お前の冥福を祈ったりしない   作:ホネホネ

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冷たい柔肌を斬り裂いて
拉げた子宮に熱を与えて

壊れた私の螺子を回した
貴方の吐息を奪うまで





これが報いというならば

 

────?

 

「生きているか、別に死んでいても構わなかったがな。暴れるなよ、今その拘束を解く。……間違っても私に触れてくれるな。弱り切った破面など今の私でも殺せるのだから」

 

────。

 

「ふん、勘違いするな、別にお前を救うためではない。あの男の所業が気に食わなかっただけだ。……後継者に石田家の者を選ぶわ、黒崎一護を息子と呼ぶわ……。とうとう耄碌したか、或いは仮にも正妻たる私の精神を逆撫でしているとしか思えん」

 

────。

 

「なにより、虚圏の女領主を制圧して拉致するなど……嫌な記憶を思い出して腸が煮えくり返りそうだ。……お前、孕まされてはいないだろうな?」

 

────。

 

「はっ、別にどうでもいいがな、どうせ股を裂いて出てくるのは蛭子だ。私がそうだったように。…………ちっ、口が過ぎた。そんなことより、強い虚の気配を複数感じる。お前を助けに来た者たちではないのか」

 

────。

 

「誰か、なんて知ったことか。どちらにせよ、ユーハバッハにとってお前はもうさしたる価値を持たない。生きていようが死んでいようがどうでもいいのだ」

 

────。

 

「だが、もしもお前が領主として臣下や民を持ち、彼らがお前を愛するのなら、そしてお前自身もそれらを尊く思うのなら、生きて帰るべきだ」

 

────。

 

「…………拘束は解いた。お前の自由だ。だが私の邪魔はするな。私には向かわなければならない場所がある。道を遮る気なら殺すぞ」

 

────。

 

「……今、感謝を述べたのか?……私に?…………呆れた。虚とはいえ知性のある存在だと思っていたが、勘違いだったようだ。私が誰だかわかっていないのか?私は滅却師で、お前を痛めつけたあの男の──」

 

────。

 

「……私にはお前を助けるメリットが無い、か。ふん、馬鹿を言え。言っただろう、あの男への意趣返しだ。お前への善意じゃない。私の行いを都合良く解釈するな」

 

────。

 

「………………もういい、私は行く。しなければならないことがある。お前もはやく臣下に救われてやれ。……情を移した者に目の届かないところで死なれるより辛いことなど、そう無いのだから」

 

 

 

 

 

父である竜弦から鏃を受け取った石田雨竜が真世界城の王の間に辿り着いた時、そこに黒崎一護やユーハバッハの姿は無かった。

戦闘のために崩れきった城の中、朽木ルキアによって介抱されている井上織姫の姿を見て、彼は咄嗟に声を上げて駆け寄る。

 

「井上さん……!」

「石田くん……無事で、よかった……」

 

ルキアの腿に頭を置き、焦点も合わない目で井上は声を頼りに彼を見上げる。息も絶え絶えな自分のことより友人の無事を喜ぶ姿が痛ましく、石田は深く眉間に皺を寄せた。

 

「案ずるな、石田。力を使って今は酷く消耗しているだけだ。救護の目処がつくまで私が必ず井上を守る」

「朽木さん……」

「それに、お前には一護たちの行先を伝えねばならん」

「そうだ、ユーハバッハと黒崎たちはどこに?」

 

石田がそう問いかけた、その時だった。

 

──カツン、と高い踵が地を打ち鳴らす音が響いた。

三人の視線は警戒と共に素早く音の方へ向き、そしてそこに立つ一人の女性の姿を映す。

石田は井上たちを守るように彼女たちの前に立つ。そうしてやってきた女を見据えた。

 

長い白銀の髪と女性にしては高い背丈、色素の薄い金の瞳は鋭く、引き絞られた口元は硬く閉ざされている。

氷のような瞳で彼女は石田たちを一瞥する。その姿に石田はこの帝国にやってきた当初、遠目に一度だけ見かけた姿を思い出す。

 

「貴女は、皇妃か……!」

「……石田雨竜」

 

そこに立っていたのは皇妃ユディトだった。石田の呟きに、背後にいたルキアが「皇妃……まさか……!」と目を見開く。その言葉を肯定するように石田は頷いた。

 

「ああ、その通りだ、朽木さん。……彼女はこの国の皇妃。つまりはユーハバッハの妻だ」

「!?」

 

驚いているのは石田もだった。皇妃ユディトは表舞台に姿を現すことなど殆ど無いと聞いていた。国政に関わることは無く、姿を見たことのある騎士もそう多くない、と。

それ故に、彼女が何故今になって姿を現したのかがわからなかった。夫を守るために敵である三人を倒しに来たのか?考えられるのはそれくらいだが、それにしては()()()()

顔を強張らせたまま思考を巡らせる石田に、ユディトは変わらない無表情で唇を開いた。

 

「ユーハバッハは何処だ」

「それは……」

「石田雨竜、お前はあの男を殺しに行くのだろう。私も似たようなものだ。こちらにお前と敵対する意思はない」

「え?」

 

困惑する石田を前に、ユディトは唐突に体を折ると激しく咳込んだ。咳の度にガクガクと震える身体。細身の女性から吐き出されるにしては荒く激しい咳に警戒よりも心配が勝りそうにさえなる。

 

長い咳のあと、顔を上げたユディトは口元を押さえていた手を離す。その掌を染め上げる鮮血に微かに顔を歪めた。その様子に、石田は察するものがあった。

 

「聖別……」

「……ああ、おかげで死に体だ。しかし、私や霊王の残滓ならまだしも、ハッシュヴァルトまで手に掛けるとは。……堕ちたものだ」

 

ハッシュヴァルトやジェラルドの命を奪ったユーハバッハの二度目の聖別の光は、ユディトにも等しく降り掛かった。

それは彼女にとって致命傷であり、彼女がまだ生きていられるのはほんの僅かな偶然の為だ。そして彼女はその偶然だけを頼りにここまで歩いてきた。そして自分に残された時間は僅かだと知っている。

 

汚れた手を気にすることなく、ユディトは顔を上げると「ユーハバッハは何処だ」と再び問う。

石田とルキアは視線を合わし合った。

目の前の女を信じていいのか。本当にユーハバッハの敵なのか。今、井上は動けない。自分たちの判断ミスで、一瞬の隙を狙って井上が襲われたら。万が一の可能性が頭をよぎる。

石田は警戒を隠さない顔で唇を開く。

 

「……貴女が敵ではないという保証が無い」

「あの男に殺されかけているのだぞ。恨まない者がいるか?」

「……ハッシュヴァルトはそうだった」

「…………」

 

石田が答えれば、ユディトは無言で顔を歪ませた。

それは自分の発言が否定されたことに対してではなく、捨て駒同然に殺されてなお主人を恨むことのなかった従者に向けての感情だった。

彼女は一度深く目を瞑ると、それから深く溜息を吐いて言葉を紡いだ。

 

「……わかった、滅却師として今は亡き祖国へ誓おう。私はこれより石田雨竜と、その仲間に対して決して攻撃をしない、と。例え自分が攻撃されたとしても、身を守る行動を取るだけで反撃はしない。これで十分か?」

「……僕の仲間は見えざる帝国との戦いに参加している全ての人間と死神のことだ。そして、もし貴女が今の発言を反故にするのなら、僕が貴女を殺す」

「ふ、条約の確認か?他人の言葉を無条件に受け入れるだけの愚か者では無いと見える。殊勝なことだ、あの男が後継者に選ぶなどと嘯いた理由もわかる。ああ、いいだろう、お前の口にするその定義に則って誓おう」

 

所詮口約束だ、石田とてユディトを信じたわけではない。

しかし、これ以上足止めを食らうわけにもいかない。彼女が現れた以上、何らかのリスクは取らなければならなかった。

 

「朽木さん」

「……ああ、一護たちはユーハバッハを追って、奥の門を通った。行先は尸魂界だ」

 

石田はルキアと井上を守るように立ちながら、ユディトへ向かって口を開く。これ以上、井上たちとユディトを同じ空間に居させ続けるつもりもない。

 

「彼女の言った通りだ。……貴女が先に通ってくれ」

「わかった。私が先に行く」

 

警戒を向けられていることを気にすることなく、ユディトは今にも倒れそうな身体を無理矢理に動かして門の前に立つ。

尸魂界に辿り着けば石田は真っ直ぐにユーハバッハを殺しに向かうだろう。今の自分では怪我一つ無い戦士の速度に追いつけないとわかっていた。それ故に、彼女は門の前で振り返る。そして石田を見つめて唇を開いた。

 

「……石田雨竜。お前に一つだけ聞きたいことがある」

「……?なんだ」

 

一瞬の躊躇い。恐怖に竦む心。

それを踏破して、ユディトは問い掛ける。

 

「…………ニャンゾルは、……死んだのか?」

 

意図せず、声が震えた。もしかしたら泣き出しそうにさえ聞こえたかもしれない。けれど、そんなことは無い。本当はとっくにわかっているし、知っているから。滅却師の霊圧探知能力は高く、見知った人の霊圧の有無程度、わからないはずがない。もう生きている者なんてほとんどいないとわかっている。数少ない生存者の中に、短くも穏やかな日々を過ごしてくれたあの蛭子がいないことくらい、とっくに、とっくに、わかっていた。

それでも問いかけてしまったのは何故なのか。

 

「……ああ、彼は霊王宮で零番隊に倒された」

 

肯定しながらも「死んだ」と表現しなかったのは石田の優しさだろう。そんな細やかな善意を持つ人間が、ユーハバッハなどに汲みする筈がない。

 

ユディトは足元の影を見る。

いつも勝手に入り込んでくるのを叱りながら、少しだけ救われていた。それ以外にどうやってあの子に話しかけたらいいのかなんかわからなかったから。

用意した菓子がまだ残っている。甘いものは好きじゃない。困る。死なれると困る。お前以外の誰が私から菓子を受け取って食べてくれるというの。

 

全部どうだっていい筈だった。

誰が死のうが生きようが、関係なかった。

目を閉じて耳を塞いで口を噤んで世界の隅っこで鼓動が止まる日をただ待っていればそれでよかったのに。

 

本当はどうでもよくなんかなかった、と今になって理解する。

 

「……そう。…………教えてくれて、ありがとう」

 

崩れそうになる脚を叱咤して、一歩前へ行く。

ここで足を止めたら今度こそ本当に全てが無意味になってしまう。

 

行こう、この千年の妄執に終わりを告げるために。

 

 

 

 

 

 

花の香りがした。

激しい戦闘のため荒れ果てた地には不釣り合いなその香りに、もはや戦争は終わったのだとユーハバッハは知る。

 

硝子細工を地に落としたように、壊れたものはもう戻らない。黒崎一護に切り裂かれた身体は戻らず、三つに分かたれた世界もまた戻りはしない。あらゆる機会は失われ、安寧の皮を被った絶望の日々がこの先も続いていくのだろう。

 

唯一救いがあるとするのならば、続いていく日々の中に最早自分が存在しないということだけか。

 

そう思った瞬間に、彼の中にこの結末を受け入れる心地が僅かに生まれた。途端に重くなる身体から力が失われていく。

そうして解けていく影の中、閉じかけた瞳が漆黒を纏う白皙を幻視して、僅かに抵抗する。

 

「なんとも無様なことだ、ユーハバッハよ」

 

──嗚呼。その声を何に喩えるべきか。

 

どこまでも細く消えてしまいそうな糸月か。

憂いを纏って俯き揺れる白百合か。

宵の雪のように静かに、しかして胸を掻き乱すその声に、紡がれる音は自然とその名を表す。

 

「……ユディト」

「驚いた、お前の記憶の中にまだ私の名が残っていたとはな」

 

皮肉げにそう吐き捨てる女の姿がそこにはあった。

端正な顔には深い眉間の皺があり、その表情の中のどこにも穏やかなものはない。

不意に、長い白銀の髪と漆黒のドレスが吹き抜ける風に揺れる。そのコントラストが何よりも鮮明だった。微かに血の混ざった花の香り、気丈な振りをしながら目の前の彼女は自分と同様に死にかけだと理解していた。むしろ、彼女が生きていたということにユーハバッハは驚く心地さえあった。

 

「……お前が生きていたとは、な」

「私を殺し損ねたことを悔いる必要はない。そう時を待たずに死ぬのだから、さしたる違いはないだろう」

「ならば殺しに来たか、この私を」

「死骸を殺す意味が無い。二度手間だ」

 

彼女は死を恐れる様子もなくそう事実を口にした。そして殺風景になった周囲をゆっくりと見渡す。彼女はユーハバッハを打ち倒したばかりの黒崎一護たちの姿を意図的に無視すると、再びユーハバッハへ視線を向ける。

 

「お前は何がしたかったのだ、ユーハバッハ。ここにはもう何も無い。こんな景色が見たかったのか。こんなもののためにお前の千年はあったのか。一体、何のために生きていたのだ、お前は」

「無論、救済のためだ。この世界に在る全ての者を、踏破し得ぬ死に怯える者を、他でもない私の民を守り、救うために」

「ならば重ねて問おう。民とは誰だ。今や誰一人としてお前を拝する者はいない。誰もをお前が殺した。お前が愛する民など、もうどこにもいはしない」

「…………」

 

遠い昔、酷く似たような問答を彼女とした記憶がある、とユーハバッハは想起する。

意趣返しか、むしろ彼女は意図的に重ねているのだろう。あの時の恨みは今もなお彼女の中に強く残り続けていたようだ。

ユーハバッハがその事実に気がついたということにユディトも気がついたのだろう、彼女は鼻で笑う。

 

「哀れな事だ。民もいない、騎士もいない、城もない。そんな王があるものか。そんなものが王であるものかよ。魔女と罵られた私でさえ玉座はあったというのに」

「……ああ、その通りだ。私と同じように、末路のお前にも民はなく騎士もなかった。私と異なり、その手で民を殺すことは然程なかった筈だがな」

「恐怖政治の成功例として見習うべきだったことは認めよう。やはりブラッドバスくらいしておくべきだったか」

「……お前の正気の在り処を問うべきか?」

「先に自分自身へ問いかけておけ」

 

いつかのように互いに互いを見据え合う。ひどく懐かしいと二人は思う。千年連れ添いながら、彼らが目を見つめて話をしたことなど片手で足りるほどにしかなかった。

それでも王であり、支配することの苦難を知っている彼らは本当ならば誰よりも互いを理解できた筈だった。その機会は今この瞬間になるまで訪れなかったけれど。

今この場にいる誰よりもユーハバッハの思想を理解していたユディトは落ち着きのある声音で紡ぐ。

 

「……例えその手段が間違っていたとしても、私が私の国の民を愛していたように、お前はお前なりにお前の民を愛していた。そのことを否定はしまい」

「……ユディト」

「だが、与えられる愛を受け入れるか否かは民が決めることだ。そして弾かれた結果が今のお前の有様なのだろう」

 

ユディトは気を抜けば容易く崩れ落ちそうになる足を、しかし一歩前へ踏み出す。いつかのように殺すためではなく、向き合うために。それは彼女にとって初めてのことであり、今この瞬間だからこそできたことだ。

 

「お前の愛は届かない」

 

ゆっくりと歩みを進めて彼女はユーハバッハの前に立つ。その真紅の瞳を真っ直ぐに見つめて、変わることなく寄せられた眉のまま、言葉を紡ぐ。

 

「──ただ一人、私を除いて」

 

手を伸ばす。霊王の力によって失くしていた顔は、影が解けることによってすでに露わになっていた。出会った時よりは老けた、しかし本質は何も変わらないその男の頬を白皙の手で包むように撫でる。

 

そうして引き絞られたその唇へ、彼女は自身の唇を重ねた。

 

柔い感触に唇を物理的に塞がれて、一定に繰り返されていたユーハバッハの呼吸が乱れる。

微かな湿度を纏った肌と肌の触れ合い。それどころか、明確な意思を持ってユディトからユーハバッハにふれるということさえ、この千年において初めてのことであった。

 

時が止まったような心地がユーハバッハの内心を支配する。その支配が解けた後にやってきたのは甘やかな感傷ではなく、困惑に近しいものだった。唇を離されてもなお、それは隠されることなく男の表情の中にあった。

 

「……ふ、それが妻からの口付けを受けた夫の顔か?」

 

それは花が綻ぶように、木漏れ日が差し込むように。

どこか揶揄うような声音で、ユディトは穏やかに微笑む。

 

それは千年もの長きに渡って誰一人として見たことのない、彼女の心からの表情だった。

 

ユーハバッハは彼女の笑みを見て、一瞬驚いたように目を見張る。それから一度として見たことが無かった、そして同時に遥か昔に一度だけ垣間見たその笑顔を思い出す。

 

あれは遠い昔、殺すために彼女の城を侵略した時のこと。

護る者のいない王の間で、玉座を前に立ち塞がる女の姿。白いドレスを纏った女が高らかに語った時。

 

『私はユディト、女王ユディト。この国に君臨する女王であり──』

 

『──お前の死を看取る者だ』

 

彼女のその言葉をトリガーに、彼の瞳に遙か未来が映る。

 

──それは自分に向けて、穏やかに微笑みかける女の姿。

 

どこか安堵したように、どこか傷付いたように笑うその姿を瞼の裏には映した時、制御できないほどに己の中の欲望が膨れ上がるのを感じた。

 

目の前に立つのは、この瞬間、自分へ殺意を向けている女。

瞼の裏に映るのは、いつか自分へ笑いかけるだろうその女。

 

その両方が彼の視界の中でオーバーラップした瞬間、ユーハバッハの中にユディトという女を己のものにしたいという激しい欲望が生まれる。

こんな感覚は初めてのことだった。けれど彼は、自分の中で発生したこの想定外の衝動を、膨れ上がる欲望の熱とは裏腹に酷く冷静に受け止めた。

 

……そうか、そういうこともあるのか、と。

 

視てしまった以上、識ってしまった以上、無かったことには出来ない。燃え上がるような情念と欲望は彼女を手に入れるまで消えはしない。

 

だから斬った。だから生かした。

愛しかった。いつか失う日が来ることが許せないほどに。だから孕ませた。星の光のように、彼女が死んだとしても残るものがあればそれを寄す処に生きていけると思ったから。その目に映りたかった。傷でもいいから、憎悪でも嫌悪でも侮蔑でもいいから。果たして自分は目の前の女を愛していたのか、まだこの世に存在さえしない仮定の未来を愛していたのか。そんなことはどうでもよかった。愛というものに報いを求めたことはないのだから。

 

ユーハバッハは自らの差し出す愛に報いを求めない。王の愛とはそういうものだ、と。

けれど、一つだけ失念していたことがある。

それはユディトはユーハバッハの民ではないということ。

 

ユディトはユーハバッハへ寄せていた顔を離すと微かに目を細めて言葉を紡ぐ。

 

「……お前という男は、お前を憎悪し、嫌悪し続ける私にこそ価値を見出したのだろうが、そんなものはもうとっくの昔に摩耗し切っている。(めくら)なお前の幻想だけを残してとうに朽ち果てたのだ」

 

元はただの滅却師でしかなかったユディトにとって、強制的に与えられた千年という時間はあまりにも長過ぎた。まして己の為だけの憎悪に、そのあまりにも長い時間燃え続けられるほどの力は無い。時は過ぎるほどに、指の先から壊死していくような緩やかな感情の崩壊だけがあった。

 

その果てに残るものがあったとして、しかしそれを許しと呼ぶことを彼女はしないだろう。

 

「……それでもお前が生きている限り、私はお前という王を呪い、侮蔑し、怒り続けなければならない。私はお前を許さない。お前が死ぬまで、ずっと」

 

硬い声で紡がれるその言葉。その言葉の羅列の持つ矛盾にユーハバッハは気がつく。

 

彼女はユーハバッハという王を呪うと言った。

彼女はユーハバッハを王ではないと言った。

 

彼女はユーハバッハを死ぬまで許さないと言った。

彼女はユーハバッハを死骸だと言った。

 

「……でも、もうお前は死ぬのでしょう。お前はもう、王ではないのでしょう」

 

紡いだ矛盾の狭間で、彼女は憐れむように微笑むように目を細めて男の頬を撫でる。

 

「……王でもないただの死骸のお前なら、愛したっていい……」

 

それは許容か、願望か。

多くを語らず、ただ彼女は自らの夫の首裏に手を回して抱き締める。

瞬間、花の香りがユーハバッハの鼻腔をかすめる。感じるのはまだ死んでいない人間の体温、まだ死んでいない人間の重さ。やがて失われる、ささやかなもの。憎み、呪い、嫌い、それでもなお愛することを選んだ者。尊く、愛おしい人間の在り様。

そして彼の妄執の最果てに残った、唯一。

 

「……そうか。お前が私の報いか、ユディト」

 

矛盾の先に残るものだけが、ユーハバッハに与えられた僅かな報い。ユーハバッハは理解する。全ては終わりに向かって墜落していくその最中でしかないとしても。

 

その最期に残るものは確かにあったのだ、と。

 

眼前に迫る死に怯える男を、護るかのように女は抱き締め続ける。その腕の中で男は目を瞑り、深く深く安堵に良く似た息を吐いた。そして二度と息を吸うことは無かった。

 

影は解け、男の身体は緩やかに地に落ちていく。それと共にユディトは地に膝をついた。抱いたユーハバッハの死体を地に寝かせ、冷たい頰を撫でる。

 

男を看取って、女は笑う。死を看取るなんて、下らない約束など忘れてもよかったのに。けれどそのためだけにここまで来てしまった。結局執着していたのはお互い様だったのだ。深く息を吐き、死体にしか言えない言葉を吐露していく。

 

「壊れていたんだ、本当は。私は分裂した人格でしかなくて、初めから自己の定義さえ曖昧だった。現実も虚構も区別がつかなくて、死ぬのは怖いのに生きている感覚もなかった。……お前が現れる日までは」

 

もう動かない男の手を握り、言葉を落としていく。

お前が私を生かした。斬って、治して、犯して。鮮明な痛みと恐怖で生きているという実感をこの身体に叩き付けた。壊れた機械の螺子を回して、私を生かし直した。感謝するには傷はあまりにも深く、憎悪するには時が流れ過ぎてしまったけれど。

 

「……どうして私の前に現れたのがお前だったのだろう。……どうして、お前の目に映ったのが私だったのだろう」

 

吐き出す言葉が音になっているかも怪しかった。目が霞む。音が遠ざかる。感覚が鈍る。死が近いのか、これが死なのか、よくわからない。あの時みたいに切り捨ててくれたらよかったのに。血や痛みが無いと死の自覚も恐怖も不足する。感覚が狂う。自分がとうに倒れていると今になって気がつく。握ったまま、握り返されることのない手にすこし力を入れてみる。繋いだ手に、微かな寄す処。最後に残った私の感覚。けれどとても耐えられそうにない眠気がこの身体を泥の中に溶かしていく。温く、柔く、世界と同化していくみたいに。先に逝った人々の後を歩くみたいに。

 

──ねえ、お前はこんなのが怖かったの?

 

 

 







ここで終わるのが綺麗な気がしてきましたが、もう1話ある予定です。もちっとだけ続くんじゃ
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