夜明け前の演習場。まだ冷たい空気が肺を突き刺す。
アイリスは一人、愛剣を振るっていた。
赤髪が翻り、剣が朝露を切り裂く。少女にとって、剣を振るうことは「騎士」という役割を自分に刻み込む儀式だった。
(……あたしは、騎士。誰かの盾になり、誰かを守る存在)
何度も心の中で反芻する。だが、その強固なはずの規律が、最近、別の熱に焼かれて歪み始めていることを彼女は自覚していた。
脳裏に浮かぶのは、自分に「綺麗だ」と言ってのけた、あの少年の顔。
同時、余計な力が入り、件の綺麗な剣筋は乱れていく。
(余計なことは考えない!あたしは騎士!あいつは勇者であたし達は仲間!――それだけのはずでしょう!?)
運動のせいか否か、その頬は赤く上気し、心なしか息も乱れている。近頃の少女の朝は以前と比べて精彩を欠きつつあった。
しかし、その熱は長くは続かない。
(こんなんじゃ駄目。あいつを守るのが私の役割。それすらできないようじゃ……)
熱くなったのと同じだけ、心を冷たい感情が満たす。
彼が傷つくことを想像するだけで、心臓が凍りつくような恐怖に襲われる。
(あんな未熟で、危なっかしいやつ、見ていられないわ……。もし、あたしの手が届かないところで、あいつが傷ついたりしたら――)
アイリスは剣を強く握りしめた。
騎士として仲間を守るのは当然。けれど、彼を傷つけさせたくないという想いは、もはや祈りに近い執着へと変質している。
「……あたしが、守らなきゃ」
少女の心に芽生えた思いは、世界に与えられた騎士の役割と混ざり合い、逃げ場のない決意へと昇華される。
彼を傷つけさせないためには、自分がすべての攻撃を受ければいい。彼と世界の間に、完璧な壁として立てばいい。
(それが騎士の――あたしの役割なんだから)
朝日が昇り、遠くから足音が聞こえてくる。
待ち人の姿が見えた瞬間、少女は華やぐような笑みを浮かべ、しかし、すぐに騎士にふさわしい凛とした表情に変わる。
「遅いわよ、ルクス! さあ、さっさと準備しなさい!」
困惑する少年に向けた声の裏側で、少女の心に芽生えた感情は歪な形に昇華しようとしていた。
――◇――
――そんな少女の葛藤を空の果てから女神が見つめていた。
『だいぶ感情が育ってきたわね。勇者の方も順調だし、ここからどう転がるかしら?』
その手には赤く染まった栞。少女に影響された少年の心は、もう間もなく自分の色を定めようとしていた……
――◇――
学園の裏手に広がる『修練の森』。学園によって管理されているとはいえ、ここは演習場のような安全地帯ではない。茂みの奥からは常に獣の匂いが漂い、生々しい殺意が肌を刺す。
ゴブリンの群れ、そしてそれを率いる巨体ーーオークとの戦闘が行われていた。
「……っ、そこ! 下がってなさいって言ってるでしょ!」
アイリスの鋭い制止の声が、湿った森の空気を切り裂いた。
ルクスが踏み込もうとした一歩を強引に遮るように、燃えるような赤髪が視界を横切る。アイリスは剣を構え、正面から突っ込んできたオークの巨大な棍棒を真っ向から受け止めた。
凄まじい衝撃音が響き、アイリスの足元の土が爆ぜる。見た目にはとても受け止められるとは思えないそれは、騎士の少女による巧みな剣捌きと高度な身体強化によって成立していた。――戦術的な判断から来る行動では、なかったが。
「くっ……!」
「アイリス、無理に防がなくていい!あれくらいなら俺も躱せる!」
「いいから、あんたは後ろでチャンスを待ってなさい! あたしが守ってあげるから!っ!」
アイリスは強引に押し返すと、息つく暇もなく跳んだ。その視線の先には茂みから放たれようとしている矢。コボルトーー獣のような見た目の魔物がソフィアに狙いを向けていた。
「ふっ!」
「ウインドバレッ……なっ、ちょ、アイリス! 射線が――」
ソフィアが迎撃に放とうとした風の魔弾の軌道上に、アイリスが割り込む。咄嗟に逸らした弾道は、アイリスの背中を掠めて明後日の方向へ伸び、矢を放ったコボルトには届かない。代わりに、アイリスの肩を矢が浅く切り裂いた。
肩に走る痛みも気にせず、接近してくる多数のゴブリンの前に躍り出る。強引に全てを受け止めようとし――当たり前のように止めきれなかったゴブリンが後方で構えるクロエに向かい、広く展開された防壁によって弾かれる。
「アイリスさん! 今のは私一人で防げた攻勢ですよ!」
「いいのよ、クロエ! あんたたちが傷つく必要なんてない! 騎士が前に出ている間は、一滴の血も流させないって決めてるんだから!」
仲間に向かう攻撃全てに過剰に反応するアイリス。これまでとまるで違う彼女の動きに、他三人もどう動くか決めあぐねていて、その間にも魔物たちは集まってくる。
「――仕方ないっ!フレアストーム!」
普段森では延焼を恐れて使わない大火力の範囲魔法を放つソフィア。緻密に制御されたそれは魔物がいる範囲のみを焼き払ったが、植物への引火は避けられない。木々が燃え、一帯の空気が淀みを増す。ソフィア自身、余計なリスクを避けるため、使うまいと思っていた手札を切った形だ。
「――ここだっ!」
前衛に出ることなく押し込められていたルクスが、一瞬のスキをついてオークの喉元を切り裂く。それで戦闘は終了した。
「鎮火する。離れてろ!」
周囲についた炎にソフィアが水を浴びせ、風を吹かせて空気を入れ替える。それでようやくひと段落。
静寂が戻った森。だが、4人の間に漂うのは、勝利の達成感ではなく、ひりつくような拒絶の不協和音だった。
肩で息をするアイリス。その傷ついた体を癒す困り顔のクロエ。不満を隠そうともしないソフィア。困惑に満ちたルクス。
「……アイリス。やりすぎだ。これは演習じゃない、実戦なんだぞ」
ソフィアが歩み寄り、治療を受けているアイリスの腕を掴む。仲間への攻撃を受け続けた彼女の腕は傷つき、微かに震えていた。
「やりすぎ……? 何がよ。あたしは騎士の役割を果たしただけ。みんなを守って、敵を倒す。これのどこが間違ってるって言うの?」
「限度があるだろう。私たちだって自分の身を守る術を持っている。過剰な庇い立ては全体の動きを乱すぞ」
治療が完了し、ソフィアの腕を振り払う。頑なな少女に、ルクスも声をかける。
「……君が全部抱え込んだら、俺たちの連携は繋がらない。俺も、ソフィアも、クロエも、ただ君の背後で守られるだけの置物じゃないんだ。俺だって少しは剣を振れるようになったし、身体強化も使えるようになった。前衛の役割だって――「あんたなんてまだまだよ。」――っ!」
「――前に出て、死んだら、取り返しがつかないのよ?」
そう告げる少女の目には普段の輝きはなく、恐怖に揺れていた。
「……過保護が過ぎるんじゃないかい?痛みで覚える――なんて非論理的な根性論を唱えるつもりはないが、やらないことには始まらないだろう?このままじゃ君が一人で傷つき、ルクスは魔物に止めを刺すばかりじゃないか」
「……あたしは騎士なのよ。誰かの身代わりになれるなら、それが本望なの。いいじゃない、それで。あんたたちは傷つかなくて済むんだから」
アイリスは事も無げに言った。
彼女にとって、自己を犠牲にしてでも他者を無傷に保つことは、騎士としての義務であり、誉なのだ。
「ま、まぁまぁお二人とも落ち着いて!アイリスさんだって自分の役割を果たそうと頑張ってるわけですし!傷だって私が治しますから、ね?」
仲裁に入ろうとするクロエ。鼻を鳴らして矛を収めるソフィアだが不満気な表情は晴れない。
騎士の少女の歪な献身を、ルクスはただ見つめることしかできなかった。
実戦訓練を終えた午後、一行は消耗品の補充のため、学園近郊の街『オルトゥス』へと繰り出していた。
活気ある市場、穏やかな市民、焼きたてのパンの匂い。平和な街並みはぎこちない空気をほんの少し和らげてくれる。
「今までしっかりとこの街を見たことはなかったけど……綺麗だな、この街は」
ルクスが呟くと、クロエが自信に満ちた目で言う。
「当然です。ここは女神様が望んだ、勇者の旅路が始まる街なのですから」
広場では大道芸人がジャグリングを披露し、子供たちが歓声を上げている。
一人の老人が、ルクスの横を通り過ぎる。老人はルクスに目を向けると、柔和な笑みを浮かべて会釈をした。
空の青。並べられたリンゴの赤。石畳の質感。
すべてが、誰かに「見てほしい」と主張しているような、鮮やかすぎるほどの完成度。
(俺たちが魔王を倒さなければこの街も……負けられないな)
守るべき美しいものがそこにはあった。尊い人々の営み。正に、『平和な街』といった風景。
「――っ!?」
――視界が、揺れる。
美しい街並み。
通りを行く人の波。
そこには、「顔」がなかった。
目に映る者すべてが例外なく凹凸のない平面を顔の位置に張り付けている。
視界が動く。
隣には青い髪の少女。
驚愕そのもの、といった表情が見える。
視界の端には相変わらず顔の見えない人々。
「――、――――――」
呆然と何かをつぶやく少女はこちらを見て――
「……ルクス? どうしたんだい? 妙な顔だが」
ソフィアが怪訝そうに覗き込んでくる。その表情に垣間見た光景が重なって見える。
辺りを見回せば先程と変わらない平和で美しい街。もちろん人々にも表情がある。
ルクスは首を振って、無理に笑みを作った。
「いや、なんでもない。……この街も、ちゃんと守らないと、と思ってさ」
「……そうね。世界も、そこに生きる人々も、しっかり守りぬきましょう」
久方ぶりのアイリスの発言。
やや硬さを残してはいたが、その言葉に頷かない者はいなかった。
――◇――
『さて、そろそろ物語を大きく動かしてほしいところね』
世界の外側から、小さな波紋が届こうとしていた。
――頁が捲られる。
――◇――
買い出しの最中、各自で別れたときのことだった。
――ガタリッ。
腰に佩いた『無銘の剣』が、鞘の中で鋭く震えた。
「……?」
(気のせいか?今……)
リベラ・オルビスに届けられた波紋。それはかすかな違和感を残し、しかしその正体は掴ませない。
――同時刻。
「……承りました。全ては女神ミュトス様の思し召しのままに」
学園のどこかで、マリアがつぶやく。
シスターとして、神託を遂行するため、動き始めるのだった。
それは、モラトリアムの終わり。舞台の幕が上がり、否応なく世界は危機に晒される。
それを覆せるのは……
「……何かが、来る」
導かれるように走り出す白紙の勇者か。
「これは……?」
未だ揺れ動く心を役割で塗り固めた赤の騎士か。
「なんだ?……『修練の森』の方か?」
世界の揺らぎを感じ取った青の賢者か。
「女神様、どうかご加護を――」
女神の使徒として祈りをささげる翡翠の聖女か。
物語の結末は、未だ神すらも知らず、不定のまま揺れ動いている。
――ピキリ、とひびが入る音。
『修練の森』の奥深く、怪しく光る紋様。
そこから、影が溢れ出していく。
形を持った影、それは無数の魔物となり、動き出す。
その先頭、一際大きな魔物――ゴブリンキング。
侵攻が、始まる。