天座の書架と白紙の勇者   作:maki@

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白の邂逅/黒の邂逅

(三人の思いと向き合う。でも、どうすればいい? みんなに笑顔でいてほしい。それだけじゃダメなのか……?)

 

 当てもなく学園内を歩きながら、頭を悩ませるルクス。

 

(――考えがまとまらない。だからと言って、相談できるような相手もいないし……ん?)

 

 思わず天を仰いだルクスの視線の先。青かったはずの空の端が、突如として不気味に白く滲み始めていた。

 

「――まさか……!」

 

 ルクスは即座に走り出した。廊下を猛スピードで駆け抜け、中庭へ。そこには、異変に気づいた他の三人も、それぞれの場所から弾かれたように集まってくるところだった。

 

「漂白か」

 

「そうだ。だが――」

 

 ソフィアが険しい表情で周囲を見渡した。急速に白く染まりかけていく空。世界から音が薄れていく。万物の色が、急速に抜けていく。

 

「なんでいきなり始まったの!? 魔王を倒したわけでもないのに!」

 

「わかりません! でも、始まってしまった以上は――!」

 

「そうだな、原因を検証している暇はない。すぐに術式を起動するぞ!」

 

 ソフィアが短杖を鋭く構えた。

 

「ルクス、『前回』と同じだ! サルヴァトルを!」

 

「あぁ!」

 

 引き抜いた聖剣が、淡い翡翠の輝きを放ち始める。ソフィアの精密な計算通りに、世界への記述を力強く書き換え始めた。

 

「この後、どうなるんですか?」

 

「また、記憶の引継ぎになって最初からになるのかしら?」

 

「いや、今回は違う。私たちそのものを、この記述を保ったまま『次』の空白へと連れていくんだ」

 

 額に大量の汗をにじませ、複雑な術式を必死に制御しながらソフィアが説明する。

 

「この世界そのものは間もなく漂白される。だが、この世界――私たちの物語が『書かれている本』そのものの土台は変わっていないんだ」

 

「本、ですか?」

 

「そうだ。表面の記述が漂白されようと、その土台自体は変わっていない。私たちの記憶も、大まかな出来事には大きな差異は無かったろう?」

 

「確かに。基本的な出来事はたいして変わらなかったわ」

 

「だから、その漂白の影響を受けない深い領域に、私たち全員を一度移動させる。そして、そのまま『次』の物語に直接入り込むんだ!」

 

「なるほど……!」

 

 白い空がすぐそこまで迫る。ルクスの掲げる翡翠の聖剣が、限界を超えて輝きを増していく。

 

「『次』こそ、完璧にこの不条理を乗り越えてみせる……が、今回のところはこれが限界だ!」

 

「十分だ。ソフィア、また頼む!」

 

 視界のすべてを覆いつくすほどの、圧倒的な翡翠の輝き。世界が、再び真っ白な紙へと巻き戻っていく。

 

「――おっと。お前はそこまでだ、ルクス」

 

「――っ!?」

 

 意識が途切れる最後の瞬間、ルクスの耳に、低く冷徹な男の声が確かに届いた。

 

 

 

 

「っと。よし、問題なく移動したか」

 

 視力が徐々に回復していく。降り立った完全な真っ白の世界で、ソフィアが『上』を見上げた。

 

「あれが、私たちがさっきまでいた世界か。こうして客観的に見ると、不思議な気分になるな」

 

 まるで水中から水面の上を見上げるかのような光景。奇妙な空間の揺らぎを通して、先程までいた世界が完全に漂白され、真っ白に染まっていく様子が映し出されていた。

 

「――ソフィアさん、あれ!」

 

「ん?」

 

 隣にいたクロエが悲鳴のような声を上げる。視線を向ければ、彼女は焦りを浮かべながら、上の世界の中心を指さしていた。

 

「どうしたクロエ――って、あれは!?」

 

「……なんで。どうしてルクスがまだ『そこ』に突っ立っているのよ!?」

 

 アイリスもすぐに気づいた。漂白が進み、すべてが消え去っていく世界の中に、ルクスだけがぽつんと一人、取り残されている。

 

 そして――世界のすべてが、完全な白に染まった。

 

 

 

(何が起きた……? 三人の姿がない。ちゃんと移動したと信じたいが……まずは俺の事か)

 

 謎の声が聞こえたと同時、少女たちが目の前から消え、自分だけが消えずに残った。どうやらソフィアの術式が、自分にだけうまく機能しなかったらしい。既に周囲には、学園も街も何もない。どこまでも不気味な白だけが無限に続く景色。

 

「――困るんだよ。ここで、お前にまでいなくなられたら」

 

「誰だっ!」

 

 再び背後から聞こえた声。ルクスが弾かれたようにそちらに目をやれば、そこに佇んでいたのは、『影』としか表現できない不気味なモノだった。

 

 純白の世界の中で、その人型の影と、その手が握る漆黒の剣だけが、圧倒的な異質さを放っている。

 

「――変わらないな。どこまで行っても『お前』は、ただの都合のいい『お前』か」

 

「は? 一体何を言っている?」

 

「不安だろうから、最初にいくつか説明してやるよ。何から聞きたい?」

 

 なぜか昔馴染みのように親し気に話しかけてくる影。しかし、その纏う異様さが、ルクスに警戒を解くことを決して許さなかった。

 

「――三人はどうなった。無事なのか」

 

「最初がそれか? ま、それでこそお前、なのかもしれないがな」

 

「いいから答えろ!」

 

「焦るな。ちゃんと説明してやる。お前らが何をしようとしたのかは知らないが――まぁ、世界の裏側にでも一時的に逃げようとしたんだろう? なら、あの三人はちゃんと目的地についているはずだ。そこは安心しろ」

 

 影は飄々とした様子を一切崩さない。

 

「お前がここに残っているのは……まぁ、条件が揃っていなかったから、とでも言おうか」

 

「条件、だと?」

 

「そうだ。自分たちの記述を丸ごと別の頁に移し替える。そのためには当然、『自分』という存在のすべてを記述として完璧に保管する必要がある」

 

「――話が見えないな。俺はそれが揃っていなかったと?」

 

「そうだ」

 

 その迷いのない肯定は、ルクスにとっては全く想定外のものだった。

 

「『ルクス』という存在がお前だけで完結していないことが原因だ。今現在、この世界において『ルクス』は、お前ひとりじゃないんだよ」

 

「何……?」

 

「お前だって知ったんだろう? この世界は何度も漂白を繰り返している、と。まさか、お前の知る『三回』分しか繰り返しが無かったとでも思っているのか?」

 

 影が不気味に揺らぐ。その存在が、急速に不安定になっていく。完全に漂白された世界では、確かな形を持たないモノはその存在を保てない。

 

「最初の質問と合わせて答えてやるよ。俺は、お前だ。……『お前』になれなかったお前であり、お前から『無かったこと』として切り捨てられたお前の残骸だ。俺というもう一人のルクスがいたことで、この世界の記述において『ルクス』はお前ひとりでは完結しなかった」

 

 影の存在が、さらに薄れていく。その消滅の間際、影が握った漆黒の剣が暗い絶望の光を放った。

 

「今こそ、この世界に己を定義しよう。俺の名は――『アッシュ』」

 

「――なっ!?」

 

 影が霧散していく。そして、その内側から圧倒的な記述の濁流と共に、真の姿が現れた。

 

 その衣装には、擦り切れた無数の生々しい傷跡があり、その身には赤、青、翡翠がドス黒く混ざり合った、呪いのような色彩の混濁がまとわりついている。しかし、そこにいたのは――紛れもなく、自分と全く同じ顔をした『ルクス』であった。

 

「俺と、同じ顔……?」

 

「正確には、お前が俺と同じ顔をしてるんだがな。まぁ、そんなことはどうでもいい。俺はアッシュ。すべてが燃え尽きた後に残った、ただの灰――燃えカスだ」

 

 名付けによって、アッシュという存在が完全に定義された。この世界の『登場人物』として、世界がアッシュを明確に認識し始める。

 

「いい加減、疲れただろう? ここらでこの不条理な物語も、完全に幕を引こうと思ってな」

 

「……どういう意味だ」

 

「この『繰り返し』をここで終わらせる。そうすれば、もう誰も傷つかない。もう誰も苦しまない。安らかに、ただ眠りに就けばいいんだよ」

 

「そんなこと、させるわけにいかない! 俺たちは必ずこの『繰り返し』を越える! みんなで願った未来にたどり着くんだ! 勝手に終わらせるな!」

 

「――勝手なのは、どっちだ」

 

 それは、驚くほど静かな声だった。絶望の果てに、感情を完全に押し殺したような声。

 

「お前は何も知らないだけだ。お前だけじゃない。あの三人だってそうだ。幸せな結末しか、都合のいいハッピーエンドしか知らないから、そんなお気楽なことが言えるんだよ」

 

「それを手繰り寄せるために、俺たちは――」

 

「――『138回』だ」

 

「……は?」

 

「138回。それが、『今回』を含めて、この世界がこれまで愚直に繰り返してきた総回数だ」

 

 アッシュの言葉が、わずかに震える。これまで心の最深部に押し込めていた、泥のような感情が漏れ出していく。

 

「お前が知る『三回』。そして『今回』……それを除いた全ての物語――134回、この世界はハッピーエンドにたどり着けなかったんだよ」

 

「13、4回……」

 

「そうだ。お前は常に、都合よく白紙の状態で始まる。何もかもを忘れ、新しい色彩で物語を紡ぐ。だが、俺は違う。すべての結末を覚えている。すべての残酷な喪失を、この魂に刻んでいるんだ!」

 

「すべての、喪失……」

 

「お前が失敗した物語! 仲間を無残に失った物語! 何も救えずに世界が漂白された物語!! そういうお前の尻拭いを、俺は全部特等席で見てきたんだ! ――もう、たくさんなんだよ」

 

 男の悲痛な独白を、ルクスはただ黙って聞いた。うんざりしたような、どこか底知れない諦観の滲む声だった。

 

「だから俺は、すべてを終わらせに来た。これ以上無駄に繰り返さないために。またアイリスが傷つく前に。またソフィアが絶望する前に。またクロエを失う前に――『俺』と同じ地獄の苦しみを、今のお前が受ける前に」

 

「それは――」

 

「優しさだよ」

 

 アッシュの声が、わずかに、しかし酷く切なげに揺れた。

 

「俺が、今のお前に向ける、唯一の優しさだ」

 

「……」

 

「お前には、まだわからないさ。お前はまだ、彼女たちを本当の意味で失っていないから。でも、だからこそ、俺はお前をここで終わらせる。この呪われた物語に、俺の手で終止符を打つ。お前が、次の『俺』になる前に」

 

 完全な白の世界に、重苦しい沈黙が落ちる。

 

「――終わらせるわけにはいかない」

 

「何故だ」

 

「お前が見てきたもの、その全部はわからない。でも、ほんの少しだけ、俺も知っているんだ」

 

「何だと?」

 

 アッシュの、混濁した色彩の目がわずかに揺れた。

 

「俺の『記憶』の中にあるんだよ。時々、この白い剣から流れてきた不思議なビジョン――悲劇が起きる前に、必ずと言っていい程見た、あの最悪な光景。……きっと、あれがお前の見てきた世界なんだろ?」

 

「――あぁ、あれか。そうだな、あれもその凄惨な記憶の一部だ」

 

「お前の――これまでの『俺たち』のおかげで、俺は今ここにいて、みんなから特別な色彩をもらったんだ。そのすべてを、無駄にすることなんて絶対にできない!」

 

「――綺麗事だ」

 

「そうかもしれない」

 

「お前には、俺が見てきた絶望が何もわかっていないんだよ!」

 

「わかっていない。でも――!」

 

 ルクスは、まっすぐにアッシュを見つめ返した。

 

「お前にだって、あったはずだ! 誰かと生きたいと心から願った瞬間が! 大切な物を手にして笑い合った瞬間が! だって、お前は他でもない――『俺』なんだから!」

 

 その叫びは、アッシュが必死に蓋をしていた、心の最も柔らかい部分に鋭く爪を立てた。

 

「――黙れ!!」

 

 漆黒の剣が、その力を一気に解き放つ。

 

「話は、ここまでだ。『ケイオス』――この剣に込められた数多の絶望、その絶対的な重さをお前に教えてやる!」

 

 それは、もはや戦いにすらならなかった。

 

 一合。ただそれだけで、ルクスの身体ははるか後方へと吹き飛んだ。白の剣と黒の剣が激突した瞬間、圧倒的な力の差で、文字通り押し潰されていた。

 

「……うっ……!」

 

 ルクスは必死に立ち上がろうとする。両腕が、衝撃でガタガタと震えている。

 

 アッシュがゆっくりと近づいてくる。その足取りには、一切の迷いがない。

 

「何度やっても同じだ」

 

「やってみなきゃ、わからないだろ……!」

 

 二合目。ルクスの聖剣が鮮やかな真紅に染まる。しかし、アペリトールによって爆発的に強化された膂力すら、上空からの黒い一撃によって無慈悲に叩き潰された。

 

「強くなる。仲間と絆を結ぶ。魔王を倒す。漂白される。そして、また何も知らずに始まる。……滑稽な踊り子だよ、お前は」

 

「まだ……まだだ!」

 

 三合目。蒼穹の聖剣が振るわれる。色とりどりの属性魔法が放たれるが、そのすべてがアッシュの放つ漆黒の波動に一瞬で塗りつぶされた。そのまま正面から接近したアッシュの蹴りが、再びルクスを吹き飛ばした。

 

「お前は何も知らない。何度も凄惨に終わった物語を。何度も失った、愛する者たちの断末魔の記憶をね」

 

「だと……しても! 俺たちの未来を、ここで諦められるか!」

 

 四合目。翡翠の輝きが世界への記述を書き換える。因果も距離も無視した、世界を侵す必中必殺の一撃。

 

 しかし、それがカンッと耳障りな甲高い音と共に、漆黒の刃によってあっさりと正面から弾き返された。返す刀で容赦なく振るわれた凶刃の一撃を、ルクスは遮二無二床を転がって間一髪で躱す。

 

「未来に希望など無い。あるとしても、その薄っぺらな希望の裏には、もっと濃い絶望が何百倍もひしめいているんだよ」

 

「乗り越えてみせるさ……! 仲間と、みんなと一緒に!」

 

 五合目。――否、もはや拮抗すらしなかった。

 

 ルクスが死に物狂いで構えた剣の防御をすり抜けるように、冷徹な漆黒の剣が、少年の胸の中心へと深く突き刺さる。

 

「がっ……あ、は……っ!」

 

「終わりだ」

 

 アッシュが、血を吐いて倒れ伏すルクスの前に静かに立った。

 

「心配するな。お前が終われば、次は俺が死ぬ。それで、この呪われた世界はすべての苦しみからようやく解放されるんだ」

 

 終わらせるという意思の結晶――ケイオスが、容赦なく上段へと振り上げられた。

 

 

 

(――終われない……)

 

 ルクスは剣を握ったまま、薄れゆく視界でアッシュを見上げた。身体が動かない。意識もはっきりしなくなっていく。

 

(まだ……俺の答えを、待っている人たちがいるんだ)

 

 何もなかった白紙の自分に、特別な色彩をくれた愛おしい人たち。

 

(俺はまだ何もわかっていない。彼女たちの特別な想いにどう応えればいいのか、見当もつかないけれど)

 

 情熱を教えてくれた、赤の騎士のあのまっすぐな顔を思い出す。

 

(何が正解なのかわからない。そもそも、全員を救う正解なんて、この世界にあるのかもわからない。だけど――)

 

 英知を授けてくれた、青の賢者のあの少し照れた顔を思い出す。

 

(でも、みんなに何も言わずに、このまま終わるわけにはいかないんだ!)

 

 確固たる意志を確立させてくれた、翠の聖女のあの涙に濡れた顔を思い出す。

 

(会いたい。みんなに、もう一度会いたい。もう一度、みんなと――!)

 

 ルクスが意識を完全に失う寸前、手の中の翡翠の聖剣が、その魂の叫びに猛烈に呼応した。

 

 

 

「――待ちなさい!」

 

 突然、凛とした声が、完全な白の世界を縦に切り裂いた。

 

 白の世界の向こうから。閉ざされたはずの裏側から、芯の通った強い声が響き渡る。

 

「――何?」

 

 アッシュの動きがピタリと止まった。

 

「随分と色んなことを一人で抱え込んでいるじゃないか……もっと詳しく吐いてもらうよ」

 

 白の世界に、巨大な空間の裂け目が生まれた。そこから、圧倒的な翡翠の因果の光が溢れ出す。

 

「たとえどんなに険しい絶望の道だとしても、私たちの未来は、私たちで掴み取ります!」

 

 裂け目が一気に広がる。光の向こうから、三人の少女が姿を現した。

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 

 世界の裏側、白い虚無の空間で、ルクスとアッシュの死闘の一部始終を、三人の少女が見つめていた。

 

「……あいつが言っていること、どう思う?」

 

 アイリスが、拳を血がにじむほど強く握りしめながら呟く。

 

「妥当な話だね。確率論的にも、最悪の結末に終わるループは当然存在する。キミたちだって、一歩間違えれば、という危うい記憶が、無いわけじゃないだろう?」

 

「それは……そうですね」

 

 クロエが沈痛な面持ちで同意する。会話を続けながらも、しかしソフィアの術式を編み込む両手は、一瞬たりとも止まってはいなかった。

 

「色々と初耳の情報も多い。賢者として興味は尽きないが――のんびりとご高説を聞いている暇はないな」

 

「ルクスをここで終わらせる、って言ってたわね、あの男」

 

「ルクスさんをここで消せば、この世界の『繰り返し』が完全に終わる、ということなのでしょうか……」

 

 三人の少女が、同時に深いため息をつく。そして、その顔に不敵な笑みを浮かべた。

 

「――今、勝手に終わられたら、最高に困るのよね!」

 

「全くだ。まだ私がルクスを私の色に染めて、完全勝利する場面に到達していないのだからね」

 

「本当です! 私とルクスさんのこれからの未来を、勝手に無かったことにされるのは絶対に嫌です!」

 

 三人の間に、凄まじい恋の火花が散る。

 

「とにかく! あたし達の誰が最終的にルクスに選ばれるかはまだ知らないし、もしあたしじゃなかったら滅茶苦茶へこんで泣くけど! ――あんた達二人なら、まぁ、最悪の最悪、許してあげるわよ!」

 

「そうだね。この物語を共にした三人の誰かが選ばれるなら、納得はできる。だが――」

 

「誰も選ばれないまま、全員バッドエンドで終わりなんてのは、絶対にダメです!」

 

 昨日、それぞれが唇を重ねて伝えた特別な思いの答えは、まだ誰一人として聞けていないのだ。それは今、ルクスと共に虚無へと消え去ろうとしている。

 

「――よし、空間記述の調整完了だ。後は、世界を無理やり越えるだけの、あの朴念仁の『引き金』さえあれば……」

 

 ソフィアがずっと構築を続けていた術式――元の世界へと再び戻るための因果の術式が、完璧に完成した。

 

「でも、それって結局、ルクスのサルヴァトル頼り、よね?」

 

「あぁ。だから、私たちにできる記述の準備はもうすべてやった。後は――」

 

「後は、ルクスさんが、心から私たちを求めてくれるか、ですね」

 

 三人の少女は、固唾を呑んで頭上の世界の行く末を見守る。

 

 視線の先では、白と黒の剣が、まさに最悪の激突を果たすところだった。

 

 

 

「アイ、……いや、君たちは……」

 

 突然目の前に現れた三人の少女に、アッシュが酷く複雑な混濁の目を向ける。その胸中では、様々な彼女たちとの記憶が荒れ狂っていた。

 

 アイリスが、木剣ではなくまっすぐにアッシュを見据えた。

 

「あんたが、アッシュ……」

 

 ソフィアが、書き込みを終えた手帳をパタンと閉じた。

 

「キミの経験してきたことには大いに興味があるが――私達を置いてきぼりにして一人で終わらせるつもりなら、それは全力で阻止させてもらうよ」

 

 クロエが、意識のないルクスの傍に真っ先に駆け寄った。治療の光が、少年の胸の傷を包み込んでいく。

 

「ルクスさん、大丈夫ですか!?」

 

 何度も見た三人の顔がそこにあった。アイリスが怒ったような顔で前に立っていた。ソフィアが眼鏡を押し上げながら冷静に状況を見渡していた。クロエが、今にも泣き出しそうな顔でルクスの身体を抱きしめていた。

 

(あぁ……この、光景は……)

 

 アッシュが、その光景をただじっと見つめていた。

 

 それは、彼が何十回、何百回と見てきた、愛おしい仲間たちの姿だった。違うのはただ一つ――今、自分は彼女たちを正面から、消去すべき『敵対者』の立ち位置から見ている、ということだけ。

 

「……どいて、くれないか。――俺は、もう二度と君たちを傷つけたくないんだ」

 

「あんたがルクスにこれ以上指一本触れないってんなら、どいてあげるわよ」

 

 アッシュが絞り出すように懇願する。それは、彼の心の底からの、本物の願いだった。

 

「――頼む、もう二度と、君たちが目の前で苦しむところを見たくないんだよ……!」

 

「そのために世界を丸ごと無理やり終わらせると? 本末転倒だな」

 

 クロエがルクスの治療を完璧に終え、二人の横へと凛とした足取りで並び立つ。

 

「お話を、しませんか? あなたは私たちが知らない大切なことを、たくさん知っているんですよね?」

 

「必要ない。こんな地獄の記憶を抱えるのは、俺が最後でいいんだ」

 

「――議論の余地は、ないみたいね」

 

 アイリスが剣を構える。ソフィアとクロエが、それぞれに己の杖を前へと突き出す。

 

「後ろで寝てるそいつを消せば全部終わるんだ! もう誰も、苦しむ必要なんてないのに……!」

 

「あたし達はそんな終わりを望まない! あんたが何を見て、どう思ったのかは知らないけど――あたし達の終わりは、あたし達自身が決める!」

 

「キミの持つ過去の知識があれば、新しい活路が見いだせるかもしれない。勝手に諦められては困るな」

 

「あなたの苦しみも、全部分かち合いたいんです! だから、私たちと一緒に――!」

 

 それぞれの思いを叫ぶ眩しい少女たち。

 

「……あぁ、なら仕方ない。悪いが、ここで力ずくで蹴散らさせてもらう。……俺を、いくらでも恨んでくれていいぞ」

 

 漆黒の剣ケイオスが振るわれる。

 

 白に染まった世界で、少女たちの放つ三つの鮮烈な色彩を塗りつぶさんと、その強大で圧倒的な絶望の力を解放した。

 

 

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