ルクスは、天座の書架の管理者として、上の世界で繰り広げられたその光景を、特等席から静かに見つめていた。
新たな物語が始まった。
開いた本の頁から、新しい世界の息吹がダイレクトに見えた。
神に決められた役割に縛られない、自由な世界。すべての人間に確かな顔があり、誇るべき名前がある世界。かつては顔も名前もなかったただの群衆たちが、今は一人一人、幸せそうに確かな存在として生きていた。
(始まったんだな。新しい、自由な未来が)
アイリスが元気に笑顔で生きていた。ソフィアが世界の真理ではなく、自身の本への欲求に忠実に生きていた。クロエが心からの深い慈愛を抱いていた。
役割から解放されて。自分自身の本当の意志で。それぞれの最高の人生を、一歩ずつ歩んでいる。
(それで、いい。それだけで、十分だ)
心から、そう思った。
しかし。
(……やっぱり、少しだけ、寂しいな)
本音を言えば、それも同時に強く思った。
ルクスの中に今も鮮烈に残る、三人の少女たちの顔が浮かび上がる。自分のために本気で怒ってくれたアイリスの顔。冷静に隣にいてくれたソフィアの顔。泣きそうな顔で強く抱きしめてくれたクロエの顔。
どれも、もう二度と直接見ることの叶わない物。
必ず戻る、そう誓ってここまで来たが、ルクスが彼女達と触れ合うことは、もうない。
あちらの世界の、『これまで』の記憶を持たない彼女たちは、当然、自分のことを何一つ知らない。この世界の最果てで、天座の書架の管理者になったルクスという存在のことを。彼女たちにとっての『ルクス』とは、これから考古学を探究する、あの世界にいる一人の少年の事なのだから。
(でも――これで、これでいいんだ)
彼女たちが自由に、幸せに生きているなら、それだけで十分だ、と思った。
そう、自分に言い聞かせて、一人で納得しようとした。そして、別れる寸前の彼女達の顔を、彼女達との思い出が頭に浮かんで。
「――寂しいな」
今度は、それが口から零れ落ちた。
その時だった。
『――聞き捨てならないわね、このバカ』
突如として、他に誰もいないはずの書架の空間に、凛とした少女の声が響き渡った。
ルクスは驚愕と共に、勢いよく振り返った。
書架の真っ白な棚の上に、いつの間にか一冊の本が新しく置かれていた。その表紙は――完全な、混じり気のない純白だった。
「今の、声は……?」
聞こえるはずのない声だった。
何よりも聞きたいと切望していた、最愛の声の一つだった。
『全くだ。そもそも、この結末を独断で勝手に選んだのはキミだろうに。文句を言いたいのはこちらの方だよ』
ルクスが激しく動揺している内に、さらに新たな声が空間に響いた。
「幻聴、なのか……? だって彼女たちは、さっきの、リベルタスの街で……」
『いいえ。これは幻聴でも、あなたの寂しさが見せた哀しい夢でもありませんよ』
棚の上の純白の本が、光を放つ。ひとりでに浮き上がり、その頁が開かれた。溢れ出た眩い色彩の閃光が、ルクスの目を焼く。
やがて、光が収まって再び目を開いたルクスの前に、誰よりも会いたかった三人の少女たちが立っていた。
「アイリス、ソフィア、クロエ……っ! どうして、ここに……!」
ルクスは思わず嬉しさのあまり飛び出そうとして、直前でハッと踏みとどまる。彼女たちはさっきまで、自分が観測していたリベルタスの街にいるはずで――。
「どういうことだ? 君たちは新しい世界で、それぞれの人生を新しく歩み始めたんじゃ……!」
「あれはまた別の『あたし』よ」
アイリスが、腰に手を当てて呆れたように言った。
「あんたと同じよ、ルクス。今ここにいるあたしは、あんたと本気の愛を確かめ合ったアイリス。物語の中に新しく生まれた『アイリス』とは、別人なの!」
「間に挟んだ感情的な戯言は置いておくが」
ソフィアが眼鏡のブリッジを押し上げながら、ニヤリと笑って続けた。
「キミが勝手に私たちを置いていってしまったからね。こっちは世界の裏に戻る準備をして待機してたっていうのに、だ。仕方がないから、必死で追いかけてここまで空間をこじ開けてきたのさ。……さぁ、約束通り、私とともにこの天座の書架のすべての世界の真理を、夜遅くまで調べつくそうじゃないか」
「ルクスさん」
クロエが、翡翠の瞳を涙で潤ませながら、一歩前に出て愛おしそうに言った。
「あなたがいる場所こそが、私のいるべき唯一の場所です。神様の役割なんて関係ありません。私と、あなたの本当の幸せな未来を……今度はこの場所から、二人で新しく始めましょうね?」
ルクスは、もはや言葉も出なかった。
一人きりでここに縛られると諦めていた、幸せな未来。もう二度と見ることができないと思っていた、最愛の少女たちの笑顔。そのすべてが、いま、自分のすぐ目の前にあった。
ルクスはしばらく呆然と彼女たちを見つめ、――それから、心からの幸福な笑みを浮かべた。
「……全く、お前たちってやつは」
「何よ、文句ある?」
「ずるいな、お前たちは。せっかく俺が覚悟を決めたっていうのに」
「あんたのほうが何百倍もずるいのよ! 一人でこんなとこに残って寂しそうな顔するなんて、そんなの許すわけないじゃない!」
「そうだ。私たちに相談もせずに、勝手に決めるな」
「でも、そこがどこまでも不器用で優しい、ルクスさんらしいですよね」
三人の愛おしい声が、静かな書架の空間に見事に重なり合う。ルクスはただ、嬉しそうに笑い続けた。
「さぁ! 仕切り直しよ、ルクス! 改めてあたしたちの前で、きっちりハッキリ決めてもらいましょうか! 一体誰を最終的にオンリーワンとして選ぶのか! ……当然、あたしでしょうね!?」
「何を言っているんだい? 私に決まっているだろう」
「いいえ、選ばれるのは私です。ねぇ? ルクスさん?」
「え、いや……だから俺は、みんなのことが同じくらい大好きで――」
「まだそれを言うのね、あんたは! いいわ、だったらここからは延長戦よ!」
「いいね、望むところだ。ルール無用、勝利条件はただ一つ。ルクスの心を完全に奪い去ること、か」
「報酬はルクスさん自身……。ふふ、絶対に負けられません!」
「おいおい……」
ルクスを中央に挟んで、見慣れた激しい恋の火花がパチパチと散り始める。
窓の向こうのでは、新しく始まった美しい物語が、鮮やかに紡がれている。役割から解放された人々が、それぞれ自分の意志で、自由に今日を生きている。
その世界のどこかで、新しく生まれたアイリスが、ソフィアが、クロエが、そしてルクスが、それぞれの人生を歩んでいる。
そして――この世界の最果てである天座の書架では、自分のために世界を越えてきてくれた、愛おしい三人の少女たちが、すぐ傍にいてくれる。
(これが……俺たち全員でつかみ取った、物語の結末。文句なしのハッピーエンド、だな)
「――おっと」
その時、先ほどまで宙にプカプカと浮いていた、あの純白の本が、ルクスの手の中へとストンと落ちてきた。
「それにしても……この本は一体なんだ? 俺たちのこれまでの物語が書かれていた『リベラ・オルビス』の本とは、装丁が全く違うみたいだが……」
ルクスは不思議に思い、その純白の表紙に刻まれた文字を確認した。
『天座の書架と白紙の勇者』
「……なんだこれ?」
ルクスがその中身を確認しようと、最初の頁を捲った。まさに、その瞬間。
「――うわっ!?」
「きゃあぁっ!?」
本の中から突如として、凄まじい虹色の光が爆発的に溢れ出し、中から何かが猛烈な勢いで外へと飛び出してきた。
転んだそれは悲鳴を上げながら、ルクスの身体の上へと正面から盛大に覆いかぶさってきた。
「ちょっと、ルクス! 話はまだ終わっ、て――」
「――おい、ルクス。流石にそれは看過できないぞ」
「――ルクスさん。嘘、ですよね……?」
一瞬にして、書架の周囲の空気が絶対零度へと冷え込むのを、ルクスは肌で感じていた。しかし、未だにルクスの視界は、本から文字通り飛び出してきた謎の『何か』の柔らかい身体によって、完全に塞がれていた。
「何の話だ!? 何も見えないし、息も苦しいんだが……!」
「きゃんっ!? そんなところで喋らないで頂戴……。くすぐったいわ……っ!」
ルクスの上から、再び悲鳴が響く。その鈴を転がすような美しい声から判断すると、どうやら上に乗っかっているのは女性のようだった。
「だったら、早くどいてくれ……」
「わかった、わかったから! もう喋らないで!」
ようやく、ルクスの身体を押さえつけていた重みが消え去った。
ルクスが乱れた服装を直しながら改めて周囲に目をやれば、そこには完全に冷め切った視線をこちらに向ける三人の少女たちと、そして、その中央で潤んだ瞳で気恥ずかしそうにこちらを見つめる――。
「――は?」
「あはは……。なんか、普通に復活しちゃったわね、私……」
そこにいたのは、先ほど完全に消滅したはずの女神ミュトス、その人であった。
「え? いや、なんでお前がここにいるんだよ!?」
「どうやら、私とあなたの紡いだ物語そのものが、あまりにも極上の感動プロットだったせいで、『リベラ・オルビス』から、『個別の独立した一冊の物語』として、この書架に新しく自動登録されちゃったみたいなの……つまり、元々の神のシステムの本から、私たちの歴史が完全に分離しちゃったのね」
ミュトスは自嘲気味にクスクスと笑いながら、手元の本を指差した。
「天座の書架に収められた物語の中の『一人の登場人物』として本に刻まれたことで、私も再び、この書架の世界に確かな個としての存在を取り戻した、といったところかしらね」
「……そんなのありかよ……」
「なっちゃったんだから仕方ないでしょう? それに――私にとっては、これは最高に好都合ね」
ミュトスは軽く視線を周囲に向けた後、ふっと不敵な笑みを浮かべ、ルクスへと一歩詰め寄った。それは、誰一人として反応すらできない、文字通り神速の接近だった。
(しまっ――! こいつ、何を――!?)
「ルクス!」
誰にも邪魔されることなく、ミュトスはルクスの眼前に着地した。そして、そのまま――。
「ふふっ、捕まえたわ」
「へ?」
「「「――はぁぁぁぁぁぁ!?!?」」」
ミュトスは細い両腕で、力強く、全力でルクスの身体を正面から抱きしめた。
茫然とするルクスと、その光景に思わず最大級の悲鳴を上げる三人の少女たち。
「あぁ……本当にいいわぁ、これ。もっとこの腕の中の温かい感触を、直接確かめたいの。もっとこの胸を焦がすような生きた感情を知りたいわ。そう、これこそが、さっき知った……本物の『恋』よ!」
「お前……一体、何を勝手なことを言ってるんだ……!?」
「あなたが私に教え込んだ、あのいくつもの感情の濁流――今の私の中に最も大きな存在感を示して暴れているのが、他でもない『これ』なのよ! こんな素敵なものを、無垢な神様に教えて……責任、きっちり取ってもらうわよ――んっ」
「んっ!?」
「「「――ちょおぉぉぉぉぉっとぉぉぉぉぉッ!?」」」
ミュトスはそう言い放つと同時、完全にフリーズして困惑しきりのルクスの唇を強引に奪い去った。あまりの目まぐるしい状況の変化に脳の処理が追いつかないルクスは、ただ目を白黒させるばかり。
「いきなり現れて、あたしのルクスに何してくれてんのよ、この泥棒女神!!」
「不愉快極まりないね。神としての気品を失ったのなら、ただの悪役としてここで私がもう一度徹底的に退治してやろうか?」
「女神様……! ルクスさんを私から横取りして奪う気なら、私の聖女としての信仰は、今この瞬間をもって永遠に完全終了です!」
「あらあら、随分と物騒ねぇ。今の私は神の特権なんて何もない、ただの可憐な一人の新参ヒロインに過ぎないのよ? あまり先輩風を吹かせて乱暴しないで頂戴?」
「どの口がそんなことをおっしゃるんですか……!!」
アイリスたちがいきり立つが、ミュトスはルクスを抱きしめて胸に囲い込んだまま、全く離そうとはしない。むしろ、その姿勢は三人を煽る効果しかなかった。
「そもそもよ? 私はこの子のあの『みんなが大好き』っていう博愛の精神、一人の女として全然悪くないと思うのだけど。だって、全員が仲良く幸せになれるじゃない。ねぇ、ルクス?」
「もがっ!? く、苦し……っ!」
ミュトスが嬉しそうに抱きしめる腕の力を増したせいで、ルクスの顔面が、彼女の豊満な胸の谷間へと完全に埋め込まれた。
「――っ!!」
ブチリ、と何かが盛大に切れる不穏な音が、空間に響き渡った。
少女たちの脳内で、我慢の限界が弾け飛んだ音だった。
「いいから、さっさとそいつを返しなさい!!」
「二度と復活できないように、その身体の記述のすべてを徹底的に解剖して調べてやる。覚悟したまえ、元女神……!」
「女神様……! これ以上の不届きな行為は、絶対に許しません!!」
「ふふ、仕方ないわねぇ……。あなた達がどうしても分けてくれないって拒むなら、この可愛い主人公は、私一人がこれから毎日独占させてもらうわ! 誰にも分けてなんかあげないんだから!」
「もがーーっ!!(離せーーっ!!)」
かつては冷徹で厳かな静寂に包まれていた、世界の最果てたる天座の書架。
しかし、この日以降、その広大な空間から、四人の少女たちと一人の勇者による、賑やかで騒がしい喧噪が絶えることは、ただの一度も無かったという。
数多の物語の本に囲まれながら、白紙の勇者は、最愛の色彩たちと共に、いつまでも、いつまでも世界の最高の未来を見守り続けるのだった――
これにて「天座の書架と白紙の勇者」完結となります。明日、あとがきを投稿いたしますのでよろしければ最後までお付き合いください。