【仮想戦記】 The Islands War 二次創作 作:perry
ノドコール 七月二十七日 首都キビル郊外 植民地軍附属迎賓館
ナードラは目の前のニホンの交渉団の面々を見て、軽い失望を感じていた。
黒い画一的な服を着たニホンの交渉団は、ナードラの予想を遥かに下回る蛮族たちであったのだ。
――見ろ、あの非文明的な服装を。優雅で格調高い者こそが文明的であるとするならば、彼らの着る服、纏う雰囲気、そのすべてが蛮族にふさわしく非文明的である。それこそが、彼らの文明の程度の低さを示す証拠ではないか。
続けてナードラは心の中で、あの『堕ちた英雄』として国民に周知されて久しいエンクルマを嘲る。
――こんな奴らを畏れ、怖気づいて今回の解放戦争に反対したというのか。
ナードラは自分でも不躾だと分かる視線で、相手を観察する。が、それでも目の前の黒い男たちは何も言ってこない。ただ、少し不機嫌そうに顔を歪ませるだけである。
このような人物たちが代表を務める国、ニホン。さぞ組み敷きやすいだろう――ナードラは早くも勝利を確信したのだった。
「あなたは……、前エンクルマ植民地総司令と会談を持った……?」
「……っ!」
ナードラは小手調べに、目の前のテラオカと名乗った男へ、まずは軽いジャブを浴びせる。
彼女の言葉に予想以上の動揺を見せたテラオカに、やはり、とナードラは自分の推測が当たっていることを確信した。
――ニホン側の頼みの綱は、エンクルマであったのだ。
相手の失礼な態度にも目を瞑るような臆病者が代表を務める国だ。正々堂々と正面からぶつかるような真似はしないだろう。するとすれば……エンクルマにやったような、汚い手しかない。
そのような手に屈する司令官を事前に追放できた。この時点で、ローリダの勝利は確定したと言ってもいいだろう。
ナードラは目の前のニホンの交渉団を無視して、今後の交渉について思案を巡らす。
やるべきことは変わらない。武力でニホンに自分たちの立場を理解させてから――それでこそ、本当の交渉と言えるだろう。圧倒的な武力を背後に、頭を垂れた相手が降伏文書に署名する。それこそが、あるべき姿なのだ。
――となると、今回の"交渉"は?
ナードラはニヤリと笑った。
なるほど。今回の交渉のゴールは、相手側が"エンクルマにかけている期待というべきもの"を粉砕することにあるのだろう。
今度の交渉相手は、前のエンクルマなどとは違う。それを知らしめること――それが、今回の交渉でなされるべき唯一のことなのだ。
寺岡は日本本国から送られてきた今回の事変についての見解を朗読しながら、この交渉という名の茶番について考えていた。
交渉を開始してから、早くも十五分が経とうとしている。だが日本側の交渉団も、この交渉が膠着状態に陥っていることに薄々気づきはじめている――そう寺岡は思った。
隣の西原は、目つき鋭く対面のナードラを睨めつけている。それに対してナードラは涼しげな顔を崩さず、飄々と、到底日本側が受託できないようなことを並べ立てるのみだ。
両国の主張は平行線をたどり、いつまでも交わることがない。二国間の意見を一致させるのは、ユークリッド平面の上では無理なのだろう。
それを成し遂げるためには、空間を、平面そのものを曲げなければならない。つまりはちゃぶ台――前提をひっくり返さなければならないに違いないのだ。
目の前のすました顔をした、交渉人とは名ばかりの"脅迫者"が前提としていること。
それは、日本を武力で脅迫できると考えていること。そして、日本がそれに従うだろうという確信だ。
ならば必然、この事態が向かう先は……。
そこまで思考を進めて、寺岡の脳裏に浮かぶのは戦争の二文字であった。
――戦争。
――日本が憲法前文で放棄までを謳う、その憎むべき行為。
――それを他国に強要される時、日本という国は変われるだろうか。変わってしまうのだろうか。
そして続いて思い出すのは、あの時のエンクルマ司令官の言った言葉だった。
――ローリダ共和国が次に進むには、ニホンに負けるべきでしょうね。
寺岡は、強気の言葉で日本側の責任を追及するローリダ文官と、それを余裕の笑みで眺めるナードラを見て、虚しいような悲しいような、不思議な気持ちに囚われるのだった。
「これはどういう事なのですか!?」
「……何がかな?」
「しらばっくれないでいただきたい! スロリア海上での強行接舷は、挑発行為ではないか!?」
西原がナードラに語気を荒げ、釈明を求める。
寺岡ら日本交渉団に衛星通信を介して知らされたスロリア海上での状況の変化は、西原を激昂させるに十分な情報であった。それでなくても、両者の主張は正反対のままなのである。日本側の団員たちは、この交渉の異常さに改めて驚き、焦燥していた。
これが交渉と言えるのか――団員たちの率直な感想だろう。
寺岡は隣の西原の荒ぶる様子を見て、彼の怒りも仕方がないと思った。
――最初から相手に交渉の気があると期待してかかるから、こうなるのだ。ローリダ側に譲る気がないのは明白である。あまつさえ、このような脅迫を交渉中にするとは。
そう考えながら、寺岡は静かにナードラの目を見つめる。
西原の抗議にローリダ側が逆に抗議を返すと、西原の顔は怒りで赤を通り越し、青ざめ始めた。それはまるで、子供の喧嘩だ。互いの主張を押し付け合うばかりで、取引というものを考慮していない。
もっとも、相手からすれば"取引"などという行為は、同等の相手としか成し得ない――などと考えているのだろう。
そして、日本の交渉団は同等と見られていないのだ。
「我々は、あなた方に事実関係の説明を求める!」
西原が相手文官を睨みつけながら言い放った。
ローリダ側文官がやはり顔を赤くし、声を上げようと口を開きかける。それを、今の今まで不気味な沈黙を守っていたナードラが、手でゆっくりと制した。
「……そろそろあなた方も、この"交渉"とやらに飽きてきたのではないか? このような不毛な時間の使い方は、双方にとって不利益になると思うのだが、どうか?」
そう、ナードラはゆっくりと話し始めた。
中央の二人――寺岡とナードラの隣で激しく言い合っていた補佐の二人は、同時に腰を椅子へ深く据えた。その鼻息は荒い。
対照的に、中央の二人は静かなものだった。ナードラの言葉に、寺岡も深く頷く。
「私も、その意見に限っては賛成です。このような茶番は、早く終わらせるべきだ」
茶番、その言葉に、隣の西原が勢いよく寺岡の方へ振り返った。
隣からの視線を感じながら、寺岡は目の前のナードラを見据え続ける。
「初めて意見が合いましたな」
「……そのようだ」
ナードラは、獲物を見つけた狼のように舌なめずりをした。
「では、同意をいただこう。あなた方の国、ニホンをローリダに委ねる、と」
タイミングよく差し出された降伏文書らしき文書を、寺岡は一顧だにせず、ナードラに返答する。
「ニホンをローリダに委ねる? ……ここは、笑うところですか?」
「……っ!」
ここで、交渉が始まってから初めて、ナードラの表情が崩れた。
目尻をキッと吊り上げ、彼女は目の前の寺岡を睨む。隣の文官は勝利を確信していたのか、呆然と間抜け面を晒していた。
西原を含む日本側交渉団の団員たちも、驚きを隠せずにいた。普段の寺岡から、そのような言葉が出るとは思っていなかったからである。
「あなた方はどうやら、交渉を望んでいないようだ。いや――交渉というものを、ご存じないのでしょうか? 残念なことです。私たちは、言葉を知らぬ犬と会話する術を、持ち合わせていないのですよ」
「……」
寺岡は立ち上がり、日本側交渉団の面々に、無言で退室を促した。
あっけに取られていた団員たちであったが、それも一瞬のこと。寺岡の意を汲み、片付けを始める。
あっけに取られていたのは、日本側だけではなかった。
ローリダ側も、ナードラを含めて、寺岡の行動に面食らっていたのだ。
「ま、待て!」
ローリダ側文官が、慌てて声を上げる。
「……何か?」
寺岡が帰り支度をする手を止め、文官を見やる。
しかし、勢いだけで止めたらしく、二の句が継げないでいる。その文官を援護したのは、いち早く衝撃から立ち直ったナードラであった。
「……先の言葉は、我らローリダ交渉団、ひいてはローリダ共和国への侮辱と受け取る。それ相応の報いを覚悟しているのだろうな?」
「私たちは脅されに来たのではない。交渉に来たのだ!」
怒りの炎をエメラルドグリーンの瞳に燃え上がらせながら静かに言うナードラに、寺岡は反論する。
準備を終えた日本側交渉団は、次々と退出していく。
最後まで残っていた寺岡は、ナードラに向かって最後の言葉を放った。
「エンクルマ閣下によろしくお伝えください。……では、さようなら」
パタンとドアを閉じる音だけが、静まりかえった部屋に響いた。
「……後悔することになるぞ、ニホン……!」
ナードラは彼らが出ていったドアを睨みながら、そうつぶやくのだった。
◆◆◆
ローリダ共和国 八月三日 首都アダロネス エンクルマ邸
エミリーは手に持った電話を、ゆっくりと元の場所に降ろし、溜息をついた。
電話の内容は、今日の会談についての話であった。あの会見を終えてから、エンクルマは継続して様々な人物と会談を持っていた……が、それも今日までである。今日に限って、エミリーは相手側に会談の中止を申し入れていたのだった。
何故、本人であるエンクルマが直接話さず、妻であるエミリーが断りを入れているのか。
その原因は、昨日の夕刊であった。
夕刊一面に『ニホン首脳に正義の鉄槌が下る!』との記事が載っていたのだ。その中身から、国防軍へのへり下った世辞やキズラサ教賛美をそぎ落とすと、言っていることはこうであった。
――ニホン国首相を暗殺した。
それを見たエンクルマが卒倒したのも無理はない。
実は今回、再び交渉がニホン側と持たれること自体は、エンクルマも知り得ていた。前回の交渉の内容――彼が言うには、交渉と呼ぶに値しないものだったらしいが――を知るエンクルマが、不思議がっていたのをエミリーは思い出す。前回で懲りていなかったのか、と。
しかし、彼の頭脳をもってしても、"交渉"の目的がその実、相手側要人の暗殺にあったなどとは思いつかなかったらしい。
つまり、この暗殺について、エンクルマには寝耳に水であったのだ。
昨日のエンクルマの狼狽ぶりは、長く寄り添ってきたエミリーにして、初めて見るほどの深刻さであった。瞬きを忘れたかのように一心に紙面を見つめるその顔色は、青から赤に、今度は緑へと目まぐるしく変わる。
どう見ても大丈夫そうには見えなかったが、エンクルマはエミリーの声に、大丈夫、としか返さない。ハラハラと見守るエミリーの目の前で、力が抜けたのかドカッとソファーに座り、宙をぼんやりと見ていたかと思うと、そのまま彼は自身の書斎へと向かったのだった。そして閉じこもったまま、今日を迎えることとなったのだ。
何度、エミリーが書斎の前で呼んだところで、中からの返事はなかった。
彼がどれほどのショックを受けたかは、想像に難くない。しかし、それにしても……。
エミリーは椅子に腰を降ろし、再び長い溜息をついた。
既に時計の短針は真上を回り、午前が終わったことを示している。
――いつになれば、彼は出てくるのだろうか。
エミリーも、首相暗殺にショックを受けていないと言えば嘘になる。そもそも彼女は、ニホンに勝てないと踏んでいるのだ。先の難民船の一件すら危ういのに、今回の件はどう考えてもやりすぎだ、とエミリーは考えていた。
いたずらに相手を挑発し、局地的な戦争――制限戦争でなく総力戦ともなれば、ローリダ共和国そのものが崩壊する可能性すらあるだろう、と。
しかし、それは戦争が始まるにあたって、当然考えられる一つの未来である。
その可能性が高まったからといって、今更あそこまで彼が打ちのめされることがあるだろうか?
その疑問に最適解を与えるべく、聡明な才女であるエミリーは頭を勢いよく回転させる。
けれども、彼女の納得のいく結論は、最後まで得られないのであった。
いつの間にか眠っていたエミリーが目を覚ましたのは、午後三時頃であった。
少しばかりの空腹を感じながら、エミリーは覚醒していく頭の隅で、小さな音を聞いた気がした。
それは、階段を降りる音だ。
この家には二人しかいない。となれば、降りてくるのは二階の書斎にこもっていたエンクルマしかいない。
エミリーは当然、階段の方へ目をやった。
「エンティ! 大丈夫なの?」
「……ああ、大丈夫、大丈夫さ」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやく夫は、到底大丈夫そうには見えない。
かと言って、彼は弱々しい足取りなどではなかった。逆に、何かを吹っ切ったのか、力強い足取りに見える。
その目には力強い光が灯っていた。しかしその色は、エミリーには妖しく、鬼火のように揺らいで見えた。
「エミリー……俺はこの国に、少し期待をかけ過ぎていたのかもしれない」
「えっ……それは、どういうこと?」
エミリーの脳裏に、先日聞いたエンクルマの言葉が浮かぶ。
――嫌いだな。
「この国はおかしい。そのことに気づくのに、こんなにも手間取ってしまった」
エンクルマは階段を降りた場所からそのまま、テーブルに着くエミリーへ、口角から泡を飛ばすように、ゆっくりと話し始める。
「……交渉に来たテラオカさんを、大いに失望させてしまった……。それも、交渉の後に一方的な攻撃を仕掛けるなんて、酷すぎるだろう……。
それだけでもあり得ないのに、今度は一国の首相を暗殺、それも話し合いに来た人物をだぞ! そんな事がまかり通るこの国は、おかしい、おかしい、おかしいに決まってるんだ! そうだろう!?」
「エンティ! 落ち着いて!」
ヒートアップしていくエンクルマを、エミリーは慌ててなだめる。
ハッとした様子のエンクルマは、がっくりとうなだれた。しかし彼女はなお、彼の目の内に灯る不気味な炎を認めた。
「……この国はおかしい。間違っている……決定的に。俺たちが、それを直さないといけないんだよ、エミリー」
「エンティ……」
「この国の再建には、一度の破壊が必要なんだ。そして破壊するには……」
エンクルマは顔を手で覆った。
「力が必要だ」
彼の指の間から漏れたその言葉は、エミリーの耳にも十分に届いた。
しかし彼女には、彼の目を、直接見つめ返すことはできなかった。
◆◆◆
スロリア亜大陸ローリダ植民地 九月二十八日 ノドコール首都キビル郊外上空
徐々に上がる高度とともに小さくなっていく街並みを、ミヒェール=ルス=ミレス国防軍参謀中尉は何気なく眺めていた。眼下に広がる景色は、とても一植民地の郊外とは思えない。
これを噂の開明官僚たちが創り上げたのか――と、ミヒェールは最近よく耳にする"開明官僚"と"開発五カ年計画"という単語を思い出す。
国防軍参謀中尉である彼女は、今回の解放戦争の最前線となるスロリア派遣軍への赴任のため、スロリア亜大陸に足を下ろすことになったのだった。
彼女はスロリア亜大陸――というより、植民地であるノドコールを見て、まずその発展具合に驚いた。
彼女が想定していたのは、本国の田舎のような光景であった。だがその予想は、清々しいほどに裏切られたのだ。首都キビルに至っては、本国の首都アダロネスにも負けない発展具合である。
それは、嬉しい誤算であった。つまらない田舎への赴任ではなかったのだ。彼女の好きな本たちが本国並みに売っているのも、すこぶる気に入っていた。
しかし、参謀本部での仕事は、つまらない出来事ばかりであった。
参謀見習いとは名ばかりで、実際は参謀たちの使いっ走りや、面倒な計算の類――要は雑用係である。そして、その手伝っている参謀たちの能力にも、彼女は疑問符を浮かべざるを得なかった。彼らが得意なのは演習などではなく、上司へのおべっかや、酒席の準備なのだ。
そんな、つまらない雑多な参謀たちの中で、彼女の目に留まる人物が一人いた。
センカナス=アルヴァク=デ=ロート大佐。二十代後半の大佐であり、それは彼が凡人とは一線を画す人物である証拠でもある。
しかし、そんな彼は、軍のエリートコースを歩いてきたわけではない。複雑怪奇な道を歩き、いつの間にか大佐になっていた――といった表現の方が適切だろう。
彼が世間へ最初に露出したのは、まったくの偶然であった。彼は国防軍の幹部候補生養成科の出である。彼自身、銃弾の飛び交う最前線に出ることもないと思っていたし、そうであるはずであった。
しかし、運命の歯車は奇妙な方向へと回り出す。植民地の文化に興味を持った彼は、周りが止めるのも聞かず、植民地軍の植民地文化保存会――これは前エンクルマ植民地司令官の肝いりで作られた、民俗学会に類する研究会である――の考古・民族学的調査へ参加したのだ。
調査は順調に進んだ……その途中で、ノドコール軍残党に襲われるまでは。
あろうことか、調査には植民地軍の将校が参加していなかった。
同日、学会の発表会があり、そちらに大部分の会員が参加していたのである。また、その調査地域が比較的マイナーな場所であったことも、理由の一つに挙げられよう。
そのような極限的状況下において、その集団唯一の将校であるロートが指揮を執ったのは、必然であった。
結果、彼らは勝利した。数的にも質的にも不利な状況下にあったにもかかわらず、だ。
そのことは、いち早く本国に伝わった。
国防軍は、英雄を欲しがっていた。活躍の場を欲していた。
だからこそ国防軍は、彼を囲い込むために参謀大学校への入学も許し、執政官に働きかけ、元老院名誉勲章という軍人として第一級の栄誉に、彼を浴させたのだった。
だが彼は、そのことの重要性や上層部の意向を理解しているとは思えない行動をとる。
こともあろうに、彼は勲章を質に入れてしまったのだ。
その事件は、国防軍に苦々しい思いを強いた。しかし、彼を切ることはできない。彼は、国防軍の英雄でなければならないのだから。
その後も彼は国防軍に所属しながら、植民地軍の最前線で縦横無尽に活躍することになる。
出向という不思議な形での彼の参加は、植民地側の感情を逆撫で……はしなかった。
彼ら兵士は、優秀な将校であれば誰でも大歓迎であったのだ。それも、植民地軍の彼らを馬鹿にせず、気さくに話しかけてくるような人物なら、なおさらだ。
エンクルマも、彼を大手を振って迎えた。彼としても、優秀な指揮官がタダで来てくれるというのだ、断るわけがない。
世間は、いつ彼が植民地軍に籍を移すか賭け合っていた。そしてそれを、国防軍は一番恐れていた。
しかし、そうした周りの予想に反して、彼は国防軍に所属し続けていたのである。
その理由を勇気ある新聞記者が問いかけても、彼は曖昧に笑ってごまかすのみであった。
その英雄が、隣で眠りこけているのだ。
ミヒェールはガラス越しの光景から、視線を左の座席に座るだらしない男へと向けた。
ぐっすりと深く眠っているロートは、まるで大きな子供のようだ、とミヒェールは思う。しかし彼は、国防軍きっての英雄なのだ。
何故、サン-グレス発アダロネス着の航空機に、彼とともに搭乗しているのか。
それはひとえに、彼からの誘いがあったからだ。
参謀本部でも浮いていた彼を気にかけていたミヒェールを、彼もまた気にかけていたのだろうか。
参謀本部の入る王宮で、彼はミヒェールにこう声をかけてきたのだった。
「ミヒェール中尉だね……? 一緒に来てほしいところがある。見てほしい人がいるんだ」
「ここは……!」
「そう、ここは植民地軍大学だよ」
アダロネスに着いた機から降りた二人は、一路、植民地軍大学を目指した。
道中、彼から聞いた、これから会うという人物。その名前を聞いたミヒェールは、予想だにしなかったそれに、驚きを隠せなかった。
「ここに……あの前植民地軍総司令の、エンクルマ元将軍がいらっしゃるのですか……?」
「ああ、そのはずだよ」
周りの、困惑やら敵意やらが入り交じった視線を物ともせず、ロートは大学構内を堂々と歩く。
国防軍の制服を着た二人組は、かなり目立つらしい。
当たり前だ、とミヒェールは思う。ここ植民地軍大学は、国防軍一派が"エンクルマ派の本拠地"と糾弾して久しい施設なのである。いわば、植民地軍の本丸。彼女はノドコール植民地で見た、やる気のない植民地軍兵士たちの姿を思い出した。
しかし、歩いているのがロート大佐だと気付いた何人かからは、困惑を少し混じらせながらも、好意的な挨拶をされることもあった。
エンクルマの今回の辞任騒動について、ミヒェールは周りの大人たちと同じように、ぼんやりと考えていた。
やはりこの解放戦争の前に「負ける」などと英雄が口にするのは憚られるべきだし、彼はそうするべきではなかったのだ、と。
だが、彼女が少しの違和感――というより、座りの悪さといったものを感じていたのも事実だ。それは今の今まで、あれほど英雄と讃えられていた彼が、たった一言でこうもバッシングされていること。
そうした周りの人々の手のひら返しに、何とも言えない気持ちの悪さを感じていたのだ。少し、彼への憐憫の情も含まれていたのかもしれない。
けれども、彼女も今回の件については、エンクルマ側に過失があるところは十分に認めていたのだった。
「……着いた、ここだ」
彼が歩を止めたのは、何の変哲もない、ただの準備室らしき一室であった。もっと豪華な部屋を思い浮かべていたミヒェールは、意外に思う。
ここに、辞任したとはいえ、ローリダ共和国の軍人として頂点を極めたに近い人物がいるというのだ。
ミヒェールは、そのスライド式の扉の上にかかっているプレートを見やる。
そこには『特別教授 準備室』という文字が刻まれていた。
ロートが扉を開ける。
「眩しい……」
ちょうど、ドアの反対側から太陽が顔を覗かせる時間であったのか、扉を開けた二人に、真正面から眩しい光が降り注ぐ。
一瞬のホワイトアウト。
そして、輝く太陽を背にして座っていたのは――
「……待っていたよ、ロート大佐」
不気味に笑う、前植民地軍総司令エンクルマであった。