彼方の光芒 作:総流し
招集に応じて、黄忠親子がすぐに駆けつけてきた。武装しているから、普段かわいさの勝る璃々ですら厳しい雰囲気を放っている。
襄陽を脱出するにあたり、人数は少なければ少ないほどいい。中途半端な手勢を連れているくらいなら、数人の精鋭で闘う方が生き残る確率はよほど高くなる。
黄祖から事情を聞かされているであろう黄忠が、軽い会釈だけをして前に進み出る。緊張のせいか、璃々はしきりに窓の外を見つめていた。
「ついに、この時が来てしまわれたのですね。ですが、頼ってくださったことは素直に嬉しく思います。わたくしたち母娘の武、心のままにお使いください。全力でお支えいたします、緋桜様」
「私の気持ちもお母さんと同じだよ、兄様。だから、みんなで頑張ろう。きっとそれが、荊州の明日になるんだから」
二人の手を取り、劉琦は頭を下げた。
本心からの謝意である。周囲の者には、これから苦しい闘いを命じることになる。それだけに、自分自身も期待に応える必要があると強く思えた。
「ただいま戻りました、緋桜様。少々小細工を施しておきましたゆえ、いずれお父上の死は、蔡瑁どもの仕業ということになるでしょう」
闘いを前にして興奮しているのか、黄忠や魏延のいる中でも黄祖が真名で呼んでくる。
「黄祖殿。その言いよう、あなたまさか」
「おっと。おかしな勘繰りをしてくれるなよ、黄忠。劉表様は、事実病にお倒れになったのだ。蔡瑁陣営の動きも、時が経つごとに慌ただしくなっている。そのことに、なにか不満でもあるのか」
「不満などと。わたくしは、ただ」
黄忠が視線を向けてくる。最後の確認に対して、劉琦は静かに頷くだけだった。どんな命だろうと、いつか終りを迎える。その終りに意味を与えることができるのは、生きている自分たちだけなのだ。
「しばらくは、箝口令が効力を発揮する。だが、人の口に戸は立てられぬもの。噂が噂を呼び、蔡瑁らの名声はやがて地に落ちる。さすれば、民衆は正当なる君主を欲するようになるであろう」
抑え気味の笑い声が、暗い室内に響いた。
黄祖は、闇の軍勢を多数抱えている。それは劉表からの命で作り上げたものであり、蔡瑁ですら全貌を掴めていないはずである。
まともなぶつかり合いだけで、大勢が決するのではない。暗部の手綱を握ることも、これからは自分の仕事となる。経緯がどうであれ、起つことを選んだのはおのれなのだ。それだけの重責は、背負うつもりでいる。
黄祖の肩に手を添えて、劉琦が言う。
「私は、私の闘いをするだけだ。黄祖は、望まれればいつでも首を差し出すとも言った。その忠義と覚悟には、報いたいと思う」
「御意。緋桜様のお気持ちを知れただけで、わたくしは充分です。璃々も、いいわね」
「はい、お母さん。黄祖さんが兄様を大切に思ってることくらい、私にもわかるから。だからといって、負けるつもりはないけどね」
璃々の明るさが、重くなった雰囲気を打ち払う。先程の魏延といい、この力は間違いなく必要になってくるのだろう。
もう一度哨戒に出ていた魏延が、部屋に入ってくる。小さな一団ではあったが、これが自分の力のすべてである。
「江夏へ行く。そして、荊州の明日のため、私は生きてみようと思う。至らぬ部分があったら、なんでも言ってほしい。臣下であるのと同時に、おまえたちは私の家族でもある」
それぞれの発する小気味よい返事を耳に受け、劉琦は行動を開始した。
†
先導役である黄祖に続いて、闇に包まれた城郭を駆けた。普段よりも、見かける兵士の数が多い。父の危篤により、蔡瑁陣営も神経を尖らせているということか。
今頃、劉琦の屋敷からは火の手が上がっているはずだった。残していくものなど、なにもない。そうした決意のあらわれと、陽動を兼ね備えた動きだった。
見張りのいる櫓を指差してから、黄祖が矢筒に手を伸ばす。狙いは二つ。瞬時に反応した黄忠との協撃である。それで、見えていた影はゆっくりと崩れ落ちた。あとは、肝心の門を通るだけである。
自分たちの接近を察知した門番が、囲むようにやってくる。相手は十人。その中に、知っている顔があることに劉琦は気づいた。
「劉琦様。物々しい格好をなさって、いずこへ」
「眠れないから、夜釣りにでも出かけようかと思ってな。見なかったことにしてもらえると、助かる」
いつも顔を合わせて世間話までしている兵士が、剣の柄に手をかけながら問いかけてきた。役目をまっとうしようというのだろうが、及び腰である。すぐさま仕掛けようとする黄祖のことは、ひとまず制した。
どうせなら、ここは穏便に済ませたい。屋敷で決意を述べたばかりだというのに、自分はまだまだ甘い男だと劉琦は思う。
「ご冗談を。ここで引き返してくだされば、私もすべて見なかったことにいたします。劉琦様の御身のためにも、なにとぞ」
「悪いが、できない相談だ。荊州という獲物を吊り上げるまで、私の旅路が終わることはない。そう、決めたのだ」
懐中から、金属製の筒のようなものを取り出す。内部には仕掛けが施されていて、振り抜けば竿が伸びるようになっていた。
遊びに使っていた釣り竿は、火の中に置いてきた。これからは、この冷たいひと振りが相棒となる。
「ククッ……。誠意ならば、もう充分に尽くされたでしょう。あとは、望み通りの死をくれてやればよいのです。なに、劉琦様のお手を煩わせるほどの相手ではございませぬ」
制止を振り切り、黄祖が兵士を斬り倒そうとする。厳しいことを言っているようで、自分に対する優しさが垣間見える。少しの躊躇が、臣下に負担をかけてしまうことがよくわかった。
やり取りの間に、後方から新たな手勢がやってくる気配があった。率いている女の顔を、忘れるはずがない。威厳を含んだ声で、蔡瑁が言った。
「ああ、こちらにおいででしたか。劉琦様。遊びなら、もうよいでしょう。そろそろ、兄らしい振る舞いをなさってはどうなのです。これでは、お父上や弟君がお嘆きになって当然だ」
篝火が、無数の手勢の姿を浮かび上がらせている。蔡瑁は、やはり権力欲だけの存在ではない。父の危篤で制約が軽くなったとはいえ、自分たちの動きに合わせて、即座に手を打ってきたことがその証拠だ。
矢面に立ちながら、黄祖が手で合図を行ってくる。どこかに、闇の手勢を潜ませているのだろう。
「黄祖。忌々しい、女狐め。ひとり巣穴に戻るのであれば、見逃してやったものを」
「ふふっ。貴様こそ、姉と共謀し散々荊州を誑かしているのではないか。腐った禍根は、劉琦様がお断ちになる。神輿ともども、よく見ていることだ」
黄祖と蔡瑁が、互いに吐き捨てるように言った。
筒を握ったまま、劉琦が一歩前に出る。蔡瑁の舌打ちが、間近に聞こえてくるようだった。
「弟にもよく伝えよ、蔡瑁。檻の中に閉じこもるのは、終わりとする。私はもう、迷わない」
言って、勢いよく腕を振り抜く。
自在に伸びる竿先。さすがに、蔡瑁も虚をつかれたようだった。鋭利な先端が、胸元に吸い込まれる。その寸前に、護衛が身を挺して蔡瑁を庇っていた。
「みな、駆けるぞ。私と黄忠で劉琦様の周囲をかためる。魏延は殿軍を務めよ」
「お、応」
「えー? 璃々だけ仲間外れみたいで、ちょっと酷くない?」
黄祖の発した指示に、各々が反応する。
緊張の糸が解れた瞬間、蔡瑁たちとの間になにかが投げ込まれる。伸びた竿を即座に収納し、劉琦が駆け出す。
煙幕が拡がる。遅れて聞こえてきた音から判断するに、重厚な門扉が開かれているようだった。
無心で足を動かす。喚声の聞こえる中、劉琦たちは夜の襄陽を脱した。