僕のヒーローアカデミア〜シスターズ・ニュー・ワールド〜 作:BONDX
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それは、夕食前の何気ない日常のひとコマのはずだった。
洗濯物カゴを抱えた光己が、ふと手を止める。カゴの中にあった、光利のお気に入りのTシャツ。その袖口に、不自然な、赤黒い「染み」が点々とこびりついていた。
「……何、これ」
泥じゃない。絵の具でもない。
何度も洗って誤魔化そうとした跡があるが、繊維の奥にこびりついた「鉄の匂い」までは消せていない。
光己の脳裏に、あの四歳の誕生日前夜の、肉を裂く爆音が蘇る。
「……おい、ババア。何……」
そこへ、偶然通りかかった勝己が足を止めた。
光己の震える手と、その先にある「赤い染み」を見た瞬間、勝己の瞳から光が消えた。
彼は無言でそのシャツをひったくると、鼻先へ近づけ――そして、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
「…………光利ィイイイッ!!!」
家全体を震わせるような、勝己の咆哮。
自室で出久と「おままごと」のフリをしていた光利が、弾かれたようにリビングへ降りてくる。その後ろには、顔を青くした出久が続いていた。
「あ、アニキ……? なあに、そんな怖い声……」
「これ、何だよ!!!」
勝己が、血のついたシャツを光利の目の前へ叩きつける。
光利は息を呑み、反射的に自分の「腕」を背後に隠した。その拒絶の動作が、何よりの答えだった。
「……見せろ。その、隠した腕を見せろっつってんだ!!」
「……いやっ! だって、アニキ、怒るもん……っ!」
勝己は無理やり光利の手を掴み、袖を乱暴に捲り上げた。
そこにあったのは、刃物で付けたような綺麗な傷ではない。
内側から爆弾が弾けたように、皮膚がひび割れ、赤黒い肉が盛り上がり、塞がってはまた裂けた――無数の「爆ぜ跡」。
「……あ、……ぁ……」
光己が、口を抑えて泣き崩れた。父・勝も、力なく壁に背を預けて項垂れる。
「……テメェ…やっぱり俺に隠れてッ……使うなって、言っただろ。……俺が嫌われりゃ済むと思って、あんなに言ったのに……! テメェは、俺の見てねぇところで、自分を壊し続けてたのかよッ!!」
勝己の瞳には、猛烈な怒りと、それ以上に深い「敗北感」が滲んでいた。
自分がどれだけ突き放しても、妹は自分の背中を追うために、一人で地獄を歩き続けていた。
「……だって、あたし……アニキの隣に、行きたいんだもん……っ! 痛くないよ、これくらい……平気だもんっ!」
光利が叫ぶ「平気」という言葉が、勝己の心をズタズタに切り裂く。
痛みを殺し、命を削り、それでも笑おうとする妹。
「……平気なわけねぇだろ……! 死ぬんだぞ、テメェはッ!!」
勝己は、妹の「折れない心」に、初めて本気で絶望した。
「……デク、テメェッ!!」
勝己が、出久の胸ぐらを片手で掴み上げ、壁に叩きつける。
「知ってただろ!光利が、隠れてこんなことしてたの! テメェ……こいつが死んでもいいと思ってたのかよッ!!」
勝己の拳が、出久の顔の横で壁を打つ。
出久は反論せず、ただボロボロと涙を流して、勝己の怒りを受け止めていた。止められなかった。妹の「アニキの隣に行きたい」という、血を吐くような願いを、無個性の自分には否定できなかった。
「……やめて、アニキ!!」
光利が、勝己と出久の間に割り込んだ。
小さな、傷だらけの腕で、出久を必死に庇う。
「グリリンは、悪くない……っ! あたしが……あたしが、お願いしたんだもん! アニキに内緒で、練習させてって!」
「……光利ぃ!テメェ死にたいのかよ!この傷……自分で自分の身体ぶっ壊して何がヒーローだ!!」
「あたしだって死にたい訳じゃないよ! ……でも、あたし……アニキと一緒にいたいんだもん! アニキが『一番』になるなら、あたしも、隣にいたいんだもん……っ!」
まだ四歳の少女の、あまりに純粋で、あまりに狂気的な執念。
勝己は、振り上げた拳を下ろすことができなかった。
自分がどれだけ突き放しても、嫌われ役を演じても、この妹は「自分の背中」という呪いから逃げてはくれない。
(……チッ。……クソが。……おまえ、……どこまで頑固なんだよ)
勝己は、深い、深い溜息を吐いた。
否定し続ければ、この妹はまた自分の見えないところで、誰の手も届かない場所で、独りでに壊れていってしまう。
「……わかったよ。……勝手にしろ」
「……え?」
光利が、驚いたように顔を上げる。
勝己は、出久の胸ぐらを乱暴に放すと、妹の包帯を巻いた手を、壊れ物を扱うようにそっと握りしめた。
「……だがな、光利。……次、俺の見てねぇところで一滴でも血を流してみろ。……その時は、俺がテメェを爆破してでも止めてやる」
勝己は、出久を鋭く睨みつけた。
「……おい、デク。……明日から、あいつの特訓のメニュー、全部俺に回せ。……このバカが死なねぇやり方を、俺が叩き込んでやる。……俺の目の届く範囲でしか、一発も撃たせねぇからな」
――負けだ。
勝己は、妹の「生きたい」という願いに、自分の「死なせたくない」という理屈が負けたことを認めた。
ならば、自分が世界で一番過酷な、そして一番安全な「壁」になってやる。
「……ありが、……ありがとう、アニキ……っ!」
光利が勝己の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。
勝己はその小さな背中を抱きしめながら、地獄の底を歩くような覚悟で、瞳を閉じた。
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翌日
公園の隅、夕闇が落ちる砂場の前。
光利と出久を「お仕置き」として先に帰した勝己は、ポケットに手を突っ込んだまま、逃げ場を塞ぐように零火の前に立った。
「……おい。」
低く、地を這うような声。4歳児とは思えない、剥き出しの殺気が零火の肌を刺す。
零火はビクッと肩を揺らし、白い髪をさらりと揺らして俯いた。
家で父・炎司(エンデヴァー)から受ける高圧的な熱――それとは質の違う、けれど同じくらい逃げ場のない「個性の強さ」が勝己から溢れていた。
「……ばく、ごう……くん……」
「……テメェ、俺に黙って光利の無茶に手を貸してやがったな」
勝己が一歩、砂を踏みしめて距離を詰める。
「光利の血がどうなってるか、テメェみたいなトロい奴が分かってんのか。……あいつの身体が内側から弾け飛んだら、テメェ、どう責任取るつもりだったんだよ!?」
「っ……!」
勝己の怒鳴り声に、零火の瞳にみるみる涙が溜まっていく。
家では「いないもの」として扱われ、強い言葉を浴びせられることに慣れていない彼女にとって、この糾弾はあまりにも重い。
けれど、零火は震える唇を噛み締め、涙をこぼしながらも勝己の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……わ、わかってる。光利ちゃんが、熱くて……苦しそうだったから……! 私の『白炎』じゃないと、……光利ちゃんを、助けられないって……言ったから……!」
家では誰にも必要とされない自分の「気味の悪い火」。それを、光利だけが「零火ちゃんがいい」と求めてくれた。
その事実だけが、弱気な零火をこの場に繋ぎ止めていた。
「……チッ!泣きゃあ済むと思ってんのかよ。」
勝己は不機嫌そうに鼻を鳴らし、視線を逸らした。
本当は、妹の「命を懸けた執念」を、兄である自分よりも先に、この「他人の少女」が共有し、支えていたことへの猛烈な嫉妬。
それをぶつける場所がない勝己は、乱暴に砂を蹴り飛ばした。
「……明日もやるんだろ……俺が見てねぇと、テメェら絶対に無茶しやがる……遅れんなよ。」
「…へっ?」
それだけを一方的に言い残し、勝己は零火に背を向けて早々と帰っていった。
残された零火は呆然として、勝己の言葉を脳内でリピートし続けて、理解し始めた。
「爆豪くんも…特訓に…付き合ってくれるの?」
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翌日の放課後。いつもの空き地には、昨日までとは違うピンと張り詰めた「熱」が満ちていた。
「ノロノロしてんじゃねぇ! 零火、光利の左拳が赤くなってんだろ! そこにピンポイントで白炎(ひ)を当てろ! 余計なとこまで凍らせたら、あいつの血管がブチ切れるぞ!」
「は、はいっ……!」
勝己の怒号に近い指示に、零火はびくつきながらも、必死に指先から白炎を絞り出す。
端正な顔立ちを汗で濡らし、白いセミロングの髪を振り乱して、彼女は光利の「爆血」の熱を必死に抑え込んでいた。
「 れーちゃん、バッチリ! アニキ、見てて! 今ならもっとデカいのイケる!」
ショートボブの金髪を逆立て、光利が大きな瞳をギラつかせて笑う。
自分の血を沸騰させ、爆発に変える。その激痛すら「歓迎」するように、彼女は自らの限界を叩き壊そうとしていた。
「……ひーちゃん、今だ! 右足の踏み込みに合わせて、血流を……!」
出久がボロボロのノートを握りしめ、叫ぶ。
勝己が「死ぬ気で冷やせ」と命じ、零火が「死なせない」と凍らせ、出久が「生き残る道」を記す。
爆音と、白い炎の揺らめき。
それは4~5歳の子供たちが遊ぶ光景ではなかった。
「……テメェら、一秒でも気を抜いたら死ぬと思え。俺が隣に立ってやるのは、テメェらが死ぬのが見たくねぇからじゃねぇ。……最高のヒーローになるためだ。わかってんな!」
勝己の放つ爆風が、空き地の砂を巻き上げる。
光利は、兄のその言葉に「わかってるよ!」と最高に輝く笑顔で応え、零火もまた、初めて「自分の居場所」を見つけた者の顔で、静かに頷いた。
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特訓が終わった後の空き地には、火薬の匂いと、零火の白炎が残した冷たい霧が白く漂っていた。
「……はい、ひーちゃん、マックスコーヒー。糖分摂らないとまた貧血になっちゃうよ」
「あはは! さすがグリリン、わかってるぅ! これがないとあたしの血は滾らないんだよね!」
出久から受け取った缶を、金髪を揺らして一気に煽る光利。
その隣では、零火が勝己から「ほらよ」と放り投げられた冷たいお茶を、少し驚いたように両手で受け止めていた。
「……ありがとう、爆豪くん。」
零火が小さく微笑む。
家ではエンデヴァーの重圧に押し潰されそうな彼女も、ここでは年相応の柔らかな表情を見せていた。
「……チッ。テメェが光利を冷やし損ねたら、特訓にならねぇからな。しっかり飲んで集中しろ。」
勝己は相変わらずぶっきらぼうだが、その視線には、かつて零火を泣かせた時のような刺々しさは消えていた。
出久がボロボロのノートを広げ、街灯の下で熱心にペンを走らせる。
「……すごいよ。ひーちゃんの爆発力と、轟さんの冷却。二人が揃えば、理論上は……今のかっちゃんにも負けないくらいの出力が出せるかもしれない」
「あ? 誰が負けるかよ、デク! 俺はもっと先を爆走すんだよ!」
勝己の怒鳴り声に、光利が「あはは、アニキったら負けず嫌い!」と笑い転げ、零火がそれを見てクスクスと肩を揺らす。
白銀の髪と金の髪。
冷気と熱。
「……ねぇ、あたしたち、最高のヒーローになれるかな?」
ふと、光利が大きな瞳を輝かせて、茜色の空を見上げた。
その問いに、勝己は鼻で笑い、出久は力強く頷き、零火は光利の温かい手をそっと握り返した。
「……なれるわ。光利ちゃんが隣にいてくれるなら、私……怖くないもの」
――この「約束」が、数日後、沸騰する熱湯の音によって、無惨に塗り替えられる。
轟家の悲劇の朝は、すぐそこまで迫っていた。