彼方の光芒 作:総流し
なにか別のことをする気にもなれずに、蔡瑁が報告にやってくるのを待った。
父である劉表が、病に倒れたかと思うとあっけなく世を去った。会話をすることもままならず、ほんとうにあっけない最期だったのだ。
荊州に確固たる地盤を築き、周囲から一廉の人物だと評されているような父であっても、死は簡単に訪れる。椅子に腰かけ、劉琮は深くため息をついた。
思い浮かべるのは、兄と呼ぶべき男の顔。仕事をしようともせず、日頃遊び歩いているのが劉琦だった。それがどうして、この状況になってから荊州をかき乱す。これまで通り静かに、なんの波風も立てないまま消えていけば、当の兄も幸せなはずではなかったのか。
「あの男は、いつまで黄祖の手のひらの上にいるつもりだ。なにもわからず、叛乱の真似事までして」
つい込み上げてきた怒りで、劉琮が机を拳で叩く。鉢合わせるような格好で部屋に入ってきたのが蔡瑁でなければ、叱りつけていたのかもしれない。
母の妹であり、実績でも遥かに上をいく将軍であるとはいえ、臣下は臣下である。拝礼をする蔡瑁に対し、劉琮が声をかけた。
「叔母上。それで、兄のことは」
「追討が不首尾に終わりましたこと、深くお詫びいたします。ですが、やつらに大義はありません。この襄陽も、すでに貴方様のものなのですから」
蔡瑁が、あえて追討という言葉を選んで使う。
劉琦は、この荊州において謀叛人なのである。後継者たる自分に対し牙を剥き、平穏をかき乱すだけの存在。いつか、絶望に暮れて最期を迎えればいい。そもそも、黄祖の操り人形でしかない男に、なにができるというのか。そんな紛い物に組みした連中も、厳罰に処されるべきである。
「叛乱分子を、すべて炙り出すよい機会なのかもしれません、叔母上。私は、父の築いた地盤をさらに強固なものとしたい。そのためにも、あやつらを」
「孫堅を焚きつける、というのはいかがでしょうか。あの狂虎には、御先代も手を焼いておいででした。因縁浅からぬ黄祖を討つ好機ともなれば、あちらも動きたくなるはず」
江東の虎かなにか知らないが、揚州で幅を利かせている女がいる。いくら黄祖が策謀家であろうと、江夏の地を簡単に捨てられるはずがない。互いに血で血を洗う消耗戦ともなれば、こちらにとっては最高の展開となる。
「さり気なく、餌をまいてみてもらえますか。まあ、遊んでばかりいたあの男に、戦の采配が振るえるとも思えませんが」
「御意。劉琦と黄祖の両名が虎に肉をかじられている間に、軍の増強を行います。周辺の諸侯にも、貴方様が御父上の跡を継いだ旨を、知らせて参りましょう」
そうか、と劉琮は頷いた。
結局、なにも明言することなく父は死んだ。しかし、ずっと遠ざけられてきた兄に対し、自分が荊州の中心にいたことは事実なのだ。そのことは、諸豪族も理解しているはずである。
「しばらく、眠ります。なにか起きれば、いつでも」
「ゆっくりお休みください。劉表さまがお倒れになってから、気が休まる暇もなかったでしょうから」
蔡瑁の声が、優しく耳に響いた。
†
江夏にたどり着いた劉琦は、休むことなく動き続けていた。やるべきことなど幾らでもあるから、寝ている暇もないくらいである。気持ちこそ張りつめてはいたものの、船の上では眠るのも仕事のうちだった。
黄祖を伴って政庁に行き、文官におのれの存在を知らしめる。威光に頼るようで少し後ろめたいが、使えるものは遠慮なく使うべき状況だった。
「これからは、私の名において江夏の統治を行うことになる。それでよいな、黄祖」
「はっ。この黄祖、劉琦様の手足となり、命ある限り働く所存。誓いに、嘘偽りはございませぬ」
傅いた黄祖が、恭しく言上を述べる。その姿が居並ぶ文官たちに拡がっていくのだから、壮観な光景だった。
襄陽でこそ嫌われ者の姿を装っているが、部下からの人望は厚い女なのだ。足早に政庁を後にし、城内の見分を進める。内政以上に、急いで整えなければならないのが軍事だった。
「黄忠はもちろんのこと、魏延と璃々にも部隊を持たせたい。力もなしに、私の味方となってくれる勢力がいるとも思えないからな。なにより、揚州にはあの孫堅がいる」
「緋桜様のお考えの通りかと。錦帆賊のような変わり種はともかく、よくて様子を窺う連中が大半なはず。ふふっ……。いくら凡庸な者どもであろうと、虎とやり合い手懐ける、くらいの芸当を見せつけられては転ばずにはいられまい、か」
「手懐けるとは、おそろしいことを言ってくれる。私など、赤子の手をひねるどころか、そのまま食いちぎられてしまいそうだ」
「なればこそ、妙味がございます。蔡瑁一派を含め、ほとんどの者が緋桜様のお力を正しく評価できてはおらぬはず。緒戦で負かした相手が強敵であればあるほど、貴方様の価値が高まるのです」
黄祖の眼は、本気だった。手懐けられるかどうかはともかく、勝ち負けという状況に持ち込めればそれだけで充分な気もしてくる。
それにしても、孫堅にこだわるあたり、黄祖にはなにか先読みできていることがあるのかもしれなかった。襄陽方が扇動し、孫家が江夏に攻め入るように仕向ける。確かに、ありえそうな動きではあった。
「白史。江東の虎とは、くだらない誘引に乗るような女なのか」
「さて、それは」
思わせぶりな態度だけを残して、会話を断ち切られてしまう。
押し殺したような声。冷酷な笑みを浮かべる黄祖は、いつにも増して活き活きとしているようだった。