――走馬灯というものは、本当にあるのだと思った。
ゴブリンキングの苛烈な攻撃を紙一重で捌きながら、アイリスはそれを見ていた。
頭に浮かぶのは学園での日々。
理屈っぽい言葉を並べて肉体トレーニングから逃れようとする青い少女の顔。
穏やかに微笑み、傷の手当てをしてくれた翡翠の少女の顔。
そして。
記憶も役割も知らずに立っていた、白い少年の顔。
浮かぶたび、温かい感情を思い出す。そして、それを今から失うのだという実感も。
(……怖い)
心の奥底で、少女が呟く。
死が怖い。痛みが怖い。消えてしまうことが、怖い。
やりたいことが、まだある。食べたいものが、まだある。見たい景色が、まだある。
(でも、あたしは、騎士だ)
騎士は怖がってはいけない。
騎士は仲間より後に死んではいけない。
騎士は――誰かの盾でなければならない。
騎士の役割が、少女の心を押し潰す。
役割が、感情を塗り固める。
恐怖に、誇りで蓋をする。
それが彼女にとっての「正しい結末」だった。
(ごめんなさい、ルクス、ソフィア、クロエ。でも、あんた達が生き延びてくれるなら――この命にも意味があったってことだと思うから)
刃が迫る。
もう防ぎきれない。
目を閉じる。
だからこそ、少女は気づかない。
――彼女の前に飛び込んできた白紙の少年の存在に。
巨大な刃が、騎士の少女へと迫る。
回避も、防御も、間に合わない。
誰の目にも、そう見えた。
アイリス自身にも。
――ただ一人、何も諦めていなかった一人の少年を除いて。
「――させるかっ!!」
轟音と共に、衝撃が世界に響く。
目を開けるアイリス。
そこには、ルクスがいた。
『無銘の剣』を両手で構え、ゴブリンキングの刃を真正面から受け止めていた。足元の石畳が砕け、後退する体を必死に踏み止める。
「な……っ!?なんで逃げなかったの!?逃げろって言ったでしょう!?」
自分の決死の行為は無駄になるのか、とアイリスの心に絶望が浮かぶ。
「ふざけるな!」
対し、ルクスは吼えた。
それは、これまで聞いたことのない声だった。荒削りで、不器用で、それでいて真っ直ぐな、怒りの声。
ゴブリンキングを強引に押し返し、距離を取る。荒い息の中でルクスはアイリスを振り返った。
「逃げて、どうなる」
「どうなるって……生きるのよ!あんたは勇者なんだから絶対に死んじゃいけないのに――」
「君を置いて逃げて、俺だけ生き残って、それで何になる」
静かな声だった。
先程の怒鳴り声より、ずっと深いところから来る言葉。
「俺には記憶がない。役割もよくわからない。なんのために戦うのかも、まだ殆どわかってない」
ルクスはアイリスを見た。
「でも、一つ、わかってることがある」
ゴブリンキングが地を踏みしめ、再び構える。その殺意が空気を歪める。それでもルクスの視線はアイリスから離れない。
「俺は、君と生きたい。この世界で、君とともに歩んでいきたい。今は、それが俺の戦う理由だ!」
アイリスは、息を飲んだ。
「君が死んで俺だけ生き残るのは、俺にとっての負けだ。騎士がどうとか、勇者がどうとか、そんなことどうだっていい――俺は、アイリスに生きていてほしい」
かつて、白紙の勇者の中で、初めて明確に形を持った、原初の願い。今、それが明確に一つの形を成す。
その瞬間。
『無銘の剣』が、熱を持った。
じわりと、根元から。まるで長い眠りから目を覚ますように。
白かった刀身が、赤く染まり始める。主の願いを賞賛するように。
薄紅から、緋色へ。緋色から、真紅へ。その感情の純度が高まるように。
それは、勇気の色だった。あるいは、情熱の色だった。
記憶も経験も持たない少年が、それでも確かに手に入れた、一つの色。
(――『アペリトール』?それが、この剣の本当の名前……?)
ルクスの脳内に自然と浮んだ銘。
その聖剣の銘は『アペリトール』。定められた運命を、その情熱で切り拓く聖剣。
アイリスが瞠目する。
「その剣……っ」
「――っ」
ルクスの体に、熱が流れ込んでくる。
以前の、世界から色が抜け落ちた時のような、しかし、それと比べ物にならないほどの力。全身の細胞が書き換えられるような感覚。それらが怒涛のように流れ込んでくる。しかしそれだけではない。
聖剣が、語りかけてくる。
運命を切り拓く力が、今この手の中にある、と。
あの少女を必ず守るのだ、と。
ゴブリンキングが踏み込んでくる。
ルクスは迅速に対応する――これまでとは、別次元の速度で。
動作そのものはなんの変哲もない。ただし、ルクスが付け焼き刃で習得した身体強化、それによる動きとは桁が違う。それどころか、アイリスの練り上げられた技術による身体強化すら飛び越える密度の強化を、真紅の剣は齎していた。
ゴブリンキングの剣が空を切る。
ルクスは既にその懐に踏み込んでいた。
「グォ……ッ!?」
ゴブリンキングが、初めて怯んだ。
連続する剣閃。最小限の動きで急所を叩き、巨体の固い表皮を抜いて斬撃を通していく。それはアイリスの振るう美しい剣とは異なる、原始的な、しかし圧倒的な効率の剣だった。脳に直接書き込まれるかのような、戦闘経験の獲得。聖剣から流れ込み、不気味なほどに自身に馴染むそれの詳細はわからないが、今はそれに頼る他ない。
「ガァッ!」
「……ちっ!」
ゴブリンキングが巨体を回転させ、広範囲に薙ぎ払ってくる。
強引に距離を空け、仕切り直しを図るゴブリンキング。その目にはもはや一切の油断はなく、自らを殺し得る相手としてルクスを睨みつけている。
(くそっ、手が足りない……!こいつを殺し切るよりも俺が動けなくなる方が早い……!)
聖剣の覚醒から尋常ではない動きを見せるルクスだが、その前に刻まれた傷や疲労が無くなったわけではない。聖剣から流れ込む経験に基づく戦術判断は、正確に、冷酷に、主の敗北が近付いていることを告げていた。
「……何よ、あれ……」
アイリスは呆然としたまま立ち上がれずにいた。
受けた傷が痛む、それもある。だがそれ以上に、一度死を受け入れようとした体は戦意を失い、思うように動かない。
(突然剣が赤く光ったと思ったらとんでもない力と身のこなし……あの時と似てるけど、あの時よりもずっと強い!)
凄まじい力で巨体と切り結ぶルクス。その姿は勇者と呼ぶに相応しく、あれ程までに驚異だった魔物と互角にやり合っている。
(……そっか。もうあんたは……あたしに守られる存在じゃなくなったのね。あたしなんかいなくても、どこへだって行ける。あたしの役目は終わった……)
――ズキリと胸が痛む。体表の傷ではない。もっと奥底からくる痛み。
(もうあたしにできることなんてない。あたしは騎士なのに、守るはずのあたしが守られるはずのあいつの背にいる。体も動かない。見守るしかできない……)
痛みは治らない。それどころかどんどんと熱を持ち始める。
(この痛みは何?この熱は何?騎士としての役割も果たせないあたしに何があるっていうの?)
必死な形相で少女を守る少年。その顔を見ると、不意に先程の言葉が脳裏に蘇る。
『俺は、君と生きたい。この世界で、君とともに歩んでいきたい。今は、それが俺の戦う理由だ!』
自身の戦う理由を叫ぶ言葉。
『君が死んで俺だけ生き残るのは、俺にとっての負けだ。騎士がどうとか、勇者がどうとか、そんなことどうだっていい――俺は、アイリスに生きていてほしい』
(あぁ、これって……)
それは「騎士」ではなく「アイリス」に向けられた言葉。ただただ純粋に、情熱的に、少女の生存を望む言葉。
胸の熱が増していく。
(あたしも似たような事を思ってた。あいつに生きていてほしい。傷つかないで欲しい。――叶うなら、いつまでも一緒に生きたい、って。)
それは彼女の中に芽生えていた感情。騎士としての心で覆い隠されていた。一人の少女としての純粋な願い。
動かなかった体に力が満ちていく。
(――そうだ。あたしが騎士だからじゃない。始まりはそうだったとしても、あたしはあたしの意思で!心で!あいつを守りたいと思った!この気持ちに嘘はない!)
立ち上がる。
剣を握り直す。
騎士の役割としてではなく。
彼女自身の願いのために。
再び少女は戦場へと走り出すのだった。
「――ガァァァアア!!」
(……不味いな。本格的に動きが鈍ってきた……後もう少しなのに……!)
気力と勢いで誤魔化していた体が限界を訴え始めている。目の前の相手は弱ってきてはいるものの未だ健在。
(勝ち筋が見えない……!それでも、負けるわけにはいかないんだよ!アイリスと、彼女と!この先も生きていくために!)
背後にいるであろう少女を想う。彼女の生存を勝ち取るためにはこの魔物に勝利する他ない。
(一瞬、一瞬でいい。魔力を溜めて全力の一撃を当てるだけの隙があれば……!)
「グラァ!」
「しまっ!?」
ほんの一瞬の間隙。巧みに受け流し、防御していたルクスの意識の隙間に、鈍い光を放つ巨大な刃が入り込む。
(まずっ、これ、死――!)
もはや防ぐ術はない。少年に覆せない死が迫り――
「ルクス!」
「ガァッ!?」
アイリスの声。
赤い尾を引いて、少年に迫る刃を受け流す少女。
返す刀で一撃入れ、その巨体を僅かに後退させる。想定外の闖入者に、警戒を強めるゴブリンキング。
「助かった!……けど、体は大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないわよ。もうかなり限界。あと一回か二回あれを受け流すのが限度ってところね」
自分の限界をあっさりと吐露するアイリス。騎士の役割に固執していた彼女からは想像もできなかった言葉に目を見開くルクス。
「……何よ、その顔。……なんてね、わかってるわ。あたしらしくない、騎士らしくないってのは。でも今のあたしは、騎士として、じゃなくてアイリスとして、あんたを守りたいと思ってる。そのためなら自分の弱みくらいいくらでも見せてやるわよ」
晴々とした表情。騎士ではなく少女の顔であった。
「……で?あたしの力があればあいつに勝てるの?勝てないっていうならあっちで寝てる二人を拾って死ぬ気で逃げることになるけど」
冗談めかして、しかしこれまでなら絶対に言わなかった言葉を紡ぐアイリス。
「いや、勝つ。あんなのを街中に放置しては行けない。後一撃、大きいのを入れれば倒せるはずなんだ。でも、その隙がなかった……」
「つまり、あたしがその隙を作ればいい、と」
「……できるか?」
「あんたに剣を教えたのは誰だと思ってんのよ。そのくらい、こなしてみせるわ」
そう言って笑顔を見せる少女。
「あんたが言ったのよ?一緒に生きるために戦うんだって。あたしだってあんたと一緒に生きていきたい。こんなところで死ぬつもりはもう無いわ!」
「……あぁ!頼んだ!」
「任せなさい!その代わり、きっちり一撃で仕留めるのよ?」
「わかってる!」
最後にそう言って、別れる。
少女は前に。少年は後ろに。
少女は攻撃を捌くために構え、少年は魔力を溜め始める。
「ガァァァ!」
少年から発される尋常ならぬ気配に、様子見を切り上げ突撃を選ぶゴブリンキング。目の前に立ちふさがる少女にその暴威を向ける。
「はぁっ!」
一撃、まずは受け流す。続けて二撃目、体勢を崩しながら横に弾く。
宣言通り、二回の攻撃を防いだアイリス。決着は彼女の背後で魔力を溜め切った、ルクスの手に託された――
(チャンスはこの一回きり。絶対に失敗できない)
聖剣から流れてくる知識。その中にある今の自分が放てる最大の一撃を構えるルクス。
聖剣に魔力を叩き込んでいく。聖剣を通して高密度の身体強化が施され、更に聖剣自体にも強化が行われていく。
より多くの魔力を込められた聖剣はその輝きを増し、解放される時を今か今かと待ち望んでいる。
「――今よ、ルクス!」
「――ああ!」
アイリスが向けられた刃を真横に弾き飛ばす。
それに釣られ、体勢を崩すゴブリンキング。
――これ以上ない程の好機!
正面から突っ込み、真紅に輝く剣を振り下ろす。
「これで、終わりだぁぁ!」
過剰に強化された聖剣は強固だった肌をあっさりと切断し、その体内にある心臓を砕く。
重い音が広場に響く。
ゴブリンキングが膝をつき――そのまま、霧と消えた。
街に、静寂が戻った。
二人は肩で息をしながら、互いを見た。
「……終わった、か」
「……ええ」
アイリスの膝が、わずかに揺れる。ルクスが咄嗟に腕を伸ばし、その体を支えきれず二人して倒れ込む。
「ルクスさん!アイリスさん!」
クロエが駆けてくる。その後ろに、ソフィアがふらつきながらついてくる。二人とも、意識が戻ったらしい。
「二人とも、すぐ治療します!じっとしていてください!」
翡翠色の光が、二人を包む。
傷が消えていく。痛みが消えていく。流した血が、なかったことになっていく。今日の戦闘で生まれたあらゆる痕跡が上書きされていく。
しかし、アイリスは気づいていた。
この戦いで生まれたものでも、消えないものがある。
ルクスの言葉が、胸の奥に残っている。
君と生きたい。そのために戦う。
(あたしは……)
騎士の役割を全うすることが、自分の正しい結末だと思っていた。誰かのために死ねることが、誇りだと思っていた。それは今も変わってはいない。
でも。
彼は言った。
君に生きていてほしい、と。
役割でも、騎士の誉でも、義務でもなく。
ただそれだけを、望んでいると。
「……っ」
目頭が、熱くなる。
「アイリスさん?痛みますか?どこか――」
「違う……の」
クロエが心配そうに覗き込む。アイリスは首を振った。
「痛くない。痛くないのに……なんで」
涙が、一粒、頬を伝った。
それは、騎士には流せない涙だった。
騎士の仮面が崩れ、一人の少女の本音が顔を出す。
「……怖かった。本当は、ずっと、怖かった」
声が震える。
「死にたくなかった。消えたくなかった。でも騎士だから、そんなこと言えなくて……役割に殉じることが、正しいって、そう思い込もうとして……」
「アイリス」
ルクスが静かに呼んだ。
「泣いていい。君は間違いなく騎士だけど……それは、誰にも弱みを見せちゃいけないってことじゃない、と思う」
その一言で、堰が切れた。
少女は声を上げて泣いた。
長い間、ずっと押し込めていたものが、一度に溢れ出すように。
それは重圧に押しつぶされていた一人の少女の、当たり前の涙だった。
少しして、泣き止んだアイリスは、少し恥ずかしそうに目元を拭った。
「……わ、忘れてくれない……?」
「いい泣きっぷりだったよ」
ソフィアがからかうように肩をすくめた。
「努力はするけど……」
苦笑するルクス。
「ふ、二人とも……!」
オロオロするクロエ。
間の抜けたやり取りに、顔を見合わせ笑う。戦いが終わり、日常が戻ってきた証であった。
残党がいないか確認してくる、とソフィアがクロエを伴って広場を去った後の事。
「……ルクス」
アイリスが、正面からルクスを見た。
その目に、もう恐怖はない。役割の鎧もない。
ただ、一人の少女の目がある。そして、改めて伝える。
「あたしも……生きたい。あんたと、生きたい」
ルクスは少し間を置いて、頷いた。
「ああ、俺もだよ」
それだけで足りた。
夜が、少しずつ明けていく。
真紅に染まった剣は、静かに光を収め始めていた。しかしその色は消えず、ルクスの手の中で確かに残っている。
白紙の勇者が初めて手に入れた、自分の色。
それは今も、静かに輝いていた。
――◇――
――そんな美しく、感動的な一幕を、世界の外側から眺める女神が一柱。
『――素晴らしいわ。強大な敵、絶望的な状況。そんな中であんなにはっきりと自分の願いを叫ぶなんて!しかも、ちゃんと勝利するなんて!』
興奮気味に感想を吐き出していくミュトス。
『悲劇的な展開や結末はいくらでも見てきたけど、こういうハッピーエンドもやっぱりいいものね!こんなに美しい感動を与えてくれるなら、先がますます楽しみだわ!』
その手元には鮮やかな真紅の光を放つ栞。ミュトスはそれをうっとりと眺める。
『美しいわ……この輝きがずっと続けば良いのに。そのためにも、この先を読ませてもらうわよ。あぁ、本当に、楽しみだわ……』
――頁が捲られる。