荒涼とした大地。灰色の空。世界の果て――テルミナ。その奥に、巨大な気配がある。
魔王の元に、漆黒の剣を携えた黒い影が到達していた。
「敵対者の名称、不明。理解不能、理解不能」
「お前が俺を知らなくとも、俺はお前を知っている」
影が踏み込んだ。
それは戦いとも呼べないものだった。魔王の行動の全てを先読みし、的確に攻撃を加えていく。
「理解、不能!機能、阻害。損傷、甚大……!」
勇者と戦うための終末機構、その機能に不可解な障害が発生していた。
「終わりだ――塗りつぶせ、ケイオス」
「機能、停止――世界、の、終幕ま、で、後……」
影はその言葉を最後まで聞かなかった。
耳障りだと言わんばかりに魔王の残骸を消し去る。
「さて、ここからが本番だ。世界よ、終われ。すべてを飲み込み、完結しろ」
遠くの空が白く染まり始める。しかし影は動じない。
漆黒の剣を、世界に向けて突き立てた。
――その少し前、学園の教室内。
「由々しき事態だ」
ルクスと自分たちの間の、致命的すぎる認識の差が浮き彫りになった後。少年を一旦教室から追い出した三人の少女は、机を囲んで頭を抱えていた。
「まさかあそこまで言って、ちゃんと伝わってないとは思わなかったわ……」
「いったい、どうしたらいいんでしょう」
「――それでも、伝えるしかないだろう。今度は、勘違いも誤解も生まれる余地のない、明確な言葉で」
そう言い切るソフィアの目には隠し切れない不安の色が浮かんでいる。
「もし、また駄目だったらと思うと、怖いです……」
クロエは完全に怯え切っていた。彼女自身、まっすぐに好意を伝えたはずだったのだ。それでも届かなかった。
「――ひとつ、提案があるんだけど」
そう切り出したアイリスの言葉に、驚きつつも覚悟を決めて頷く二人。この瞬間、少女たちの心は一つだった。
(まずはルクス(さん)の意識を何とかしないと……!)
翌朝。
「ルクス、来なさい!」
「は?え、ちょっ!?」
教室に入るなりアイリスに捕まり、連れ出される。あれよあれよという間に訓練場に連れ込まれ、木剣を握らされていた。
「あたしと勝負しなさい!」
「勝負?」
「そう。負けた方は勝った方の言うことを何でも一つ聞くこと。まぁ、常識の範囲内でね?」
「賭けまでやるのか……なんのつもりだ?」
「終わった頃にはわかるわよ。さっさと構えなさい!」
(すごい気迫――一体何なんだ)
もはや何を言っても止まらない。そう判断し、木剣を構えた。瞳を閉じ、集中していく。
(まずは勝つ、それが大前提。これを越えられないなら、あたしはそれまでだったってこと)
向かい合うアイリスの集中も高まっていく。両者の呼吸が、一瞬止まった。
「――行くわよ!」
「――来い!」
それが合図だった。弾かれたように飛び出す二人。その中央で木剣同士が乾いた音を炸裂させながら激突する。
(強い、速い!やっぱりアイリスは凄い――でも、そう簡単には負けられない!)
(『前回』初めてやった時とは本当に別人ね。これまでの戦いの記憶がちゃんと身になっている)
何度もぶつかり、躱し、受け流す。両者の剣は相手に当たることなく、しかし絶え間なく振られ続ける。
単純な力ではルクスが、剣術ではアイリスが勝る。幾度かの剣戟の後、ルクスの剣がアイリスの剣を大きく打ち上げた。
(――勝機っ!!)
戦いが始まってから初めて生まれたアイリスの明確な隙。そこに全力で踏み込み――悪寒が走った。
「――まだまだね」
首筋に衝撃。何が起きたかもわからないままに、ルクスの意識は闇に飲み込まれていった。
(――ん。ここは……?)
目を覚ましたルクスが最初に感じたのは、後頭部を包む柔らかい感触。次いで、優しく頭を撫でる手の感触だった。
「起きたのね――もう少し寝ててもよかったのに」
「アイリス?――そうか、俺、君と戦って……負けたのか」
「そ。あたしがわざと見せた隙に飛びついて、カウンター食らったのよ。お粗末様」
首筋が鈍く痛む。ぼんやりと記憶が浮かび上がってきた。
「あぁ、あそこか……そういう駆け引きみたいなのは考えたことなかったな……」
「ま、魔物相手なら基本考えなくていいことだしね。でも、逆にあんたから仕掛けることだってできるんだから、覚えて損はないわよ」
「そうだな。よし!それじゃ――」
「――待ちなさい」
起き上がろうとするルクスを、アイリスが押さえる。再び頭がアイリスの膝に押し付けられた。
「なんだ?」
「忘れてないでしょうね?負けたら勝った方の言うことを一つ聞く。そう言ったでしょ」
「――そういえばそんな話だったな……何をさせる気だ?」
ルクスを押さえた手は、そのままルクスの視界を塞いでいた。真っ赤になり、緊張を滲ませた少女の表情は、少年からは見えない。
「――今から話すことを最後までちゃんと聞くこと、嘘偽りなくそれに答えること。それだけよ」
「それだけ?そのくらいわざわざこんな勝負仕掛けなくても――」
「いいの。これはあたしなりの決意で――願掛けだから」
そう告げるアイリスの声は僅かに震えていた。
「……わかった。聞かせてくれ」
「えぇ……昨日の話、覚えてるかしら?」
「どの話のことだ?」
「あんたを教室に縛り付けた時の話。あんた言ったわね。あたしと生きるって。あれ、どういう意味?」
「どういう意味って……そのままだろ?」
アイリスと交わした約束。その内容は間違いなくルクスも覚えている。ずっと一緒だ、と夕焼けの中、この場所で約束した。
「えぇ、そうでしょうね。なら、その約束をした時のあたしの言葉――一緒に生きたい、好きだ、って。あんたはそれを、どういう意味で受け取った?」
「……仲間として、信頼していると。そういう意味だと」
「――そう」
アイリスは少しの間だけ沈黙した。
「それは、違う」
それは、驚くほど静かな声だった。
「あたしがあんたに言った好きは、そういう意味じゃない。仲間として大切だとか、信頼しているとか、ソフィアやクロエに向けるものとは違うの」
「アイ、リス……?」
震えが隠し切れないほど、その声は揺れていた。
「あんたのことが好きなの。特別な『好き』なの。他の誰でもない、あんただけに向けた言葉なの。それがわからなかったんなら――」
アイリスの手が離れる。突然の光に視界が眩み――再び影が差した。
「――んっ」
「んんっ!?」
口元に、暖かく柔らかい感触。それが離れ、視界に飛び込んできたのは、信じられないほどに顔を赤くしたアイリスだった。
「何度でも言ってあげる。ルクス、あたしは、あんたが好き。騎士としても、仲間としても――一人の女としても。あんたを愛しているし、だからこそ、この先もずっと一緒に生きていたいと思ってる」
その言葉は、飾り気がなかった。アイリスらしく、真っ直ぐで、剥き出しの情熱が込められていた。
「俺、は……」
「……答えは、今すぐじゃなくていい」
アイリスが視線を逸らした。
「ちゃんと考えなさい、あたしの言葉を。その上で出した答えなら、あたしは受け入れる」
「……あぁ」
「それだけよ」
それから、アイリスは口を閉じた。何も言わず、ただルクスの頭を撫で続ける。その膝の上で、ルクスの思考は未踏の領域に突入していた。
アイリスの膝から解放されたのはそれから少ししてからだった。
(俺の思う『好き』とアイリスの『好き』は違う……)
思うように頭が働かない。
(女として、好き。なら、俺は――?)
ルクスの中には『三回』分の鮮烈な記憶がある。しかし、その全てにおいて、こういったことを考えた経験はなかった。
「なにか、考える手掛かりは――」
ふらつきながら歩いていく。気づけば、目の前には見慣れた図書室の扉。
(……相談、してみるか。――して、いいのか?)
ルクスはしばらく、その場に立っていた。既に、頭の殆どが機能を停止していた。
突然、目の前の扉が開く。
「――そんなところで何をしている。さっさと入りたまえ」
ソフィアが、図書室の中へとルクスを招き入れた。
図書室に入ると、いつもあるはずの本も、手帳も一切開かれていなかった。
「座れ」
「……あぁ」
促され、腰を下ろす。いつもの机ではなく、ソフィアが仮眠場所にしているソファだった。すぐ隣に、ソフィアが座る。
「……今日は、研究はいいのか?」
「あぁ、一通り完成したからね。これで、『今回』以上に漂白に対抗できるはずだ」
「そうか……」
いつも通りの冷静な声。それが、どこかルクスに安らぎを与えていた。
「……そんな話をしに来たのか?」
「いや――相談したいことが、あるんだが……していいものか、悩んでいる」
苦悩するルクスを見て、ソフィアの表情がわずかに緩んだ。
「――そうか。悩んでいるのか、キミは」
「あぁ、これまで考えたこともなかったことで悩んでいる」
「それはよかった。なら、これから私が話す内容も、一緒に悩んでくれたまえ」
「……は?」
既に限界を迎えつつある脳に、更なる情報が叩き込まれる。
「どういう、意味だ……?」
「キミが想像している通りだよ。手早く済ませよう」
そこで、ようやく気付いた。ソフィアの顔が普段と比べ物にならないほどに、赤い。
「まずは昨日のキミの発言について、整理しておきたい」
「……わかった」
「私はキミに『愛している』と告げた。『前回』のことだ。そして、この間キミはそれにこう答えた。『一緒にいる』と。だが、ここに私とキミの間で認識の齟齬があったらしい。」
「――あぁ」
この時点で、ルクスには話の先が見えていた――見えてしまっていた。だが、止めることはできない。これは、自分が目を向けてこなかった結果なのだから。
「私がキミに向ける感情は、研究仲間への親愛でも、優秀な勇者への敬意でもない。キミ個人に対する、特別な感情だ」
「……」
「隣で世界の真理を解き明かしたい、と言ったのは本心だ。だが、それだけじゃない。キミの隣にいたい。キミに、私のそばにいてほしい。それは、論理では説明のつかない不可解な感情だ。全てが作り物だったこの世界で、私が見つけた『本物』なんだ」
ソフィアが、一瞬だけ視線を落とした。
「……私はこういうことを言うのが得意じゃない。だから、うまく伝わっているかわからない。でも」
ソフィアの手がすっと伸びる。脳が情報過多で反応が遅れたルクスは、なすすべなくその細腕で引き寄せられた。
「ん……」
「――っ!?」
先ほどと似た、しかしほんの少し冷たい、柔らかな感触。それが離れ、顔を真っ赤に染めたソフィアが告げた。
「キミのことが好きだ。それだけは、はっきり言える」
「ソフィア」
「答えは要らない。今はね」
ソフィアが立ち上がった。
「ただ、知っておいてほしい。私の気持ちを。今は、それだけでいい」
そう言ってソフィアは踵を返し、奥の本棚へと去っていく。話は終わり、ということらしい。
(俺は、どうすればいいんだ……?)
また新たな情報を詰め込まれたルクスは、しばらく立ち上がることができなかった。
半分、断頭台に向かうような気分だった。
昨日の様子と、ここまでの二人の行動を鑑みれば、これから向かう先でも似たような事態になることは分かっていた。それでも、歩みを止めることだけはできなかった。
(まずは、受け入れよう。俺が彼女たちに何を返せるかはわからない。でも、まずはちゃんと受け止めるところからだ)
決意と共に扉を開く。
その建物――礼拝堂の中に、クロエがいた。
「座ってください」
こちらを見ることもなく、そう告げる。まるで、ルクスが来るのをわかっていたかのように。
勧められるままに隣に座る。クロエが、ゆっくりと口火を切った。
「ルクスさん」
「……なんだ?」
「私が昨日、どんな顔をしていたか、覚えていますか」
「……覚えている」
「どんな顔でしたか」
「……喜んでいた。でも、その後、茫然としていた」
「そうですね」
クロエが、膝の上で手を重ねた。
「私はあの瞬間、ルクスさんが『好きだ』と言ってくれたことが、嬉しかったんです。でも、それが『みんなへの好き』だとわかった時に……なぜか、泣きたくなってしまいました」
「……」
その小さな肩が震える。
「変ですよね。ルクスさんはちゃんと好きだと言ってくれたのに、私は泣きたくなった」
「……いや、多分、変じゃない」
「変じゃ、ないですか」
「あぁ」
クロエが、ルクスを見た。
「私は、ルクスさんに沢山のことを教わりました。消えることを恐れること。未来を願うこと。自分のために生きること……あなたが、私を私にしてくれました」
「……あぁ」
「だから、願ってもいいですか?私のために。私の未来を」
その声は変わらず震えていた。しかし、その奥に、強い意志があった。
「私はルクスさんのことが好きです。それは、アイリスさんやソフィアさんへの『好き』とは違う、ルクスさんだけのための気持ちです――でも、今のルクスさんの私に対する『好き』は、アイリスさんやソフィアさんに向けるものと、大きく違わないんですよね」
「……あぁ、そうだな。悪い」
「謝らないでください。その代わり、ちゃんと考えてほしいんです。私のことを。仲間としてじゃなく、一人の異性として、ね?」
するり、とルクスの懐に入り込むクロエ。そのまま、耳まで赤く染まった顔を突き出す。
「んぅ……」
「――」
もはや、反応する気力すらなかった。無防備にそれを受け入れる。
柔らかな感触が離れ、クロエが微笑んだ。
「答えは、急がなくていいです。でも、ちゃんと向き合ってください」
「……わかった」
「ありがとうございます」
クロエが立ち上がった。
「どんな答えでも、私はルクスさんの隣で戦います。それだけは、変わりません」
そう言い残して、クロエはゆっくりと礼拝堂を出ていった。
一人になった。
ルクスは礼拝堂の長椅子に座ったまま、動けなかった。
三人の言葉が、触れた柔らかな感触が、頭の中で繰り返される。
(アイリスの言葉。ソフィアの言葉。クロエの言葉)
腰の剣に触れる。白い刀身が、光を反射した。
(俺は今、何を感じている……?)
三人との記憶がある。真紅と、蒼穹と、翡翠。それぞれに鮮烈で、それぞれに本物だった。どれか一つを選ぶということは、他の二つを選ばないということだ。
(でも――)
答えは、出なかった。
ただ、三人の顔が浮かんだ。笑った顔、泣きそうな顔、落ち着いた顔、絶望した顔、優しげな顔、怯える顔。すべてが鮮やかに記憶を彩っている。
(ちゃんと、向き合わないと)
剣の柄を、強く握り直した。
まだ、答えは出ない。しかしこれは、向き合わなければならないことだとわかった。
鎮座する女神像が、静かにその苦悩を見届けていた。
同時刻。
マリアは校舎の廊下に立っていた。
その目が、遠くを見た。いつもの穏やかな表情が、一瞬だけ、別のものに変わった。
それは計算でも、演技でもない、本物の驚きだった。
(――まさか、本当に)
窓の外。空の端が、白く染まり始めていた。
マリアはしばらく、その世界の終わりを眺めていた。
そして重いため息を一つ。ゆっくりと歩き出した。
(物語が終わる。せめて、正常な形で『次』を始められるようにしなくては……)
その表情にいつもの微笑みはない。冷酷な、観測者の顔だった。
「――これは」
図書室。
ソフィアが手帳から顔を上げた。
即座に起動した解析魔法が、世界の異変を拾っていた。はるか遠くの空が、不自然に白く染まっていく。
「漂白だと!?何が起きている!?」
手帳を閉じる。立ち上がる。
勇者たちの知らぬ間に、世界の終わりが近づいてきていた。