彼方の光芒 作:総流し
薄暗い寝所で、女がひとり横たわっていた。
くぐもった声。言葉にならない呟きが、水面に浮かぶ泡沫のように消えていく。細くしなやかな指が、肌を撫でる。考えるのは、忠節を捧げる男のことだけ。深く、虚空の先を見つめているような瞳を思い出す。そこには、本当ならば荊州の未来があるはずだった。
湿った衣が少し鬱陶しくなり、黄祖は顔を歪める。
この苦しさを、忘れてはならない。爪の先が肌に食い込む。熱い吐息。口から洩らす度に、黄祖は表情を恍惚に変えていく。すべては、いつか訪れる夜明けのために。そのためにも、闇は闇である必要があるのだ。
緋桜様、と小さく真名を呼んでみる。それだけで、手足の先まで甘美な痺れが駆け抜けていく。
自ら作り上げた檻に収まっているのが、劉琦だった。劉家の、ひいては荊州のために、劉琦は理性でおのれを縛り上げている。表面上、この荊州が平穏を保っていられるのは、そのおかげだった。それでも、と黄祖は指に力を込める。いずれ、劉琦の命をつけ狙う獣が、檻の隙間から牙を覗かせる。
蔡瑁の一派。劉表麾下では随一の勢力を誇り、武力もある。だが、所詮は欲にまみれた存在だった。正式に劉琮が家督を継ぐことになれば、叛乱の火種として劉琦は間違いなく排除される。
当人がどれだけ静かにしていようと、存在そのものが目障りになってくる。血とは、そういうものなのだ。
「はあっ……。はっ、ははっ……」
だから、誰かが常に刃を研ぎ澄ましておかなければ。
荊州の在り方を狂わせ、劉琦の輝きを汚す者には死を。私は影。闇は、光さすところにしか生まれない。
†
その日も、劉琦はいつものように水面と向き合っていた。
背中からは、魏延が大きな武器で風を切る音が聴こえる。無骨でありながらも、律儀な従者だ。毎朝屋敷の門前で待ち構えられていては、逃げる術もない。それで、どうせならとこの頃は早くから弁当を用意して、出向いた先で魏延と食べるようになっている。
黄忠から料理の手ほどきを受けているおかげで、作るものには自信があった。これも、黄祖から促されて、暗殺を避けるための一環としてやり始めたことなのである。無駄に料理番を置いたりしなければ、毒見の手間も省ける。飯は、あたたかい内に食うのが一番なのだ。
それなりに好評なのか、飯にありつけるとわかってからは、魏延は腹を空かせてやってくるようになった。
「気をつけろ、焔耶。なにか、嫌な気配がする」
垂れた糸を見つめたまま、劉琦が言った。魏延の真名を預かったのは、飯時のなんでもない会話の中である。そうした飾り気のない性分には、素直に好感が持てると劉琦は思う。
足音が近づいてくる。鍛錬の手を止め、魏延が背後に構えた。闘気に、いつもとは違う鋭さが宿っている。
有事に備えて、誰も寄り付かない釣り場を選んでおいてよかったと今更ながらに思えてくる。周辺を取り囲む手際からして、おそらく素人ではない。
「貴様たち、何者だ。こちらにおわす御方をどなたと心得る」
どこで覚えてきたのか、魏延が大袈裟な脅し文句を発している。それで片がつくような相手ばかりなら、どんなに楽なことか。
「あー、聞こえんなあ? いいから、そいつの首を渡しなよ、姉ちゃん。でなきゃ、痛い目見ることになっても知らないぜ」
「ははははっ。大馬鹿者ばかり、これだけ雁首揃うと壮観だな。ちょうど、退屈していたところなんだ。遊び相手になってもらうぞ、貴様ら」
静かだった水面が、にわかに一度さざめく。これは、なにかの予兆なのか。確かに、変化はこうして訪れている。そして、嫌な気配を発する根幹は、どこにあるのか。
平たい石に腰掛けていた劉琦が、竿を引き上げて身体を回す。魏延の大柄な武器が賊徒のひとりを吹き飛ばしたのは、その時だった。
二人、三人。文字通り、押し潰されていく。茫洋とした瞳で、劉琦は血飛沫の行方を追っていた。敵は、喧嘩のやり方を間違えている。狙うのであれば、まず自分からだ。守るべき対象が生きているかぎり、魏延の闘志が尽きることはない。
「同じ賊徒でも、こんなものか。黄巾党のやつらは、もう少し骨があったぞ。さあ、もっとだ。もっとこい」
「ちっ。おまえのような猪の相手、いつまでもしていられるか。いいから、あいつを殺せ。金になるのは、劉琦の首だ」
数人がかりで魏延をどうにか抑え込み、残りの賊徒が劉琦に向けて殺到する。
挟み打ちにされても、心が揺れることはなかった。片手で竿を握り、空いた手で小石をぶつけた。勢いの削がれた賊徒の足を、竿先で掬い地面に叩きつける。
いまの自分に、剣の輝きは眩しすぎる。だから、得物はこれで充分だった。
「へえ。あんたもやるじゃないか、旦那。今度、私の鍛錬に付き合ってくれよ……、なっ!」
「力比べなら、遠慮させてもらう。おまえとでは、遊びが遊びで済まなそうだ」
劉琦の打ち込みには、まるで殺意がない。ほとんど舞っているのと同じで、荒波のような一撃を繰り出す魏延とは対照的だった。
足止めを打ち払い、魏延が劉琦の隣に立つ。胸の奥に、熱いものが込み上げる気がした。虚ろだった自分が、本気で命を狙われることで輪郭を取り戻していく。
頭を振り、劉琦は思考を冷やそうとした。
最後に残っていたひとりを、魏延が追い詰める。どうするべきか、自分に判断させてくれるようだった。
「詮索なら、よい。こやつらは、ただの賊徒だ」
「承知。それなら、あとは好きにやらせてもらう」
賊徒ならば討つ。単純な行いだった。
武器を洗う魏延を待ってから、屋敷に戻ることにする。これ以上、出歩く気にはなれなかった。
屋敷に到着すると、休む間もなく黄祖が訪ってきた。それだけでも、珍しいことである。賊徒に襲撃されたことが知れたのかと思ったが、さすがに早すぎる。
薄暗い部屋に、二人きりだった。魏延は今日一日帰らないと言ってきかず、外で見張りに立っている。
黄祖が膝をつき、俯いて言葉を口にする。かすかな震えがあるのは、どうしてなのか。
「緋桜様に申し上げます。お父上が、お倒れになられました。蔡瑁の用意した医師がついている様子ですが、詳しいことはなにも」
言い終えてから、黄祖が白い顔をゆっくりと上げる。かすかにあった震えは、もう収まっていた。