シアトルム騎士魔導学園。日々、勇者とその仲間が研鑽を積む校舎の一角に、その場所はある。
救護室の重い扉を開けると、まず鼻を突くのはツンとした消毒液の匂いではなく、雨上がりの森を思わせる、湿り気を帯びた清涼な花の香りだった。
「――主よ、この迷える足跡に、等しき光の導きを」
窓から差し込む翡翠色の陽光を背に、一人の少女が膝をついていた。
クロエ。この世界、リベラ・オルビスにおいて、神の声を聴き、人々の痛みを癒やす『聖女』という役割を与えられた少女。
編み込まれた翡翠色の髪が、彼女が動くたびに光を反射して細かく揺れ、時折金色に輝く錯覚を起こす。祈りを捧げるその背中はまるで一枚の絵画のよう、声をかけるのをためらうほどに美しかった。
「……あの、クロエ」
ルクスの控えめな呼びかけに、クロエはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、一点の曇りもない新緑の色をしている。彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、しかし、ルクスを認めるとその眉を曇らせる。
「ルクスさん。……また、お怪我をされたのですね」
「ああ。さっきの訓練で少し……。ちょっと熱が入りすぎて、この通りだ」
ルクスがまくり上げた右腕は、どす黒い内出血と腫れで無惨なことになっていた。骨こそ折れていないようだが、動かすたびに鋭い痛みが走る。
クロエはその腕を、まるで壊れ物に触れるように、そっと両手で包み込んだ。
「大変でしたね。……でも、もう大丈夫ですよ。私が治しますから」
彼女が静かに目を閉じ、囁く。
次の瞬間、ルクスの腕を翡翠色の光が包み込んだ。
熱くも、冷たくもない。ただ、自分の体の境界線が曖昧になるような、奇妙な浮遊感。
ソフィアが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『傷が治ったんじゃない。そもそも傷なんて無かった、ということになっていたんだ』
ルクスはその書き換えの現場を、目の当たりにしていた。
内出血の紫が、元の肌色に塗りつぶされていく。皮膚の腫れは引き、裂けた細胞がパズルのピースがはまるように元通りに組み上がっていく。
わずか数秒。光が収まったとき、そこには傷跡ひとつない普段の腕があった。痛みなど、どこにもない。
「……相変わらず、すごいな。痛みも違和感もまるでない」
ルクスが腕を回してみるが、数秒前までの激痛が嘘のようだった。今までなんとなしに受けていたこの魔法も、魔法に関する知識を得た今ではとても異質なものに映る。治療を終え、しかしその奇跡をもたらした少女の表情は晴れない。
「全く……毎回、アイリスさんは手加減というものを知らないのでしょうか?ルクスさんはまだ訓練を始めたばかりなのに……」
「まぁ、そう言わないでくれ。厳しく教えてくれと頼んでるのは俺だ。その結果、怪我をするのも俺の未熟だよ」
実際、アイリスから訓練の密度を下げる提案はある。こういった少し大きい怪我をした際は特に、だ。しかし、少しでも早く強くなるため、それを退け続け、クロエの世話になっているのがこのルクスという少年である。
「もう、それならここに来る必要がなくなるくらい、強くなってくださいね?あんまり酷いようなら私にも考えがありますから」
「ぜ、善処します……」
困ったように微笑む少女。しかしその笑顔に底知れない圧が感じられる。
「良かったです。女神様も、勇者であるあなたが傷つく物語なんて、望んでいらっしゃらないでしょうから」
「女神様……ねぇ」
「女神ミュトス様はこのリベラ・オルビスを生み出し、見守ってくださっているお方。私たち、女神様の声を聴く役割を持ったものはその指先となり、世界をより善き形へ整えるだけです。悲しみ、痛み……そんなものは、この世界には必要ありません。だから私は、それらがなくなるよう、祈るのです。何度でも、どんな時でも」
彼女の口調は穏やかで、その信仰心には一分の疑いもなかった。
「……クロエ、疲れてないか? これだけの魔法を、毎日使ってるんだろ。たまには休んだほうがいい。君自身が倒れたら元も子もない」
それは、普段から世話になっているという罪悪感と、ごく当たり前の気遣いから来る言葉だった。
けれど、クロエは不思議そうに瞬きをした。それは、心底何を言っているのかわからないというような表情だった。
「休む……? なぜですか?」
「なぜって、そりゃ……クロエ自身の体だって大事にしないと」
「自分の、体……」
クロエは自分の細い指先をじっと見つめた。まるで、それが自分の所有物であることを今初めて知らされたかのような、空虚な視線。
「――考えたこともありませんでした。私は聖女。神の声を聞き、救世を代行する者。誰かを癒し、救うことが役割で、私自身なんてどうだっていいんです」
彼女の言葉にあったのは、清貧な謙虚さではなく、もっと根源的な「個人」の欠落だった。
この少女の中には、自分を守るための本能や、自分を愛する思いなど最初から存在しないのだ。
ただ、「人々を癒し、世界を救う」という機能だけが、「クロエ」という器を満たしている。
「……それでいいのか?そうやって、自分というものを削り続けて、最後には何も残らなくなるかもしれないのに」
「えぇ、もちろん。それに、私なんてまだまだなんです。シスターマリアは私などよりよほど女神様に尽くし、女神様にお声をかけられているのですから。あの方が賜る奇跡は本当に素晴らしいものなんですよ?」
「女神様に近しい者ほどより大規模な『書き換え』ができる……だったか。マリア先生の方が凄い神聖魔法が使えるってことか?」
「『書き換え』なんて冷たい言い方……ソフィアさんですね?私たちは世界がより良くなるよう、女神様に祈り、叶えていただいているだけです。齎される奇跡の大小はそのまま女神様への祈りの真摯さを表しています。女神様はいつもこの世界を見守ってくださるのですから……」
もっと優しく、温かいものなのですよ?と嗜めるように続ける。
「私は、誰かの救いや癒しになれることを、何よりも誇りに思っています。もし私の命一つで、世界の悲劇が一つでも消えるのなら――それはこの上ない幸福だと思いませんか?」
「――そうか。君は、そうなんだな」
クロエは心底楽しそうに、そして優しく笑った。
その笑顔はあまりに純粋で、それゆえに理解を拒む。
アイリスは情熱で己の役割を全うしようとしていた。
ソフィアはその知性で世界を探求し、解き明かすことを至上としていた。
だが、このクロエという少女は、聖女という役割と自分との境目が無い。狂気的なまでの「献身」はあまりにも刺激が強かった。
「……じゃあ、俺はもう行くよ。治療、ありがとう。クロエ」
これ以上ここにいてはいけないという、本能的な警告に従い、ルクスは背を向け――
――視界が、揺れた。
そこは、戦場だった。
目の前には、名も知らぬ巨大な魔物。漆黒の刃をこちらに突き出している。
回避はできない。防御もできない。
『これ』を見ているだけのルクスに、体を動かす権利はない。
一秒後の死を確信し――ひらり、と視界を横切る翠。
音もなく、翠に突き刺さる黒。そこから染め上げるように赤が溢れ出す。
少女が、両手を広げて立っていた。その背中から、刀身が突き出している。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
しかし、ゆっくりと振り返った少女の顔は安堵と喜びに満ちていた。
まるで、ようやく課せられた役割を全うできたのだと言わんばかりに。
『――、――――。――――、―――、――……』
声は聞こえない。
彼女は満足げに瞳を閉じ、崩れ落ちる。
命が尽きる瞬間、その表情はあまりにも穏やかで――
「……ルクスさん?」
聞こえた声に、焦点が現実に帰還する。
そこには先ほどと変わらない、無垢な笑みを浮かべたクロエが立っている。黒も、赤も、その身体には見受けられない。
「どうかなさいましたか? まだ、どこか痛みますか?」
彼女が心配そうに歩み寄ってくる。その足取りに躊躇はない。
差し伸べられたその手を、思わず掴む。
「きゃっ!」
「……クロエ。君は、自分のために生きたいと思ったことはないのか。誰かの、世界のためじゃなくて、君自身の物語を……」
クロエは困ったように眉を下げ、優しく首を振った。
「私自身の、物語……? そんなもの、必要ありません。私は、あなたの、誰かの物語を守るための、一文であればいい。……それこそが、私のすべてなんです」
その言葉は、絶望的なまでに強固だった。
彼女の手から伝わる温度は彼女が確かに生きていることを伝えていて……それがたまらなく異質に感じた。
「君、は……いや、いい。とにかく、治療ありがとう。もう痛みもないし、戻るよ」
「えぇ、今度はお怪我をなさらぬよう、お気をつけて」
救護室を出る。これ以上彼女と向き合っていると何かがおかしくなるような気がした。
背後で閉まる扉が、まるで自分と彼女を隔てる壁のようだった。
アイリス。ソフィア。クロエ。
彼女たちは皆、この「リベラ・オルビス」という世界の中で己の役割に殉じている。
自分は、「勇者」は、どうすればいい?
半ば流されるように世界を救うための行動を続ける自分が、酷く不安定で揺れているような感覚。
なぜ自分は「白紙」で存在しているのか。いつまでこのままなのか。その答えは未だ見つからず。
それでも、力を高め、魔王を倒し、世界に平和を取り戻す。
その目的だけは間違いじゃない、そう信じて鍛錬を続ける他ない。
廊下を歩きながら、右腕を強く握りしめた。
クロエに治してもらった右腕。痛みはもう、どこにもない。
けれど、消されたはずの傷の感触だけが、いつまでも皮膚の裏側にこびりついて離れなかった。