彼方の光芒 作:総流し
僅かな明かりだけを頼りに、夜の水上を進む。
黄祖の用意した船である。途中、漕ぎ手の交代の際に名乗りを上げてみたのだが、当たり前のように任せてはもらえなかった。
要衝を結ぶ水の道。荊州を抑えるには、やはり水軍が必要になってくるのだろう。騎馬や歩兵といった戦力も、当然軽視するべきではないが、船の有無で輸送の効率が大幅に代わってくる。黄祖がすでに所持している船団を強化し、増員を計らねばならない。そのためにも、まずは優秀な指揮官を得ることだった。
考え事をしている内に、手の先を水に浸けてしまっていたらしい。黄祖の不機嫌そうな視線で、劉琦はようやくそのことに気づく。
「劉琦様。蔡瑁の兵が、いつ仕掛けてくるかわからない状況だとわかっておいでか」
「休めるときに、休んでおけと言いたいのだな。いつも、心配をかけてすまない」
短い会話を終えて、黄祖は船の操縦に意識をもどす。自分のように指摘されるまでもなく、魏延は膝を抱えたまま眠っている。
「あのー、ずっと思っていたことなんだけど」
前置きをしてから、璃々が遠慮がちに手を挙げる。
「知らない人がいるわけでもないんだし、真名で呼んじゃだめなのかなーって。ねっ、兄様?」
「貴様と魏延がいる。理由など、それだけあれば充分ではないか」
「だったら、お互い許し合えばいいんだよ。これから緋桜様を支えて、みんなでがんばるぞーってときなんでしょう。そのくらいの信頼関係、無理にでも作っておいた方がいいと私は思うな」
無邪気であるのと同時に、璃々の提案は合理的だった。だから、黄祖もすぐさま否定はしなかったのだろう。
少しの間、沈黙が訪れる。破ったのは、黄忠だった。
「ごめんなさいね、黄祖殿。娘のわがまま、聞き流してもらえると助かるのだけれど」
「よい。言い草こそ気に食わぬが、貴様の娘の言ったことは理に適っていよう。それで戦に勝てるのならば、やって然るべきなのやもしれぬ」
「えっ、黄祖殿?」
黄祖の雰囲気が、変わりつつある。心底嫌ならば、跳ねつけてもいい要求をされているのだ。それだけに、黄忠が驚くのも当然の反応だった。
「呼びたければ、白史と呼ぶがいい。代わりに、こちらからも璃々と呼ばせてもらう。居眠っている猪には、貴様から説明しておけ。それでよいな、璃々」
「ありがとうございます、白史さん。えへへっ、やったね兄様」
喜び勇んで、璃々が抱きついてきた。知ってか知らずか、やわらかなものが胸の間で緩衝材となっている。
†
二日ほどかけて、劉琦たちの船は夏口の近くにまでたどり着いていた。
大きな障害もなく、順調そのものな船旅である。最初、恐る恐るだった魏延も、今では気兼ねなく黄祖を真名で呼べるようになっていた。
辺りを見回しながら、黄忠が呟くように言った。
「気を引き締めていきましょう。蔡瑁が仕掛けてくるなら、ここでしょうから」
「そんな、わざわざ不吉なことを言わなくったって……」
「ククッ……。怯えているのか、焔耶。心細ければ、可愛がってやってもよいのだぞ」
「い、いやいやいやっ。そういうの、ワタシは間に合っていますから。な、緋桜様?」
どうして、そこで魏延に話を振られたのかが分からなかった。
黄忠にならって、周囲に気を回してみる。船影。しかも、かなりの速度だった。漁師の使う船ではない。後方。楼船ほどの大きさではないが、中型の船も出てきているらしい。
「無駄話はここまでだ。その余裕、なにか用意があるのだな、白史」
「御意。このまま前進するぞ、焔耶。貴様の馬鹿力、ここで役立ててみせるのだな」
黄祖と魏延が、全身を使って船を少しでも速く進めようとする。黄忠母娘は、仲良く矢を番えて戦闘に備えていた。
ここは、黄祖の言う用意に任せるしかないと思った。自分にできるのは、とにかく慌てないことくらいである。少ないなりにも、ここには優れた将校が揃っている。その力をいかんなく発揮させることが、主君である自分の最大の役目なのだろう。
「つぎ、璃々」
「はい、お母さん」
二人の射手が、呼吸を合わせて敵船の漕ぎ手を葬る。卑怯だろうと手段を選んでいる場合ではなかった。
足の止まった船が、遠距離攻撃を仕掛けようとする。防衛網を抜けてきた数本の矢は、劉琦が鉄竿で打ち払った。
「前方にも船団。白史殿、ほんとに大丈夫なんだろうなぁ、これっ」
「いいから、手を止めるな。緋桜様が御為、貴様は黙って漕ぎ続けろ」
魏延の言ったように、船の進行方向にまで新たな船影が出現していた。
明らかに統率が取れている。新手が動く。黄祖の用意を信じて、劉琦は後方からの追撃だけに集中することにした。
派手な装いの船が見えてくる。確かに、これは蔡瑁の麾下ではないと劉琦は感じていた。
「正規の軍船ではないのに、動きに乱れが少しもない。白史、よもやこれが噂に聞く」
「おそらく、ご想像の通りかと。引き合わせたき人物がおりましたので、ついでに護衛を依頼したまでのこと」
ひときわ機敏な動きを見せる一隻。守りに徹するだけでなく、蔡瑁の麾下に損害を与えるつもりでいるらしい。通りすがる瞬間、劉琦は涼やかな鈴の音を耳にしたような気がしていた。