慌ててR15タグをつけるくらいにはそういう感じの内容です。
倫理的ではない描写や人によってはショッキングな描写を含みます。
気分が悪かった。
ベッドの上で泥のように横たわったまま、浅い呼吸を繰り返す。倦怠感が身体に張り付いて起き上がることさえままならない。無理矢理に立ち上がろうとすると途端に血の気が失せ、目の前が強い光を浴びたように真っ白になって平衡感覚さえ失って崩れ落ちてしまう。
身体の中の臓器をすべて掻き回してぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたみたいに何もかもが不愉快で、自分の身体が自分のものではないかのようだった。
実際、そうだった。
薄いシーツの上に爪を立てて、終わりなく繰り返される吐き気を堪えながら、私は日を追うことに変化していく自分の肉体を恐れ続けていた。
日に日に膨らんでいく自分の胎が悍ましくて仕方がなかったのだ。
ユーハバッハに敗北し、国を失ったあの日。
意識を失くした私をユーハバッハは自国へ連れ帰り、あの気が違えたとしか思えない発言の通り私を妻として迎え入れた。
……勿論、そこから一週間近く意識がなかった私の意思などお構いなしに、だ。
目を覚ました時にはもう何もかもが変わっていた。私は最早女王ではなく、国は無く、己の未来さえまともに選ぶことのできない、惨めで下らないどこにでもいる女に成り果てていたのだ。
ひたすらに眠り続けることで身体を回復させていたが、その反動か、長い眠りから目を覚ました頃には酷く気力を削られていた。
その時の私には、何もかもを失ったという現実を直視することも、あの時対峙したようにユーハバッハを殺そうとすることも、自らの命を絶とうとすることもできなかった。何かを選択するということ自体ができなかったのだ。ひどく弱り切っていて、身体も頭もまともに機能しなかった。
「目が醒めたのならば重畳。お前の閉じた唇や瞼を眺めるにも飽いた頃だ」
「……ユーハ、バッハ…………」
「まるで悪夢でも見たかのような顔だな、我が妻よ」
「……やめろ、私に近付くな。私に触るな……!」
ユーハバッハはそんな私の前に現れて、そう言葉を紡いだ。
伸ばされる手を矜持だけで振り払えど、どれだけの言葉で罵倒しようと、あの男には戯れでしかなかったのだろう。逃げる場所も手段もありはしなかった。
腕を掴まれ、引き倒され、弱った身体を押さえつけられればろくな抵抗もできなかった。
男は私の身体に
あの日、刃で切り裂かれた身体。死に向かう私を生かすほどの治癒能力を持つ男が、傷跡程度を消せないわけがない。
わざと残したのだ。敗者として蹂躙された記録をこの身に刻み込むために。
手首を押さえつける掌。影に覆い被せられて色を変える白皙。引き裂かれる布の音。知らない体温の肌。無意味に寝台を蹴りつける爪先。呼吸、軋み、出血。
そうやって私は凌辱される。
何度も何度も、終わりの見えないほどに繰り返し、何度も。
「殺してやる」という虚勢が、「殺して」という悲鳴に変わり、やがて「やめて」「ゆるして」「たすけて」という懇願に成り果てていっても、なおそれは続いた。
夜は惨たらしいほどに長く、初めて知った男の熱と与えられる痛みに、果ては幼子のように啜り泣くことしかできなかった。
男の表情は覚えていない。泣き噦る私を見下ろして笑っていたのか、女の身体を割り開くことにさしたる関心などなかったのか。わずかな抵抗としてできる限り身を小さくしていた私には目の前の相手を認識する余裕などない。
永い夜に囚われたまま、私は逆光となってこの身に張り付く大きな影に怯え続けていた。
次に目を覚ました時、世界は光に満ちていた。
凌辱の痕跡はどこにもなく──あるいは私が意図的に目を逸らしていたのか──まるで何事もなかったかのように新しい朝を迎えていた。
昨晩の記憶を私は『私』や『わたし』に押し付けて、この身を、この心を守るために「私ではない」ことにした。夢か、幻か、あるいは私のものではない記憶。それは私ではない。私のものではない。傷つけられたのは私ではない。組み敷かれ、押さえつけられ、犯されたのは私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。私ではない。あんなふうに凌辱されたのが私であるはずがないのだ。
目を逸らして、無かったことにして、押し付けて、無傷のふりをしていられたのは肉体の変化に気がつくまでだった。
不順では誤魔化しが利かないほど長い期間やってこない月経と、その代わりとばかりに続く慢性的な微熱。
纏う衣服の下で膨らんでいく腹。触れれば張り詰めたようなそれは明らかに脂肪ではなく、中の臓器が拡張しているのだとわかった。わかってしまった。
己の肉体の変化が悍ましかった。
なによりもこの胎の中で自分ではない生物が蠢いているのだと感じるのが気持ち悪かった。寄生されている。そうとしか思えなかった。これがあの男の血を分けた生物であると、あの夜の出来事はほかの誰でもない私に起こった事象なのだと認めることが忌まわしかった。
何度も自ら命を絶つ事を考え、けれどそれを選ばなかったのは死への恐怖のためではない。
私が死のうとすれば、あの男は生かそうとするだろう。この胎に刃を突き立て、数多の血を流そうとも、あの日死にゆく私を生かしたようにあの男はきっとまた私を治すのだ。それが恐ろしかった。
あの男の望むままに修復された時、その結果生かされた私は本当に私のままなのだろうか?
何度も胎を刺し、貫き、殺した命をあの男がそれでも治した時、私の胎の中に還るその命は果たして本当に殺される前と同一なのだろうか?
私は私を信じられなかった。元より『自分』というものが曖昧で人格が『わたし』や『私』に分裂していた私にとって、ようやく獲得した私という自己の連続性が失われることは死よりも恐ろしいものだったから。
そして、ただでさえ悍ましい胎の中の生物があの男の手によって別のナニカに作り替えられるのが怖かったから。
故に、生きるほかなかった。
死にたいと願いながら。
故に、産むほかなかった。
流れろと祈りながら。
赤子の泣く声は聞こえなかった。
生まれた子は人の形をしていなかった。
胎の中でとうに、死んでいた。
「どこへ連れて行くつもりだ」
産声を上げることさえなかった赤子を産婆は抱き上げて部屋を出ていこうとする。それを呼び止めれば、振り返った老女は哀しげに眉を寄せた。
「……ですがユディト様、この子はもう……」
「わかっている」
「出産を終えて御身は心身共にひどくお疲れです。きっと抱かぬままお別れされたほうが貴女のためかと」
それが善意からの言葉であることは知っていた。労るような視線を受け止めながら、首を横に振る。
「お前が連れて出ていけば、もう二度とこの目に映ることはあるまい。そうなれば私はとこしえに悔いるだろう」
一晩でいい、と強請れば同情心の強い産婆は微かな躊躇いの後にそれを許した。
布に包まれた赤子を受け取れば、そのあまりの軽さに内心で驚く。
血は産婆が丁寧に洗い流してくれたらしい。それでも薄い肌によってその奥の肉の色が見えているかのようにその身体は赤かった。
布を開き、身体を見やれば確かに人の形はしていない。小さな指は癒着して一つの大きな掌のようになり、細い2本の脚もまた部分的に接合し、そして人体としては不自然な方向へ曲がっている。頭ばかりが大きく、対して育ちきらなかったかのように小さな胴。顔のパーツはほとんど皮膚に覆われきっており、目や鼻のような穴はない。口だけが微かに開いていた。
まるで蛭子だ、と私は思った。
これがずっと私の胎の中にいたのか、と感慨深く思いながらそれを眺める。
寝台の上、出産のために疲労した身体で半身を起き上がらせたまま、我が子をその腕に抱いて深く息を吐く。気を遣った産婆が部屋を出ていくのを、閉じる扉の音で知る。
我が子を抱いても愛おしさのようなものは湧かなかった。当たり前かもしれない。この子は私があの男に凌辱され、蹂躙され、あらゆる尊厳を貶められた果てに芽吹いた種なのだから。
しかし不思議と憎悪や嫌悪もなかった。
それが仮にも十月十日私の胎にいたが故の愛着からなのか、これが生まれることなく死んだ存在に対する憐れみからなのかもわからないけれど。
どうあれそれが死んでいたから、私はその子を抱きしめ、躊躇いなくその頬に口付けることができた。もしも生きて産まれていたのならば、こうも優しい手つきができていたとは到底思えない。産婆にすべてを放り出して、啜り泣くしかできなかったかもしれなかった。
そんなあり得なかった未来を想像しながら顔を上げ、窓から差し込む月明かりに目を細めてから口を開く。
「──お前の入室を許可した覚えはないが?」
「ここは私の城で、お前は私のものだ。私が私自身に許可を取る必要があるとでも?」
扉のそば、夜闇の中から輪郭を得たようにその男は現れた。低く、さしたる関心もないその声音。息を吐くように告げられるその傲慢さが憎たらしい。
月明かりによって生まれる長い影を連れながら男は、ユーハバッハは私のいる寝台までやってくると、そのそばに置かれた椅子へ腰掛ける。軋みを上げる音が耳障りだった。
顔を見るのは随分と久しい、と思った。あの夜以降、ユーハバッハは一度として私の前に姿を見せなかったから。
男は私の腕の中の亡骸へ視線を向けると、感情の読めない顔で僅かに目を細める。その表情に、私は心の内が乱される心地があった。
「……こうなるとわかっていたのか?」
不意にそんな言葉が口をついて出る。
何もかもを見通したようなその目を持つこの男ならば、死産になるのだとわかったうえで私を孕ませたのではないか、と。
もしもそうなのだとしたら、私という女の心身を傷つける手段として最上のものだっただろう。
「……仮にそうだとしたら、どうする」
「どうもせぬ。私にとってはすでに起きてしまった不可避の事象でしかない。お前への侮蔑の感情が深まるというだけのことだ」
そう返せば男は眉を寄せ、それから緩慢な動作で瞼をその大きな掌で覆った。
私はこの男のことを禄に知らない。まともに対峙したのは殺されかけた時と、犯された時。言葉よりも暴力ばかりが雄弁だった。
故にこの男が何に喜び、何に苦しむのかなど知りもしない。しかし、少なくともその時の私の目に映るユーハバッハはどこか耐えるような顔つきをしているように見えた。
その表情に、不思議と溜飲が下がる。それはこれまでのことを許すとか許さないとか、そういう類いの話ではない。
初めて、この男も人間なのかもしれないと思ったという、その程度のことだった。
ふと、腕の中の我が子へ意識が向く。なぜユーハバッハがここに来たのか。問うつもりはなかったが、少なくとも私が子を産まなければこの男がここに来ることはなかったのだろう。
「私は疲れている。出産こそ終えたが身体はどこもかしこも壊れていて、立ち上がるどころか些細な身動ぎさえ苦痛だ。お前の相手などしていられない」
「……だろうな」
こちらを見下ろす視線を、瞳で受け止める。深紅は微かに揺れ、長く見つめ続ければ逸らすのはあちらの方だろうと思えた。
「抱かないのならば出ていけ」
そう言って、中を見せるように僅かに腕を前へ出す。
清潔な布に包まれた軽い亡骸を前に、拒絶するのならそれこそ本当に侮蔑していたことだろう。
ユーハバッハは僅かに目を見張ると、それから静寂に包まれる夜でなければ聞こえないほど小さな声で言った。「……お前の子だ」と。その言葉を鼻で笑う。
「ああ、私の子だ。そしてお前の子だ、ユーハバッハ」
手を伸ばす素振りさえしない男の腕に、赤子を押し付ける。拒絶の意志は無いと知っていた。あるのは逡巡と躊躇いだけだ、と。
躊躇うその目を見つめ続ければ、男は一度肩を落として、それから酷く軽いその亡骸を、生まれてくることさえできなかった我が子をようやくその腕に抱いた。
腕の中へ視線を落とし続ける男へ、私は問いかける。
「……子が欲しかったのか?」
そうすれば男は腕の中に視線を落としたまま、じっと黙り込む。答えるつもりがないのならそれでもよかった。会話をしようとも、できるとも思っていなかったから。
そうやって時ばかりがいくらかむやみに流れた後、閉じた城門を時間をかけて開けるように色素の薄いその唇が開かれた。
「お前は星の終わりを知っているか」
「……何の話だ」
脈絡のない言葉だった。訝しげに問い返せば、ユーハバッハは視線を窓の外へ向ける。晴れ渡る夜空、眩い月の光の中で、けれど掻き消されることなく輝く星々がある。
「我々が視認する星の光ははるか昔の輝きだ。人が長い年月をかけて人生を歩むように、光もまた長い時間をかけ、長い距離を進み続けて我々の元へ辿り着く。仮に星が滅び果てたとしても、その光は生き続け、遠く未来の先にまで届くのだ」
意図の読めない言葉の紡ぎを、けれど意図が無いわけではないのだろうと遮ることなく聞き続ける。低く落ち着いた、しかしどこかに寂寞を感じさせる声だった。
ユーハバッハは微かに嘆息すると、それから深く息を吐くように呟いた。
「私の手に星は届かない。せめて光の輝きがあり続けたのならば、それが報いになると思えた」
それきり閉じられた唇を見つめる。いくらかの間の後「馬鹿らしい」と言葉少なに吐き捨てた。
今を尊べない者に見える未来にどれだけの価値があるというのだろう。届かないからと手さえ伸ばされなかった星には何の意味もないということではないか。
腹立たしさを抱えたまま、殴りつけるように言葉を紡ぐ。
「ユーハバッハ、お前にずっと問いたかったことがある」
ユーハバッハの視線が私へ向く。答えはなく、しかしこちらの言葉を受容するような空気に唇を開いた。
「何故、私だった?」
立場を持つ男だ、選ぶことならいくらでもできただろう。きっと私でなくてもよかった。私である必要さえなかった。
それこそ星の数ほどある選択肢のなかで、何故私を選んだのか。それをずっと知りたかった。
問いかければ男はその深紅で私を見つめて言葉を紡ぐ。
「その答えが私の元へやってくる時を待っている」
その言葉に鼓膜を揺らされた後、私は呆れたように深く息を吐いてヘッドボードへ背をつける。それによって僅かに身体が弛緩した。途端に身体に罅が入るかのような全身の痛みが返ってくる。それでもこの男の前で弱さを見せたくはないと虚勢を張った。
「……呆れた。まともに会話ができると踏んだ私が愚かだったな。お前を殺したくなったのは三度目だ。一度目はお前と出会った時、二度目は十月十日前、三度目は今」
眉間に皺を寄せ、男から視線を切る。そしてベッドの上で、子を産んでもすぐには戻らない大きな胎を抱えたまま目を伏せる。先ほどまでは悲鳴を上げ、滝のような汗をかき続けていたが、今となっては最早身体が冷えて仕方なかった。シーツを掴み、緩慢に引き寄せる。それから吐き捨てる。
「お前がその腕に抱える死の軽さを覚えているがいい、ユーハバッハ。それは明日には失われるものなのだから」
ユーハバッハは私から視線を逸らすと、自身の腕の中に視線を落とす。そして冷たく小さなその頬を指の先だけでほんの少し触れた。
私でさえ軽いと思ったのだ、この男には重ささえ感じなかったことだろう。感じられないものを覚えていられるわけもない。無いものを忘れずにいられるわけがない。私はこの子の産声を知らないから、それを覚えていてやることさえできなかった。
「ああ、覚えていよう」
それなのに、男はそう口にした。
死んでしまえと思った。
幾ばくか子を抱いて、ユーハバッハはその子を私へ返した。「行くのか」と問えば、「私がいてお前が眠れるのならば去る理由もない」と言う。男は立ち上がり、私の視界から消えた。私もまたその姿を目で追うことはしなかった。子を抱え直す私の背に言葉が届く。
「星は数多にあれど、私の目に映ったのはお前の光だけであった」
その言葉に思わず振り返ったが、背後にあったのは無人の空間だけだった。耳鳴りがするほどの静寂と、月明かりの届かない夜闇が部屋の端に蹲る。
もういない、と気がついて今度こそようやく張り詰めていた息を吐く。それから恨み言も。
「……私にはお前など見えなかったよ」
子を寝台の上に寝かせ、自身も寝台に横たわる。伸びた髪がシーツの上に広がることを厭わないまま、静かに。
シーツを手探り、我が子の小さな掌に自身の指を近づけても原始反射はない。こちらから手を握った。冷たい手を。不意に片方の目から涙が溢れた。蟀谷を辿り、耳の縁を越え、髪の付け根まで。感情によるものではなく、生理的なものだと言い聞かせる。
目を瞑れば月は見えない。
星は見えない。
何も、見えない。