ、解析魔法を通す。青白い光が、刀身を這うように広がった。
「……やはりそうか。この剣の深層には、複数の繰り返しの記憶が刻み込まれている。それが今、少しずつキミに戻ってきている」
「記憶が、剣に?」
「詳しい仕組みは省くが、そういうことだ。『前』にも確認したことだからね」
解析魔法を解き、手帳に何事か書き込む。その横顔は真剣だった。
「それと――」
ソフィアが手帳から目を上げた。
「この剣には少なくとも二つの色が眠っている。蒼穹と、翡翠だ」
「君と、クロエとの記憶に関するものか」
アペリトールはアイリスとの情熱の記憶。であればその二つはそのままソフィアとクロエとの記憶なのだろう。
「そうなる。私達と違い、その聖剣が目覚めた『回』の知識しか引き継がれていないキミには、その二つも目覚めさせてもらわないとね」
「……そのために、俺と話しているのか?」
「否定はしない。でもそれだけじゃない」
ソフィアは手帳を閉じた。
「私は、キミと話したかった。私の中にある思い出を確かめたかった。――叶うなら、それをキミと語り合いたかった。それだけでも、十分な理由になると思っているよ」
淡々と語られた言葉。しかし、その重さはきちんとルクスに届いた。
「一つ、頼んでいいかい?」
ソフィアが言ったのは、それからしばらく後のことだった。
「なんだ?」
「再現、してほしいことがある」
「再現?」
「あぁ……私がひどく落ち込んでいた時に、キミがしてくれたことだ」
ソフィアは立ち上がり、ルクスの隣に来た。それからやや躊躇いがちに、
「……立ってくれ」
「あ、あぁ」
「もう少し近く」
「こうか?」
二人の距離はほとんどない。ソフィアの少し潤んだ瞳の動きすらよく見える距離。
「……そうだ。それで」
一呼吸おいて。
「抱きしめてくれ」
ルクスは一瞬、完全に固まった。
「……いいのか?」
「いいから言っている……それとも嫌なのかい?」
どこか不安げな表情。
「嫌じゃないが――」
「なら早く。こういうのは、勢いが大事なんだ」
「――わかった」
ルクスはそっと腕を回した。腰に収めた聖剣ががたり、と震える。
ソフィアの体が、かすかに強張った。それからゆっくりと、力が抜けた。
「……どうだ?」
「……あぁ、そうだ。この暖かさだ」
消え入りそうな、細い声だった。
「あの時の『キミ』は言ったんだ。一緒にいる、と。その言葉が――私にとって、どれほど救いになったか」
「……一緒にいる、か」
沈黙が落ちた。
外から、風の音が聞こえた。
(なんだ、これは)
頭の奥が、疼く。
腕の中で小さく安堵に震える少女の顔に、別の何かが重なる。
涙に濡れ、絶望に歪んだ少女の顔。
温かい記憶の欠片が浮かんでくる。
「――っ」
――視界が、大きく揺れた。
(これは、昨日と同じ――!)
脳内に、色が溢れてくる。青い。鮮やかな、澄み渡るような蒼穹。それは叡智の色で、真理の色で――何があっても隣に寄り添うと決めた、目の前の少女の色だった。
『答えを出す必要はない。ただ、一緒にいよう。俺に、もっと君の事を教えてくれ。君が君を見失っても、俺が見つけるから。……それじゃ駄目か?』
自分の声が、脳裏に木霊した。優しい言葉。包み込むような、柔らかい言葉。
『俺が強いかどうかはわからないけど……俺が立ち上がる理由は、いつだって君だった。君に憧れて。君の力になりたくて。君を……救いたくて。だから、もし俺が強いんだとしたら……それは、君のおかげだよ』
知らないはずの言葉。しかし確かに、自分の魂が叫んだ言葉だった。
『あぁ。だから見ていてくれ。君にもらった力で、君にもらった心で。君を救ってみせる』
(これは、俺の、記憶――!?)
ソフィアの顔が見えた。涙を流し、それでも世界の不条理に立ち向かったソフィアの強い目が。短杖を片手に、世界の記述を冷静に見通す目が。そして――己の胸に縋りつき、精一杯の思いを告げた時の、愛おしい目が。
「――っ!」
「……どうした?」
腕の中でソフィアが心配そうにこちらを見上げていた。
「少しだけ、思い出したんだ」
「何?」
「震える君を抱きしめた夜の記憶。世界を一緒に見ようと約束した時の記憶。世界の最後に、俺にすべてを託してくれた記憶。……世界の真理を求めた、俺たちの、大切な記憶を」
その瞬間だった。
腰に提げた剣が、熱を持った。
真紅ではない。静かな、深い青。まるで晴れ渡る空のような鮮やかな色が、刀身の根元からじわりと広がり始める。
「――」
ソフィアが身を引いた。剣を見た。その目が、大きく見開かれた。
「――『クエリトル』」
自然と、銘がルクスの口から零れ落ちた。
聖剣から、失われていた力がルクスの瞳へと流れ込んでくる。その両眸が蒼穹に染まり、世界の記述を鮮やかに映し出した。同時に、青の記憶がなだれ込んでくる。断片的に、しかし濁流のように。熱が、言葉が、ソフィアの決意のすべてが――やがて、確かな形を結ぶ。
真理を求め、彼女と絆を育み、ついにつかんだ、蒼穹の物語のすべてを。
ルクスは静かに目を閉じ、その記憶をすべて魂に受け止めた。
ゆっくりと息を吐いた。ソフィアの目が自分の顔と聖剣を往復している。
「――ソフィア」
「……なんだ?」
「待たせて、ごめん」
「……あぁ、『キミ』か。そう、なんだな」
短い謝罪。それだけで、二人には十分だった。ソフィアが、再びルクスの胸に収まる。
「君に全部を教わった。魔法も、世界のことも――この暖かい気持ちも。だから、君の言葉に答えるよ」
「――それ、は」
「あの時も、今も。俺の思いは変わらない。君と一緒にいる。隣で世界の真理を全部解き明かす――これで、どうだ?」
「――遅刻だよ。この不良生徒め」
そう答えたソフィアは言葉とは裏腹に愛おしそうな微笑を浮かべていた。
「だが、回答としては満点だ。だから、特別に許してやる」
蒼穹の輝きが、静かに熱を収めていく。
しかしその色は消えず、赤と並んで、ルクスの剣の中に残っている。
ひとしきりルクスを抱きしめ、満足したように離れたソフィアは、手帳を開き直した。
「では、研究の続きをしよう。まだまだ調べなければならないことばかりだ……もちろん、手伝ってくれるだろう?」
「あぁ、付き合うよ」
その日、図書室の灯は夜遅くまで消えることはなかった。世界を越えて巡り合った勇者と賢者の探求は、誰に憚られることもなく続いていく。
白紙だった刀身に、二つ目の鮮やかな色彩が加わった。