万年雪の館で、魔女は今日も暖まりたい   作:かみりあ

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第六章 「暖炉のぬくもり」

 

 

 暖炉の炎がゆらめく。橙がかった光が館の一室を優しく照らし、壁に長い影を落としていた。外はもう夕暮れ時。窓ガラスには、空から舞い降りる無数の雪の結晶が静かに積もり、柔らかなカーテンのように外の世界を覆い隠していた。降り続く雪は粉雪で、音もなく、まるで空から羽根が降ってくるかのようだった。

 

 ナグサは暖炉前の大きな肘掛け椅子に深く腰を下ろしていた。華奢な体は分厚い毛布に包まれ、白銀のドレスの裾がほんのりと炎の光を受けて淡く輝いている。淡い銀色の長い髪は肩にかかり、氷青色の瞳は暖炉の炎をじっと見つめていた。瞳の中では、燃えさかる炎がゆっくりと形を変え、揺らめき、そして消えていく。その様子は、彼女自身の内面の静かな動きを映しているようでもあった。

 

「……静かな夕べですね」

 

 ナグサが小さく呟くと、同時に外の雪がほんのりと輝きを増した。細かい氷の結晶が煌めき、ダイヤモンドダストの始まりだった。心の奥底でほのかな温もりが広がっているのを感じる。今日という一日が、穏やかに、そして満ち足りて終わろうとしていることへの静かな喜びだった。

 

 ドアが静かに開いた。音もなく現れたのはユキナリだった。濃紺の冬装束をまとい、銀縁の眼鏡の奥の灰色の瞳は、いつもと変わらぬ落ち着きをたたえている。手には革綴じの書類が数部抱えられていたが、暖炉の光を受けるナグサの姿を見て、彼はそっとドアを閉めた。

 

「ナグサ様、お邪魔いたします」

 

「ユキナリさん。どうぞ、こちらへ」

 

 ナグサは毛布の中から細い腕を差し出し、隣の椅子を軽くたたいた。その動作は優雅で、そしてどこか愛らしかった。

 

 ユキナリは静かに近づき、指定された椅子に腰を下ろす。書類は小さなサイドテーブルの上に置かれた。暖炉の火が彼の白髪にほのかな光を添え、長年国政に携わってきた知恵と落ち着きをより一層引き立てている。

 

「お疲れではありませんか? 昨日は祈りの日で、ナグサ様もずっと外におられましたから」

 

「大丈夫です。むしろ、街の灯りや……皆の祈りを見ていると、心が温まりますから」

 

 ナグサは微笑んだ。その笑顔は、窓の外で降りしきる雪のように柔らかく、そして儚げだった。

 

 ユキナリはうなずき、暖炉の炎を見つめた。炎は彼の瞳の中でゆらめき、静かな時間が二人の間を流れる。外の雪は相変わらず音もなく降り続き、時折、風が窓枠をかすかに揺らすだけだった。

 

「街はすっかり静まり返っています。皆、温かな家の中で、この静かな夕べを過ごしておりますよ」

 

「そうですか……。何よりです」

 

 ナグサの声は安堵に満ちていた。彼女の感情が天候に反映されるこの特性。自分が平穏でいる限り、国もまた平穏でいられる。その責任の重さを彼女は痛いほど理解していたが、同時に、この絆のようなものを愛おしくも思っていた。

 

 再び沈黙が訪れる。しかしそれは決して気まずいものではなく、むしろ深い信頼関係によって紡がれる、心地よい静寂だった。ユキナリはナグサの横顔をそっと見つめ、彼女の心の内を慮る。幼い頃からずっと、この小さな魔女を見守ってきた。その成長と、時に見せる脆さを、彼は誰よりも理解しているつもりだった。

 

 ドアが再び開き、今度は明るい気配が部屋の中に流れ込んだ。

 

「ナグサ様! 温かいものをお持ちしましたよ!」

 

 コユキだった。淡い水色の髪を肩で揺らせ、白と薄青の巫女装束の裾を軽やかに翻して入ってくる。手には銀の盆が載っており、その上には湯気を立てるマグカップが二つ。甘く芳醇な香りが、部屋の中にふわりと広がった。

 

「コユキさん、ありがとうございます」

 

 ナグサの声は自然と温かみを帯びた。コユキの無邪気で純粋な敬愛は、いつだって彼女の心を軽くする。

 

 コユキはニコニコとしながら盆をサイドテーブルに置く。ユキナリの書類の隣だ。

 

「今日は特製のハーブティーです! ナグサ様の疲れが取れるように、ゆっくりと効くハーブをブレンドしてみました。ユキナリ様もどうぞ」

 

「お心遣い、ありがとうございます、コユキ」

 

 ユキナリは微笑みながらマグカップを受け取った。コユキの気遣いが嬉しいというより、彼女のナグサへの深い思いやりに、心が温められるのを感じた。

 

 コユキはナグサのマグカップを直接手渡す。その際、そっとナグサの手のひらに触れ、その体温を確かめるようなしぐさを見せた。

 

「……少し、手が冷たいですよ? 毛布、しっかり巻いていますか? 寒くはありませんか?」

 

 心配そうな瞳を大きく見開いて、コユキはナグサをじっと見つめる。

 

 ナグサはくすりと笑った。

 

「大丈夫ですよ、コユキさん。暖炉の前ですし、毛布にも包まっていますから。もう、そんなに心配しなくても」

 

「でも! ナグサ様はいつも無理をしがちですから! 昨日だって、祈りの日で長い間外にいらしたじゃありませんか。疲れがどっと出ませんように……!」

 

 コユキは真剣な面持ちで言い、毛布の端をきちんと整え直した。その動作は母性的ですらあった。

 

 ナグサはコユキのその一途さに、優しい眼差しを向ける。

 

「ありがとう、コユキさん。あなたの温かいお茶と、心遣いが、私を一番温めてくれますから」

 

 その言葉に、コユキの頬がほんのりと赤らんだ。尊敬する主からの感謝の言葉は、彼女にとって何よりも嬉しい褒め言葉だった。

 

「そ、そんな……! では、もう一杯お持ちしますね! お代わりはいくらでもありますから!」

 

 コユキはそう言い残すと、恥ずかしそうに、しかしとても嬉しそうに部屋を出ていった。その足取りは軽やかで、廊下に消えていく後ろ姿までが、楽しげに見えた。

 

 ナグサはコユキの去った後ろのドアを見つめ、またほほえんだ。そしてマグカップを両手で包み、その温もりをじっと感じ取る。ハーブの甘い香りが鼻をくすぐり、ゆっくりと体の芯まで温めていくのを感じた。

 

 ユキナリも一口、ハーブティーを口に運んだ。

 

「……コユキの言う通り、ナグサ様。どうか、ご自身をお労りください。雪凪国が平穏でいられるのは、ナグサ様の心の平安あってこそです」

 

「はい。分かっています、ユキナリ」

 

 ナグサの返事は静かだった。彼女はユキナリの言葉の重みを、十分に理解していた。自分が疲れ、動揺すれば、それは吹雪という形で国に影響する。たとえ破滅的災害には至らないとはいえ、人々に不安を与えることには変わりない。

 

 暖炉の薪がパチッとはじける。その音に二人同時に視線を移す。炎は勢いを増し、より激しく、より鮮やかに踊り始めていた。その光は部屋中を照らし出し、壁に映る影を大きく揺らめかせる。

 

 その時、ドアがノックもなく開き、大柄な男が現れた。ガンテツだ。氷色の作業用外套を着込み、分厚い手袋をはめたその姿は、暖炉の温もりが漂う部屋の中では少し浮いて見えた。

 

 彼は無言で一礼すると、暖炉のそばに歩み寄った。ユキナリとナグサは何も言わず、彼の作業を見守る。

 

 ガンテツは暖炉の燃焼状態を確認する。炎の色、薪の残量、空気の流れ──彼は一言も発さず、しかしすべてを把握しているようだった。そして、ほんの少しだけ空気の調節レバーを動かし、新しい薪を一本、慎重に炎の中にくべた。

 

 炎は一瞬勢いを失ったかと思ったが、すぐに新しい薪に火が移り、以前よりも安定した、力強い炎となって燃え上がった。室内の温もりが、ほんのりと、しかし確実に増すのを感じた。

 

 作業を終えると、ガンテツは再びナグサとユキナリに向き直り、深く一礼した。その表情は相変わらず無表情だが、その一礼には深い敬意が込められていた。

 

「ありがとう、ガンテツさん。いつもながら、確かな技術ね」

 

 ナグサが静かに感謝を伝える。声は炎の温もりに包まれて、より一層柔らかく響いた。

 

 ガンテツは僅かにうなずくと、それ以上何も言わず、静かに部屋を後にする。その存在感は寡黙ながらも、部屋に深い安らぎを残していった。

 

「……ガンテツは、言葉数が少ないけれど、その仕事ぶりにはいつも感心させられます」

 

 ユキナリが呟く。彼のマグカップには、まだ湯気がゆらゆらと立ち上っていた。

 

「ええ。彼のくべる薪の火は、格別です。心まで温まるような……そんな気がします」

 

 ナグサはガンテツのくべた薪が、ゆっくりと燃え、炎の中に溶け込んでいく様を見つめながら答えた。

 

 部屋の隅、ドアに近い場所で、さらさらとペンが走る音がした。ふと気づくと、フミがそこに立っていた。いつもの厚手の記録用外套をまとい、革装丁の手帳を片手に、静かに情景を記録している。

 

 彼女がいつからそこにいたのか、ナグサもユキナリも気づかなかった。フミの存在は、しばしばそれほどまでに静かで、そして自然だった。彼女は記録係として、この国の歴史、そして魔女の言葉や行動のすべてを書き留める役目を負っている。

 

 フミは顔を上げることもなく、ひたすら手帳に文字をしたため続ける。その表情は冷静沈着だが、ペン先から紡ぎ出される言葉には、時に詩的な情感がにじむ。今、彼女が記しているのは、暖炉を囲む静かな時間、そしてそこに漂う温もりと安らぎだろう。

 

 ナグサはフミのその姿を、そっと見守った。自分自身の日常が、誰かの手によって丁寧に記録され、未来へと引き継がれていく。その事実は、彼女に不思議な責任感と、ほのかな誇りのようなものを感じさせた。

 

 フミはふとペンを止め、窓の外を見る。外では、粉雪がダイヤモンドダストへと変わりきり、無数の微細な氷の結晶が闇夜の中できらめいていた。それは、ナグサの心の平安が最高潮に達した証だった。

 

 フミはほんの少し、口元を緩めると、再びペンを走らせ始めた。その様子を遠くから見ていたナグサは、自分自身の内面が他人の目にどう映っているのかを想像し、少し照れくさいような気持ちになった。

 

 時間はゆっくりと、しかし確実に流れていく。夕暮れの名残は完全に消え、窓の外は深い藍色の夜となっていた。だが、ダイヤモンドダストは闇の中で微かに光り続け、幻想的な輝きを放っている。部屋の中では暖炉の炎がゆらめき、その温もりと光が、静かな時間を包み込んでいた。

 

 ユキナリはそっと立ち上がる。古い床板がきしむかと思うほどの、静かな動作だった。

 

「ナグサ様、私はこれで失礼いたします。明日の分の書類に目を通さねばなりませんので」

 

「ええ、お疲れ様でした、ユキナリさん。無理はなさいませんように」

 

「はい。ナグサ様も、どうかゆっくりお休みください」

 

 ユキナリは深く一礼すると、サイドテーブル上の書類を手に取り、静かに部屋を後にする。その背中は、年齢を感じさせぬ颯爽とした佇まいだった。

 

 フミもまた、ユキナリの後に続くように、そっと手帳を閉じた。彼女はナグサの方へ向き直り、軽く一礼する。言葉はない。しかし、その一礼には「今日という一日の記録を終えました」という静かな報告が込められているようだった。

 

 ナグサはうなずき、小さく手を振った。フミはまた僅かに口元を緩めると、音もなく部屋から消えた。

 

 こうして、広い部屋には再びナグサ一人が残された。暖炉の炎だけが、彼女の唯一の相手だ。コユキが運んできたハーブティーはまだ温かく、マグカップの底に少しだけ残っている。彼女はそれを手に取り、最後の一口をゆっくりと味わった。

 

 ハーブの甘さとほろ苦さが口の中に広がり、体の芯からほんのりと温もりが蘇るのを感じた。外のダイヤモンドダストは相変わらずきらめき、静かな夜の帳をさらに神秘的に見せている。

 

 ナグサは毛布にくるまった体を少しだけ丸め、暖炉の炎を見つめた。炎は複雑に、そして美しく蠢く。一つとして同じ形はない。生まれ、燃え盛り、そして消えていく。その儚さと力強さが、彼女の心を静かに揺さぶる。

 

 彼女は自分自身の存在について思いを巡らせた。冬の魔女。その感情は天候に直結する。時にそれは重荷に感じることもあった。しかし今、この瞬間、暖炉の温もりと、静かな夜の輝き、そして去っていった仲間たちの気遣いを思い返すと、その重荷は愛おしい宝物のようにも思えた。

 

 自分は一人ではない。ユキナリに、コユキに、ガンテツに、フミに──そして、この雪凪国に住むすべての人々に支えられている。その事実が、彼女の心に深い安らぎを与える。

 

 ふと、暖炉の薪が大きくはじけ、火花が散った。その光景は、まるで小さな花火のようだった。ナグサは思わず息を呑む。そして、その美しさに、またほほえんだ。

 

 疲れが少しずつ襲ってくるのを感じた。一日の終わり。祈りの日で、確かに体は疲れている。しかし、心は満ち足りている。穏やかで、温かく、そして平穏だ。

 

 彼女は毛布にもう少し深く包まり、体を温めようとする。暖炉の火はガンテツの調整により、ちょうどいい温もりを保ち続けている。部屋中に均等に熱が行き渡り、冷たい影などどこにもない。

 

 窓の外では、ダイヤモンドダストが少しずつその勢いを弱め、再び静かな粉雪へと戻りつつあった。ナグサの心の高揚が静かな安らぎへと移行するのに合わせて、天候もまた、落ち着きを取り戻していく。

 

 彼女はまぶたを少し重くする。眠気がゆっくりと訪れている。でも、まだ寝たくはない。この温もりの中、この静けさの中、もう少しだけ、この時間を味わっていたい。

 

 暖炉の前で過ごす、何気ないひととき。しかし、それは彼女にとって、かけがえのない宝物のような時間だ。国を治める者としての責任や立場を離れ、ただ一人の少女として、温もりと静寂に包まれることのできる、唯一の時間。

 

 ナグサはそっと息を吐く。白い息がわずかに見え、すぐに暖かな空気の中に消えていった。

 

「……今日も、暖まりたい」

 

 彼女はそう小さく呟くと、もう一度暖炉の炎へと視線を戻した。炎は相変わらずゆらめき、優しい光を彼女に注ぎ続けている。その温もりは、体だけではなく、心の最深部までしっかりと染み渡っていくのだった。

 

 外では、粉雪が音もなく降り積もり、世界を静かな眠りへと誘う。館の中では、暖炉の火が最後の薪を静かに燃やし尽くし、細く、しかし力強く輝き続けている。そして、毛布に包まれた小さな魔女は、温もりと安らぎに満ちたその空間で、ゆっくりとまぶたを閉じていった。今日という一日の終わりに、満ち足りた息を吐きながら──。

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