彼方の光芒 作:総流し
草原を揺らす風。穏やかに流れる川面。小気味よく跳ねる小さな魚が、少しだけあたりの静寂を崩す。太い雲が蒼天を流れる。その隙間から、一筋の光が大地に差し込んだ。
数刻前から土に尻をつけ、無心に釣り糸を垂らしている若い男がいる。名を、劉琦という。
「劉琦様。やはり、こちらでしたか。また、供をつけずにおひとりで」
「なにも、問題はないだろう。私がどこをふらつこうと、誰も気にしてはいないさ。それに、いつも言っているだろう、黄祖。こんな男に構っても、損をするだけだと」
女の声に、川面を見つめたまま劉琦が返す。そっけなくあしらわれても、黄祖は帰ろうとはしない。少し湿り気を帯びた気配。肩に手のひらが近づいているような気がしたが、音もなく離れていく。
細い指で竿を握り直す。それでいい、と劉琦は心中で呟いた。気にかけてもらったところで、自分には報いてやる術がない。家中において居場所などほとんどなく、あるのは荊州牧の息子だというお飾りの事実だけ。たまたま生まれる順番が早かっただけで、自分の扱いは庶子同然となっている。
「クククッ……。それは、無理な相談です。一度見つけてしまった以上、捨て置けませんな。おい、魏延。劉琦様に、ご挨拶を」
黄祖の後ろから、さらに気配が現れる。知らないものだ。観念したかのように、劉琦が身体の向きを変えた。
大きな瞳。鍛え上げた肉体。先だけが白い黒の短髪が、魏延と呼ばれた女の快活さを示しているようだ。
「あー、なんだ……。魏延です。劉琦様の護衛につくよう、黄祖殿から言いつかりました。一応、よろしく」
「おい、貴様。いますぐ、その腐った態度を改めろ。劉琦様に傷ひとつでもつけた日には、ふふっ、そうだな……」
やる気なく頭を垂れた魏延の耳を、氷のように冷たい黄祖の声が刺す。
黄祖は冷酷非情な人物だと、荊州では通っている。襄陽で武官をしているのなら、噂は魏延も承知しているはずだ。
確かに、黄祖に対する評価が間違っているわけではない、と劉琦は思う。家中でも、よりつく者はあまりいないと聞いている。それは父である劉表も同じで、能力を買っているからこそ地位を与えているだけに過ぎない、という話を人伝に聞いたことがある。
だが、ある側面だけを捉えて、人を語るのは簡単なことだ、と劉琦は思う。白い顔をじっと見つめる。恥ずかしそうに、黄祖が視線を外した。
「うえっ!? い、いや、これはそのっ。も、申し訳ない。非礼は詫びる。だけど、私はなにも知らないんだ、あんたのことを。毎日毎日、城を抜け出す遊び人。襄陽の人間は、そのくらいのことしかわかっちゃいない」
「素直なのだな、おまえは。普通なら口にしないことを、平気で言えてしまう」
「ふっ、ふふっ……。馬鹿な猪だと思ってはいたが、まさかこれほどまでとは。劉琦様、しばしお待ちを。いかなる手を持ちましても、こやつを調教してご覧にいれましょう」
「ま、まま、待ってくれ、黄祖殿。あの、さっきのは、つい口が滑ったというかなんというか!」
逞しく映っていた魏延の身体が、たちまち小さくなっていく。黄祖の眼は本気だ。やるとなれば、徹底的にやる。そうした危うさのある女が、自分に懐いていることがいまになっても不思議でしかない。
「脅かすのはそのくらいにしておけ、黄祖。魏延がいれば、退屈せずに済みそうだ。しばらく、借りてよいのだな」
「はっ。煮るなり焼くなり、どうぞご自由に。あとの処理は、この黄祖がすべて請け負いますゆえ」
震える魏延は、まるで借りてきた猫だった。尻を蹴りつけてから、黄祖が自分に向かって拝礼する。今度こそ、帰る気になったようだ。実際、暇な身ではないのだから、いつまでも油を売っていられない。
「心配は尽きませぬが、私はこれにて。それでは、劉琦様」
「気にかけてくれたこと、感謝する。だが、ほんとうに」
「ククッ……。私のしつこさを、侮られませぬよう。また、参ります」
独特の言葉で締めくくり、黄祖が城に帰っていく。気配が完全に消えるまで、魏延は周囲を警戒したままだった。
†
揺れることのない竿先を眺める。魏延は大人しく座っていることに飽きてしまったのか、武器を振って稽古に励んでいた。
いつもと少し違う日常。これも、たまには悪くない。ただし、黄祖が満足したところで、魏延は護衛の役目から外すつもりだった。
「なあ、劉琦様。それ、いつになったら釣れるんだ」
「さて。餌もなにもない仕掛けに食いつく変わり者の魚など、果たしてこの世にいるかどうか」
「はあ? 変わり者なのは、あんたの方じゃないか。しかも、これを毎日なんだろ。変わり者を通り越して、狂人だな」
「それでも、いまある地位を捨てきれない。執着があるのかもな、私にも」
魏延には、感じたままの言葉で返すように伝えてある。黄祖は怒るだろうが、自分にとっては貴重な経験だった。
家。領民。そして、荊州の今後がどうなっていくのか。現時点ではどうにもできない自分が、考えることに意味などあるのか。戦乱の世の中で、様々なことが変化していく。数百年続いてきた漢の歴史も、変革の時期を迎えているのだろう。
「いっそのこと、天が相応しき誰かを遣わしてくれぬかな。すべてを愛し、また、愛されるような好人物がよい」
「ふうん。馬鹿なこと考えたりするんですね、劉琦様みたいな人でも。私には、よくわからないな。守るためには、力がいる。それだけですよ、乱世なんてものは」
そうだな、と劉琦が笑う。魏延の言葉には、真っ直ぐな正しさがあるのだ。
乱世を静かにやり過ごそうとするには、荊州は豊かすぎる。人に優れ、土地に優れているせいで、おおよそ放っておいてなどもらえない。
父のもとで纏まっている間は、まだいい。自分さえ波風立てず暮らしていれば、荊州はうまく回っていくだろう。弟の後見人のように振る舞う蔡瑁だが、それだけの力があることは事実なのだ。
「私も、いつかおまえのように生きてみたいものだ。そのときは、魏延」
「え? なんですか、劉琦様」
「いいや、なんでも。ちょっと、風が騒いだのだろう」
答えなどあるはずがない。わかっていても、天を見上げずにはいられなかった。眩い光。手をかざしてみても、隠しきれないほどの眩さだった。