彼方の光芒 作:総流し
結局、屋敷に帰るまで魏延はついてきた。
中途半端に役目を終えて、黄祖になにかされてはかなわない。そうした内容の話を、あっけらかんと護衛対象である自分にできるのだから、魏延はなかなかに肚が据わっているとも言えるのか。
「明日の朝、また参りますので。……念押ししておきますが、ぜーったいに、逃げたり隠れたりしないでくださいよ。どうせ、釣れやしない竿をかついで、お出かけになるんでしょう?」
「わかっているとも。それで、一日一緒にいて、私はそんなに迷惑をかけそうな男に見えたのかな、魏延」
「あー、いやっ。それはその、この場のノリというか」
後頭部を撫でながら、魏延が大声で笑う。
自分はからかわれているのだろうか、と劉琦が首を傾げる。とはいえ、蔡瑁の一派が向けてくるような、侮蔑を含んだ眼差しとはまったく違うのだ。
ひとしきり笑って、魏延が真顔にもどっている。
それにしても、と劉琦が再び考えるように首を傾げた。黄祖とはあまりにも毛色が違いすぎて、どのような経緯で魏延が護衛に選ばれたのかさっぱりわからない。
自分たちの話し声に気づいたのか、屋敷の方から足音が近づいてくる。見知った顔だ。劉琦が右手を差し上げると、相手も振り返す。
璃々。弓の名手と名高き黄忠のひとり娘。そして、劉琦にとっては実の弟よりも、よほど兄弟としての情を感じる存在なのである。公式には黄叙と名乗っているものの、璃々はいつまでも璃々のままだった。
「あっ。
「ただいま、というのもおかしな話だ。ここは私の家なのだぞ、璃々」
「えへへー。だいたいおんなじだから、いいの。ねっ、早く入ろ。お母さんも、来てるんだよ」
親しく真名で呼ばれると、心に温かなものが拡がる。焔耶というのが、魏延の真名なのだろう。どの程度の友人なのかは知らないが、軽口を叩ける間柄ではあるのだろう。それで、今回の騒動の枠組みが掴めてきた。
自分が生まれてからほどなくして、母はこの世を去ったのだという。物心がついた頃には、ひとりだった。父とはあまり会うこともなく、幼い弟は蔡瑁たちに囲まれている。そんな状況でも捻くれずに済んだのは、掛け値無しに愛をくれた黄忠のおかげだというほかない。後になってから、黄忠を乳母としてつけてくれたのが父だと知った。それで、親子の絆はどうにか切れずにいる。
いつものように璃々が腕を抱いてくる。やわらかな膨らみ。まだまだ子供だと思っていた璃々も、近頃一段と女らしくなった。あんなに小さかったのに、母親に似て背も伸びた。この分だと、弓の腕も日々上達しているのだろう。
それに比べて、進むべき道すら見えない私は。
劉琦の表情が険しくなりかけたところで、魏延が小さく舌打ちをしながら背中を叩く。粗雑なようで、観察するべきところはできているのだ。
「話を戻すが、璃々。私の扱いが、少々雑すぎやしないか。親しき仲にも礼儀ありだ。年長者はしかと敬え」
「えー? いきなり年寄りくさいこと言って、悪いものでも食べたの、焔耶ちゃん。めっ、って言ったでしょ、拾い食いしちゃ」
「ぐ、ぐぬぬっ。誰が、野良犬以下の節操なしだと……!」
「それにそれにー。私、おっぱいだって焔耶ちゃんよりも大きいし。ねえ、兄様?」
腕を包んでいるやわらかなものが、自在に形状を変化させる。
残念なことに、魏延は璃々の手のひらの上でいいように転がされている。手玉に取られているのは自分も同じなのだから、強く言えるようなことはなにもない。
「そのくらいになさい、璃々。劉琦様の前で、はしたないでしょう」
静かな響きを宿した声。黄祖とはまったく異なる性質だが、場の空気を引き締めるだけの重みがある。
黄忠。育ての母と呼ぶべき女性だった。大人になった現在でも、関係は途切れず続いている。黄家にとってはよくないことだと理解しながらも、断ち切れずにいるのは自分の中にある甘えがそうさせているのだろう。
「紫苑。黄祖に魏延を推挙してくれたのは、おまえなのだな」
「ご推察の通りです、緋桜様。若手武官の中にもあなたの理解者が必要だと思い、ついお節介を焼いてしまいました。ちょうど、黄祖殿が適任者を探しておいででしたから」
他の二人が静かになったのを見計らって、黄忠が優しく真名で呼び返してくる。着物にかかる髪を払う所作ひとつとっても、なにか風格のようなものが滲み出る。それこそが、歴戦の兵たる証だった。
勿論、劉琦は黄祖の真名を知っている。それでも、当人が外で使うことを控えているのだから、不在の場で呼ぶことは適切ではなかった。案外、真名に対する考えは古風な女なのだ。
「いかがいたしましょう、緋桜様。お節介ついでに、魏延ちゃんの分の食事も用意してあるのですが」
「いつまで経っても敵わないな、紫苑には。魏延さえよければ、私はそれでよい」
「おっ、だったら馳走になります。川にいるときは退屈すぎて忘れておりましたが、どうやら腹が空いていたようでして」
どこまでいっても、魏延は魏延だ。
「兄様といることが退屈? だったら、明日は璃々が代わってあげようか?」
「ええい。いちいち鬱陶しい絡みをしてくるんじゃない、がきんちょめ」
本気とも取れるような提案をしてくる璃々のことを、魏延が手で払いのける。
ふと、黄忠が肩に触れてくる。二人の喧騒。穏やかに眺めながら、劉琦は自然とほほ笑んでいた。母として、あるいは国を守る軍人として、黄忠はこの光景をどう感じているのだろうか。視線を少し動かす。美しさと凛々しさが同居している横顔。もしここに黄祖がいたならば、きっと露骨に嫌な顔をしているに違いない。周囲を睥睨するような切れ長の眼と、威圧を含んだ暗い闘気。天真爛漫な璃々であっても、あの毒を受けてしまってはいつまでもはしゃいでいられない。
同じ荊州を愛する者同士、こうまで違うのだから人とは面白いではないか。
「ご安心ください、緋桜様。貴方様の側には、いつでもわたくしたちがいます。ですから、どうか」
迂闊なことを口にしそうになる心を、手を重ねることで鎮める。黄忠も、それ以上はなにも言わなかった。